「苦海浄土 KUKAI JODO」
「水俣病の悲劇」

- 石牟礼道子 Michiko Ishimure -


「学校帰りに海にいきますと、渚で、岩に着いている小さな巻き貝がおりまして、貝たちがいつも遊んでいるんですけど、人の足音を開いてころんころんと落ちて逃げるんですね。ぜんぶ落ちてしまって、下を見れば数え切れないほどうずくまっているんです。
 耳を澄ますと砂浜いっぱいそういうものたちの呼吸の音がみしみしと聞こえまして。海そのものやそこの生物たちと自分が呼吸を合わせている感じがとても幸福で・・・・・」

石牟礼道子

 天草で生まれ水俣で育った著者、石牟礼道子が語った子ども時代の海の思い出です。僕にも、小樽の海岸について同じような記憶があり、僕が海と自然好きになった原点には、そうした幸福な思い出があるのだと思っています。自然に対する幸福な思い出がなければ、愛する心も生まれない、そう僕は思います。
 そんな彼女の美しい文章とそこに描かれている美しい海の景色を思い浮かべると、石牟礼道子という作家が日本のレイチェル・カーソンに思えてきました。ただし、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」に比べると本書「苦海浄土」はあまりにも内容が重く、分厚いためにベストセラーにはなれない作品だったかもしれません。
 しかし、歌人でありエッセイストでもある彼女が水俣病との関わりの中から生み出したこの作品は、単なるルポルタージュを越えた「詩的」で「文学的」な傑作になっています。ここでこの日本文学の歴史に残る傑作を紹介できることは光栄なことです。一人でも多くの方がこの本と出合うことを願います。

<忘れられつつある水俣病>
 昭和世代の人にとって、「水俣病」は忘れられない事件だと思います。しかし、それは20世紀の日本を代表する事件であると同時に、21世紀に世界各地で今起きつつある事件の先駆例でもありました。それは「公害」の悲劇を世界に示した事件として、いままた中国など世界各地で注目を浴びつつあります。
 日本においても水俣病を巡る歴史は、今また改めて学ぶべきことだと僕は思います。それは3・11東日本大震災以後の福島における被災者の方々が、当時の水俣病被災者と同じような立場に置かれつつあるように思えるからでもあります。福島の原発事故は、地震がもたらした不慮の事故と見られがちですが、実際は東日本電力という企業が利益確保のために行った手抜きによる犯罪事件とみるべきものです。これは、「チッソ」という一企業による汚染物質の垂れ流し、それも結果を予測できたはずの行為を「公害」と呼んでしまったあやまちとよく似ています。(これは明らかに「公の害」ではありませんでした!)
 水俣の人々の多くが仕事を奪われ、家族を奪われただけでなく、被害を受けなかった市民の多くから「公害貴族」と蔑称され差別され街の破壊者とまで呼ばれてしまいました。それはあまりにも理不尽な仕打ちでした。
 僕は水俣病が問題になっていた時代はまだ子どもだったこともあり、その詳細や歴史についてはほとんど分かっていませんでした。今回、この本を読んで事件の悲惨さに改めて衝撃を受けましたが、実はそれ以上に闘い続けた被害者たちの勇気とパワーに感動させられました。
 この本の素晴しさは、被害者たちの様々な人間像に著者が深く迫ったからこそ可能になったといえます。そして、彼女が失われた自然と人間たちの価値を知っていたからこそ、その魅力を描けたともいえます。だからこそ、その悲しみはより大きく読者に迫ることになるのです。
 ここでは僕なりに、事件を歴史的に振り返ることができるよう時代を追って石牟礼さんの人生とともに解説しようと思います。

<水俣に育った少女>
 石牟礼道子は、1927年3月11日熊本県天草郡に生まれています。父親は建設業を営んでいましたが、後に会社が倒産し家族は苦しい生活を余儀なくされました。水俣に引っ越した彼女は、少女時代、水俣の海を見ながら育ちました。
 1943年、16歳で水俣町立実務学校を卒業した彼女は、代用教員として働き始めます。
 1946年、貧しい生活の影響か結核が発病し、自宅療養。
 1947年、教師を退職した彼女は、やはり教師だった夫、石牟礼弘と結婚し、翌年には長男の道生が誕生します。
 1951年、歌人として活動していた彼女は「令女界」などに投稿。しだいに評価を受けるようになります。このあたりまでは、主婦兼歌人としてごく普通の人生を送っていたといえそうです。
 1953年、労働運動への関わりがあったことから、チッソの水俣工場に勤める人々との交流が始まります。
 1959年、彼女は日本共産党に入党しますが、翌年には離党しています。(共産党への不信感は後の運動へも影響を与えることになります)

 彼女は対岸にある水俣からの移住者でしたが、実は水俣病被害者の多くもまた天草からの移住者でした。その意味では彼女は水俣病にはならなかったものの、「運命の子」として水俣に育ったといえそうです。彼女が過ごした水俣での少女時代の幸福な体験こそが、この本を魅力的なものにする最大の原因といえます。

 不幸を書くには人は幸福を知らなければならない。そうでないと何が失われたかがわからない。
池澤夏樹

 海を愛する彼女が育った1940年代、すでに水俣の海は汚染され始めていましたが、そのことを誰もまだ知りませんでした。

<水俣病発症>
1954年、後に水俣病と名づけられることになる奇病に冒された患者が入院し、死亡しています。(これ以前にもいた可能性は高い)
 当初確認された症状は、歩行障害、言語障害、視力聴力の低下、四肢のマヒや痙攣、嚥下障害、精神錯乱など様々で、ほとんど症状が回復することはありませんでした。事態の深刻さに最初に気づいたのは皮肉なことにチッソ(新日窒肥料工場)の付属病院院長、細川博士という人物でした。

1956年、細川博士は、謎の奇病についてその症例を調査し、厚生省に報告書を提出しています。すぐに水俣市では、保険所、医師会、市、市立病院、日窒病院により対策会議が開催されています。この頃すでに細川博士は、猫を使った実験などにより、水俣の海に流れ込んでいた汚染物質に原因があることを特定しています。その汚染物質の発生源がチッソであることは明らかでした。熊本大学の医学部を中心に「奇病」の研究が本格化し、しだいに「水俣病」の存在が注目されるようになります。

1959年、彼女は初めて市立病院水俣病特別病棟を訪れました。そして、生涯忘れられないほどの大きな衝撃を受けることになります。

 この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。

 この年、事態の深刻さが明らかになったことで、東京から国会議員団が現地調査のため、水俣を訪れました。しかし、議員団を迎えるために集まった水俣の漁民たちは、集会の後、チッソ水俣工場に侵入。暴動へと発展してしまいます。
 チッソはこの暴動により大きな被害を受けたことを利用し、漁民たちとの交渉を開始し、より有利な条件での和解をすすめます。それにあわせるように工業排水も停止し改善を行うと発表しています。(実際には、この後も被害者は増え続けています)仕事を失い生活するためには収入が必要な被害者とその家族は、チッソからの提案を受け入れてしまいます。
1959年12月30日、こうして「紛争調停案」の契約がなされました。(ここで「紛争」という言葉を用いていることじたい、チッソ側が汚染による犯罪を隠そうとする意図が感じられます)

水俣病患者互助会五十九世帯には、死者に対する弔慰金32万円、患者成人年間10万円、未成年者3万円を発病時にさかのぼって支払い、「過去の水俣工場の排水が水俣病に関係あったことがわかってもいっさいの追加補償要求はしない」という契約をとりかわした。
大人のいのち十万円
子どものいのち三万円
死者のいのち三十万円
と、わたくしはそれから念仏にかえてとなえつづける。


 驚くべき補償金の安さです。お金の価値が当時と今とでは10倍程度はあると思われますが、それでも死者の命が300万円ということになります。そのうえ、この案が可決されたことで、チッソは補償問題を解決済みとし、この後どの被害者もこの契約を基本にしなければならなくなります。

<1960年代:進まない補償交渉>
1962年、水俣病診査会は17名の子どもを胎児性水俣病に認定します。これにより、母親の胎内に蓄積された汚染物質(水銀化合物)は、その子どもにも影響を与えることが明らかになりました。水俣病は当時、原因がはっきりしなかったため、感染する病とも考えられていました。そのため、患者たちは差別の対象になり、その家族もまた社会から孤立することになりました。その原因がチッソが垂れ流してきた汚染物質であることは明らかでしたが、患者への救済はまったく進まず、著者はしだいに患者救済のための活動に深く関わってゆくことになります。

1964年、彼女は地元の熊本日日新聞のコラム「視点」を1年間担当し、エッセイストとして活躍し始めます。
1965年、彼女は本書の第一部「苦海浄土」の初稿連載を「熊本風土記」の誌上で開始。水俣病との闘いを描くライフワークのスタートが切られました。

繋がぬ沖の捨小船
生死の苦海果てもなし

「弘法大師和讃」より

 「苦海浄土」において、水俣市民でもある彼女は、自らが身に着けている方言を用いることで、単なるルポルタージュや聞き書きとは異なる患者や家族目線での水俣病と水俣の自然を描き出してゆきます。例えば、特別病棟に入院していた女性患者の海への思いを書いたこんな文章があります。

 陸に打ちあげられた魚んごつして、あきらめて、泪ためて、ずらっと寝とるとばい。夜中に自分がベッドから落ちても、看護婦さんが疲れてねむっとるときは、そのまんまよ。
 晩にいちばん想うことは、やっぱり海の上のことじゃった。海の上はいちばんよかった。
 春から夏になれば海の中にもいろいろ花の咲く。うちたちの海はどんなにきれいかりよったる。
・・・・・
 わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝ぶりのよかとの段々をつくっとる。・・・


 そして、水俣病によって歩くこともしゃべることもできなくなってしまった。孫をかわいがる漁師の老人のこの言葉が・・・。

 あねさん、こいつば抱いてみてくだっせ。軽うござすばい。木で造った仏さんのごたるばい。よだれ垂れ流した仏さまじゃばって。
 あっはっは、おかしかかい杢よい。爺やんな酔いくろうたごたるねえ。ゆくか、あねさんに。ほおら、抱いてもらえ。


1968年1月12日、水俣病の問題を市民全体で考えるための組織「水俣病対策市民会議」が発足。(30名出席、会長は日吉フミ子)著者はその中心メンバーとなります。会の主な目的は二つありました。
1.政府に水俣病の原因を確認させるとともに第三、第四の水俣病の発生を防止させるための運動を行う。
2.患者家族の救済措置を要求するとともに被害者を物心両面から支援する。


 そして、具体的に下記の要求をかかげてゆきます。
1.水俣病患者がチッソにより受けている見舞金は生活保護の収入認定対象から除外してほしい。
2.水俣病患者家庭互助会からの就職、転業のあっせんを積極的に行ってほしい。
3.心身障害児を対象とした特殊学校を湯之児病院に新設してほしい。

<水俣の分裂>
 チッソに対する追求はしだいに強まり、この年、厚生省は水俣病の原因をチッソの工場から流された排水内のメチル化合物と認定しました。しかし、患者たちの活動が活発化するとともに、彼らの存在は水俣の地域社会で反発を受けるようになります。なぜなら、患者側の主張が通ることは、チッソがそのために多額の補償を求められることにつながるからです。最悪の場合、チッソは倒産に追い込まれることも考えられ、そうでなくても水俣からの撤退は避けられないはずでした。水俣の経済はチッソ無しには、成り立たないほど依存していただけに、患者たちへの反発は必然的なものでした。こうした状況を象徴していたのが、1968年の合同慰霊祭と水俣市発展市民大会でした。
 なんと合同慰霊祭には、患者と関係者しか出席せず、水俣市発展市民大会には患者が出席しなかったのです。一般市民と患者たちの間は、完全に分裂状態にあったのです。
 患者たちの補償交渉は、そうした水俣の空気の中で始まろうとしていました。

「みんないわす。会社が潰るる、あんたたちが居るおかげで水俣市は潰るる、そんときは銭ば貸してはいよ、二千万円取るちゅう話じゃがと。殺さるるばい今度こそ、小父さん」

1969年、1959年に契約された調停案の改定を求める被害者家族28世帯が、総額6億4千万円の慰謝料請求訴訟を熊本地裁で始めます。それに対し、チッソ側は訴訟が広がることを恐れて、その運動の分断をはかるため厚生省を間に立てた調停案を再び提示します。それは交渉を国が決める委員会に一任するよう求めるものでした。これは、初めから結論ありきの交渉を認めろという理不尽なものであることは明らかでした。

「確約書」
 私たちが厚生省に、水俣病にかかる紛争処理をお願いするに当たりましては、これをお引き受け下さる委員の人選についてはご一任し、解決に至るまでの過程で、委員が当事者双方からよく事情を聞き、また双方の意見を調整しながら論議をつくした上で委員が出して下さる結論には異議なく従うことを確約します。

 この確約書を提出した被害者たち(一任派)は、死者が300万円、生存者には16〜32万円の年金が与えられることになります。しかし、その金額が不十分なことは明らかでした。この確約書を提出しなかった人々は、直接チッソに対する補償交渉を行う道を選択しますが、それは非常に困難な道のりとなるのは明白でした。やっと面会できた国の代表者である厚生省の政務次官は、彼らの厚生省批判に対しこう怒鳴ったといいます。

「政府が人命を大事にしなかったことがあるか。いまのことばを取り消してもらおう!」
 こうしたきつい言葉に対し
「私たちいなか者は、厚生省は国民のことを考えてくれていると思っていた。次官さん、あなたのことばはひどすぎます。私たちは犠牲者なのです。やわらかいことばでしゃべって下さい」

(この時の厚生省政務次官が、なんと後の総理大臣橋本龍太郎でした!がっかりです)

 こうして自主交渉派と呼ばれることになった患者グループの活動に、著者はこの後さらに深く関わることになります。

・・・市民は水俣病者そのものを憎悪しているのであり、その憎悪は生者と死者とを区別することはなかった。
 そのようなことは、外側がみせる反応のひとつだった。外側に生じるそのような憎悪は長い長い年月が、少しずつ風化させ溶解させてゆくにちがいない。けれども、内側には、内輪の中のものたちには逆にそのような年月に溶解されてゆく憎悪はそのままそっくり、丸ごと生き還ってくる。・・・


「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。水俣ん者共と、うっつ、がっつじゃった。うんにゃ、また一風ちごうて、まあだひどかった。むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家の国のあるじゃろか」

 この年(1969年)、連載されていた「苦海浄土」が「苦海浄土 - わが水俣病」として講談社から出版され、大きな注目を集め、熊本日日新聞文学賞に選ばれます。しかし、彼女は自分だけが水俣病によって恩恵を受けることが許せず、受賞を辞退します。この本は、翌年にも大宅壮一にも選ばれますが、そちらも辞退しています。

<1970年代:訴訟裁判へ>
 1960年代も終わりが近づいていた当時は、学生運動が最も盛り上がっていた時代でもありました。そのため、自主交渉派の闘争は、いつしか学生たちが行っていた反権力闘争のシンボルともなってゆきます。そのため、その運動には学生や労働組合のメンバーも多数参加するようになり、運動は予想以上の規模へと拡大して行きました。
1970年、そんな中、「東京・水俣病を告発する会」がチッソ株を購入し、株主総会に出席する作戦を提案。水俣、熊本、東京に続き、京都、大阪、名古屋、福岡などにも運動が拡大して行ったのです。
 さらにこの総会への参加に向けて、患者と家族たちのグループが巡礼団を結成し、総会の場でご詠歌を歌う準備も始めます。字も楽譜も読めない女性たちが、総会の場でご詠歌を歌う場面は、「苦海浄土」第二部「神々の村」におけるクライマックスのひとつといえます。

かはらぬ春とおもへども
はかなき夢となりにけり
あつき涙のまごころを
みたまの前に捧げつつ
おもかげしのぶもかなしけれ
しかはあれどもみ仏に
救われてゆく身あらば
思いわずらふこともなく
とこしべかけて安からむ

 残念ながら、この時の総会への参加は、具体的な交渉を進めるまでにはいたりませんでした。

1971年11月、再び大きな転機が訪れます。事態が動かないことに対し、自主交渉派は次なる作戦に出ます。川本輝夫を中心としたメンバーがチッソ水俣工場正門前で座り込みを開始します。さらに12月には、東京のチッソ本社に侵入し社長室前(専務用の部屋)での立てこもりを開始。なんと敵の心臓部である本社に侵入してしまうという発想が凄いです。そこで行われた会社役員や刑事たちとの会話はブラック・ユーモアに満ちていて、まさに予想外の展開です。この部分は、著者がその場にいたからこそ記録されたものです。
 ある意味、極限状態の中で人はどんな会話をし、どんな反応をするのか。小説とは違う、意外性に満ちた展開が面白すぎます。

「部落にも居られん、水俣市にも居られん、国に行ってみても、国もあてにならん、みんなチッソとグルちゅうことがわかった。やっぱりそんなら、ふり出しにもどって、本家本元のチッソ本社に、お世話になりにゆこ。病人も、ひきとって養うてもらお。ああもう、ながい苦労じゃった」

1972年2月には、東京農大の学生らが同じチッソの本社前で座り込みを開始し、そこに自主交渉派のメンバーや全国の運動支援者らも参加し始め、世論や知識人たちからの賛同を集めながら、いよいよ運動は全国的な盛り上がりをみせて行きます。(野坂昭如、丸山邦男、なだいなだ・・・)

1973年、自主交渉派による訴訟裁判が本番を迎えます。しかし、ここで訴訟団は、県民会議と弁護団との関係を絶つという驚きの行動に出ます。共産党主導の弁護団、県民会議の途中からの参加は、力にはなっても、それが売名行為であることは明らかでした。その無責任さと無能力は、裁判で足を引っ張ることにもなっていました。自主交渉派のメンバーは、へたな弁護団よりも能力ももつ集団へと成長していたのです。こうして裁判は始まりました。

「はい、もうみなさま方の前で死んでくれれば一番ようございます。それでこの子も本望というもんでございます。
 今日はな、美しか服ば着せて来ました。みなさま方にこの子ば見てもらおうと思うて。十七年間もな、夜の目もなかごとして育てて来ました。よんべな、風呂にもいっしょに入ってな、匂いのよか石鹸で洗うて髪もな、今朝もな、ほら、顔も美しゅう、拭いて来ましたばい。
 ねえ、とも子。
 ほら、先生方の、よか子じゃよか子じゃち言わすばい、裁判長さまの。
 美しゅうなって来たもね、死んでもよかねえ、とも子。今日まで大切に大切にして育てて来たもんね。・・・」


 長い長い「苦海浄土」の旅は、そのラストで一応の結果を得て終わりを迎えます。しかし、それによって患者の症状が改善されることなはく、被害者の苦しみは、現在にいたるまで続いています。(最後に2013年の新聞の解説を掲載しておきました)そのうえ、この事件の後も企業や国による「殺人」というべき事件がなくならなかったことは歴史が証明しています。「薬害エイズ事件」は、その代表的なものでしたが、3・11の東日本大震災における原発事故は、それをはるかに上回る規模の悲劇となりました。

 進歩する科学文明とは、より手のこんだ合法的な野蛮世界への逆行する暴力支配をいうにちがいなかった。
 東洋の徳性が、その体質に隠していた専制主義と、西欧近代が、技術史の中に貫徹させてきた合理主義の、もっとも荒廃した結合によって、日本近代化学産業は発展し、この列島の髄に食い入った腐食瘤の露頭を水俣病事件はあらわしていた。


 水俣病の被害者ではなく、あくまで外部の人間でありながら、自主交渉派の活動に深く関わった彼女だからこそ、彼女は客観性と主観性を兼ね備えた文章で「水俣病」の現場を描くことができました。それは、時に患者の語りとなり、時に著者自身の語りになることで、絶妙の距離感を保つことに成功しています。
 ノンフィクション大作「アンダーグラウンド」で著者の村上春樹は、自らの存在を消すことでインタビューの文章化を行っていますが、それとは全く異なる立場から、この本は書かれているわけです。その意味では、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」以上に作品と著者の関係は深く重いといえます。
 河出書房新社が2011年に発売した世界文学全集に、小説でもあり、エッセイでもあり、ノンフィクションでもある彼女のこの大作を日本代表として選んだ編者の池澤夏樹氏の選択に脱帽です。ここに入っていなければ、僕はこの本を読んでいなかったと思います。
 この文章を読んだ方にも、是非、「苦海浄土」をお読みいただきたいと思います。
 懐かしさ、美しさ、悲しさ、可笑しさ、そして怒り、様々な感情に彩られた「20世紀日本の肖像」です。

<人類の身代わりとなった人々>
 水俣病の被害者は、チッソという企業の身代わりとして病に冒されたのですが、それは日本人すべての身代わりでもありました。しかし、彼らの犠牲を無にすることは、その悲劇が世界へと広がることを許すことでもあります。中国全土に広がりつつある「公害問題」は、この後、インドやアフリカへも広がることに成りかねません。

「チッソの病いを替わって病んでやっているので、患者たちはそんな風に言った。当の相手を前にして、患者たちは、本能的な羞しさを感じていた。無恥なるものに対して。・・・・・
 お前たちが病まんけん、俺たちが病むとぞ。」


「苦海浄土 KUKAI JODO」 1974年(初版)
(著)石牟礼道子 Michiko Ishimure
河出書房新社刊「世界文学全集」(2011年)

<参考>2013年4月14日北海道新聞の記事より
「水俣病」とは?
 熊本県水俣市のチッソ水俣工場の排水に含まれていたメチル水銀が八代海(不知火海)に流失し、汚染された魚介類を食べた住民らが手足の感覚障害や視野狭窄を訴えた。国は1956年に被害を公式確認し、1968年に公害病と認定。昭和電工の工場排水が原因の新潟水俣病もある。1974年に施行された公害健康被害補償法に基づく認定患者は2013年3月末時点で2975人。未認定患者救済をめぐる1995年の政治解決策では約1万1千人が対象になった。最高裁が国と熊本県の責任を認めた2004年の関西水俣病訴訟判決後、再び認定申請が急増。新たな救済策として2009年に特別措置法が施行され、新潟、熊本、鹿児島の3県で計6万5千人が申請した。
(未だにこの訴訟は終わっていません)

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