「涙の川を渉るとき - 遠藤実自伝 -」

- 遠藤実 Minoru Endo -

<昭和歌謡の象徴>
 中身を知らず、装丁の迫力にひかれて読みました。もちろん、昭和歌謡を代表する作曲家、遠藤実の名前は知っていましたが、分野が分野なので今まで彼の生涯に興味をもったことはありませんでした。演歌との付き合いは、会社勤めをしていた時代にカラオケで歌って以来なので、ほとんど忘れかけた存在でした。しかし、演歌ぽいけれども、迫力のある表紙は、中身を見事に表現していました。
 さすがは日本歌謡界のドン、人生がそのまま昭和歌謡の歌詞そのまままのに驚かされ、そして泣かされました。舟木一夫の「高校三年生」、千昌夫の「星影のワルツ」、「北国の春」、森昌子の「せんせい」、渡哲也の「くちなしの花」、山本リンダの「こまっちゃうな」、牧村三枝子の「みちずれ」など、昭和育ちの日本人なら誰もが知っている大ヒット曲の数々はいかにして生まれたのか?その秘話の数々と彼の曲への思いは、面白いと同時に泣けてくるものばかりです。簡潔な文章で淡々と綴られた過去の哀しい思い出、懐かしい思い出は、演歌の暗さを突き抜ける力強さを感じさせます。
 昭和を懐かしむだけでなく、その力強さを知るのにも最適なドキュメントです!

<昭和の歌謡曲>
 僕は、1960年、昭和35年の3月生まれなので、「高校三年生」は3歳の時、6歳の年に発表された「星影のワルツ」「こまっちゃうな」あたりからリアルタイムで聞いていたことになります。ブティックの走りだった我が家では、当時、スティービー・ワンダーやジョン・レノン、フィフスディメンションなどの洋楽が流れていましたが、テレビではけっこう歌謡番組を見ていました。当時は、今と違い歌謡番組は数が多く、そこから生まれるヒット曲は、お年寄りから子供まで世代に関わりなく誰もが知っている時代でした。ちびまるこちゃんは、お風呂でよく「なみだの操」(千家和也作詞 彩木雅夫作曲 殿さまキングス唄)を歌っていましたが、当時は子供が普通に大人向けの演歌を歌っていたものです。
 昭和という時代は、誰もが同じヒット曲を口ずさんでいた時代でもありました。だからこそ、作曲家、作詞家が描き出す演歌の世界は、すべての国民の心に残っており、未だに懐かしがられるのでしょう。遠藤実という作曲家が、誰よりも日本人に広く受け入れられ曲を作ることができたのは、彼の人生が誰よりも昭和の日本人的な原体験をもとに曲を作っていたからかもしれません。

<生い立ち>
 遠藤実が生まれたのは、1932年(昭和7年)7月6日、東京の下町南葛飾(今の墨田区立花)で生まれましたが、父親の仕事が上手くゆかず、物心つく前に故郷の新潟へと引っ越します。そのため、彼にとっての故郷は新潟の貧しい農村となりました。彼の父親は、真面目すぎて仕事がどれも上手くゆかず、様々な仕事を転々としたため、常に家族は貧しい生活をしていました。そのためもあり、父親は常に家庭でも厳しく、子供たちは虐待に近い扱いを受けていたようですが、考えてみるとそれは昭和の日本では当たり前のことだったかもしれません。「ちゃぶ台返し」で有名な星一徹はまさにその象徴でした。彼はそんな父親に殺されかけたこともあったようですが、それでもなお父親を愛していたのですから、それは単なる虐待とは異なるものだったのでしょう。そして、そんな父親の代わりに子供たちを育て養ってくれた母親もまた昭和の母親像そのものでした。
 そんな苦しい生活の中、彼は学校でも差別されることになります。そして、そんな彼にとって唯一の救いだったのが、歌を歌うことでした。

「・・・誰からも相手にされなくなって学校から足が遠ざかった。家を出ると真っ直ぐに小高い松林に登る。腰を下ろせばそこからは青々とした日本海が見渡せ、水平線の向こうに佐渡が浮かんでいる。声もなく泣いていると、松林をざわざわと抜けていく潮風がほおをなで、背中をさすってくれた。
 いつの間にか鼻歌を歌っていた。自分でも全く聞き覚えのないメロディーだ。
 なぜだろう、次から次に旋律があふれ出てくるのは。」


 電気もなく、食べる米もない、極貧生活の中、彼は進学できるわけもなく、見ず知らずの農家に作男として出されたり、工場で見習い工として働いたりしますが、どこへ行っても、その貧しさゆえに差別され、いじめられる存在でした。そんな中、彼は唯一の楽しみだった「歌」で生きようと決意。旅回りの歌劇団に入り、荷物運びから始めますが、その歌劇団が解散してしまったため、仕方なく彼は門付け芸人として生きる道を選びます。
 「門付け」というのは、今で言うと「ストリート・パフォーマー」にあたりますが、家を一軒一軒訪ねて、玄関先で歌って報酬をもらうという放浪芸人の一種です。まだ、ラジオやテレビは普及していなかった時代、数少ない娯楽芸能として行われた、「音楽の押し売り」的な存在でしたが、そこから芸能界へと発展する可能性はほとんどない厳しい仕事でした。

<東京へ>
 田舎では、もう望みはないと考えた彼は、奉公先の農家から家出して、東京へ単身旅立ちますが、そこでも食うや食わずの生活が続きました。それでも、他人から借りたギターを手にした彼は流しの歌手としてやっと活動を開始します。やっと食べられるようになった彼は、厳しい状況ながら姉さん女房の節子という女性と結婚しますが、歌手活動は上手くゆかず、オーディションを次々に受けるもののどれも不合格となりました。そのうちに、彼は自分が不合格になるのは、そのルックスにスター性が不足しているだけでなく歌唱力も足りないせいであると気づきます。そこで、彼は歌手になる道をあきらめ作曲家になろうと決意。そのための勉強を自学自習で始めました。

<作曲家として>
 作曲家になったからといって、無名の歌手が作曲家になるためには、自分で歌って流行らせるしかなく、相変わらず彼の貧しい生活は続きました。やっと彼の努力が報われるようになったのは、1957年に彼が作った「お月さん今晩わ」が認められ、それを藤島桓夫が歌ってヒットしてからでした。そして、それがきっかけとなり、その翌年、彼は憧れの存在だった古賀政男が所属するコロンビア・レコードの専属作曲家となりました。そこから、彼の快進撃が始まることになります。
 若くしてスターになったものの大人の歌手になりきれずスランプに陥っていた島倉千代子が復活するきっかけとなった「からたち日記」(1958年)。
 彼と同じように門付けから流しの歌手となり北海道から東京にやって来た双子の姉妹を、弟子として育て上げこまどり姉妹としてデビューさせた「浅草姉妹」(1959年)。
 マイトガイとして映画界のスターになっていた日活の小林旭を歌手としてもブレイクさせた「アキラのダンチョネ節」、「アキラのズンドコ節」「アキラのツーレロ節」(1960年)は、当時人気があった民謡路線を取り入れたものでした。
 上田茂幸という青年を舟木和夫としてデビューさせ、一躍人気スターへと押し上げた大ヒット曲「高校三年生」(1963年)。この曲は、高校へと行きたくても行けなかった彼の悔しい思いとそんな失われた青春時代への彼からのオマージュともいえる曲でした。

「『赤い夕日が校舎を染めて ニレの木陰に弾む声・・・・・』
 歌詞を読んだ途端、貧乏ゆえに中学に行けなかった自分のことが思い出された。日東紡績で見習い工をしながら通信教育用の中学校教科書を買い、校章に似た付録バッジを帽子につけて悔しさを紛らわせていた日々。もし中学、高校と進めていたら、どんな青春が待っていたのだろう。・・・・・」


<苦難の社長業>
 作曲家としての活動に専念していれば、彼はもっと多くの名曲を残していたかもしれません。しかし、彼はそこから横道へとそれる運命にありました。彼はデビュー前から彼の実力を認めてくれていた太平洋住宅グループの社長、中山幸市からレコード会社設立への協力を依頼され、社長に就任します。こうして、彼の名前からとられた社名「ミノルフォン・レコード」は、こうして1965年(昭和40年)にスタートします。ところが、中山氏が他社からの引き抜きを認めなかったことから、ミノルフォンはスター不在といゼロからのスタートとなりました。当然、経営状態が赤字で始まったことから、会社の運営は厳しく、それだけに遠藤実のワンマン企業化してしまい、会社内のモチベーションもどんどん下がってゆきました。親会社が大企業のため、赤字でも良しとされたことがかえって、状況を悪化させたのかもしれません。そんな中、彼を支持し続けた中山氏が突如この世を去ってしまいます。そうなると、もう彼をかばう者はなく、すぐに彼は経営不振の責任を取らされて会社を追われることになりました。
 ちなみに、この間に彼が生み出した大ヒット曲といえば、当時人気モデルだった山本リンダをブレイクさせることになったあの「こまっちゃうな」です。(1966年)
 さらに1966年に発表されながら、ヒットしないものの少しずつ人気を獲得し、2年後の1968年に再発されると250万枚の大ヒットとなった千昌夫の「星影のワルツ」も忘れられない名曲です。

「『別れることはつらいけど、しかたがないんだ君のため・・・』
 脈絡もなく、明星楽団の一員として吹雪の中を歩いた夜のことが脳裏をよみがえった。見上げた空の星の瞬き。『別れに星影のワルツを歌おう』と書き足した。・・・」

この曲は白鳥園枝の歌詞を、彼が「星影のワルツ」に改題し、歌詞を加えて発表されました。彼にとっては、苦労したバンドマン時代を思い出させる懐かしい曲となりました。

<黄金時代再び>
 1971年(昭和46年)、その後一時代を築き日本の歌謡界を変えることになるテレビ番組「スター誕生!」が始まります。このオーディション番組から登場した最初のスター、森昌子のデビュー曲を依頼された彼は、彼女のために「せんせい」を作曲。彼は彼女の師匠としてまさにスター誕生請負人として重要な仕事を担当。「せんせい」の大ヒットから、その後日本の歌謡界、映画界、芸能界になくてはならない存在となる様々なオーディションというシステムが現代まで長く続くことになります。
 この当時、彼はまさに「ヒット製造工場」として次々にヒット曲、代表曲を生み出してゆきます。

 俳優として、大人気だった杉良太郎は、元々が歌手志望だったことから、自ら遠藤実のもとを訪れ、自分にもヒット曲を作って欲しいと直談判。そうして書かれた彼のための曲「すきま風」(1976年)は、じわじわとヒット。いつしかカラオケの定番曲となり、彼の代表曲として名曲の仲間入りを果たします。
 石原軍団のリーダーとなる渡哲也もまた、俳優としては人気がありましたが、「くちなしの花」(1973年)の大ヒットにより、歌手としての人気も獲得します。実は、この曲には貧しい時代に苦労をかけ続けた彼の妻、節子への熱い思いがこめられています。
 1977年(昭和52年)を代表する大ヒット「北国の春」。千昌夫のこの大ヒット曲こそ、彼が故郷である新潟に捧げた最高のオマージュといえる名曲です。
「『白樺 青空 南風』という印象的な言葉を並べて歌い出す。そして『届いたおふくろの小さな包み』、『あにきもおやじ似で無口なふたりが』と、まるで私自身の郷愁をわしづかみにするような場面がちりばめられている。
 この詞は、私が本番はどんな曲を書きたかったかを教えてくれた。心の底にじっと横たわっている故郷の情景。そこで暮らした家族との日々。自分を育んでくれたものすべてに対する感謝と懐かしさを、もっと早く歌にするべきだった。」


 まだまだ彼のヒット曲をあげるときりがなさそうですが、改めて彼の自伝とともにそれらの曲を思い出すと、いかに彼の人生と名曲の数々がリンクしているかに驚かされるでしょう。僕のように中学生の頃から洋楽を聴くようになっていた子供でさえ、やっぱりそれらの曲に自らのルーツを感じてしまうのですから・・・「昭和歌謡」恐るべしです。
「歌は世に連れ、世は歌に連れ・・・・・」という名セリフがありますが、時代を代表する歌には、やはりその時代の空気がしっかりと収められているものです。そして、そんな昭和という時代とともに生き、高度経済成長時代の日本と同じようにどん底から這い上がり成功を掴み取った男の物語は、それ自体が一曲の泣かせる演歌の名曲になっています。
 この本に収められた文章の数々は、けっして名文ではないけれど、淡々とした文章によって積み上げられた人生の断片は、どれも曲になりそうなエピソードばかりです。昭和という時代を知りたい方、昭和を懐かしみたい方にお奨めの一冊です。

<改めて聞いてみて>
 この本を読んだ後、僕が担当しているFM小樽の番組「フリー・スタイル・ミュージック」で、遠藤実特集をしました。おかげで、改めて遠藤実のヒット曲をじっくりと聴くことができました。番組では、「からたち日記」、「浅草姉妹」、「北国の春」、「雪椿」、「高校三年生」、「アキラのズンドコ節」(この曲はなんとバックが東京スカパラダイス・オーケストラ!)をかけました。
 島倉千代子は「からたち日記」が大ヒットして、少女歌手から大人の歌手への脱皮に成功。あまりに売れっ子になり声が出なくなってしまい、リサイタルでは観客から「無理するな!俺が代わりに歌うぞ!」と同情の声が上がったそうです。改めて聴いてみると、意外に彼女の声がか細く、彼女を守ってあげたいとファンが思う気持ちがわかりました。曲間の語りがまたファンの心をつかんだのでしょう。曲間の語りが入るとヒットしないという音楽業界のジンクスを最初に破ったのがこの曲だったとか、・・・。
 「北国の春」は、かけながら思わず歌ってしまいました。カラオケで歌った記憶はないのになぜか歌詞がスラスラと出てくるのに我ながら驚きました。これほど気持ちよく歌える歌は、そうはないでしょう。それだけ、曲と歌詞が見事に融合している曲だということです。
 こうやってじっくり聴いてみると、やはり良い曲には、それなりの理由があるものです。カラオケで歌うのも良いのですが、たまにじっくりと聴いてみるのも良いものです。

「涙の川を渉るとき - 遠藤実自伝 - 」 2007年
遠藤実 Minoru Endo(著)
日本経済新聞出版社

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