最後に、プレスリーのように、彼女はけばけばしいステージ衣裳を好んでまとい、ファンからは宗教的な献身を捧げられた - ある評論家は、彼女は「シャーマンのようなオーラ」を獲得した、と書いている。彼女はまた、プレスリーと同じく、伝説的なカムバック・コンサートを敢行した。-」
「さよならアメリカ、さよならニッポン」マイケル・ボーダッシュ(著)

 さらにこちらは日本人の見解です。

「美空ひばりという記号は、この四十年、われわれ日本列島に生きる人間にとって、日本[国家]と日本人[民族]の原像を探る格好のキーワードの役割を果たしてきたといっていい」
鈴木則文(映画監督)

「ぼくは、美空ひばりは、天才少女歌手といった生易しい存在ではない、と思っている。ファンタジーである。敗戦の焦土が誕生させた突然変異の生命体で、しかも、人を救う使命を帯びていた、ということである」
「愛すべき名歌たち」阿久悠

<生い立ち>
 美空ひばりは、本名を加藤和枝といい、1937年5月29日に横浜の貧しい漁師の長女として生まれました。父親は漁師ではありましたがギターが弾け、アマチュアのダンスバンドのリーダーでもありました。彼女の音楽的才能は父親譲りだったようです。しかし、彼女の歌手としてのキャリアを築いたのは、後に彼女のマネージャーとなる母親だったようです。戦争中、彼女は近所のイベントで歌を披露し、すでに天才少女と呼ばれていました。
 終戦後の1946年、彼女は9歳で歌手デビューを飾ります。(その頃の芸名は、まだ美空和枝でした)
 1947年、四国をまわるコンサート・ツアー中、ツアー・バスがトラックと衝突。瀕死の重傷を負うものの奇跡的に回復。伝説によると、彼女はこの事故の後、病院近くの神社に立つ樹齢2000年の杉の木に「自分は必ず日本一のシンガーになる」と誓ったといいます。
 1948年、米軍占領下、米兵の多い港町、横浜で育った彼女は、先ずはそうした米兵たちに大うけだったブギウギ・ナンバーを歌って有名になります。当時「ブギの女王」と呼ばれていた笠置シヅ子は、まだ11歳の彼女がステージで自分の曲「セコハン娘」をカバーしているのを見て衝撃を受けたといいます。少女版の笠置シヅ子として人気を獲得した彼女は、1949年日本コロンビアからオリジナルのブギ・ナンバー「河童ブギウギ」でレコード・デビュー。その後も彼女は、「拳銃ブギ」(1950年)、「あきれたブギ」(1950年)、「泥んこブギ」(1951年)とブギウギ・ナンバーを次々にヒットさせてゆきます。
 しかし、10代前半の少女に大人びたアメリカ製音楽を歌わせていることに対し、社会的な批判も多かったようです。大人である笠置シヅ子でさえ、自分の曲の歌詞のエロティックさに抵抗を感じていたのですから、そうした批判は当然だったかもしれません。

「大口開けて叫ぶ例のブギウギが人心に投じているのは戦後の解放感のなせるわざであろうが、邪悪なブギウギを無邪気な小歌手がいとも巧妙にうたい踊るさまは、いよいよわれわれの敗北感を強めずにはおかない」
女性誌「婦人朝日」1949年10月号より

 しかし、そうした彼女のブギウギ時代は、そう長くはありませんでした。彼女が初主演した映画「悲しき口笛」(1949年)のブルースっぽいタイトル曲が50万枚の大ヒットとなり、その後、彼女はブギウギ以外の曲にもどんどん挑戦してゆくようになります。そして、彼女は「元祖美少女アイドル」から「元祖三人娘」へと変身を遂げてゆくことになります。

<元祖三人娘>
 1951年、「東京ブギウギ」のカバーで歌手デビューしていた江利チエミが、カントリー・ポップスの「テネシー・ワルツ」をカバーしてレコード・デビューしています。彼女は英語曲をカバーしたりアメリカのオリジナルに近いポップスを歌う新しいタイプのアイドル歌手として人気を獲得してゆきます。
 1952年に日劇ミュージック・ホールのオーディションを受け、そこからひとりの15歳の少女がデビューのチャンスをつかみます。その少女、朝比奈知子は、芸名を雪村いづみとして、1953年にやはりアメリカの歌手テレサ・ブリューワのヒット曲「思い出のワルツ」をカバーし一躍人気スターの仲間入りを果たします。
 黒人のソウルフルなジャズのカバーを得意とする江利チエミと白人女性ボーカリストのカバーを得意とする雪村いづみ。この二人による洋モノ・カバー・ブームに美空ひばりも、その歌唱力で対抗することで、日本歌謡界初の「アイドル三人娘」が誕生することになりました。しかし、彼女はここでさらなる方向転換をすることになります。そのきっかけとなったのが、1952年発表の「リンゴ追分」です。(作曲は米山正夫、作詞は小沢不二夫)

「なんとも象徴的なことに、ひばりはこの曲を1952年4月27日 - 米軍の占領が正式に終わった日に、東京の歌舞伎座ではじめてステージにかけた。新曲はさぞや、聴衆の心に強く響いたことだろう。シングルはおよそ70万枚を売り上げ、ひばりは再度、戦後のレコード売り上げ記録を破ることになった。」

「では戦後日本のポップソングの仮想的な地政学地図の上で、笠置シヅ子がアメリカとラベルづけされた一極を占めているとするなら、その対極にはだれがいるのだろう?・・・この2番目の極にはもうひとりの女性シンガー、美空ひばりを位置づけることができる。この極には日本というラベルを貼ってもいい。」
「さよならアメリカ、さよならニッポン」マイケル・ボーダッシュ(著)

 こうした、ひばりの「伝統への回帰」は、けっして偶然起きたことではありませんでした。特に「リンゴ追分」に関しては、ラジオ・ドラマ、レコード、ライブ、映画を総合的に組み合わせたメディア・ミックス戦略の先駆ともいえる作品として計算された企画だったようです。実際、映画に関しては、ひばりのマネージメント会社である新芸プロが出資していて、プロデュースも行っていました。
 その他、彼女は当時、いち早くハイファイのステレオ・レコーディングを行い、LP盤を発売した最初のポップ・アーティストでもありました。彼女にとって「伝統への回帰」もまた新たな挑戦のひとつであり、仕掛けのひとつだったのでしょう。
 この頃彼女は、まだ「演歌」専門の歌手になったわけではなく、まだまだ精力的に様々なジャンルの歌に挑戦し続けていました。
「お祭りマンボ」(1952年)、「バイバイ・ハワイ」(1952年)、「春のサンバ」(1953年)、「エル・チョクロ」(1953年)、「チャルメラそば屋」(1953年)、「クリスマス・ワルツ」(1953年)、「ひばりのチャチャチャ」(1958年)、「ロカビリー剣法」(1958年)・・・タイトルだけでもその多彩さがわかります。彼女に対する高い評価は、こうした様々なジャンルの歌を自由自在に歌いこなす歌唱力があったからこそ得られたといえます。だからこそ、彼女は「演歌の女王」に納まらずにいれば、「J−ポップの女王」になれたとも言われるのです。

「リズム感がいい、というようなものではない。
 ビートと一体化してしまうのだ。リズムを正確にとらえている、という当然のことなどいちいち指摘するまでもない。とらえたのちにどうするかである。言葉のアクセスの響きがうっとりするほど自然で正確だ。なめらかなメロディーの要所要所にキリリとビートのツボを示すから、実りのりがいい。」

湯浅学「音楽が降ってくる」より

<「演歌の女王」と古賀政男
 1964年12月、彼女がその後「演歌の女王」と呼ばれることになるきっかけとなった曲「柔」が発表されました。1964年といえば、東京オリンピックの年、その大会で正式種目となった柔道での日本選手の活躍にこの曲はあやかったといわれています。今でこそ、「柔」は美空ひばりの代表曲とされていますが、当時彼女にとってこの曲は、異色の曲でした。
 先ず、作曲者の古賀政男は、歌謡界の大御所でしたが、実は彼が美空ひばりのために曲を書いたのはそれが初めてでした。さらにこの曲は、男性の主人公をモデルにしており、女性目線の曲ではありません。そのうえ、この曲は彼女のそれまでの曲に比べると地味すぎるのではないか?という疑問の声も多かったようです。この曲について、マイケル・ボーダッシュはこう書いています。

「あきらかに<柔>は、共同体的な価値観のすべてが利己的な個人主義によって脅かされているかに見える、加速度的に分裂し、都会化していく世界の痛みを少しでも和らげることを目標としていた。「演歌」というジャンルの最適例とも言うべきこの曲は、深い想いを抱いた、自己犠牲をいとわない寡黙な男たちという、幻想上の失われた世界に対する強いノスタルジアを喚起する。」
「さよならアメリカ、さよならニッポン」マイケル・ボーダッシュ(著)

 結局この曲は、彼女に初のレコード大賞をもたらし、180万枚を売り上げる大ヒットとなりました。(この企画は初めからレコード大賞を獲るために立てられたともいわれています)さらに、1966年、彼女は再び古賀政男の曲「悲しい酒」を大ヒットさせ、「演歌の女王」という称号を得ることになります。
 1967年には、彼女はGSブームの中、ブルーコメッツと共演。「真赤な太陽」を大ヒットさせているのですが、彼女のイメージはこの頃からいよいよ「演歌の女王」として固定されようとしていました。
 彼女のこうした変身は、1960年代に日本中が安保問題に揺れながら、かつての親米一色から、反米、そして日本文化の再評価へと向かう時代とピタリと一致していました。
「わたしが、考えつづけていることは、わたしは日本人の歌をうたう、ということです。わたしは日本人です。だから、まず日本の歌がうたえなければなりません。・・・」
美空ひばりの自伝より

 古賀政男という作曲家は、植民地時代の韓国で育ち、そこで吸収した韓国や大陸の音楽から強い影響を受けた人物です。「演歌」が東アジア各地の大衆音楽と似ているのは同じルーツをもつ音楽だからなのでしょう。

「・・・1945年までの日本のポピュラー音楽は、アジア大陸の文化と深く関わっていたということだ - それはつまり、帝国主義時代の日本とも、深く絡み合っていることを意味した。こうした初期の時代のリスナーたちが、自分たちの音楽体験を体系づける際に用いた地図には、アメリカや日本だけでなく、アジアも含まれていたのである。」
「さよならアメリカ、さよならニッポン」マイケル・ボーダッシュ(著)
(21世紀の今、ネットのおかげと、アジアの経済発展が再び当時と似た状況を生み出しつつあります)

 ということは、美空ひばりが「演歌」に向かったのは、もしかすると日本の伝統に帰ったのではなく、第二次世界大戦前にはひとつの文化圏だったアジアの大衆音楽の原型を求めての挑戦だったのかもしれません。
 そう考えると、彼女の父親は実は韓国人だったという伝説?が真実味を帯びてきます。力道山、松田優作・・・だけでなく、日本を代表する英雄たちの中にはどれだけ韓国の血が流れていることか・・・いや、韓国の血が流れていたからこその英雄だったのかもしれません。
 残念ながら、「演歌の女王」となった美空ひばりに、僕はほとんど関心をもたなっていませんでした。彼女はある年齢層以上の人々にしか愛されなくなってゆきました。しかし、1989年、突如彼女は蘇ります。

<「川の流れのように」>
 1989年、死を直前にして彼女は、最後の大ヒット曲「川の流れのように」を発表します。その曲の作曲者、見岳章には、「30代の若者にアピールする新しいひばりサウンドを書いてほしい」という依頼があったそうです。そして、作詞はあの秋元康です。彼はこの曲の歌詞をニューヨーク滞在中にイーストリバーを見ながら書いたといいます。その点では、すでにこの曲は国境を越えて聞かれる運命にあったのかもしれません。それにしても、彼女が秋元康という時代の寵児とタッグを組んだこと自体がさすがです。それは、彼女が死の瀬戸際まで時代の流れに敏感だったことの証明でした。
 演歌のようではあっても、洋楽風の編曲により、ノンジャンルのポップスとして完成したこの曲は、彼女を当時誕生しつつあった「J−ポップ」の「女王」の座へと導く可能性もありました。しかし、残念なことに、そうなる前に彼女はこの世を去ってしまいました。(1989年6月24日没)

「ひばりはこの本で論じるポップ・ミュージックのジャンルのほぼすべてでヒット・ソングをレコーディングしているが、ぼくがこの歴史的物語を1990年、すなわちひばりが亡くなった翌年で締めくくることに決めたのは、決して偶然ではない - 多くの面で、この本でぼくが伝えようとしている物語は彼女とともにはじまり、終わるのだ。戦後日本の楽曲を、ひとりでここまで完全に体現できる人物はほかにない。」
「さよならアメリカ、さよならニッポン」マイケル・ボーダッシュ(著)

「かつて、70年代初頭に、”日本語はロックにのるかのらないか”といった論争のようなものがあったが、こうして50〜60年代の美空ひばりのリズム歌謡を聴くと、重要なのはのるかのらぬかを吟味することではない、とわかる。美空ひばりは日本語をリズムにのせているのではない。リズムを日本語にのせているのだ。自分自身のビート感で様々なリズムを”日本語化”して不自然な発語がひとつもないのは、そういう高い、ほとんど名人芸といえる音楽的読解力による。・・・」
湯浅学「音楽が降ってくる」より

<追記>2014年10月
 曲名に自分の名前を入れた最初の歌手は彼女だったかもしれません。最初で最多であり、その後もほとんどいないといえます。(藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」、「ドリフのズンドコ節」・・・)それだけ彼女の人気が凄かったということですが、彼女がどんな曲でも歌いこなし、それを自分のものにしていたからこそ、どうどうと自分の名前を冠することができたともいえます。
「ひばりが唄えば」(1950年)「ひばりのマドロスさん」(1954年)「ひばりのチャチャチャ」(1956年)「ひばりのドドンパ」(1961年)「ひばりのツイスト」(1962年)「ひばりの音頭」(1965年)「ひばり賛歌」(1976年)・・・20曲近くあるようです。

<参考>
「さよならアメリカ、さよならニッポン - 戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか -」 2012年
(著)マイケル・ボーダッシュ
(訳)奥田裕士
白夜書房

「読むJ−POP」 2004年
(著)田家秀樹
朝日文庫

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