小樽都通り商店街の歴史と未来


- 観光都市小樽と商店街 -

<平成の終わりにあたり>
 「平成」が終わり、新しい時代になろうとしています。
 考えて見れば、小樽の歴史にとっても、平成の終わりは一つの区切りかもしれません。
 歴史を振り返ると、「昭和」から「平成」へと変わる中、小樽の街は商業都市から観光都市へと大きく変わってきました。
 新たな時代の小樽は、国内よりも国外からの観光客が多いグローバルな観光地になろうとしています。
 そんな中、僕は小樽の中心商店街である都通り商店街の理事長を任されることになりました。
 ちょうどそのタイミングで小樽商科大学の高野先生から「商店街の歴史と未来」について、講演の依頼を受けました。
 苦境が続く様々な商店街の歴史の多くは、すでに忘れ去られつつあり、その生き証人も残念ながらこの世を去りつつあります。
 その意味でも、今その記憶を整理することも価値があると思うので、ちょうど良い機会でした。
 そこで、小樽市の駅前にある都通り商店街の歩みについて振り返りながら、今後についても考えてみようと思います。
 
<榎本武揚と小樽の黄金期>
 都通り商店街の歴史について、先ずは現在の場所に商店街が誕生することになったきっかけから始めようと思います。
 時代は19世紀末の明治時代。都通りのシンボルにもなっている榎本武揚こそが、その最重要人物でした。当時、北海道は大きな岐路に立っていました。日本の工業化が進む中、最も重要な資源でもある幌内炭鉱で掘り出された石炭をどうやって本州へ運ぶか?その運搬のための鉄道をどこに引くべきか?日本政府は、太平洋側から積み出すか、日本海側から積み出すかの選択を迫られていました。
 アメリカから来た専門家のケプロンは太平洋側へのルートを主張しましたが、榎本武揚は日本海側、小樽へと運ぶルートを支持し、最終的に榎本の案に決定しました。こうして、1880年に手宮と幌内を結ぶ線路が完成しました。
 榎本武揚は当時開拓使の長官だった北垣国道と共に現在の稲穂町周辺に当たる土地を購入。街作り会社「北辰社」を設立し、土地を開拓分譲して行きました。龍宮神社はこの頃に建てられた神社です。
 1904年、小樽駅が開業。(正式名が「小樽駅」となったのは1919年のことです)ここから駅前商店街として、駅周辺に店が立ち始めます。ただし、当初発展したのは、手宮線の終点でもある手宮周辺で、それが後に現在の色内町方面へ、梁川商店街へと繁華街の中心が移動して行くことになります。

<都通りの黄金期>
 現在の「都通り」に当たる地域は小樽の駅前商店街として発展し始め、1920年に「稲穂電気館通り町内会」として正式に名前がつけられました。その名の元になった「電気館」は、当時、娯楽の殿堂として小樽の中心になっていた映画館&商業ビルで、現在もその建物の一部は「ギンザ」として営業しています。映画館としての電気館は1982年まで営業していました。(最終上映作品は「タイタンの戦い」だったそうです)
 1923年、小樽運河が完成し、港湾都市、貿易都市としての小樽の黄金時代が本格化。電気館通りもその影響でさらなる発展を遂げることになります。
 1931年、懸賞募集によって選ばれた「都通り」が採用され、「電気館通り」から「都通り」へと名称が変更されます。
 太平洋戦争が始まると、多くの商店が疎開し、商店街は閑散としますが、戦後はいよいよ小樽市内の賑わいの中心は都通りになって行きます。1950年代は、日本全体が高度経済成長の波に乗っていたこともあり、商店街はさらに賑わいを増して行きます。
 1964年、東京オリンピックの年、正式の商店街組織として「都通り商店街振興組合」がスタート。
 1966年、道内では狸小路に続く2番目のアーケードが、都通りに完成。完成記念レコードとして、都はるみと杉良太郎のデュエット曲が作られています。

<マイカル小樽による激震>
 1960年に小樽で生まれた僕は1978年に大学に入学し東京在住となり小樽を離れました。大学卒業後も、関東で就職し、小樽に帰ってきたのは1990年のことでした。
 その間、小樽の人口は減り続け、経済的にも斜陽化は進んでいましたが、まだまだ小樽の商店街には活気がありました。さらに僕が不在の間、小樽では運河保存運動が大きな盛り上がりをみせており、それが観光都市小樽を誕生させるきっかけとなりました。
 1991年、バブル景気が終わろうとする頃、小樽の商業界に激震が走ります。小樽築港地域に巨大商業施設「マイカル小樽」の建設が発表されたのです。600億円の投資と市による50億円規模の基盤整備により、34万平方メートルの巨大な商業施設ができるという計画でした。開業後、小樽中心部の商店街の売り上げは、30%から50%程度落ち込むだろうという予測も発表されました。
 この際、小樽商工会議所は、早くからマイカル進出を受け入れます。
 商店街に対しては、「このまま黙っていると、商店街は壊滅する可能性が高いので、やる気のある店はマイカルへの移転を考えてほしい」と説明。店主の子弟がマイカルで研修を受けるシステムを利用するよう薦めました。当然、多くの商業者がこの対応に反発し、都通りの商店主の多くがこの時期に商工会議所を脱会しています。
 当時、小樽市以外でも同じような大規模商業施設の建設が進んでいましたが、ほとんどの街の商工会議所は商店街と共に建設反対の立場をとっていました。その意味では小樽は例外的な存在でした。
 この時期、市役所が一企業のために税金を使って基盤整備を行うということに対し、違法ではないかという訴訟も起こされましたが、市も商工会議所も計画を粛々と進めます。建設を止めることが困難なことは明らかでした。

<様々な対抗策>
 市民の立場からも、「マイカル小樽」の誕生により、買い物する場所の選択肢が増えることは良いこと、という意見も多かったのも事実でした。そうなると、これ以上反対運動を続けても良い結果は得られないと判断した商店街は、マイカルの出店前に可能な対抗策の準備に入ります。そこで都通りも様々な新たな取り組みを行い始めます。
 1996年6月「どっこい、おいらは負けないよ!」をテーマに後志全体の活性化イベントを開催します。その中で行ったイベントの中には現在も継続している企画があります。
 「後志大収穫祭 - うまいっしょ市」には後志各地の美味しい食が集結。ご当地グルメ・イベントの先駆だったといえます。その後、都通りでは「しりべしなんでも百姓くらぶ」の方々と共同で土曜日恒例の「無農薬野菜市」が始まり、現在に至ります。(実行委員会が正式発足し、年間を通して開催されるようになったのは2008年)
 「じゃがいもバケツ一杯100円販売」もこの時から始まり、現在もなお続いている企画です。
 1998年、当初はお店のトイレをお客様に利用しやすいように案内ステッカーを作るところから始まった企画の発展形として、商店街の中に市から補助金をいただいて「都通りふれあいプラザ」がオープンします。この施設は、空き店舗を改装したもので、トイレだけでなく観光案内や荷物一時預かり、クリーニングの取り扱いや農産物や手作り品の販売などを行う施設として、この後10年以上続くことになりました。その間、担当者が一名常駐していました。
 この年には、商店街の情報発信のために「都通りかわらばん」が創刊。
 1997年、クリスマスの飾りつけとしてアイスキャンドルを制作し、商店街に並べる企画をスタートさせます。この2年後、1999年2月から「雪あかりの路」がスタートし、アイスキャンドルによるディスプレイは2月に変わりました。都通りのアイスキャンドルは、「雪あかりの路」の先をいっていたわけです。
 1998年、小樽市内の多くの商店が参加するポイント・カード「オタルンカード」がスタートします。この企画は、もともと「マイカル小樽」建設に反対する築港ヤード再開発反対運動のメンバーとなっていた商店主が主体となって研究・実施されました。反対運動が行き詰まる中、最も有効と思われる対抗策として選択されたのが当時商店街の救世主的存在だったポイントカードのシステムでした。当初「オタルンカード」に参加したのは、155名(225店舗)で、当時、その規模で全市的なポイントカード・システムを導入していたのは秋田市ぐらいしかありませんでした。「オタルンカード」は市の調査によると市民の90%が認知するポイントカードとして現在も継続しています。

<手宮線活用の動き>

 マイカルのオープンに向けて、商店街の反対運動とは別の市民運動も起きました。それは、廃線になっていた手宮線を活用し、市内中心部の活性化に利用しようという動きでした。ちょうど当時は廃線となっていた手宮線跡をJR北海道が手放し、それを引き継いだ小樽市がその活用法を模索していました。そこで市民グループ有志が、その利用法についての提案を行うために様々な議論と研究を行っていたのです。その活動の中心には、運河保存運動の際、若手の活動家として活躍していたメンバーが再び終結し、そこに商店街のメンバーも加わっていました。
 結局、この運動は手宮線跡を公園にすることで決着がつき、当初提案されていた路面電車を走らせるなどの案は実現しませんでした。それでもこうして誕生した手宮線跡の細長い公園は、様々なイベントに利用されることになります。そしてその公園を利用して、冬期間の小樽に観光客を呼び込むためのイベントとして始まったのが、「雪あかりの路」だったわけです。

<マイカル小樽の開業>
 1999年3月、ついに「マイカル小樽」が開業します。
 小樽はどう変化するのか?駅前地区は、多くの街のように空洞化するのではないか?
 当初からある程度予想されていたことでしたが、商店街よりも先にマイカル小樽はすぐに営業的に行き詰まります。同じ時期、バブルの崩壊により全国各地に誕生したばかりの巨大商業施設は次々に失速し、その影響でマイカル本体が2001年に民事再生法の適用申請をして倒産。「マイカル小樽」は、「ウィングベイ小樽」と改名して営業を続けますが、赤字を生み出し続け、市に対し50億円以上の税金を滞納したままの状態が続いています。(市民がその負債を抱えているということです)
 2017年、「ウィングベイ小樽」(株式会社小樽ベイシティ開発)は負債総額280億円を抱えた状態で民事再生法の適用を申請しました。(同年道内最大級)

 残念ながらマイカル小樽の登場により小樽市内の商店街も大きな影響を受けました。しかし、市内中心部は、観光客の影響もあって、なんとか持ちこたえたと言えます。しかし、それ以外の周辺商店街は、その店舗の多くが消えてゆくことになりました。現在も国道5号線沿いを走ると、多くの店がシャッターを閉めた状態のままになっています。
 もし、小樽に「運河」という歴史遺産や「寿司」など食文化の歴史がなければ、駅前を中心とする商店街も同じように消滅していた可能性が十分にあったと思います。現在の商店街が存続できているのは、観光客の増加のおかげであることは明らかです。
 では、商店街はさらに観光客をターゲットとして特化して行くべきなのでしょうか?

<コミュニティーとしての商店街>
 商店街が観光だけに特化することの危険性は、2018年の北海道東部地震の時に思い知らされました。特に運河周辺の商店街はその影響をもろに受け、大きな痛手を負うことになりました。それに比べると、都通り商店街への地震の影響は、予想ほどは大きくはなかったように思います。確かに海外からの観光客は減少しましたが、札幌方面からのお客様がは逆に増えていたかもしれません。
 地震があった日、うちの店は休みませんでした。停電は二日間にわたりましたが、店内の状況を確認したついでに店を開けていると、お客様が訪れ、普段並みの売り上げがあり驚いた覚えがあります。ただし、売れたものの中には、キャンドルや電池式のLEDランプなどがあり、停電のおかげで売れたものもありました。近隣のホテルから購入に来たお客様や地震の影響を確認に来た近隣の住人など様々な来店がありました。
 近場の商店に行けば、知人の無事を確認でき、停電や水道の状況などが今後どうなるのかわかるのではないか?そう考えていらした方が多かったように思います。当日は久しぶりにFM小樽さんに出演もさせていただき商店街の状況などを報告。その放送をかなり多くの方が聞いていたことは、その後わかりました。
 地域のコミュニティーとして商店街が求められる役割の重要さはこうした時に明らかになるようです。

<近郊客の重要性>
 1990年代から都通り商店街はお客様のターゲットとして「近郊客」という言葉を重要視して来ました。それは小樽市内の在住者ではなく、同じ後志管内の在住者や札幌方面に住んで小樽に定期的に遊びに来てくれるお客様のことを指します。
 そうした「近郊客」の方々の中には、札幌の巨大な商業施設ではなく、街歩きをしながらの散歩がてらの買い物を楽しみにしている主婦層が多くいます。彼女たちは、昼にはお寿司などを食べ、3時には甘いものを食べるという日帰りの小さな旅をするついでに商店街での買い物も楽しみにしています。そうした人々は、札幌近隣の主婦だけでなく、道外から定期的にやってくる観光客の中にもいらっしゃいます。こうしたお客様を大切にすることが、小樽の街にとっては間違いなく重要なことだと思われます。海外の観光客が災害や事件などによって、増減が激しい中、心にも懐にも余裕のある道内のお客様は重要なターゲットになるはずです。そのことは、昨年の地震の際、再認識させられました。「がんばろう北海道」というスローガンの影響もあり、道内近郊の主婦層の方々が観光地を元気づけようと、いつも以上に訪れてくれていたからです。

<これからの商店街>
 様々なことがあった商店街の歴史の中で、これから商店街が目指すべきはところは自ずと見えてきます。
 重要なのは、お客様のターゲットをどう考えるか?そのバランスかもしれません。(それぞれの商店街によって、その比率は違うはずです)
 小樽市の人口が着実に減少する中でも、地域のコミュニティーを支える存在として貢献を続けることは大切なことです。地域への貢献なくして地方の商店街の存在意義はないと思います。小樽の高齢化が進む中、今まで以上にお客さまとの対話は重要になり、助け合いの精神が必要になるはずです。
 しかし、小樽市内だけでなく日本全体の人口減少が止まらないとなると、海外からの観光客もターゲットにしなければ、売り上げの維持は困難になります。そうなると、観光客のための情報発信や利便性の向上はこれからさらに必要になるはずです。そのための取り組みとして、キャッシュレス・システムの導入、ITを利用したお店による手荷物預かりシステムの導入などの検討を始める必要があると考えています。
 もちろんいつどうなるかわからない海外の観光客とは別に、国内や札幌など道内近郊のお客様、リピーターとして訪れて下さる「近郊客」の方々へのさらなる魅力の発信も必要です。最近、都通りのイベントでは内容によっては、札幌の西区にチラシを入れることもあります。商店街としてのネットによる情報発信も今まで不十分だったので、今後はそのあたりも改善するべきと考えています。(現在、ホーム・ページをリニューアル中です)
 様々な客層をターゲットにすることは、一歩間違うと中途半端な店が並ぶ商店街になる可能性もあります。何かに特化しないと注目されないのが現代社会の常識かもしれません。しかし、昔ながらの居心地の良いある意味「昭和的な商店街」というイメージは今や日本から失われつつあります。そしてそんな商店街が魅力的という声をよく聞きます。もし、それが実現できれば、市民でだけでなく観光客にも魅力的だし楽しいはず。そんな商店街を目指したいと考えていますが、そこまでできないとこれからの商店街は生き残れないようにも思えます。
「個店はあくまでも個性的であるべき!ただし、それらが集まった商店街は、バランスがとれていること」が重要だと思います。

<小樽全体の魅力発信>
 これまで小樽が観光都市としての地位を築くことができたのは、峯山さんを中心とする運河保存運動のおかげだったと言えます。しかし、その後も、様々な人々が小樽の魅力を生み出す努力を続けてきました。「寿司屋通り」を生み出し発展させたお寿司屋さんたちやガラスの街のイメージを作り出した北一硝子さんなどの貢献も忘れてはいけません。最近では、あんかけ焼きそばの仕掛け人さんたちやニトリ美術館の貢献にも感謝です。
 20年の歴史を刻んだ「雪あかりの路」、21世紀に登場した「小樽アニメ・パーティー」は、今後も継続するだけでなくより広く情報発信を行うことで、国内、国外からより多くの観光客を呼び込めるイベントとしてさらに発展できるはずです。
 そうした観光客向けのイベントとは別の地域密着型イベントも、商店街としてのバランスをとるために重要だと思います。
 2018年からスタートした「街並みゼミ」は地域密着のイベントとして、地域全体の活性化のための新たな魅力作りの可能性を秘めています。個々の店の主がそれぞれの才能・技術・個性を使って市民に何かを教える。そこから、地域貢献型商店街の新たな発展の可能性が見えてくるかもしれません。
 同じく2018年、サンモール商店街、梁川商店街、都通り商店街の共同開催で行われた「ハロウィーン・イベント」も、地域の子供たちと商店街の交流の場として、今後も続けるべき企画だと思います。昨年は50名の参加でしたが、今年はさらに拡大させられればと思います。

<最後に感謝>
 最後に「マイカル小樽」の開業に、僕自身が感謝していることを告白しなければなりません。
 1999年巨大商業施設の誕生により、店がどう考えても今までより暇になることは明らかでした。では、店が暇になるなら、その間何かやろうと思い立った僕は、当時、ブームになりつつあった「ホーム・ページ」を作ろうとノート・パソコンを購入。1999年にその制作を開始し、2000年にこのサイトが正式にスタートしました。
 当時は、こうしたサイトが珍しかったこともあり、かなりのアクセス数を獲得。本やYAHOOなどで、お薦めサイトとして紹介されたりしました。ついにはそれがきっかけで出版社の方から声をかけていただき、「音魂大全」という本を出版することにもなり、その他にもBS放送のジャズ番組に資料提供をするなど本業以外の部分で仕事をする機会を得ることにもなりました。地元FM小樽さんでも5年ほど番組を担当させてもらったりしました。
 今思うと、マイカル小樽の開業がなければ、そうした体験もできなかったかもしれません。とりあえず、常に何かに挑戦しておくのことは大切なことだと改めて思います。

<都通り商店街に関する年表>
1876年(明治9年) 榎本武揚により龍宮神社建立 
1880年(明治13年) 手宮~幌内間に鉄道開通 
1895年(明治28年) 現在の都通り周辺に電灯が灯る
この後、娯楽施設「電気館」が誕生し、「電気館通り」と呼ばれるようになる
1904年(明治28年) 小樽駅舎完成(ただし、駅名が小樽駅となるのは1919年) 
1923年(大正3年)  小樽運河完成 
1929年(昭和4年)  スズキ洋品店が電気館前の仲見世通りで創業(祖父の鈴木俊之助) 
1931年(昭和6年)  懸賞募集により「都通り」の名前が正式名称に決定 
1941年(昭和16年) 太平洋戦争勃発 
1945年(昭和20年) 第二次世界大戦が終戦 
1964年(昭和39年) 「都通り商店街振興組合」発足 
1966年(昭和41年) 都通りにアーケード完成 
1982年(昭和57年) 都通りの映画館電気館が閉館 
1996年(平成8年)  商店街イベント「どっこいおいらは負けないよ!」開催 
1998年(平成10年) 「都通りふれあいプラザ」オープン
「都通りかわら版」創刊 
全市的規模のポイントカード「オタルンカード」スタート
1999年(平成11年) 「マイカル小樽」開業
「小樽雪あかりの路」スタート 
2002年(平成14年) アーケードのリニューアル完成 
榎本武揚プロジェクトスタート
2008年(平成20年) 「無農薬野菜市」5月~10月毎週土曜日開催となる
2014年(平成26年) 「小樽アニメパーティー」スタート 
2018年(平成30年) 「まちゼミおたる」スタート 
「ハロウィーン・イベント」開催(サンモール一番街、梁川商店街と共同開催)

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