「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」、「注文の多い料理店」ほか

- 宮澤賢治 Kenji Miyazawa -

<大災害とともに>
 宮澤賢治が生まれたのは、1896年(明治29年)8月27日。この年、彼の故郷岩手は大地震による大津波に襲われています。6月15日に三陸海岸全域を襲ったこの「三陸大津波」によって、死者行方不明者が2万2000人もの命が失われています。さらに彼が生まれた日の4日後の8月1日にも最大震度7といわれる陸羽大地震が岩手と秋田を襲いました。
 自然との共生を目指し新しい農業スタイルに挑んだ宮澤賢治の誕生の年、皮肉な事に自然界は東北の人々に牙を向き、多くの被害者を出していました。さらに不思議なのは、彼が亡くなった1933年(昭和8年)にも三陸海岸は再び大津波に襲われ、死者行方不明者3000人という被害を出しているのです。これは彼の悲劇的な人生を象徴しているのか、それとも彼はその大きな災害の合間に生まれ幸いだったのでしょうか?どちらにしても、37年という人生はあまりにも短すぎました。その間に彼の作品で世に出たのは、自費出版の詩集「心象スケッチ 春と修羅」と友人の出資によって出版された小説「イーハトーヴ童話 注文の多い料理店」、わずか2冊だけです。
 あの「銀河鉄道の夜」も、生前はまったく世に出る可能性がありませんでした。(というよりも、完成すらさせられなかったのですが・・・)彼の業績、仕事について知れば知るほど、彼にとっての37年は、やり残したことばかりの人生だったのかもしれません。
 しかし、彼の人生は苦しいことばかりだったわけではないはずです。そうでなければ、あんなにも美しく、優しく、夢のある物語を書けるわけはありません。21世紀に入ってなお、多くの人に読まれ続けている名作「銀河鉄道の夜」の作者、宮澤賢治の人生に迫りたいと思います。

「あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森が飾られたモーリオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、・・・みんななつかしい青いむかし風の幻燈のやうに思われます。」
童話「ポラーノの広場」より

<生い立ち>
 宮澤賢治は花巻市で質屋兼古着商を営む父親のもとに生まれました。当時の東北地方は冷害や干ばつにたびたび見舞われ、現在のように農作物の品種改良もなく、ビニール・ハウスなどの設備もなかったことから、天候の悪化はそのまま大凶作に結びつき、それが多くの餓死者を生み出すこともたびたびでした。彼の家は、そうした危機的状態の農民たちにお金を貸すことで大きな利益を得ていたのでした。彼はそんな裕福な家庭で何不自由なく育てられ、二人の妹と一人の弟がいる長男として後を継ぐことを求められていました。
 花城尋常高等小学校に通っていた彼は、担任の教師、八木英三に「海に塩のあるわけ」など、様々な童話を読んでもらい、そのおかげで童話が好きにな文学少年になりました。さらに4年生になると鉱物や昆虫を採集するという新たな趣味をみつけ、山や河原を歩き回る自然科学にも喜びを見出すようになります。さらに彼の家が代々「浄土真宗」を信仰していたことから、彼は後に大きな影響を受けることになる仏教とも出会っていました。短い人生を送ることになる彼は、自分の人生にとって重要なことと、いち早く出合っていたのでした。
 成績優秀だった彼は学校卒業後、盛岡にある県立盛岡中学校に入学します。(現在の盛岡第一高等学校)そして、この頃から彼は貧しい人々を相手に儲ける質屋という実家の職業を恥ずかしく思うようになります。しかし、中学への進学は、卒業後、家業を手伝うという条件で許してもらったものでした。そのため、彼は勉強に打ち込む気になれなくなり、勉強もせずに鉱物採集や植物採集のため登山に熱中するようになりました。さらに盛岡中学の先輩である石川啄木が短歌集「一握の砂」を発表して話題になったことから、彼は本格的に熱中し始めました。そんな中、彼は、学生たちと寄宿舎の管理者との内紛に巻き込まれ、仲間なの5年生たちと共に寮を追い出されています。学問は好きでも、古い体質の学校や教育に対する彼の反抗心は、この頃から強かったようです。結局彼は盛岡中学を88人中60番という成績で卒業しますが、家業を手伝う前に病に倒れ入院してしまいます。

<農業の道へ>
 家業を嫌い、病に苦しむ息子を見かねた父親は彼に盛岡高等農林学校への進学を許します。(現在の岩手大学農学部)好きな道への進学を許されがぜんやる気を出した彼は、再び学業に打ち込み、1915年農学科第二部に入学することができました。この学校は厳しい東北の農業を改善して行くことを目的に1903年に日本初の官立農林学校として設立された新しい学校で、彼が好きな学問を社会のために役立てることができる最高の場所となります。
 自分にとって最高の進路を歩み出すことができた賢治の青春は、この時まさに輝いていたのでしょう。さらにこの学校で彼は、その後の彼の人生に大きな影響を与える大切な友人と出会います。その人物は、山梨県からやって来た一学年下の保坂嘉内で、彼と賢治は考え方や趣味が近く、すぐに親友になったといいます。(嘉内(カナイ)という名前は、琉球地方の伝統にあるユートピア「ニライカナイ」の「カナイ」からとられたそうです。まさに賢治の友人にぴったりの名前です)
 さっそく二人は仲間共に同人誌「アザリア」を発行します。

<賢治と嘉内>
 賢治と嘉内の関係は「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニとカムパネラを思わせますが、嘉内の存在は賢治に「銀河鉄道の夜」のアイデアをもたらしたのではないかと言われています。嘉内が賢治に話した故郷の思い出の中に八が八ヶ岳に実在する「風の三郎神社」という祠のことあったといいます。賢治の「風の又三郎」の中に描かれている八ヶ岳周辺の風景はまさにこの頃、嘉内が話した故郷の風景がもとになっているようです。
 さらに驚くべきは、嘉内が残したハレー彗星のスケッチについてのエピソードです。それは嘉内が中学一年生の時(1910年5月20日)に描いたもので、後に賢治が彼から見せてもらっていたことが明らかになります。その絵には、八ヶ岳周辺の山々の絵とその上を横に流れて行くハレー彗星の絵が描かれていますが、さらにそこには嘉内の字で「彗星はまるで夜行列車のように遥かな宇宙に消えていった」と書かれていたのです。
 ちなみに、この夜、賢治が住む岩手県は雲っていたためハレー彗星は見えなかったそうですから、嘉内の彗星の描写を賢治が目を輝かせながら聞いていた様子が思い浮かびます。この時、あの銀河鉄道のイメージが誕生したのではないか?そう考えるのは当然のことです。

ジョバンニはああと深く息をしました。
「カムパネラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんとうにみんなのための幸のためなら僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「3人。僕だってさうだ。」
カムパネラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だらう。」
ジョバンニが云ひました。

「銀河鉄道の夜」より

<家庭崩壊>
 残念ながら、二人の関係は長くは続きませんでした。1918年(大正7年)嘉内が突然、退学処分になってしまったのです。原因は同人誌「アザリア」に掲載した彼の文章にあるらしいと言われていますが、詳細は不明です。さらに賢治自身もまた卒業後の進路が決まらず、しかたなく研究生として学校に残ることになります。その頃、彼は徴兵検査を受けていますが、幸か不幸か「第二乙種」と判定され体格不良として兵役を免除されています。どうやら、彼の身体はすでに病に冒されつつあったようです。そして、この年の6月岩手病院で検査を受けた彼は結核の初期症状ともいわれる肋膜炎と診断されました。この時から、彼は自らの人生がそう長くはないと思うようになったようです。
 そんな彼の気持ちをさらに暗くさせたのは、妹トシの入院でした。この頃から、彼は心の平安を求めるかのように法華経の熱心な信者として布教活動を積極的に行うようになります。ついには浄土宗の信者だった父親にまで改宗を迫り、家庭内はいよいよバラバラになってしまいます。
 1921年、彼は突然故郷を離れ、東京へと向かいます。それは法華経信者による社会団体、国柱会での奉仕活動をするためで、生活のため彼は印刷会社で働き始めました。この時、彼は東京で長年の友人、保坂と再会しますが、宗教論争からケンカになり、その後二人が会うことはなかったといいます。彼の宗教へののめり込みはまるで、1990年代のオウム真理教の信者のようだったのかもしれません。ところが、そんな彼の暴走を止めるような事件が起きます。彼の妹トシが喀血して入院してしまったのです。彼はそれまで東京で書きためた原稿をトランクに詰め込んで故郷の花巻へと戻ることになりました。

<農学校の教師として>
 妹のトシはとりあえず危機を脱しますが、彼はもう東京へは戻りませんでした。そして、稗貫郡立稗貫農学校(後の花巻農学校)で教師として働くことになります。月給は当時としては高給といえる80円。彼が教えることになったのは、代数、化学、英語に加え、専門科目の土壌、肥料、作物、気象、水田実習などでした。それは彼はやりたかった仕事でした。彼は妹トシと生徒たちのために生きるという目的を得て、再び元気を取り戻しました。どん底まで落ち込んでいた彼の人生は、妹トシの入院のおかげで再び光り輝くことになったのです。
 彼はその学校に音楽教師としてやって来た藤原嘉藤治と親しくなり、今度はクラシック音楽のレコードを集め始めます。ここで彼には「音楽」という新しい趣味が増えると同時にそれをきっかけに人生初の「恋」の季節が訪れることになります。
 典型的な独身貴族だった彼は、給料のほとんどをベートーベンを中心とするクラシックのレコード購入に使い、最新式の蓄音機も購入します。さらにせっかく買ったレコードをより多くの人に聞かせたいと考えた彼は、近所の花巻女学校の音楽部屋を借りてレコード・コンサートを開催します。毎週土曜日に音楽好きの男女が20人以上集まって音楽を聴くようになります。そして、この時、彼にとっては最初で最後とも言われる恋人、大畠ヤスと出会うことになります。
 彼が後に出版することになる詩集「心象スケッチ」に載ることになる詩は、ちょうどこの頃から書き始められることになりました。

「お前たちはだめだねえ。なぜ人のことをうらやましがるんだい。僕だってつらいことはいくらもあるんだい。お前たちにもいいことはたくさんあるんだい。僕は自分のことは一向考えもしないで人のことばかりうらやんだり馬鹿にしているやつらを一番いやなんだぜ。僕たちの方ではね、自分を外のものとくらべることが一番はずかしいことになっているんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ。・・・」
「風野又三郎」

<哀しい恋の結末>
 教師としての彼の仕事も充実していたようで、農学校の校歌を作ろうと、自ら詞を書き、曲を友人に依頼するなど、生き生きと働いていました。ところ再び、彼の人生が暗転することになります。そのきっかけもまた妹のトシでした。1922年(大正11年)11月27日、結核に苦しんでいたトシがこの世を去ってしまったのです。近い将来、自分もまた結核に冒されるであろうことを自覚していた彼は、妹の死に大きな衝撃を受けました。そして、秘かにつきあっていたヤスとの恋愛をあきらめる決意を固めます。
 この時の別れの原因は定かではなく様々な説があるようです。実は当時、ヤスもまた結核に冒されていることがわかっており、その原因は宮澤家との交流にあるのではないかと、ヤスの母親らが考えていたことから、周囲が結婚に反対したという説。
 この頃、すで教師を辞めて農業に自ら取り組もうと決意を固めていた賢治にとって、病弱な嫁は足手まといになるだけだとヤスが考え、自ら身を引いたという説。
 それら様々な要因があったためにお互いを思いやって、二人が納得しての結論だったのかもしれません。

 1924年、ヤスは及川という医師と結婚し、二人でアメリカに渡って行きました。ところが、彼女は新しい土地シカゴに住み出して3年後、1927年4月13日にアメリカの地でこの世を去ってしまいました。彼女はそこで一人の子供を産みましたが、その子も間もなくこの世を去ったといいます。
 その子は、賢治の子供だったとしたら?賢治がヤスをあきらめられずにアメリカへと渡っていたら?それもあの大恐慌前の繁栄を謳歌するアメリカを見ていたら?彼の人生はまったく違うものになっていたことでしょう・・・。

<本格的に活動開始>
 1923年、彼は岩手毎日新聞に童話「シグナルとシグナレス」を発表しました。ヤスとの別れにより、新たな生活をスタートすることになる彼は二人の別れをこの作品で予見していたようにも思えます。ここから彼はいよいよ作家としての活動を始めることになりました。
 1924年、自費出版ではありましたが、彼は詩集「心象スケッチ 春と修羅」を発表。そこには、ヤスの名前も具体的な出来事も書かれてはいませんが、二人の別れと出会いが大きな影響を与えたことは間違いなさそうです。さらにこの年12月には、賢治の友人及川四郎の出資により、「イーハトーヴ童話 注文の多い料理店」が出版されています。
 1925年、彼は自ら農業に本格的に取り組み始めます。それは教室で生徒たちに農業について教えながらも、自分自身は本気で農業には関わっていないという負い目があったからであり、農業の喜びを伝えるためにも自分が体感する必要があると感じたからでしょう。(ヤスとの別れが影響していないとは言えないでしょうが・・・)
 こうして、1926年3月31日、彼は30歳を前にして花巻農学校を退職、かつて妹のトシが療養生活を送っていた花巻にある宮澤家の別宅で独り自給自足の生活を始めます。同じ年、彼の弟は質屋兼古着商だった実家の仕事を建築材料の卸小売りに変え、宮澤商店を開業。賢治もその転換には大賛成したといいます。

<羅須土地人協会>
 8月、彼は教え子たちを中心に20名のメンバーからなる農業者の集まり「羅須地人協会」を設立。この会では、農業についての勉強会を行うだけでなくレコード・コンサートや楽器の練習会なども行い、オーケストラを結成。農業だけでなく、暮らしの中に新たな喜び、新たな目標を持ち込もうと提案します。それは農業を中心とする新たな社会共同体の創造という社会実験の第一段階でもありました。
 この年の12月、彼はチェロを本格的に習おうと久しぶりに東京に出て、そこでさらにオルガンとエスペラント語を学んだといいます。

「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないといふ評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいぢめられるのでした。」
「セロ弾きのゴーシュ」

 1927年(昭和2年)1月、彼は花巻に戻ると「羅須地人協会」の活動を再開します。その取り組みの素晴らしさに注目した岩手日報が紙面で取上げ、一躍その存在は有名になります。ところが、その活動が治安当局には共産主義的な活動と捉えられ、賢治は花巻警察に呼び出され取調べを受けることになりました。逮捕こそされなかったものの、当局の圧力によりオーケストラは解散に追い込まれてしまい、「羅須地人協会」の活動は大幅に自粛させられてしまいました。
 同じ頃、彼は農家のための肥料選定の相談を受けるようになります。それぞれの農地に合わせて肥料を選び、様々な相談にのることで、それぞれの農家がやってゆけるようになればと彼は考えていました。1928年、彼は伊豆大島へと出かけました。それは、そこで農芸学校設立のために活動する友人から、相談にのってほしいという依頼に答えるためでした。但し、この時、大島で彼を迎えた一家の娘チエとの間に見合いの準備がされていたようです。この時、二人はお互いに好感をもったようで、その後二人に結婚の可能性もあったかもしれません。しかし、大島から戻って2ヵ月後、彼は再び体調を崩してしまいます。高熱を出した彼は、診察を受けた花巻病院で結核と診断されてしまいました。

「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼けて死んでもかまひません。私のやうなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでせう。どうか私を連れてって下さい。」
「よだかの星」

 その後、半年以上、彼は実家で療養することになり、農業から離れざるをえなくなります。1929年、彼は現在の一関市にある東北砕石工場の鈴木東蔵という人物の訪問を受けました。彼は酸性の土壌を改良するために石灰粉末を販売したいと考えていて、賢治にそのための相談に来たのでした。1931年、彼は病が一時的に良くなったこともあり、東北砕石工場の嘱託技師となり、石灰粉末の宣伝・販売を行い始めます。これもまた農家のためになればという彼の思いからでしたが、その営業で東京に出張した彼はそこで再び熱を出し倒れてしまいました。
 花巻に戻った彼は、再び療養生活を余儀なくされますが、いよいよ彼は自らの人生の終わりを意識するようになります。そして、そんな彼の苦悩に追い討ちをかけるかのように、その秋、東北地方は凶作に見舞われてしまいます。そんな状況の中、彼はあの有名な言葉を手帳に記しています。

雨にも負けず、風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けず
丈夫な身体をもち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを 自分をかんじょうに入れずに
良く見聞きしわかり そして忘れず
野原の松の林のかげの 小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って恐がらなくてもいいう言い
北にケンカや訴しょうがあれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい


 その後、彼の病が回復することはなく、彼は病の床についたまま童話「グスコーブドリの伝記」を書いたり、1925年頃から推敲を続けてきた「銀河鉄道の夜」にさらに手を加えるなどして過ごします。(この期間がなければ、あの名作を我々は読むことができなかったかもしれません)
 そして、1933年9月20日、彼は肺炎を併発し、翌日21日、37歳という若さでこの世を去りました。
 幸いな事に、この年の東北地方は豊作でした。彼は農家の人々の努力が報われたことを喜び、久しぶりに幸福な気持ちで秋を迎えていたといいます。

「私のやうなものは、これからも沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
「グスコーブドリの伝記」

<追記>(2015年7月)
 翻訳家のアーサー・ビナードによると有名な「雨ニモマケズ」の詩は誤解されているといいます。
 例えば、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シ、野菜ヲタベ」の部分。この中の玄米四合は食べきれない分量です。「小サナ萱ブキノ小屋ニキテ」とありますが、「萱ぶき」の家は当時としては立派な家であり、貧しい家ではないとのこと。
 彼が書いていたのは、「貧しくても、慎ましやかに生きる理想論」を描いたのではなく、実際に豊かな暮らしをしていた農家を普通に描いた内容で、彼が農家を「ユートピア」として当たり前のように認識していただけのことだたのかもしれません。
 毎週土曜日にうちの店の前で小樽周辺の無農薬野菜農家が集まって「無農薬野菜市」を行っています。知り合いも多く、この時期はいろいろを美味しいものをいただいたりして、北海道に住む幸いを感じたりしています。
 彼らのほとんどは脱サラなど意識的に農家に転向した人々で、まさに宮沢賢治の後継者といった感じです。そんな人々を見ていると、「農家=貧しさ、忙しさ」という発想は過去のものだなあと実感します。やりようによっては、十分に「ユートピア」的な生活を送ることが可能だということです。(中には失敗してしまった人もいるのですが・・・)
 「賢治の夢」はけっして「夢」で終わったわけではないと思います。
<参考>
「それでも世界は文学でできている」 2015年
沼野充義(編)光文社

<参考>
「宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り」
 2011年
(著)重松清、澤口たまみ
(撮)小松健一
新潮社「とんぼの本」

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