- 溝口健二 Kenji Mizoguchi -

<日本を代表する巨匠>
 海外で高く評価され、多くの作品、監督に影響を与えた日本の映画監督を5人あげるとすれば、小津安二郎、黒澤明、北野武、宮崎駿、そして溝口健二でしょう。特に、ワンシーン、ワンショットの長回しを徹底し、ハリウッド的なクローズアップを避ける撮影手法は、多くの監督たちに強い影響を与えてきました。では、彼がそうした手法を取り入れるようになった理由はなんだったのでしょうか?そこは気になるところです。どうやら、それは彼の生い立ちや日本ならではの美学に影響されたもののようです。ということで、先ずは彼の生い立ちから振り返ります。

<溝口健二>
 溝口健二 Kenji Mizoguchi は、1898年5月16日、東京に生まれました。絵を描くことが大好きだった彼は、小学校を卒業するとすぐに浴衣の模様となる下絵などを描く図案屋に奉公し、そこで絵の基本を学びますが、さらに絵画の勉強をしたくなった彼は、その後、洋画研究所に入り、そこで洋画についても学びました。この時代に彼が、日本画独特の画面構成について学び、それが後に彼の作品における画面構成やカメラ位置に大きな影響を与えることになります。
 時代は1920年代に入ろうとしていましたが、映画はまだまだ日本ではマイナーな娯楽でした。しかし、いち早くその魅力にひきつけられた彼は、1920年日活の向島撮影所に助監督として入社、草創期の映画の世界に飛び込みました。当時、映画界は伸び盛りの時代だったこともあり、3年後のの1923年、彼は早くも初監督作品「愛が甦る日」を撮ります。そして、その年の5作目となった「敗残の歌は悲し」で早くも監督として高い評価を得るようになります。
 1920年代といえば、世界の映画界をリードしていたのは、アメリカでもフランスでもなく、ドイツでした。当時ドイツで生まれた「表現主義」の手法は世界中の監督たちに大きな影響を与えています。溝口健二もまたその影響を受けており、表現主義の特徴である「光と影」を重視した独特の映像に彼はいち早く挑戦し、1923年「血と霊」という作品を撮っています。(ただし、この作品は成功とはならなかったようで、ドイツ表現主義を取り入れた成功作としては、1926年の衣笠貞之助作品「狂った一頁」が有名です)
 こうした彼の新しい手法への挑戦は、その後も続きます。1920年代後半に日本でマルクスの著作がブームとなり、プロレタリア文学、共産主義の影響を受けた「傾向映画」と呼ばれた映画が数多撮られました。そのブームにも溝口はさっそく乗っていたようです。彼の作品「東京行進曲」(1929年)は、プロレタリア思想を取り入れた現代劇として異色の作品です。(この映画は、当時大ヒットした中山晋平、西條八十コンビの「東京行進曲」を映画化したもの)幸か不幸か、彼のプロレタリア思想は、付け焼刃的なものだったようです。その証拠に、時代の変化と共に彼の作風はすぐに変っているのです。
 1931年、日本が中国への進攻を開始すると、時代の流れはプロレタリア文学批判、共産主義者へ弾圧へと一気に変化して行きます。すると1932年、彼はそんなナショナリズムの流行をとらえたともいえる満州国の建国を描いた映画「満蒙建国の黎明」を撮っています。新しもの好きの彼にとって、イデオロギーもまた流行の一つだったとのかもしれません。

<独自の作風>
 彼はトーキー映画にもいち早く挑戦しています。トーキー映画の第一号と呼ばれる五所平之助監督作品「マダムと女房」(1931年)よりも早く、彼はオペラ歌手藤原義江の主人公にして、字幕と音声を併用した部分トーキー映画「ふるさと」を1930年に撮っているのです。
 この後、彼は後に彼を海外の映画祭に連れて行くことになる映画界の風雲児、永田雅一が興したばかりの第一映画に移籍。そこで彼の代表作ともなった作品「浪華悲歌(浪花えれじい)」(1936年)や「祇園姉妹」(1936年)を撮り、いよいよい彼独自の作風を確立することになります。
 その作風とは、彼が以前「傾向映画」で取り上げた父親や恋人、夫、さらには社会環境の犠牲となって苦しむ「女性たち」を徹底したリアリズムで描き出すことです。そして、そこで用いる撮影へのこだわりは、ハリウッドのように主人公をクローズ・アップでとらえるのではなく、画面の一部として撮影し、それを長回しでじっくりとカメラに収めることでした。彼は、こうしたもっとも得意とする手法と題材を生涯にわたり追求してゆくことになります。

「浪華悲歌(浪花えれじい)」(1936年)
(監)(原)溝口健二(脚)依田義賢(撮)三木稔
(出)山田五十鈴、梅村蓉子、大倉千代子、進藤英太郎、原健作
 山田五十鈴演じる職業婦人(キャリアウーマン)が家族や恋人に裏切られ絶望、転落するドラマをリアルに描いた悲劇です。この作品により山田五十鈴が映画女優として開眼したとも言われる代表作です。彼はこの後も多くの女優を育てることになります。

 1936年、第一映画社が解散し、彼は松竹下加茂撮影所に移籍し、そこで「残菊物語」を撮ります。この作品は、1890年代の歌舞伎の世界を題材にしたもので、彼は意識的に日本的な構成美を追求し、それを完成の域に高めたといわれます。
 そこでは、従来の映画のように主人公にカメラがアップでよることで感情の表現を大写しにすることを止めています。カメラはそうした場面でもあえて被写体から離れることで、あくまで客観的に物語をとらえています。しかし、それは歌舞伎の舞台を見る観客の普通の目線であったともいえます。当然、歌舞伎において観客が同じ舞台をノーカットで見続けるのと同じように、彼の作品もまたカットを極力減らしています。おのずと観客は画面に集中し、登場人物により深く感情移入することになります。この「ワンシーン・ワンショット」の手法を確立したことで、彼の作品は新たな段階へと進化したといえます。

<「元禄忠臣蔵」>
 彼がいよいよその作風を完成させつつあった時代、映画界にとっては逆風が迫りつつありました。日本は日中戦争に突入し、太平洋戦争に向かいつつあり映画どころではなくなりつつあったのです。溝口健二は、兵士として召集されることはなかったものの、彼は多くの映画監督たちと同様、戦意高揚のための映画を撮るため戦地へと派遣されることになります。戦地から戻ってからも、戦時下で娯楽映画を撮る雰囲気ではなかったため、彼はあえてここで芸術大作としての「忠臣蔵」に挑んでいます。
 それまでの娯楽時代劇としての「忠臣蔵」とは異なり、この時彼が撮ったのは、史実に忠実に「忠臣蔵」を描きなおすというものでした。そのために彼は、あえて実寸法にこだわって江戸城の松の廊下を再現するなど、リアルにとことんこだわったセットを作り、4時間近い大作として「元禄忠臣蔵」を完成させました。この時期の彼の作品は、戦後進駐軍による検閲によりカットされたり、フィルムごと失われるなどして、ほとんどフィルムが現存していませんが、この作品だけはそのまま本国に運ばれていたため、後に無事に日本に返還されました。そのため、彼の当時の画面へのこだわりなどが、再確認されることになります。
 そこでは、「浪華悲歌」で用いていた撮影手法がより完成され、クローズ・アップではなくロング・ショットが多用されています。それは西洋の絵画が、対象物に迫りそこに焦点を合わせて描くのに対し、屏風絵のように焦点を画面全体に合わせる独特の画面構成の完成でした。そして、画面構成において焦点をあえて合わせない手法は、彼により時間軸にまで拡張されます。それが、ワンシーンをカメラの長回しによってじっくりと撮る彼独自の手法を生み出したのでしょう。ワンシーンをじっくりと撮ることにより、「事件」へクローズアップで迫るのではなく、事件の周りの出来事「全体」を眺めるということです。
 映画を「動く絵画」ととらえるなら、画面という二次元だけでなく、「時間」という三次元もまた同じように扱うべきである、そう考えたことで映画界に革命が起きたわけです。

<敗戦からの再スタート>
 太平洋戦争の終結と同時に彼は今度は戦後民主主義思想に基づいた新しい女性解放の映画を撮り始めます。この時期、彼は戦前から撮り続け、彼の恋人でもあった田中絹代を主演とする「女性の勝利」(1946年)や「わが恋は燃えぬ」などを発表しています。
 そして、1950年代、彼の作品が日本を飛び出して海外で活躍する時代となります。
 1950年代、戦争によって荒廃したヨーロッパも復興が進み、その流れで映画祭もまた盛り上がりをみせつつありました。各映画祭の審査員たちは国際映画祭として世界的な知名度を高める必要もあり、ヨーロッパ以外の国の映画にも注目していました。アメリカに次ぐ映画生産国である日本映画に注目が集まるのはある意味必然だったといえます。おまけに日本映画には、ハリウッド映画にもヨーロッパ映画にもない独特のエキゾチズムがあったのです。
 そんな中、1951年に国際映画祭の価値も知らない大映の永田雅一が黒澤明の「羅生門」をヴェネチアに出品し、予想もしなかったグランプリを獲得してしまいます。(会場に関係者がひとりもいなかったため、会場周辺にいた唯一のアジア人だったヴェトナムからの留学生が代理で賞をもらうという椿事も有名です)

「西鶴一代女」(1952年)
(監)溝口健二(原)井原西鶴(脚)依田義賢(撮)平野好美(音)斉藤一郎
(出)田中絹代、山根寿子、三船敏郎
 井原西鶴の「好色一代女」を脚色した作品。年老いた娼婦お春(田中絹代)が過去の男性遍歴を回想する物語。江戸時代という男性中心の社会を生きた女性の苦難の人生を田中が熱演。ワンシーン・ワンショットの手法が見事に生かされた名作。この作品は、1952年のヴェネチア映画祭で監督賞を受賞。一躍彼は海外からも注目されることになります。
 当時、いち早く彼の作品を評価したのは、ジャン・リュック・ゴダールらフランスの若手ヌーヴェルバーグの監督たちでした。考えてみると、フランスという国は北野武、大島渚、そしてジャパニメーションなどをいち早く評価してくれただけでなく、かつてはゴッホやモネらの画家たちは北斎ら日本の浮世絵などもいち早く評価してくれたジャパニズム・ブームの火付け役です。なぜ、100年以上にわたり、フランス人は日本を評価し続けてくれたのか?不思議です。
 世界における溝口ブームは、、20世紀末の北野武人気をも上回るものでした。ヴェネチアでのグランプリ受賞の翌年1953年、彼は雨月物語で同じヴェネチアで銀獅子賞を獲得。さらによく1954年にも「山椒太夫」で再び銀獅子賞を連続受賞しているのです。(1954年の場合は、黒澤明の「七人の侍」との同時受賞という快挙でした)
 彼の作品のほとんどでカメラマンを担当した日本が誇るカメラマン宮川一夫は、「雨月物語」について、後にこう語っています。
「クレーンに乗って撮ると、なんとなく不安定な絵になります。その不安定さが伝わり「雨月物語」は、そういうところで成功したのだと思っています」
宮川一夫「キャメラマン一代」より

「近松物語」(1954年)
(監)溝口健二(原)近松門左衛門(脚)依田義賢(撮)宮川一夫(音)早坂文雄
(出)長谷川一夫、香川京子、進藤英太郎
 近松門左衛門の有名な原作をもとに手代(従業員)の茂兵衛と主人の妻おさんとの許されざる恋を描いた究極の不倫映画。宮川一夫の美しい映像と長谷川一夫、香川京子の名演技が光る傑作。

 残念なことに、彼のこの黄金時代は、5年ほどの短い期間でした。1956年8月24日、彼は66歳を前にして、この世を去ってしまいました。遺作となった作品「赤線地帯」(1956年)では、かつて大映のヒットシリーズだった母親を主人公にしたメロドラマ「母もの」の主演女優三益愛子を狂気の老娼婦として登場させることで、立身出世を目標とした価値観とそれを支える女性観の両方に終止符を打って見せました。彼はその死まで歩みを止めてはいませんでした。もし、彼があと10年でも長く生きていたら、どれだけの名作が世に出ていたことか?とはいえ、彼の黄金時代を日本映画の黄金時代が重なっていたことは確かに彼にとっても、世界の映画界にとっても幸いなことだったことも確かかもしれません。
 海外での高い評価の割りに黒澤、小津に比べて、日本国内での評価が低いのはなぜか?それは、彼の映画の題材が女性向けで重いものだったからかもしれません。でも大人になれば、その味わいは昔よりもずっと理解できる気がします。今度、改めて彼の作品をじっくりと見てみたいと思います。

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