- 山口百恵 Momoe Yamaguchi -

<ファンだった?>
 僕の実家には今でも近鉄バファローズが初めて優勝した瞬間を収めた記念の写真パネルと並んで山口百恵のパネルが飾ってあります。それは確か弟がどこかから入手してきたものでした。当時、すでに洋楽ファンになっていた僕と弟は、彼女のレコードを買ったわけでもなかったのですが、「スター誕生」で彼女が登場した時から知っていて、なんとなく高三トリオの中では一番好きという程度のファンだったと思います。それほど彼女の歌が好きだったわけでもなく、どちらかというと彼女の魅力的な唇とそこから発せられる大人っぽい声にひかれていたように思います。さらにいうなら、少年のような短めのヘアースタイルとのアンバランスの色っぽさも魅力的でした。当時、大人気だったピンクレディーやキャンディーズにひかれなかった少年たちの多くは彼女の魅力にひかれていたのではないでしょうか。
 当時はレコードを持っていなくても、テレビの歌謡番組が今より多かったこともあり、いやでもヒット曲は耳に残ったものです。それだけヒット曲が社会に与える影響も大きく、それは時代を映し出す鏡となっていました。そんなわけで、ここでは当時のナンバー1アイドル山口百恵と昭和の歌謡界を追って見ようと思います。

<山口百恵、その生い立ち>
 山口百恵は、1959年1月17日東京で生まれています。彼女の母親とある男性との不倫により生まれた子で妹と二人姉妹でした。その後、母娘は横須賀に引越し、彼女はそこで少女時代を過ごすことになりました。実の父親は頻繁に彼女の家を訪れ、娘たちをかわいがっていましたが、結局本妻と別れることはなく、一家の家計は母親が支えていました。女手ひとつで二人の娘を育てた母親の苦労を知る彼女は母親を愛する分、父親を憎むようになりました。

「私には、父はいない。
 一つの肉体としてあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。
 あの人は、毎日夜になれば帰って来るという人ではなかった。帰って来るというよりは、やって来るといったほうがふさわしい人だった。」

山口百恵(著)「蒼い時」より

 後に彼女が歌手として有名になると父親は、彼女の事務所から勝手に借金をしたり、母親から親権を奪おうとしたりした末に彼女に数百万円の和解金を要求するなどとんでもない男だったようです。元々父親を嫌っていた彼女は、手切れ金としてお金を渡し父親との縁を完全に切ろうとします。
「金銭で血縁を切る。
 あの人の存在は消えたのではなく、自ら私の手で切ったのである。そのことに対して私は、いささかの後悔もしてはいない」

山口百恵(著)「蒼い時」より

 彼女は自ら歌手になる道を選び、あの有名な「スター誕生」をスタートに一気にスターへの道を歩み始めますが、そのことにより母と父との別れを決定的なものにしたという思いもあったようです。
「私が歌手という仕事を選択しなかったら、ごく普通の学校を出て、普通に就職した娘だったら・・・母やあの人の人生も昔のまま変化しなかったのではないかと。妻という形で世間に認められなくても、母は依然としてあの人を信じ、あの人の看病をしていたかもしれない。雑多な状況は別にしても、それなりに平和な四人家族でいられたかもしれない。・・・」
山口百恵(著)「蒼い時」より

<危険なアイドル歌手>
 こうした彼女の父への思い、母への愛情は、後に彼女が結婚と同時に芸能界を引退する決断をした際、大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。そして、彼女のそうした少女時代の経験は彼女をいち早く大人の女へと成長させることになり、それが彼女のもつクールで大人びた雰囲気を生み出すことにもなったはずです。そして、そんな彼女の隠された魅力に気づき、それを前面に押し出す作戦を考え出したのが、当時CBSソニーのディレクターだった酒井政利と作詞家の千家和也でした。彼らと作曲家の都倉俊一、そして後に彼女の写真を「激写」して一大ブームを巻き起こす篠山紀信。彼らによって、山口百恵はカワイ子チャン・アイドル歌手ブームの中からいち早く抜け出すことに成功します。しかし、そうしたイメージづけに対し、彼女はかなり反発心を抱いていたようです。生い立ちの影響もあり、人一倍真面目な性格だった彼女が
「あなたが望むなら私何をされてもわ」(「青い果実」より)
などの歌詞が嫌いだったというのは当然かもしれません。
「『こんな詩、歌うんですか』
 言ったか言わなかったかは、さだかではないが、口に出さないまでも、気持ちは完全に拒否していた。」

山口百恵(著)「蒼い時」より

「あなたに、女の子の一番大切なものをあげるわ」の一節で有名な「ひと夏の経験」のシングル・ジャケット写真の彼女に笑顔はありません。それは何を表現していたのか?

「・・・山口百恵が怒っているのは、「ひと夏の経験」みたいな曲を歌わせた周囲の大人たち、ホリプロの社長、CBSソニーのディレクター酒井政利、作詞家の千家和也、作曲家の都倉俊一、自分を写す篠山紀信らであるといいます。だから彼女は歌手なんだ。社会に対する怒り、ということなら山口百恵はテロリストになっちまう。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

<新たな路線への挑戦>
 山口百恵の時代はこうしてスタートしましたが、このままであれば単なるスキャンダラスな異色のアイドル歌手で終わっていたかもしれません。「少女の目覚め」というテーマは、ある種男性のエロ心をくすぐることで多くのファンを獲得しましたが、そのことに不満を感じていた彼女は自らの意識で脱・少女路線へと歩み出します。
 彼女はデビュー当初からほとんどオリジナル曲を歌っていましたが、その曲の新たな提供者として、当時ダウンタウン・ブギウギ・バンドを率いて一時代を築いていた宇崎竜童を指名。もちろん作詞は宇崎の愛妻であり、日本を代表する作詞家でもあった阿木耀子に依頼します。こうして生まれた最初のヒット曲が「横須賀ストーリー」でした。彼女にとっての原点ともいえる街を舞台にしたこの曲から、彼女の大人への変心路線がスタートすることになります。

「『横須賀ストーリー』から『プレイバックPart 2』までの山口百恵の二年間は、第一に少女から女への成熟過程と、第二にニュー・ミュージックの良質な要素のすべて歌謡曲に賦活させながら彼女が歌謡曲の頂点に立つ過程と、第三に女が男を制する過程との、その三つを同時に、間断なく、無頼の緻密さをもって後づける記録である」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

 平岡が指摘するように彼女は宇崎・阿木コンビとの関係から「ニューミュージックの時代」と「自立した女性時代」という二つの流れを見事に表現し始めることになります。

<ニューミュージックの時代>
 1970年前後、日本はフォークの一大ブームとなり、ギター一本で人生を歌う詩人たちであふれました。その流れはある意味世界共通で海外でもジェームス・テイラーやジャクソン・ブラウン、ローラ・ニーロキャロル・キングなど様々なシンガー・ソングライターの活躍が始まっていました。
 しかし、日本の場合、そのブームはかなり極端なものだったかもしれません。それはフォークに対する皮肉まじりのニックネーム「四畳半フォーク」によく表れています。

「日本のフォークは、一言でいって、愚痴である。井上陽水、小椋佳、因幡晃らの曲は、メロディーに乗せた愚痴である。この種の音楽は、他の国のフォークソングに比べて畸型のようにみえる。
 リアリズム小説が日本で私小説になったのと似ている。歌謡曲でも、ニューミュージックでも、女性歌手がおもしろいのであるが、彼女らはフォークの、同世代者の感傷を代弁し、中産階級の日常性からけっして出ていこうとしない軟弱さに愛想づかしして歩き出したとみてとれる。」

平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

さらに平岡はこうも言い切ります。

「俺は三上寛以外のフォークを聴いていない。今回、岡林信康、井上陽水、小室等などを聴いてみたが、詳しく聴いていないのだから、その代わりに断定する。決定的にだめなことは反社会性がないことだ。反体制まではいく。しかしそこでとどまり、中産階級の自足のなかにひき返す。・・・反社会性の核心は、破壊ということである。個人原理を社会性や国家の上位におき、快楽と労働の嫌悪と暴力と、総じてルンペン・プロレタリア的実存のもとに、改良ではなく、革命を熱望するこころである。ジャズ、艶歌、ロックンロールにはこの方向がある。フォークは安全音楽である」

「ファンを含めてフォーク系の人びとが根本的なところで誤解していることは、芸術を民主主義だと信じていることではないか。芸術は独裁でよろしい。フォーライフ・レコードの創業だったといった方向は退屈である。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

 フォーク系のミュージシャンたちも含め「闘わなくなった男たちの時代」それが1970年代半ばだったともいえます。そうなると、必然的に女性たちの活躍の場が生まれることになります。「自立する女」「結婚しない女」「ウーマンリブ」などの言葉が広まったのは、まさにこの時期でした。

「歌、恋、巣ごもり、これが女の主導的な時代である。楽器演奏、暴力、革命、これが男の主導的な時代である。男の世界における暴力の欠如 - これが最近の日本の音楽シーン全般にわたる最大の特徴である。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

 そして、この流れは音楽の世界にも表れることになり、フォークでもなく歌謡曲でも演歌でもない新しいポップスを歌う女性アーティストたちが次々に現れることになります。当初はフォーク界から登場したニューミュージックと呼ばれる新しいタイプのアーティストたちの影響はすぐに歌謡界にも表れることになります。

「ジャンルが問題なのではなく、新しいタイプの女が続々と出ながら、音楽における女の主導性が浮上したらしということなのである。笠井紀美子と別格として、しばたはつみ、庄野真代、渡辺真知子、岩崎宏美、桑名晴子、尾崎亜美、そして矢野顕子と、どのジャンルからこようと、女たちが一定の方向、「ポップス」と称される方向に一斉に向きはじめている。これはたいへんなことなのだ。この動向を集約しているものが、山口百恵である」(ここに荒井由美の名前がないのは残念)
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

 そうした新しい女性アーティストたちは、けっして自分たちが歌を作っているわけではありませんでしたが、彼女たちは一躍、時代の先頭に立つことになったといえます。そして、それは彼女たちがそれぞれ時代の流れを体現する個性、存在感をもっていたおかげでした。

「他人(作詞家、作曲家)にあたえられた歌を歌うことに、そこまで個人の実存がかけられるはずがない、と反論されるかもしれないが、そこまで歌い手の実存をかけられるのが歌だ。むしろ他人の歌を救うことは、作詞、作曲、演唱が小さく一体化し、小さく自足するシンガー・ソングライターよりも大きな表現行為なのである。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

 流行歌の歌い手であることは、歌いたい歌を歌うだけでなく、それが時代に選ばれて初めて輝くことができる存在なのです。

「流行歌は作り手と歌い手の角逐のなかに聴衆という巨大な第三者を吸収するのであって、大衆の欲望と誤解の総体を乱反射させて、歌手や作曲家を超えて勝手に一人歩きするから、だから流行歌なのである。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

<宇崎&阿木コンビとの出会い>
 「横須賀ストーリー」「初恋草子」「夢先案内人」「イミテイション・ゴールド」(1977年)、「乙女座宮」「プレイバック Part2」「絶対絶命」「曼珠沙華」(1978年)、「美・サイレント」「愛の嵐」「しなやかに歌って」(1979年)、「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向こう側」(1980年)
 これらの名曲を山口百恵とともに生み出したソング・ライター・カップル、宇崎竜堂と阿木耀子の存在なくして山口百恵は語れないでしょう。宇崎竜堂は、ダウンタウン・ブギウギ・バンドのツッパリ・イメージが強く、長くロック・ミュージシャンとして認識されていましたが、実はグループ・サウンズ時代から音楽業界にマネージャーなどの裏方として関わっており、その後、バンド活動と平行して作曲活動を続けていました。彼らの曲が大好きだった山口百恵はそれまでアイドル歌手には許されなかった作曲者の指名をプロダクションに願い出ました。
 こうして、宇崎&阿木コンビとの共同作業が始まることになりましたが、彼女の選択にあやまりはありませんでした。

「宇崎竜堂はことによると日本のデューク・エリントンになる逸材である。古賀政男は音楽家であった。歌謡曲が未分化だった。戦後、歌謡曲は作詞、作曲、編曲、ディレクト、演奏というように分極化していった。これをプロジェクト・チームとして集約する方向にもっていったのが阿久悠である。宇崎竜堂はふたたび音楽家である。作曲家、演奏家、歌手、グループ・リーダーであり、ある意味でプロデューサー、オルガナイザーであり、しかもだれも彼を自作自演者とは呼ばない。彼はそれを超えている。」

 作詞家、阿木耀子の存在も忘れるわけにはゆきません。音楽的に「ニューミュージックの流れ」を取り込めたのが、宇崎のおかげなら、「女性の時代」という時代の空気を歌詞にこめることができたのは間違いなく時代を象徴する才女、阿木耀子のおかげでした。

「阿木耀子はかつてモデルであった。ふだん自分の着ている服と舞台で着せられる服、ふだん自分がすわっている姿とカメラの前でのポーズの、つまり実際の姿とフィクションのくいちがいに疑惑だろうという想像がつく。ここから彼女のロマンス(たとえば山口百恵)と女の実存(たとえば内藤やす子)の二刀流の刀法が出てきたはずだ。・・・」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

<昭和歌謡の女神たち>
 優れた裏方を得て、そこに彼女の存在感が加えられた時、ついに時代は彼女を女神として選ぶことになったのです。もちろん、彼女が「時代の女神」に選ばれるには、そこに至るまでの歌謡曲の歴史があったからのことです。ここで、その歴史を少しだけ振り返ります。
 昭和の歌謡史におけるカリスマ的女性歌手は、戦後の焼け跡に復興のエネルギーをもたらした笠置シズ子から始まり、美空ひばりの活躍でひとつの頂点を迎えました。彼女の「柔」が演歌の原点といわれるように、美空ひばりは「演歌歌手」として一時代を築きますが、時代は「演歌」とは異なる音楽を求めて変化し始めます。
 そんな中、登場した新しいタイプの歌手として西田佐知子がいました。「コーヒールンバ」、「アカシヤの雨が降るとき」、・・・。「演歌」独特のコブシを排除し、シャンソンやサンバカンソン、ジャズ・ヴォーカルのクールな部分を歌謡曲に持ち込んだ彼女の歌声は新しい女性の時代を予見するものでした。ところが、彼女は関口宏と結婚し、歌謡界を突如引退してしまいます。その後、彼女の後継者的存在としていしだあゆみが登場し、「ブルーライト・ヨコハマ」を大ヒットさせます。しかし、彼女の場合、声量的にもテクニック的にも歌手向きではなく女優へと転向してしまいました。
 しかし、時代は大人の歌を歌える存在感のある歌手を求めていたのです。それは男性以上に女性たちから求められていました。だからこそ、山口百恵ファンの場合、アイドル歌手ではありながら多くの女性ファン層が彼女の人気を支えていたのです。こうした女性ファンの後押しは、その後の女性アイドルたちほとんどに共通することになります。松田聖子、中森明菜、ユーミン、パフィー、パフューム、倖田来未、アンジェラ・アキ、AKB48まで、女性ファンの後押しなしに成功するアーティストは存在しなくなりました。今では当たり前となったそうした傾向の先駆が山口百恵だったといえます。そして、彼女にはそれだけのファン層を獲得するだけの魅力と実力がそなわっていました。

「歌謡曲の意識性のアップ、これが山口百恵の越境、クロスオーバーの背景を支えている。男の世界を食い破ろうとする意識性でも、ニューミュージックへの侵略においても、ライバル歌手との競合でも、「夜へ・・・」でのシャンソンとの、「美・サイレント」でのサンバ・カンソンとの「横須賀サンセット・サンライズ」でのレゲエとのクロスオーバーにおいても、それら他流試合では山口百恵が美空ひばりをうわまわっているのである。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

 それだけの才能が西田佐知子同様あっさりと「結婚」によって失われてしまったことは確かに残念なことです。しかし、彼女にとっての引退は歌手になったことと同様それほど特別なことではなかったのかもしれません。少なくとも彼女は歌手を続けていたとしても、まったく異なる歌手になっていたか、俳優に転進するかしていたはずで、絶対にバラエティー番組に出たり、」ナツメロ番組で歌ったりすることはなかったと思います。

「<山口百恵・なつかしのメロディー集>とか<山口百恵・古賀政男を歌う>というアルバムは考えられない。彼女は不可逆性の歌手である。彼女が「ひと夏の経験」をいま歌ったらパロディーである。なぜか、という問いに古賀メロディーの歴史的終焉があって、山口百恵は宇崎竜堂・阿木耀子の実現であり、宇崎・阿木の音楽は山口百恵の実現である、という歌謡曲の性格変化があるからだ。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より
 今やBS放送などでは、「なつかしのフォーク」、「なつかしのロック」番組は花盛りです。でも、僕は恥ずかしくって見れません。あなたはいかがですか?

 そう考えると、どの道、彼女は早い時期に歌手を引退したのではないか、という気もします。彼女は「幸せ」を追求することにあくまで真面目に取り組む女性として、一時期「歌手」という手段を選んだだけのこと。その直接のモチベーションは妹を育て、母とともに暮らすためにお金が必要だったからと考えるべきなのです。

<追記・ピンクレディーのこと>
 もうひとつ昭和の歌謡史を考える時、彼女と並ぶ超大物アーティスト、ピンクレディーのことを忘れるわけにはゆきません。女性の自立の象徴が山口百恵だったとすると、ピンクレディーの爆発的人気は何を象徴していたのいでしょう?ピンクレディーについては、その仕掛け人・阿久悠のページもご覧下さい!

「ピンクレディーはニューミュージックに先んじている。彼女らのいちじるしい特徴は二つあって、曲と曲の間に内的関連がまったくないことと、幼児退行現象を起こしていることだ。ピンクレディーは歌うアンドロイドに近づきつつある。」
平岡正明「山口百恵は菩薩である」より

 もしかすると「自立した女性」の時代は早くも「精神的な退行」へと向かう時代の始まりだったのかもしれません。
 「アニメの時代」「オタク文化の時代」「ダンス系アイドル時代」、それらをすべて象徴する存在がピンクレディーだったと考えると納得できる気がします。
 三浦友和との結婚によって山口百恵が引退したのが1980年。実は1980年は、彼女の引退以外に世界中で多くのミュージシャンがこの世を去った歴史的な年にあたります。ジョーイ・ディビジョンのイアン・カーティス、シンガー・ソングライターのティム・ハーディンレッドチェッペリンのジョン・ボーナム、ソウルシンガーのO.V.ライト、ニューオーリンズ・ピアノの大御所、プロフェッサー・ロングヘアー、サンバの大御所、カルトーラとヴィニシウス・ジ・モライス、ハワイアン・スラックキー・ギターの大御所ギャビー・パヒヌイ、そしてジョン・レノン。様々なジャンルの大御所がこの世を去った年が1980年でした。
 今振り返ると、彼女の引退はそのまま「歌手・山口百恵の死」だったといえます。そして、それが「死」であることで、彼女の存在は、ジョン・レノン同様「永遠」の存在になりえるのかもしれません。

<追記>(2012年10月)
「往年の美空ひばりにも、吉永小百合にも、山口百恵にもあって、それ以後のタレントが失った威厳は、その意味で昭和という『私を超えた時代』とともに失われたものだったのかもしれない。ことに戦後にあっては、『国民』全体の幼児化が時代の趨勢になってくるのである。・・・」
高澤秀次「ヒットメーカーの寿命」

「ダイヤモンドの原石を磨く」という言い方があるけど、彼女の場合、そうじゃない。これは彼女が大スターになってから気がついたことだが、スタッフたちが意外性を楽しみながら薄い半透明のベールを少しずつはがしていって、すべてはがれ落ちて一糸まとわぬ状態になった瞬間、「山口百恵」という昭和を代表する大スターが生まれた。そんな感じがする。
沢木耕太郎「シネマと書店とスタジアム」より

<参考資料>
平岡正明(著)「山口百恵は菩薩である」
山口百恵(著)「蒼い時」

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