「もの喰う人びと」

- 辺見庸 Yo Hemmi -

<「もの食う人びと」>
 1994年に発表されたこの作品は、ルポ・ライターの辺見庸氏が世界各地を旅しながら、その土地でその土地の食べものを食べ歩いた記録をまとめたものです。と言っても、この作品は間違ってもグルメ紀行本ではありません。彼が食べたものをざっとあげると、捨てられた残飯、囚人食、難民向け援助食料、修道院の精進料理、放射能に汚染された食品、ロシア海軍の給食、猫用の缶詰、国連平和維持軍の各国携帯食などなど、ほとんど美味しそうな食べものは登場しません。 しかし、このルポルタージュがもつ独自の視点は、「21世紀を人類が生き延びて行くための重要なヒント」を与えてくれるはずです。
 かつて僕が憧れたカメラマン&ライターの藤原新也は、望遠レンズを使用せず被写体に迫ることで世界の真実に迫りました。彼の作品「東京漂流」との出会いは、僕の海外ひとり旅に大きな影響を与えてくれました。そして、この「もの食う人々」は、そうした藤原新也の作品との出会い以来の衝撃を与えてくれました。残念ながら、今の僕は妻も子も店もある身で、以前のように長旅に出かけることはままならなくなりました。しかし、この本はそんな僕を見事に世界の果てまで運んでくれただけでなく、味覚や臭覚、そして涙腺までも刺激してくれました。

<味覚の不思議>
 五感の中でも「臭覚」についで強烈な記憶を脳に刻み込むと言われる「味覚」。それは原始的であり、生きることと強く結びついていることからこそ、その記憶とともに回りの景色やその時の気分までをも甦らせることが可能と言われます。作者は、この「味覚」という原始的な感覚を用いて、「情報」という現代的な感覚によって作られた現代の世界観に挑戦しようと試みています。
 ここで言う「現代の世界観」とは、西欧そして日本のマスコミが発信する無数の情報が作り上げたG7(先進7ヶ国)をその中心とする経済的豊かさを指標とした世界観のことです。これは確かに世界の行く末を左右する重要な世界像かもしれません。しかし、間違ってもこれは世界で唯一の世界像ではなく、他に無数の世界の捉え方が存在します。このサイトをご覧になっている方にとっては、「ポピュラー音楽という視点から見た世界観」「サッカー・スタイルから見た世界観」などは、すぐに思い浮かぶはずです。そして、それぞれの世界観によって、その中心となる国、人種、宗教などは異なるはずです。では「食」という視点から見ると、いったい世界はどう見えてくるのでしょう?
 それはかつて藤原新也がごく普通の小さなカメラを手に人に寄り添うとこで内面に潜む真実に迫ろうとしたことを思い出させます。同じように「味覚」という原始的な感覚は、より人間に迫るための有効な手段になるはずです。

<素晴らしい表現を生んだ力>
 そうなると問題は、「食」もしくは「味覚」という感覚をいかにして文章で表現するのか?ということかもしれません。どんなにアイデアが素晴らしくともそれを文章化する力量は作家の実力いかんにかかってきます。
 共同通信社という世界最高峰のニュース・ソース会社のデスクとして数多くの記事を扱ってきた経験。それと小説家として「自動起床装置」で芥川賞を受賞している文章力。この二つを兼ね備えていたからこそ、アイデアががアイデア倒れにならず見事に作品化されたのでしょう。
 いや、待てよ!もうひとつ辺見氏の人並みはずれた能力として、その強靱な体力と精神力、それに食欲も忘れてはならないでしょう。漁船や軍の輸送機に揺られながら、チェルノブイリ原発近くの村で放射能を浴びながら、インドの貧民街で腐った残飯を出されながら、戦乱の地ソマリアでは飢えた人々の視線を浴びながら、・・・それでもなお出されたのもを食べるという強い姿勢。これこそがこの作品のためにもっとも必要とされる能力だったのかもしれません。そして、この能力が今多くの日本人から失われようとしています。
 そして、「食」についての強靱さの喪失は、そのまま「人間性」の喪失につながってしまうのではないか?そのことを強く感じさせられます。

<僕の味覚と胃>
 僕は自慢じゃありませんが、グルメとはほど遠い味覚の持ち主です。おかげで、お腹さえ空いていれば何でも美味しいと思える幸福な人生です。ただし、ちょっと神経質なせいか、すぐにお腹をこわし下痢になってしまいます。そのため、一週間以上の海外旅行では必ず下痢になったものですが、なぜかそれが回復してからは何を食べても大丈夫なほど元気になったものです。(たまに使う抗生物質の効きが強いせいかもしれませんが・・・)
 そんなわけで僕の旅ではいつも「お腹の調子」と「食べ物」のことが重要な位置を占めていました。インドでお腹をこわした時も高熱が出てひどかったのですが、その旅の終わりに僕がつかんだ人生哲学はズバリ!
「食って、眠って、脱糞する。これが気持ちよくできれば人生文句なし!」
ジョン・レノンではありませんが、インドを旅すると2週間あれば「インスタントな悟り」を得られるのかもしれません)

<日本人と食文化>
 今やテレビをつけるとグルメ番組をやっていない時間帯がないほど、「食」についてのウンチクは巷に満ちあふれています。そう考えると、日本人ほど「食」にうるさい国民は他にないかもしれません。素材にこだわり、味付けにこだわり、器にこだわり、食べる場所にもこだわる。そういう生き方は、たぶん幸福なのでしょう。
 しかし、美食家と呼ばれる人々は本当に幸福なのでしょうか?
 美食だけでなく、着るもの、住む家、乗る車、聴く音楽、あらゆる趣味についてセンスが良いことは幸福への近道なのでしょうか?(トーキング・ヘッズの「ストップ・メイキング・センス」を思い出しました)
 ここまで書いてきて、やっと僕は気がつきました。もしかすると、僕のサイトは「音」について、この本と同じことを試みているのではないでしょうか?このサイトのサブ・タイトルは実は「音きく人々」だったのかもしれません。国ごとに、民族ごとに、世代ごとに、人々はいかなる音楽を奏で、また聞いてきたのか?それを明らかにするために、このサイトを作っていたのかもしれません。
 そうか!だとしたら、僕はもっともっと「人の心」に迫る必要があるのかもしれない。しかし、残念ながら僕に出来るのは、その音楽を自分の耳で聞くことと、その当時の歴史を学ぶことぐらいです。それでも、その音楽に愛情を感じていれば、少しは「人の心」に迫れるはず。
 まだまだこのサイト、発展途上のようです。

<締めのお言葉>
「栄養が偏ったとき、動物は肉体を通じてそれを感じる。犬が草を食べるのは、摂取栄養系のバランスが崩れたことを主張しているのだと言える。・・・栄養感知能力を失うことは、本来ならば、生存することを放棄することと同じである。今日の人間の大部分は、なんらかの形で、この能力を失いつつある。・・・」

香原志勢著「人体に秘められた動物」より

辺見庸の作品
「抵抗論 国家からの自由へ」

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