伝説となった英国式ブラック・ユーモアの最高峰 


- モンティ・パイソン Monty Python -

ジョン・クリーズ著「モンティ・パイソンができるまで So, Anyway・・・」より
<ザ・ブラック・ユーモア>
 「20世紀最大のお笑い芸人は誰か?」
 この質問を英国人に問えば、その第一位はたぶん「モンティ・パイソンMonty Python」でしょう?(チャップリンも英国出身ですが、彼の活躍の場はハリウッドでした)
 2012年のロンドン・オリンピック開会式におけるエリック・アイドルの活躍は、その証明だったと思います。会場の観客たちの多くが合唱した「Always Look on the Bright Side of Life」(作詞、作曲ともエリック・アイドル)は、モンティ・パイソンの映画「ライフ・オブ・ブライアン」のエンディング曲として作られ、彼らの復活ライブのエンディングにも使用された曲です。現在でも、英国の様々なスポーツ・イベントで使用され、スポーツ好きな英国人にとって国民的な愛唱歌のひとつです。(そうした説明がまったくなかったのが残念でした。僕に解説をやらせてくれたら・・・)
 多くのスポーツ・イベントで使用されるクイーンの「We Are The Chamipon」が勝者のための曲なら、「Always Look on the Bright Side of Life」は敗者のための曲ともいえます。人生はいつも勝利で終わるとは限らないのです。
「いいじゃないのこんなこともあるさ、前向きに生きようよ・・・」と歌うところが英国的で素敵です!かつては、世界最強の大国だった大英帝国が、その栄光を失って久しく、いつしかイギリス国民は敗者の美学もしくは敗北を笑い飛ばすユーモアを身につけたのです。その意味では、英国は、負けたことを明るくとらえられるいい意味で「大人の国」です。(ワールドカップ・サッカーもサッカーの母国でありながら、最近はすっかり優勝から遠くなっているし・・・)
 そんなイギリス的なユーモアの美学を今では絶対に不可能な毒に満ちたブラックなギャグで表現していたのが、モンティ・パイソンのメンバーだったのだと僕は思います。
 21世紀に入った今でも、彼らの作品はDVDやYouTubeで見ることができます。残念ながら、英国ならではの文化・知識、それに当時の社会状況などがわからないと笑えないギャグも多いとは思います。それでも、日本語吹き替え版には広川太一郎など、当時、最強の声優陣が独自の吹替えによりオリジナルを越えるほどの吹き替えをしていますので、十分に楽しめるはず!
 ということで、ここではモンティ・パイソンのブラック・ユーモアが生まれるまでの歴史に迫るため、グループの中心メンバー、ジョン・クリーズの自伝を参考に振り返ります。

<ジョン・クリーズ>
 モンティ・パイソンの中心人物であるジョン・クリーズ John Cleeseの自伝の内容は、あえてグループ誕生までの歴史にとどめられています。それでも、それぞれのメンバーとの出会いや後のギャグの元になるネタとなった事件などが詳しく書かれていて、「ルーツ・オブ・モンティ・パイソン」として大いに参考になります。
 彼は先ず自らの生い立ちについて、こんな皮肉な表現を使って説明しています。

 そんなわけで、創造性の面で私は二重に恵まれていた。頻繁に引っ越しをしていたし、おまけに両親は不仲だった。このふたつの好条件に加えて、これは定説だが、芸術の面でも科学も面でも、世界最大の天才の多くは母性の深刻な欠如の産物なのである。したがってこう結論せざるをえないのだが、もし母がもう少し精神的に不安定だったら、私にはまず無限の可能性が広がっていたんだろう。

 要するに、彼はもうちょっとで、両親が離婚して孤独な少年時代を送ったエリック・クラプトンジョン・レノンのようになれたかもしれない・・・ということです。
 ジョン・クリーズは、1939年10月27日イングランドのサマセット州に生まれました。家は中産階級の上あたりで、多くの子供たちがそうだったように、男子のみの寄宿学校でその青春時代を過ごしています。英国ならではのそうした厳格な学校での生活と勉強についても、彼は皮肉たっぷりに書いていて、それが後の様々なギャグのネタもとになったことがわかります。

<教育方法について>
 神経・精神科医のモーリス・ニコルは、あるとき聖者の文章について校長先生に質問したことがあるそうだが、先生の答えをしばらく聞いているうちに、この人は自分でもなにを言っているかわかっていないのだと気がついたという。たった10歳でそこに気がつくとは、ニコルはすごいと思う。私はといえば、それがやっと腑に落ちるまでさらに45年かかった。この世には、自分がなにを言っているかわかっている人などいないのだ。セントピーターズの教師のだれかひとりでも、1949年に「これは忘れないようにしなさい。人の言うことの90%は完全なたわごとなんだよ」と教えてくれていたら。そうしたら、私の知的進歩はどれだけ速まったかと思わずにいられない。
(とはいえ、彼が教育そのものを否定しているわけではありません。なかには良い先生もいたようで、彼は一時期、そんな教師たちと共に自分自身が教師として母校で働いているのです。どうやら、彼自身は教師に向いていたのかもしれません。そこが彼の人間的に素晴らしいところです))

<学校教育について>
 要するに、私にとって教育とは意志力の試される場だったわけだ。私はこの挑戦を受けて立った。実際の話、ティーンエイジのころの私は、頭のどこかで本気でこう信じていたほどだ - 学校へ行く目的はただひとつ、自分にとってなんの意味もない勉強にいかに集中するかを学ぶことだ。つまり、クリフトンで教わったのは、教育の主たる目的はこの世界を理解することではない、ということだった。人格形成こそが真の目的なのだ。とすればとうぜん、ほんとうに面白いと思うことを勉強するのは、完全なルール違反とは言わないまでも、まちがいなく目的をはずしていることになる。それが私の結論だった。
(同じようなことを僕も学校で思っていました。誰もが思うことですね。それで学校に行くのを辞めて引き籠る人、自分だけで勉強するようになる人、グレちゃう人、そして、それをネタにギャグを書く人・・・これが一番健全なのかもしれません)

<宗教教育について>
 腹が立つのは、「宗教」は本来最もわくわくするテーマのはずだからだ。死後の世界はあるのか。人生に真の目的はありうるのか。敵を愛するのは空中浮揚よりむずかしそうだが、どうしたらそんなことができるだろうか。自己の利益を追求することは、どの程度まで倫理的に許されるのか。ふつうの人にも超越的な体験をすることができるのか。こんな重大な問いをうっちゃっておいて、生半可で無味乾燥な儀式ばかり熱心にやっているのだ。

(毎週欠かさず行われていたキリスト教の礼拝。そのからっぽな中身についての疑問が、様々な「宗教ネタ」の原点となりました)

<軍隊教育について>
 もうひとつの「仕事」は月曜の午後にあった。みんなで兵隊のかっこうをして行進し、犬のように命令に従うチャンスをもらって、うれしくてたまらないという顔をしようとするのだ。しかし、これが私にとてもためになった。30分ほどやったあとには、軍隊生活は吟味されざる生だからソクラテスが言うように生きる価値がない、と気がついたからである。私のような臆病者にとってはとくにそうだ。以来、私の人生の至高の目標は、戦争で戦わないこと、出産を手伝う破目に陥らないこと、金融業界で働かないことになったのである。そういうわけで、私は自分の人生は成功だったと思っている。

(彼らのギャグでも「軍隊ネタ」の面白さは、軍を抜いています。そのもともやはり学校での軍隊教育だったようです。本物の軍隊体験でなかったからこそのギャグだったともいえるのかな?)

 第二次世界大戦直後、大学が満員になったため、彼はケンブリッジ大学に合格しながら入学できず、しばらく教員として母校で働きます。当時の彼は、映画「いまを生きる」のような反逆する教師ではなかったようですが、後にその反動が作品に生きることになります。
 名門ケンブリッジ大学に入学した彼は、そこで学内のアマチュア・コメディ演劇集団「フットライツ」に参加。そこで後のパイソンのメンバーや関係者、それに多くの優れた才能と出会うことになりました。後のパイソン・メンバーとなるグレアム・チャップマン、コメディ俳優のマーティー・フェルドマンもその中にいました。
 アマチュアながらプロの劇団並みの評価を得ることになり海外公演なども行った「フットライツ」は、「ケンブリッジ・サーカス」というタイトルの公演で大人気を獲得します。その頃の中心メンバーの一人だったクリーズは、大学卒業後は、英国公営放送BBCに入社し、そこでライターとして働くことになります。
 1966年、彼は当時イギリスで最も人気があったテレビのキャスター、デヴィッド・フロストのテレビ番組「フロスト・レポート」にスタッフとして参加します。

<デヴィッド・フロスト>
 彼らモンティ・パイソンのメンバーにテレビ界で活躍の場を与えてくれた重要人物が、デヴィッド・フロストです。当時、インタビュアー、キャスターとして、久米宏もしくは古館伊知郎的な存在だった彼は、そのテレビ界での力を使い、次々に新たな才能をテレビ界に登場させました。その中でも最も大きな存在となったのが、モンティ・パイソンだったといえます。
 彼が企画したまったく新しい情報バラエティー番組には、様々なコーナーが設けられ、その中に彼らのギャグを入れようとしていました。

・・・デヴィッドはとても頭がよかったが、気むずかしいインテリではなかった。インタビュアーとして、あるいはビジネスマンとして、自分の活動する領域に関係することはなんでも非常によく知っていた。ひとかどの人物とは、だれとでも知り合いだったし、かれらの話をじゅうぶんに理解もしていた。・・・

 彼は、その後、その人脈と膨大な知識を生かして、イギリスを飛び出し、アメリカにまで仕事の場を広げます。そして、「ウォーターゲート事件」によって大統領の座を降りたニクソン元大統領へのインタビューを行います。ちょうどニクソンは、政界への復帰を目指していて、人気インタビュアーと知られるデヴィッド・フロストのインタビューを利用しようと考えます。彼は政治に関してはアマチュアであると考えられており、人気取にはちょうど良いと考えられたのです。ところが、フロストという男、やはりただものではありませんでした。彼はそのインタビューに備えて、膨大な調査を行い、彼の弱点を徹底的に調べていたのです。
 ニクソンは、こうしてフロストから想定外のインタビューを受けることになります。
 ということで、この続きはロン・ハワードの隠れた名作「フロスト×ニクソン」でお楽しみ下さい!

<モンティ・パイソン結成へ>
 その後、グレアムとクリーズに当時、英国ナンバー1のコメディアンだったピーター・セラ―ズから映画の脚本依頼があり、何本かを書くものの、結局は実現せず。二人は目標を見いだせずにいました。
 そんなある日、二人は毎週木曜午後の子供向けテレビ番組「テレビの故障ではありません Do Not Adjust You Set」を見ながら、その番組のスタッフとして働いていたマイケル・ペイリン、テリー・ジョーンズ、エリック・アイドル、そしてアニメーション作家だったテリー・ギリアムに声をかけ新しい番組を作ろうと提案します。4人は、その提案に乗り、「フロスト・レポート」の共同執筆者でもあったBBCのバリー・トゥックの協力を得て、BBCに企画を持ち込みました。すると、BBCのコメディ番組部門の部長マイケル・ミルズは、何の迷いも要求もなく、こう言いました。
「じゃあ、13回シリーズで作ってきて!」
 こうして、伝説のテレビ・シリーズ「モンティ・パイソン・フライング・サーカス(空飛ぶ、モンティ・パイソン)」の準備が1969年8月30日の初収録に向けて動き出すことになりました。
 その後「モンティ・パイソン・グライング・サーカス」は、英国で大ヒットしただけでなく世界的な人気番組として海外にも輸出されることになります。そして、1976年には日本でもテレビ東京系列で「空飛ぶ、モンティ・パイソン」として、放送が始まります。
 英国での全国的な人気によりシリーズ化された「モンティ・パイソン・フライング・サーカス」は、1970年、1972年、1974年にも続編のシリーズが制作されています。そして、映画版が1971年に「モンティ・パイソン・アンド・ナウ」、1975年に「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」、1979年に「ライフ・オブ・ブライアン」、1983年に「人生狂騒曲」が製作されました。
 しかし、1989年に中心メンバーのグレアム・チャップマンが48歳の若さで死亡。それを機に、活動休止状態となりました。しかし、多くのファンからの求めに応じるように、2014年に復活ライブが実現。ロンドンのO2アリーナで1万6千人の観客を集めた復活ライブを開催し、それを連続10日間続け、彼らの人気の高さを証明してみせました。

<ギャグの秘訣>
 自伝の中でクリーズは自分たちの「笑い」について、その秘訣をいろいろと明かしてくれています。

 困難にもめげず、笑える作品を書きたいと思う若い書き手がいるなら、私からのアドバイスはこうだ -
 盗め。
 面白いとわかっているアイデアを盗んで、自分が知っていてなじんでいる設定でそれを再現してみよう。オリジナルとはじゅうぶんに別ものになるはずだ、なにしろ書いているのがきみなのだから。そしてすぐれたお手本を下敷きにすることによって、やっているうちによい脚本を書く規則が少しづつわかってくる。

 ほかの芸術家の「影響を受ける」のがすぐれた芸術家なら、「盗んで」から盗んだことを隠すのがコメディ作家だ。

 - 笑える決め言葉は、かならず文章の最後に持ってくること。それが効果を最大化するこつだ。

 どんなコントも内的論理は整合しているべきである。
(そのコントが、どんなに突拍子もないものでも、一度決められた前提条件は絶対に変えてはいけない。不条理ドラマにも決め事はないと面白くないのです!)

 <パイソン>グループがどんなふうに仕事をしていたか理解するためには、ひとつ本質的な事実を把握することが必要だった。グレアムと私はそうだったが、マイケルとテリーも、またエリックも、基本的に脚本家であって演技者ではなかったということだ。
 だから、配役について議論になったことはない。
・・・

 彼らの「笑い」で特徴的なのは、グループのメンバー全員が主役であって、個々のキャラクターに頼らない点があげられます。そんな中でも中心的存在だったジョン・フリーズはパイソンの活動が停止して以降も、映画や作家として活躍を続けました。特に、彼が脚本を書き、自らも出演したコメディ映画「ワンダとダイヤと優しい奴ら」は、久々の傑作コメディ映画として高い評価を受けました。
 それでは最後に、その映画の中から、これぞ英国人気質と言えそうな名台詞をご紹介します。大英帝国の栄光とそこに住む死人たちに乾杯!

「ワンダ、きみにわかるかな、英国人だっていうのがどういうことか。いつも行いを正しくして、まちがったことをしやしないかとびくびくして、それで息がつまりそうになっている。「結婚してますか」と質問したら「妻に今朝逃げられた」と言われたり、「お子さんは」と訊いたら「水曜日に全員焼け死んだ」と言われたらどうしようとびびってるんだ。つまりね、ワンダ、英国人は恥をかいたりかかせたりするのが怖くてたまらないんだよ。だからみんな…死んだも同然だ。ディナーの席に着いているのは死人の山なんだ。
映画「ワンダとダイヤと優しい奴ら」より

<参考>
「モンティ・パイソンができるまで So, Anyway・・・」
 2014年
(著)ジョン・クリーズ John Cleese
(訳)安原和見
早川書房

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