- ムーンライダース・鈴木慶一 Moonriders -

<永遠の青年たちのための歌>
 ムーンライダースは、1976年にファースト・アルバム「火の玉ボーイ」を発表して以来、20年以上にわたり、常に時代の先を行く限りなく前衛に近いポップスを発表し続けている日本のロック界唯一のバンドです。
 ウェスト・コースト・ロックからパンク、ニューウェーブ、テクノ、ハウスなどをいち早く取り入れ、時代の一歩先を常に歩み続けてきました。それだけではありません。彼らの代表作ともいえる「マニア・マニエラ」は、日本で初めてCDのみの発売となった作品です。(内容的に新しすぎたために、レコードの販売を敬遠されたせいもあるのですが・・・それとすぐ後にCDブックスが発売されています。これも新しい試みでした)
 もうひとつ、彼らの音楽は青年から一歩大人になろうとする段階の微妙な時期の心を常に保ち続けています。それは、デビュー以来一貫して続いています。(最近では、「少年から青年へ」から、「青年から大人へ」の段階へと変わりつつありますが・・・)
「ロマンを失わない永遠の少年たちのためのロック」、これこそ彼らの音楽なのです。
 ロマンという言葉には、「未来へのロマン」と「過去へのロマン」。この二つが含まれているということも忘れてはいけません。「少年が未来へ思いをはせるロマン」と「老人が過去へと思いをはせるロマン」。その両方が共存する音楽、それが彼らの音楽なのです。
 常に時代の先を行く新しいサウンドの導入は、その表現手段であり、小道具にすぎないのです。だからこそ、彼らの音楽を聴くと、40過ぎのおじさんでも、未だに胸キュンとなってしまうのです。

<はちみつぱい>
 ムーンライダースは、その完成型にいたるまでにいくつかの過程を経ています。その大元は、意外なことに、1970年に活動を開始したあがた森魚のバック・バンド、「あがた精神病院」でした。すぐにバンド名は、「はちみつぱい」となりますが、あがた森魚がフォーク系ミュージシャンとして、ソロ活動を始めたため、彼らも単独で活動することになります。(「モダンの鈴木」と「ロマンのあがた」二人は、その後対照的な方向で活躍して行くことになるのですが、「少年の心」を持ち続けているという点では、実に似通っていました。だからこそ、彼らは世紀を越えてなお活躍し続けているのでしょう)
 彼らは、1973年に唯一のアルバムとなった「センチメンタル通り」を発表していますが、その時のメンバーは、鈴木慶一(Vo,Gui)、本田信介(Gui)、駒沢祐城(Steel.G)、和田博巳(Bass)、武川雅寛(Vio.)、橿渕哲郎(Ds)、岡田徹(KeyB)、椎名和夫(Gui)の6人で1976年にファースト・アルバム「火の玉ボーイ」(鈴木慶一名義)を発表。1977年に椎名がぬけ、代わりに白井良明がギタリストとして参加し、いよいよバンドのメンバーは固まりました。
 「イスタンブール・マンボ」(1977年)、「ヌーベル・バーグ」(1978年)、「モダン・ミュージック」(1979年)、「カメラ=万年筆」(1980年)とテクノ・ポップ、ニュー・ウェーブの流れを取り込んだ斬新なアルバムを連発し、日本のロックにおける最先鋭と呼ばれるようになりました。

<「カメラ=万年筆」>
 特にアルバム「カメラ=万年筆」は、すべての曲のタイトルがヌーベルバーグを中心とする映画のタイトルになっていて、それでいて歌詞や曲はまったくのオリジナルという、かなり前衛的な作品でした。(ちなみに、僕が最初に聞いたのは、このアルバムでした。オーケストラでバイオリンを弾いていた同級生が、絶対良いから騙されたと思って聞いて見ろと進めてくれたのでした。彼の名はやっぱり鈴木君でした。感謝)

<前衛ポップの傑作誕生>
 1982年アルバム「青空百景」が発売されますが、実はその前にもう一枚アルバムが完成していました。それが一時は幻のアルバムとなっていた彼らの代表作「マニア・マニエラ」です。
 レコード会社があまりに前衛すぎると発売を延期し、結局CDのみの初回発売となったいわくつきのアルバムです。(僕は当時まだCDプレイヤーを持っていなかったので、その後に発売されたカセット・ブックを買いました)
 もちろん今聴くと、そのサウンドはかつてほど前衛的ではないかもしれませんが、歌詞の内容は鈴木慶一のヨーロッパ文化へのこだわりが色濃く反映されていて実にロマンチックです。それはまるで、ウンベルト・エーコ原作の映画「薔薇の名前」やポーランドが生んだ偉大な映画監督アンジェ・ワイダの作品群(特に「大理石の男」)を思わせるかなり奥深いものを潜ませています。
 この作品あたりが、彼らの前衛性のピークだったのかもしれません。

<それぞれの活躍>
 1986年から、彼らはしばしの間、休眠状態に入いります。その間、それぞれがソロ活動を中心にして行くのですが、バラバラの活動とはいえムーンライダースの存在感はけっして弱まりはしませんでした。鈴木慶一は元YMOの高橋幸宏とコンビを組み、ビートニクスとしてアルバム「出口主義」(1981年)「Exitentialist・A・Go・Go」(1990年)という青くて素敵な青春を描き、プロデューサーとしても、PANTAの傑作「マラッカ」(1979年)、「1980X」(1980年)や後にピチカート・ファイブのヴォーカリストとして大活躍することになる野宮真貴のソロ・デビュー作「ピンクの心」(1981年)、ハルメンズの「ハルメンズの20世紀」(1981年)、オムニバス・アルバム「陽気な若き水族館員たち」(1983年)(ミオ・フーポータブル・ロックなど、なおポータブル・ロックには、前述の野宮真貴が在籍していました)それに奥さんでもある鈴木さえ子の「緑の法則」(1985年)など、数多くの作品を手がけます。白井良明もゼルダの「カルナヴァル」(1983年)、「空色帽子の日」(1986年)などをプロデュース、岡田徹もパール兄弟の「未来はパール」をプロデュース、橿渕哲郎も「リラのホテル」を発表するなど、それぞれが独自の活躍をしていました。

<活動再開>
 こうして5年間グループとしての活動を休止したムーンライダースでしたが、1991年再び活動を開始、アルバム「最後の晩餐」を発表します。その後も「A・O・R」(1992年)、「月面讃歌」(1998年)など、世紀を越えた活躍を続けています。
 30歳になる夜のことを描いた曲「30」やアルバム"Don't Trust Over Thirty"(1986年)なんていう作品を生んだ彼らも、「最後の晩餐」(1991年)では、誰が最初にあの世へ旅立つか?なんてことを歌うようになり、21世紀には、それぞれのメンバーが50代へ突入しています。
 とはいえ、彼らならきっとこれからも50代の青春、60代の青春を歌い続けてくれることでしょう。

<ムーンライダースへの招待>
 月と薔薇と水族館、それにヨーロッパ映画(特にヌーベル・バーグの作品群)、あとはちょっとした逃避行にぴったりの脱出用ドア。
 鈴木慶一とムーンライダースが作ってきた音楽のキーワードです。そのどれかに惹かれるものを感じるあなたなら、いつでもムーンライダース・ワールドの一員になれるはず。
 ポップでありながら常にどこか前衛的、そのくせちょっとセンチな永遠の少年たちのための音楽。もし、あなたが30歳を過ぎていたら是非お試しを!

<締めのお言葉>
「Dirty Thirty ! 汚らわしい30代!」

ジョン・アービング著「ガープの世界」より

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