なぜ普通の人が隣人を殺せるのか?


「虐殺のスイッチ」
一人すら殺せない人が、なぜか多くの人を殺せるのか?


- 森達也 Tatuya Mori -
<森達也の視点>
 森達也さんの本を取り上げるのは、この本で4冊目。(「放送禁止歌」、「A - マスコミが報道しなかったオウムの素顔 -」、「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」)
 これらの作品における森さんの視点は僕にとって実にわかりやすく、信頼できるものですが、その理由がこの作品を読んでやっとわかりました。
 自分は組織の中で働けない人間だが、だからと言って、組織に立ち向かうほどの勇気もない中途半端な人間である。
 そんな中途半端な立ち位置に居続けながら映画を撮り、本を書いてきた。そう彼は書いているのです。僕も自分はそんな立ち位置にいる気がします。そんなことを思いながらも、一気にこの本を読みました。重い内容にもかかわらず、森さんの文章は分かりやすく、実に面白いのです。
 ごく普通の人々が、なぜある日突然大虐殺の実行犯になってしまうのか?
 僕の中には、虐殺に到る人間の心理について、ある程度のイメージはありましたが、この本を読んでより明確になった気がします。

<あなたは殺せますか?>
 あなたの家族が無差別殺人犯によって殺されてしまったとします。すぐに犯人は逮捕され、あなたは裁判所から呼び出されます。すると裁判官はあなたに、法律が変わったので、あなた自身の手で犯人を射殺して下さい、と言い渡します。あなたは自らの手で引き金を引きますか?

 あなたがタイムスリップして日本軍の兵士として、太平洋戦争の戦場で米兵を目撃したとします。もし、米兵が気づいたら撃たれるかもしれない、と判断したあなたは向こうが気づく前に撃ちますか?それとも、気づかれないようにその場を離れますか?
 もし、あなたが自分には撃てないと思うなら、それはあなたが弱虫なのではなく、ごく普通の反応と言えます。それは当時同じ太平洋戦争で戦った相手側の米兵も同じだったからです。

 第二次世界大戦終了後、米軍は従軍した兵士たちがどの程度戦争に積極的に関与したかを調査して、その結果に衝撃を受けた。前線で敵兵を狙って発砲した兵士は、全体の10~15%しかいないことが明らかになったからだ。・・・
 人は人を簡単に殺せない。・・・米軍は試行錯誤を重ねる。例えば射撃訓練の方法を変えた。それまでの赤い標的をやめて人の顔写真を貼ったり、人の全身像に似せた標的にした。その標的を繰り返し撃つことで人を殺すことへの心理的な抵抗を少なくする。殺すことの抑制をはずす。
 大日本帝国陸軍は、この訓練方法をもっと以前から取り入れていた。大陸に侵攻したとき、捕虜にした中国兵や民間人を立ち木に縛り付け、初年兵たちに突進させて銃刀で突かせる訓練を日常的に行っていた。これを「実的刺突」という。・・・

 こうして兵士たちは、人を殺す機械へと改造される。日本のこの訓練方法を、米軍は戦後に参考にしたとの説もある。訓練方法を変えてからの米軍の兵士の発砲率は、朝鮮戦争で55%、ベトナム戦争では90~95%に上昇した。
 でも人を殺す機械へと改造したことで、兵士たちに予期せぬ変化が現れた。要するに副作用だ。何かが壊れてしまうのだ。


 では、日本人はそうした訓練のせいで、南京大虐殺のような残虐な大量殺戮行為を行うことになったのでしょうか?
<カンボジアにて>
 例えば、1970年代にカンボジアのポル・ポト政権下で起きた大虐殺。カンボジアでは隣国ベトナムでの戦争の影響を受け、共産主義者による内戦が起きます。政権を奪ったポル・ポト率いる共産軍は、それまでの支配階級だけでなくインテリ層のすべてを労働者の敵と見なし、その抹殺を実行し始めます。止まらない殺戮によって膨大な数の市民が命を落としました。隣に住む知人が、ある日突然、自分を殺しに来たとしたら・・・。恐ろしい日常が展開したわけです。ポル・ポトの時代が終焉を迎えると、その恐るべき実態が明らかになり世界中に衝撃を与えました。
 この時もし、加害者たちをすべて逮捕し罰していたら、カンボジアの国からはある年代の国民が丸ごと消えていたかもしれません。

 加害者の数があまりに多いことと殺害せねば自分が殺されるという極限的な状況にあったとの解釈から、当時の兵士や看守のほとんどは刑事責任から免責されている。つまり今のカンボジアでは、かつての加害者と被害者遺族が混在しながら市民生活を送っている。

 ここで驚かされるは、加害者たちの多くは、上からの指示によって嫌々ながら虐殺を行っていたわけではなかったらしいということです。当時、彼らの多くは最初はどうあれいつの間にか、自らの意思によって虐殺を行うようになっていたというのです。

 だからやっぱりわからない。なぜこれほどに人は残虐になれるのか。なぜこれほどに冷酷なことができるのか。殺さねば殺される。その状況は確かだ。でも自分が殺されるかもしれないと脅えながら、これほど残虐な方法で赤ん坊を殺せる理由が分からない。新たな収容者がトラックで運ばれてくるたびに、兵士や看守たちはゲラゲラ笑っていたという。新しい玩具が到着したという感覚なのだろうか。

 カンボジア人がそもそも残虐な国民なのでしょうか?たぶんそれはないでしょう。彼らはどこかの時点で心を壊されてしまったのかもしれません。だとしたら、同じことが太平洋戦争中の我々日本人にも起きていたのでしょうか?
 ではなぜ、ごく普通の人々が嬉々として人を殺すようになってしまうのでしょうか?

<宗教的信念によるもの>
 恐るべき虐殺を可能にする原因として「宗教」があります。もちろん「宗教」がすべて悪いわけではありません。それぞれの宗教における「死」についての扱いとその解釈が問題のようです。特に現世よりも死後の世界(天国と地獄)に価値を見出す宗教は危険だと考えられます。なぜなら、現世よりも死後に価値があるならば、自らの命を投げ出す自爆テロへの抵抗はなくなり、自分が殺す相手も死後に幸せになれると思えば、悩まずに殺せてしまうはずです。そう考えると、イスラム過激派の行動は、彼らの信じる世界観からすれば当然のことだと考えられるのです。それも喜んでできてしまうのです。そうなると、もう自爆テロを止める手立てはなくなってしまいます。

 だからこそ宗教はすべて、天国や浄土や生まれ変わりや復活など概念は様々だが、死後の世界を否定する宗教など存在しない。だってそれでは宗教の意味がない。
 死後の世界や魂の実在を保証するということは、今のこの生よりも死後に価値を見出すときがあることを示している。つまり生と死を反転させる。これは危険だ。だからこそ、既存宗教の多くは、自殺を強く禁じている。苦しければリセットすればいい、との発想を止めることができなくなるからだ。
 なぜイスラム過激派は自爆テロを行えるのか。死後に天国に行くことが約束されているからだ。自分の命よりも死に価値を見出すならば、他者に対しても同じ発想は可能だ。その人のために殺して転生させてあげようとの発想が成り立ってしまう。


 オウム真理教における「殺人=ポア」も、まさにこれに当たります。相手の幸福のために殺してあげる、という発想なのですから、止められるわけがありません。

<集団思考と忖度>
 太平洋戦争までの旧日本軍は、ある意味天皇を神とする宗教集団だったともえいます。しかし、「神」の存在がなくても、大虐殺が起きることは歴史が証明しています。神の存在を否定する共産主義者による大虐殺も起きています。それもカンボジアにおけるポル・ポト政権によるものだけではなく、ソ連のおけるスターリンによる大虐殺は歴史上最大規模の虐殺だったといわれています。そう考えると、「宗教」に匹敵する存在として「集団思考」というもう一つの狂気の要因があることにも着目する必要がありそうです。
 そして、集団・組織が生み出す狂気は、「宗教」と縁遠い我々日本人こそ最も注意すべき存在でしょう。

 組織の過ちは世界中にある。過去にもあるし今もある。そして組織の一部になりやすい日本人は、組織の一部になることの危険性とリスクが見に染みていない。組織に帰属しやすい自分への意識が薄い。組織の危うさを実感していない。しっかりと振り返って自分たちの過ちを見つめていない。都合の悪い歴史から目を逸らしている。
 断言しよう。ならば僕たちは。同じことを繰り返す。


 もうひとつ重要な虐殺誘発の要因として「指導者」の存在があります。集団思考に陥りやすく自らの意志をもてない集団の前に強力な指導者が現れた時、悲劇が始まることになります。

 集団化が進むとき、人は言葉(指示)を求め始める。つまり強い政治リーダーの言葉だ。・・・
 でもリーダーはいつも身近にいない。指示が欲しいときに指示が聞こえない。ならばどうするか。リーダーはきっとこれを望んでいる、と想像する。そして、それを実行する。これが忖度だ。なぜ今の日本で、この忖度という営為が前面に出てきたのか。集団化を前提に考えれば腑に落ちる。
 集団が大きな過ちを犯すとき、この忖度は重要な要素として機能する。戦艦大和が片道分の燃料しか積まずに出撃して米軍機の攻撃で沈没した理由は、及川古志郎海軍軍司令部総長が昭和天皇から「海軍にはもう艦はないのか。水上部隊はないのか」という主旨の発言を聞いたことが要因だ。・・・昭和天皇が本当にそんな思惑で質問したのかどうか、それはもう誰にもわからない。
・・・

 集団化する過程で人は過ちを犯す。そして、何が過ちなのかもわからなくなる。アメリカの心理学者であるアーウィング・ジャニスは、人が集団になったときに不合理で危険な意思決定が容認されることが多くなる現象を集団思考(groupthink)と命名した。

「私の罪は従順だったことだ」
アドルフ・アイヒマン(ナチスによるユダヤ人絶滅作戦の最高責任者)

 アイヒマンが自らの従順さこそが罪だったと語ったように集団の中で人は強力な上からの指示に反抗することはしだいに困難になってゆきます。それどころではなく、いつしか人は指示される前に自らの意志で上からの指示を先読みしは始めるわけです。
 そうなるともう集団の暴走は元々の指導者でさえ止められなくなります。これが我ら日本国民が最も得意とする「忖度」です。

 とにかく忖度はどこにでもある。誰でもする。そして忖度は同時に、虐殺のメカニズムを考えるうえで重要なキーワードだ。
 ナチスのホロコーストも日本の連合赤軍もカンボジアのクメール・ルージュもスターリンの大粛清も、この大きな過ちの内燃機関に、忖度というメカニズムが働いている。


 集団は意識下で忖度を重んじる。組織共同体のメカニズムは、明確な指示や通達だけで機能しているわけではない。集団化が進むほど、忖度は過剰になる。ナチスやクメール・ルージュだけに当てはまるメカニズムではない。群れて生きることを選択した人類が抱えた宿命的メカニズムだ。
 実際の権力が空虚であればあるほど、群れの暴走は激しくなる。ここに天皇制とこの国の近現代史を当てはめること可能だろう。


<ネットという仮想集団>
 20世紀末、地球上にもう一つの新たな集団が誕生しました。それはネット上に誕生した世界規模の仮想集団の存在です。

 フランスの心理学者であるギュスターヴ・ル・ボンが19世紀に発表した『群集心理』で指摘したように、集団の熱狂によって人は同じ過ちを何度も繰り返している。しかし、21世紀を迎えて、人類の集団化は新たな位相に足を踏み入れた。
 そのファクターはネットだ。ル・ボンは集団の動きを「反復に弱い」「断言に引きずられる」「暗示に感染しやすい」など、徹底して受動の主体として考察した。こうして群衆は、その構成員すべてが意識的人格を喪失して、指導者の断言・反復・感染による暗示のままに行動するようになる。そしてル・ボンの時代から150年が過ぎて誕生したネットやSNSは、受動のはずの集団が、時に能動の主体になること可能にした。
 ただし、本来の主体ではない。ネットという仮想空間でつながった仮想の主体だ。仮想だから質量はない。ところがその仮想が疑似的意思となって、現実に影響を及ぼし始める。
・・・

<アイヒマン・テスト>
 こうした「集団化」と「忖度」は、元々人間の本能に組み込まれた精神的なプログラムのひとつであることを証明した実験があります。この結果が示すのは、人間は元々欲望に従って生きる性悪説の正当性なのかもしれません。これはかなり恐ろしい事実です。

 参加者たちは、渡された設問を別室の学生に伝え、もしも学生が間違った回答をした場合には電気ショックを与えることを命じられた。学生は椅子に拘束されている。その電極に繋がるレバーを押す参加者の部屋にはスピーカーが設置されていて、学生の苦痛を訴える声が聞こえるようになっていた。
 ただし、実際には電気は流れていない。学生の苦痛は演技なのだ。苦悶の声は事前に録音されていた。つまり、社会心理学的なドッキリ実験だ。ミルグラムも含めて実験前の研究者たちは、大半の参加者は途中で実験を放棄するだろうと予想していた。
 ところが、結果は誰も予想しないものとなった。学生の「死んじまう」とか「やめてください」などの悲鳴や絶叫を聞きながら、参加した他のメンバーたちはきちんと任務をこなしていると説明を受けていた市民たちは、横に座る教授という「権威」に促されるままにレバーを押し続け、最終的には参加者40人中25人が、最大の電圧である450V(心停止の危険有りと事前に説明されていた数値)まで電圧を上げ続けた。

 この実験はその後も追試が行われ、いずれもオリジナル以上の高い数値を記録しています。

 普通の人が人を殺す。優しいままで。善良なままで。理由は何か。
 人は弱い。場の雰囲気に流される。権威に従属する。集団の圧力に負ける。個を失う。その集積として大きな間違いを起こす。そうした加虐の構造とメカニズムを、科学的で実証的なメタファーとしてミルグラム実権は明示する。


<進化からみる集団化>
 こうした人間の本能は決して人間だけのものではなく、長い年月をかけて生命が生き残るために自らが進化の過程で身につけてきたとも考えられます。そう考えると、もしかすると人類はそんな性悪説を越えた存在になることも可能なのかもしれません。

 群れは全体が同じ動きをする。つまり同調圧力だ。もしも全体と違う動きをする個体がいわば、天敵から真っ先に狙われる。
 こうして長い進化の道筋を重ねながら、全体と同じ動きをする傾向が強い個体ばかりが、淘汰されずに生き残ってきた。遺伝子を残してきた。
 自分が捕食されるだけではない。もしも群れの中で大勢と違う動きをする個体があれば、それは全体と危機に陥れる可能性がある。だからこそ動きの違う個体は、異物として群れから排除される。同時に、異物を排除するその過程において、排除する自分たちは多数派として、さらに強く連帯を実感することもできる。

・・・ここまで読みながら、あなたは気づくかもしれない。要するに、学校のいじめと虐殺は構造が同じなのだと。それが社会全体で起きる。異物と見なす理由は、動きの差異だけではない。皮膚や眼の色の違い。言葉のイントネーション。あるいは自分たちとは違う神を称えていること。理由は様々だ。というか何でもいい。本当の目的は、排除することではなく連帯することなのだから。
 ただし、一つだけ条件がある。やられる側が少数であるか弱者であることだ。その少数派の集団を、多数派の集団は攻撃する。・・・
 これは人にも当てはまる。危機や不安を感じて集団化が加速するとき、個(自分)の感覚ではなく全体の意思に即して動こうとする。だが、そんな意見など本来は存在しない。

(神の意思、理念、イデオロギー、民族の誇り・・・・)


<虐殺を止めることはできるのか?>
 恐るべき虐殺のメカニズムがわかったとしても、それだけで戦争やテロリズムを止められるわけではありません。

 大量虐殺の防止を目的とするNPOジェノサイド・ウォッチの創設者であるグレゴリー・スタントンは、良識ある人々が虐殺に手を染めるまでの過程を八段階で説明した。
(1)人々を「我々」と「彼ら」に二分する。
(2)「我々」と「彼ら」に「こちら側」「あちら側」に相当する名前を付与する。
(3)「彼ら」を人間ではない存在(例えば動物や害虫、病気など)に位置づける。
(4)自分たちを組織化する。
(5)「我々」と「彼ら」の間の交わりを断つ。
(6)攻撃に備える。
(7)「彼ら」を絶滅させる。
(8)証拠を隠蔽して事実を否定する。

 では、そうした犯罪を実行した加害者をこの世から消し去ることは有効な方策なのでしょうか?
 そこで著者は死刑制度について着目します。
 人が人を殺すという「復讐」は、何のために行われるのか?それは本当に「抑止」に効果があるのでしょうか?それとも、それは被害者の「やすらぎ」のために効果があるから行われるのでしょうか?
 実は日本人である我々は、死刑制度を続けている数少ない国の住人です。そして、そのことは他の国の人々とはちがう死刑観をもたらしています。その感覚の決定的なちがいについて、著者はノルウェーで起きた有名な無差別テロ事件を例にあげています。

<ウトヤ島の惨劇>
 ちょうどこの文章を書いていた頃、ここで取り上げるノルウェーで起きた史上最悪の大虐殺事件を72分に渡りノーカットで再現してみせた驚きの映画が公開されました。2019年に公開された「ウトヤ島、7月22日」(エリック・ポッペ監督作品)がそれです。予告編を見ましたが、まるであの日あの時、現場に居たかのような錯覚に陥りそうな怖い作戦です。

<ウトヤ島テロ事件>
 2011年7月22日ノルウェーのリゾート島ウトヤ島で起きた事件です。
 当時32歳のアンネシュ・ブレイビクは、移民の受け入れを積極的に進めるノルウェー政府に反発。批判の意思を示すため、政府庁舎を爆破し人を死亡させ、その後、ウトヤ島で行われていた10代の若者たちのサマーキャンプ場を襲い、69人を殺害しました。これは一人の人間が行った大量殺人として歴史上最大規模と言われています。
 驚きなのは、その犯罪の被害の大きさだけではありません。日本なら間違いなく死刑を宣告されるはずですが、その事件の犯人はその後の裁判で死刑を宣告されず、量刑としては最長の21年の判決を受け、その後刑務所内で政治学を学んでいるとのことなのです。
 死刑を廃止して何十年も経っている国では、「悪いことをしたことへの応報として命を奪う」という発想はすでにないのです。

 テロの翌日にストールベルデ(当時の法相)は、当時の首相であるイェンス・ストルテンベルグ(現在はNATO事務総長)と二人でウトヤ島にヘリで向かった。69人の少年と少女が殺害された現場だ。フェリーで駆け付けていた被害者の親たちは、血みどろのわが子の遺体を抱きしめて泣き叫んでいる。まさしく地獄絵図だ。
 そこに加害者であるブレイビクの母親が現れた。手には慰霊のための花束を抱えている。被害者の母親たちが集まってきた。そこで何が起きたのか。ストールベルゲは僕に、「被害者の母親と抱き合って泣いていました」と教えてくれた。
「あなたが一番つらいわね」と加害者の母親に泣きながら声をかけて被害者の母親もいたと言う。
 現場には、生き残った少年と少女たちもいた。その中の一人の少女がCNNからコメントを求められ、こう答えた。
「一人の男がこれほどの憎しみを見せるのなら、私たちはこれを上回る愛情を見せましょう」
 この言葉は世界に大きく報道された。その翌日に行われた追悼ミサでストルテンベルグ首相は国民に向けて、
「私たちは、未だ起きたことにショックを受けていますが、私たちの価値を放棄することはありません。私たちのこの事件に対する答えは、より民主的に、より開放的に、そして人間性をより豊かにする、ということです」
と述べてから、少女の言葉を引用した。


 死刑制度のないノルウェーではこの事件のような凶悪な犯罪者でも、最高刑の20年で出所してしまいます。しかし、その代わり、ノルウェーでは被害者遺族や加害者家族への心理的ケアを充実させる政策をとることで、犯罪の発生率を減らすことに成功しているようです。日本人からすると加害者に対して甘いと感じられるノルウェーの政策は、決して「人道主義」に基ずくのではなく、現実的に治安を向上させる効力があったからなのだということを理解する必要があるようです。

 だから考える。もしもそのほうが合理的だとしても、今の日本ではなかなか寛容化に舵を切れないだろう。なぜならばそれは悪を赦すことになる。この国の民意は、それだけは絶対に許さない。
 そこまで考えて気がついた。ならば僕が生まれたこの国では、被害者がこれ以上増えないことよりも、加害者を罰することを優先している、ということになるのだと。


 最後に著者は自らの仕事である「報道」と「事件」との関りについても指摘しています。これもまた重要なテーマです。

 遺族は常にいる。娘を失ったばかりの親は、テレビのニュースでメディアが入手して晒す娘の写真を見るたびに、血を吐くほどの悲しみと怒りに襲われるはずだ。
 ならば遺族のために報道はやめるべきなのか。もちろんそんなことはできない。僕たちは世界で起きている悲劇を知らねばならない。知って過ちの理由やメカニズムを考えねばならない。そう思うからこそメディアも、歯を食いしばって報道し続けてきたはずだ。



「虐殺のスイッチ - 一人から殺せない人が、なぜか多くの人を殺せるのか? -」 2018年
(著)森達也
出版芸術社

<森達也作品のページ>
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