世界を変えた二人の女性 |
マザー・テレサ Mother Teresa <花のつぼみゴンジャの誕生>
「マザー・テレサ Mother Teresa」と呼ばれた修道女アグネス=コンジャ・ボアジェは、1910年8月26日東欧のマケドニアで生まれています。普通の家で育った彼女ですが、イエズス会の神父がインドで貧民救済活動をした話を聞き、自分も修道女になって人助けをしようと決意しました。そのため、彼女は18才の時、地元から遠く離れたアイルランドの首都ダブリンに本部がある「ロレット修道会」に入ります。そして、そこで英語を学びながらインドに派遣される機会を待ちました。
<インドにて>
1930年代から40年代にかけて、彼女はインドのカルカッタ(コルカタ)にある修道会経営の高等女学校の教師として働くことになりました。そこで彼女は第二次世界大戦とインドの独立、インドとパキスタンの分裂の混乱を体験することになりました。
特にインドからパキスタンが独立することになった混乱期は、様々な悲劇がインド国内でも起きますが、恵まれた女の子が通う高等女学校の教師には成すすべがありませんでした。このまま教師として働くだけでは本当に困っている人々の役には立てないと彼女は思い始めます。そして、彼女は安定した教師の職を捨て、コルカタのスラム街で貧しい子どもたちのための学校を開きます。こうして、「神の愛の宣教者会」が設立されました。自らがその会の総長になったことで、彼女はそれまでの「シスター」ではなく「マザー」となり、ここで「マザー・テレサ」が誕生することになりました。
こうしてインドで貧民救済のために働き始めた彼女は、インドに骨をうずめる覚悟を示すため、インドに帰化しました。
<マザーとしての働き>
彼女が始めた施設には同じように人々を救うために働きたいと願っていた女性たちがやってきます。そこで彼女は志願者に入会するための3つの条件を示したといいます。
性格が明るいこと。常識があること。健康であること。
1952年、彼女は「死を待つ人の家」を開設します。文字通り、治療による回復は不可能な重症者の最後を看取るための施設です。ただし、実質的には
社会からも病院からも見捨てられた人々にとっての最後の居場所を用意するのが目的でした。さらに彼女はその延長として、当時はまったく受け入れる先がなかったハンセン病患者の救済活動も始めます。こうした活動がしだいに世界的にも知られるようになり、同じように活動する施設が世界各地に誕生することになりました。ベネズエラ、タンザニア、ローマ、オーストラリア、ヨルダン、パレスチナ、ペルーなど。
いよいよ彼女への評価は世界的なものとなり、ついに1979年ノーベル平和賞を受けることになりました。
<マザーとしての存在感>
世界中の祝福を受けて行われたノーベル平和賞の受賞式で、彼女は問題発言をしてしまいます。
「平和を破壊するのは戦争ではない、中絶です」
カトリックの宗教者としては当然の考え方でしたが、レイプによってできた子供や世界的な人口の急増を考えると、女性たちにとっての中絶は必要不可欠な方法です。そのため、彼女は世界的な批判を受けることになりました。
ただし、それでも彼女は人々にカトリックへの改宗を迫るわけではなく、他宗教への批判や攻撃をするわけではありません。彼女は困っている人のために祈る時、いつもこう語っていたそうです。
「さあ、ではあなたがヒンズー教徒ならヒンズー教の神様にお祈りをしなさい。私はキリストの神イエスにお祈りをいたします」
彼女は困っている人々を助ける修道者でしたが、人々に改宗を迫る宣教者ではなかったのです。ここが彼女らしい女性ならではの対応だったのかもしれません。「マザー」と呼ばれる彼女の存在は、改宗を迫ったり、ホロコーストを実行する「ファーザー」的なすものとは違ったのです。
彼女は1997年9月5日、21世紀を前にこの世を去りました。
ベティ・フリーダン Betty Friedan <フェミニズム運動の原点>
ベティ・フリーダン Betty Friedan は、アメリカにおけるフェミニズム運動の原点となった女性で、1921年2月4日イリノイ州で生まれています。1938年マサチューセッツ州にある名門女子大学スミス・カレッジに入学。彼女はそこで心理学を専攻し、カリフォルニア大バークレー校の大学院に進学。
1944年、東海岸に戻った彼女は、ニューヨークで労働組合の運営する新聞の記者となって働き始めます。当時はまだ第二次世界大戦が続いていて、多くの男性が兵士として戦場にいたため、女性にとっては仕事を得る好機でした。
1947年、彼女は俳優のカール・フリーダンと結婚し、二人の子供を出産します。ところが、次男出産の際、出産休暇を申し出ると解雇されてしまいます。戦争が終わり、戦場から男性が戻ることで、女性たちはそれまでの職を失い始めていたのです。結局、彼女は会社を辞め、3人目の子供を育てながら、フリーのライターとして女性誌の仕事を細々とするようになります。
<「新しい女性の創造」>
1957年、彼女に一大転機が訪れます。
彼女の出身校スミス・カレッジの卒業15周年同窓会が行われ、彼女も出席します。そこで再会した友人たちから、それぞれの近況報告を聞いているうちに彼女は自分が抱えている焦燥感について考え始めます。そして、多くの仲間が同じような思いを抱いていると直感した彼女は、同窓生を対象にアンケート調査を実施します。そこで集めた膨大な情報を彼女は少しづつまとめて行き、それを6年がかりで一冊の本にまとめて発表します。
1963年、こうして歴史的な著書となる「新しい女性の創造(女らしさの神話) The Feminine Mystique」が出版されました。
戦後、多くの女性が大学に進学するようになり、高い教育を受けるようになりましたが、彼女たちがその教養を生かす場所は家庭以外にほとんどないことが明らかになりました。彼女たちの多くがそんな自分たちの気持ちを持て余し、やり場のない焦燥感に悩んでいたのです。彼女の本により、その事実が明らかにされたことで、全米の女性たちが自分たちの悩みの意味に気づきました。
大ベストセラーとなった著書について、彼女は全米中で講演を行うことになりました。しかし、彼女の存在は単なる女性作家だけでは済まなくなります。時は1960年代。アメリカでは人種差別に反対する公民権運動が盛り上がりつつあり、それだけではなく様々な分野において、人種、民族、そして性の平等が叫ばれる時代になっていました。
<女性解放運動の始まり>
1966年、彼女は女性解放のための運動組織として「全米女性連盟 National Organization for Woman NOW」を立ち上げます。
第二次世界大戦後、戦場から戻った男性たちが職場に復帰し、それまで必死で働いていた女性たちが職を奪われる流れを後押しするように、マスコミは「女性は家庭で子育てをしてこそ幸福である」というメッセージを発し続けていることにNOWは意義を唱えました。戦後世代の若者たちは、こうした動きに敏感に反応しました。当時は、性差別だけでなく人種差別に対する問題意識も高まっていたので、当然の流れだったと言えます。その勢いに押されるようにして、世の中は急速に変化し始め、それを象徴するように性の平等を示す様々な言葉が誕生します。
「ポリスマン」ではなく「ポリス・オフィサー」
「ファイヤーマン」ではなく「ファイヤー・ファイター」
「ミス」と「ミセス」ではなく「ミズ」(結婚と未婚を区別しない呼び名)
ただし、彼女自身は、1970年にはNOWの会長を辞任しています。それは、当初彼女が考えていたよりも、時代は一気に進みつつあり、戦前世代の彼女にはもう着いていけないレベルにまで運動は、拡大、過激化していたためです。フェミニズムの運動は、そこから一段進みレズビアン運動の活発化、中絶の合法化の運動など、様々な方向に向かいつつあり、彼女には把握も理解も困難になっていたのでした。
こうして彼女が進めた運動は一定の法的な平等を実現するところまで到達したことは確かでした。ただし、それは60年代末に黒人たちが公民権運動の成果により、法的な平等を獲得したのと似ていました。そして、それがいつしか骨抜きにされるところも似ていたのです。
21世紀に入り、黒人たちが再び人種差別問題と戦うことになったのと同じように、同じく21世紀に入ってから、女性たちもMeToo運動により、パワハラやセクハラと再び戦うことになるのです。法律的に平等を獲得しても、根本的な部分(精神的な平等の意識)が変わらなければ、いつでも法律は骨抜きにされてしまうのです!
2006年2月4日彼女はこの世を去りましたが、まだ問題は解決してはいないのです。