マータイさん「モッタイナイ」に到る苦闘の人生


- ワンガリ・マータイ Wangari Maathai -
<Mottainaiモッタイナイ>
 「Mottainai運動」の提唱者であり、ノーベル平和賞の受賞者でもあるワンガリ・マータイさんは、日本人なら「もったいない」のマータイさんとして多くの人が憶えていると思います。でも、実際彼女はどんな人で、どんな人生を送った人なのか?僕は全く知りませんでした。

 平和と環境との間に何の関係があるのか、と問う方もおられます。そんな時には、多くの戦争は資源をめぐって起こるものであり、しかも、地球の資源は乏しくなる一方なのだ、とお答えしています。もしも、資源をサスティナブルにうまく管理できれば、資源をめぐる争いは減ることでしょう。ですから、地球環境の保護と平和を確実なものにすることとは、じかに結びついているわけです。
「モッタイナイで地球は緑になる」より

 世界の平和は、私たちに、自らの生活環境の安全確保を行う能力があるかどうかにかかっています。マータイ氏は、ケニアをはじめとするアフリカ諸国において、環境保護的見地から実現可能な社会・経済・文化的発展を推進する闘いの前線、にいます。彼女は総合的なアプローチを採り、民主主義や人権 - 特に女性の権利 - までを含めた、サスティナブルな開発を目指してきました。世界的視野に立ちつつ地域に根ざした活動をしているのです。
「ノーベル賞の受賞理由について」

<生い立ち>
 ワンガリ・マータイ Wangari Maathai は、本名をワンガリ・ムタ Wangari Muta と言い1940年4月1日ケニアのキクユ族の村に生まれました。
 当時、ケニアはイギリスの植民地で、、彼女の父親はイギリス人入植者の農場で働いていました。優秀な使用人だった彼女の父親は、4人の妻を持ち、彼女の母親はその二番目の妻でした。経済的に恵まれていたことで、彼女は学校に行くことができ、キクユ語に加えて、スワヒリ語もマスター。成績が優秀だったことから、11歳の時、カトリックの修道会が運営する「聖セシリア初等中学校」に入学。そこでは英語もマスターしました。
 当時、アフリカ全土で独立運動が盛り上がりをみせていて、ケニアもその一つでした。そのため、国内各地で独立運動が激しさを増し、100万人ものケニヤ人が逮捕され、10万人が殺害されたと言われています。彼女もまた独立運動に参加したため逮捕され、強制収容所で悲惨な体験をしました。
 独立への機運だ高まる中、彼女はアメリカへ留学するチャンスを得ます。ジョン・F・ケネディが設立した「ケネディ・エアリスト・プログラム」という奨学金制度により、ケニア全国から600人の成績優秀な生徒がアメリカで学ぶことになったのです。
 1960年、彼女はアメリカに渡ります。ケネディへの恩返しもあり、彼女は大学在学中、彼の大統領選挙のためにボランティアとして働きました。その中で、人種差別撤廃のための公民権運動にも関わることになり、多くのことを学びました。そして、1963年、彼女が帰国する前にケニアはイギリスからの独立を果たします。
 アメリカで生物学を学んだ彼女は、ナイロビ大学の動物学教室で研究助手として働くことになり帰国します。ところが、帰国してみると彼女がつくはずのポストは、別の部族出身者に奪われていました。ケニアでは以前から部族間の差別や対立があり、上司がどの部族出身者かによって後継者が選ばれる悪慣習が続いていたのです。それでも彼女はその実力を買われ、同じ大学の獣医学部のドイツ人教授のもとで働けることになりました。

<結婚・離婚>
 仕事を得た彼女はその後、5歳年上のムワンギ・マタイと知り合い結婚します。夫は政治家で、1974年に見事、国会議員に当選します。しかし、当選はしたものの、まったく議員としての仕事をしない詐欺まがいの議員であることが明らかになります。その上、夫は博士号をもつ彼女に嫉妬し始め、ついには離婚を申し立てます。その離婚理由は、「あまりに高学歴で、あまりに成功したために夫に楯突くコントロール不能の女」だからというもの。ケニアにおける女性差別は驚くもので、夫の主張が認められただけでなく、裁判所に異議を申し立てる彼女に対し法廷侮辱罪を言い渡し、彼女の刑務所に入れてしまいます。
 結局、彼女は離婚することになりますが、あえて結婚前の名前を変えず、 Wangari Mathai に「a」の文字を追加し Maathai にして生きて行くことにしました。

<環境問題との関り>
 彼女は牛の病気についての研究をするために、全国各地の農村を訪問する機会がありました。その中で、雨が降るたびに土の表面が流されることで栄養が失われ、作物が育たない場所になっていることに気づきます。こうした認識をしたことから、彼女は環境問題に関わり始めることになります。
 1964年設立のケニア全国女性評議会議長となった彼女は、アフリカを緑化する運動「グリーンベルト運動」を本格的に指導し始めます。そのために彼女は多くの貧しい女性たちを雇っただけでなく、彼女たちを教育。それにより、彼女たちが自分たちで判断し、プロジェクトに関わり、最終的には運営できるまでに成長させようと考えました。
 しかし、この間もケニアは軍事独裁政権下にありました。そのため彼女は民主化運動の指導者の一人としてマークされ、警察に逮捕、監禁され命の危険を感じることも多かったようです。それでも1990年代に入り、ケニアはやっと軍事独裁政権からの脱却の動きが始まり、1992年、国会議員の選挙で複数政党制が認められます。
 2002年、彼女は国会議員に立候補し当選。そして、環境副大臣に任命されました。ここから彼女の環境保護活動が本格化することになります。
 2004年、彼女はそうした活動が高き評価され、ノーベル平和賞を受賞。
 2005年、彼女は日本を訪れ、この時に「モッタイナイ Mottainai」という言葉のことを知ったようです。ここから世界的な「Mottainai 運動」が活発化することになりました。
 日本人の我々にとっては、マータイさんは「もったいない」を世界に広めてくれた親日家としてのイメージしかありません。しかし、そこまでの彼女に人生は、そんな「モッタイナイ」で済まされるような安易なものではありませんでした。一時は生きるか死ぬかの危機を切り抜けた強い女性が選んだ言葉は、もっと重い意味に捉えるべきなのです。

20世紀異人伝へ   トップページヘ