終わりなき妄想ワールドへ、ようこそ!


映画「もう終わりにしよう」

- チャーリー・カウフマン Charlie Kaufman -

<カウフマン・ワールド>
 さすがは「脳内ニューヨーク」のチャーリー・カウフマン。今回もまた不思議な作品を撮ってくれました。原作となる小説があるとは思えないカウフマン・ワールド全開の作品です。ダークで幻想的で予測不能で、美しく謎に満ち、ちょっと怖くて凄く疲れる作品。それだけにコロナ禍の今、この作品は心が弱っている人には少々危険かもしれません。
 でも、ただただ暗い映画なのか?と思われるかもしれませんが、それだけじゃないんです。
 時には、下手なサスペンス映画よりスリリング!(だって、どう展開するのか予測は不可能ですから!)
 時には、下手なミュージカル映画よりもエンターテイメント!(ダンス・シーンは本当に素晴らしい!)
 時には、下手なオカルト映画よりも怖く!(魔女と狼男の息子ですから怖いはずです!)
 時には、下手なコメディ映画よりも可笑しく!(人それぞれ笑えるところは違いますが・・・)
 そんなわけあるか?とお思いでしょうが、ならば百聞は一見にしかず!
 まあ、人それぞれ個人的見解は違うので、見始めて30分我慢して見て面白くなければ、もしくはつらくなってきたら「もう終わりにしちゃってください!」
 
<あらすじ>
 大学で物理を学んでいるジェイクは、彼女を連れて実家の農家がある田舎の村に車で向かっています。季節は冬で雪が降り始めていました。同乗している彼女は、このまま行けば結婚の話が出るかもしれないと思い始め、誘いを断らなかったことを後悔し始めていました。車の中ではそんな思いのヒロインとジェイクの話がかみ合わずにいました。
 それでも二人は無事にジェイクの実家に到着しますが、彼女が最初に案内されたのは、なぜかブタが死んだばかりの家畜舎でした。
 その後、家に入った彼女をジェイクは両親に紹介し、豪華な手料理による歓待を受けることになりました。ところが、異様にテンションが高い母親と間の抜けた父親との会話は、いよいよかみ合わず、夕食中、何度となく会話が凍りつくことになりました。(両親二人の配役もいい味です。父親のデヴィッド・シューリスは「ハリー・ポッター」シリーズの狼男役で、奥さんを演じるトニ・コレットは大ヒットした「ヘレディタリー/継承」で魔女の役目を引き継いだ女優です)
 食後、いなくなったジェイクを探して二階の部屋に上がった彼女は、そこで自分とそっくりの子供の写真を見つけ驚かされます。それだけではなく、車の中でさっき自分がジェイクに聴かせたばかりの創作詩が掲載された詩集を見つけてしまいます。そのうえ、ジェイクの両親は見るたびに、年齢が変化していて、今にも死にそうな年齢に達していました。
 恐怖を感じながら彼女はジェイクと共に家を出て帰途につきます。帰り道、早く帰りたい彼女の気持ちをよそにジェイクは、寄り道を繰り返し、なかなか帰ろうとしません。ついには、かつて自分が通っていた高校に侵入し、いなくなってしまいます。ジェイクを追って学校に入った彼女は、そこで年老いた用務員と出会います。
 その用務員は誰なのでしょうか?
 ジェイクは見つかるのでしょうか?
 美しいダンス・ミュージカルが始まり、ドラマはいよいよ終盤へ・・・

<妄想と現実のはざまで>(ネタバレ)
 この監督の過去作品を見たことがあると、この作品のどこからが現実で、どこからが妄想なのか、大体分ると思います。例えば、オープニングでは真っ赤だったヒロインのコートは途中で青に変わっています。それよりも、主人公二人が訪れた農家の両親の変化を見れば、ジェイクと恋人の旅は妄想であることがわかるはずです。
 それに対し、何度も映画の中に登場する年老いた用務員のわびしげな姿と洗濯機の中から見つかった作業服からは、リアリティーしか感じられません。そこに気がつくと、恋人二人の旅は結局不毛に終わり、ジェイクは何事も成し遂げられずに人生を終えてしまうのだろう。そう思えてきます。
 ならば旅は「もう終わりにしよう」そんな気分になってきます。
 この作品は、どこで切っても「もう終わりにしよう」と言いたくなる場面の連続です。そう考えると、この映画のタイトルほど、作品の本質を表す絶妙なタイトルはない、そう思えてきます。

<「オクラホマ!」>
 この作品の劇中劇、舞台で上演されているミュージカルは、1943年初演のミュージカル「オクラホマ!」です。1955年には映画化もされて大ヒットした戦後のアメリカを代表するミュージカル作品です。
 それまでミュージカルのヒット作のほとんどはニューヨークなどの都会を舞台にお洒落な男女が歌い踊るファンタジーでした。それに対し、この作品はアメリカ中西部オクラホマ州の農村を舞台に普通の農家の男女が主人公という異色作。しかし、一般的なアメリカの白人にとっては、「ハートランド」とも呼ばれるこの地域は郷愁を誘う故郷のイメージの農村地帯です。第二次世界大戦に勝利したアメリカは、自分たちの故郷への愛情をより深く感じる時期だったからこそ、こうした田舎を舞台にした作品が大ヒットしたのかもしれません。
<あらすじ>
 物語は単純です。プライド高めの若い男女カーリーとローリーの二人はお互いが好きなくせに打ち明けられずにいました。そんな中、村で行われる祭に参加するため、ローリーは使用人のジャッドと馬車に乗ります。ところが、流れ者のジャッドが突然彼女にキスを迫ったため、彼を馬車から蹴落とします。
 村では学校のためのチャリティー・イベントとして、ローリーが作ったランチ入りの籠を競売にかけることになります。ローリーの愛を獲得しようと、カーリーは競売に参加しますが、ジャッドも参加し金額が上昇。ついにカーリーは自分の銃まで売って、彼女のランチをゲットします。そして無事に二人は結ばれることになります。しかし、結婚式の日、二人を恨むジャッドは、二人が立つ干し草の山に火を点けて殺そうとします。結局、カーリーはジャッドを射殺し、めでたしめでたしとなります。

 なんとジャッドを射殺したカーリーは殺人罪には問われません!映画版でジャッドを演じたのは、ロッド・スタイガー。人種差別問題を描いた犯罪映画の傑作「夜の大捜査線」で黒人刑事(シドニー・ポワチエ)を差別する地元の警察署長を演じた白人俳優です。ところが、ここでは彼が差別される側だったのです。当然ながら今この映画をリメイクするなら、この役は白人以外の人種から選ばれるはずです。
 もちろん、ミュージカルなのでこの作品最大の魅力は、リチャード・ロジャーズとオスカー・ハマースタイン2世による音楽ですが、それにしてもお粗末なお話です。それにそもそも二人が正直に告白しあってていれば、ジャッドは死なずに済んだはず。それに彼女の愛を獲得するのにお金で勝負というのも女性蔑視そのもののひどい話です。最近では大幅にストーリーを変えた新バージョンも公開されているようです。
 流れ者を排除し、よそ者から村を守ることを良しとする人々の共同認識で、それがアメリカ的ライフ・スタイルなのだとすれば、それこそ「もう終わりにしましょう」。


<終わりが見えない作品たち>
 この作品の中に登場する映画や小説もまた「もう終わりにしよう」と言いたくなる作品になっています。

映画「こわれゆく女」
 車の中でヒロインに徹底的に批判されるジョン・カサベテス監督の映画「こわれゆく女」も、見ていて終りにしたくなるような作品と言えます。
 精神的な病によって、感情のコントロールができなくなった妻とその夫の日常を描いた作品でした。この映画の中で展開するパーティーのシーンでは主人公の母親がやる気を出し過ぎて、滅茶苦茶なことになります。観客もいたたまれなくなってくる映画で、製作費が集められず、撮影をカサベテスの自宅で行い、多額の借金を背負ったと言います。
 同じようなことが、ヒロインが招かれた家庭でも展開しています。感情のコントロールができない母親と明らかにボケ始めている父親。イライラする会話が続き、怒り出す息子に怯える両親。でも息子は両親を愛しています。主人公がこの作品を嫌うのは当然のことかもしれません。「こわれゆく両親」との夕食の時間は、下手なサスペンス映画よりも不気味で「もう終わりにしようよ」でした。

小説「氷」
 二人が帰り道にアイスクリームを食べに寄ったアイスクリーム・チェーン店。その前後でジェイクが小説「氷」の話を始めます。
「私は恐ろしいスピードで車を走らせる。まるで逃亡しているかのように、逃亡できると装っているかのように。だが、私にはわかっている。逃亡の道はどこにもない。氷から、私たちを最後のカプセルに包み込んで果てしなくゼロに近づいていく時間の残余から逃れる道はない」
アンナ・カヴァン「氷」より
 世界が氷に覆われる終末に向かう中、一人の少女を探して車での旅を続ける男の物語が、この女性作家アンナ・カヴァンの伝説的なトリップSF小説「氷」です。1960年代に薬物に溺れながらこの世を去った作家が残した究極の終末小説では、主人公が1人の少女を探しながら雪と氷の世界を彷徨います。それはまるで雪の中で展開する「地獄の黙示録」のようです。どうせ世界が凍りつくのは明らかなのに、それでもなお旅を続ける主人公。もう終わりにすればいいのに。

映画「ビューティフル・マインド」
 この作品のラスト、唐突に主人公が壇上で表彰される場面。登場人物のメイクがあまりにいいかげんで、それはすでに妄想であることは明らかです。この場面のもとになっているのは、ロン・ハワード監督の名作「ビューティフル・マインド」です。この映画の主人公である実在の人物ジョン・ナッシュは、統合失調症に苦しみながらノーベル経済学賞を受賞した「ゲーム理論」の基礎を生み出した天才数学者です。彼は世界のすべての出来事を動かす数学理論を発見するための研究を続けました。もうこの時点でかなり精神的に危ない人物という気がしますが・・・。このラストの白塗りの人々の顔は、ロイ・アンダーソン監督のヴェネチア金獅子受賞作「さらば、人類」の中の白塗りの顔を思い出させます。主人公がラスト近くに見る悪夢の世界の人々の顔です。
 映画では主人公のナッシュが幻覚に苦しんだりしながらも、最後には自らの研究を評価され、壇上で感謝の意を述べます。この場面を主人公は映画で見ていたのでしょう。そして、それが主人公にとっての夢の実現だったのでしょう。
 ただし、数学者の世界は若くして成功しなければその先がありません。脳が衰え始める30代以降に新たな発見をすることはほとんどないからです。それでも世渡りが上手い数学者なら、それまでに教授の地位を得ることができるかもしれませんが、数学者というのほぼ100%偏屈です。高校や中学の教師になっても、校長になれるような器の持ち主は珍しいでしょう。(僕が東京理科大学で出会った数学科の教授たちも皆、超偏屈でした!)当然、生涯独身の可能性も高いし、そのまま定年退職した後、その学校で用務員として働き続けたのかもしれません。
 あの用務員の姿からはそんな妄想が延々と湧いてきますが、もうそれも終わりにしましょう。
 この作品を見て、「人生」をどう考えるか?あなたしだいです・・・。

「もう終わりにしよう」 I'm Thinking of Ending Things 2020年
(監)(脚)チャーリー・カウフマン
(製)ステファニー・アズピアズー、アソニー・ブレグマン他
(製総)グレゴリー・ズック
(原)イアン・リード
(撮)ウカシュ・ジャル
(編)ロバート・フレイゼン
(音)ジェイ・ワドリー
(出)ジェシー・プレモンス、ジェシー・バックリー、デヴィッド・シューリス、トニ・コレット

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