- モハメド・アリ Muhammad Ali (後編) -

<アフリカ大陸の夜明け>
 1950年代当時、アフリカ大陸ではアメリカやイギリスの大学で政治や経済を学んだ若き政治家たちによる植民地からの独立と新しい国づくりが、いっきに開花しようとしていました。
 1957年のガーナ独立は、アメリカのペンシルバニア大学などで学んだクワメ・ンクルマ(エンクルマ)が中心となって実現しました。ロンドンに留学していたジョン・ケニヤッタは、その名のとおりケニアを独立へと導いています。それらの中でも、ベルギーから1960年に独立したコンゴ民主共和国のの初代首相パトリス・ルムンバは、マルコムXに大きな影響を与えることになる偉大な人物でした。(彼の人生は、「ルムンバの叫び」というタイトルで2000年に映画化されています)
 彼はコンゴを独立へと導いただけでなくアフリカの国々が統一組織をもつことを目指していました。しかし、独立後すぐに内戦が勃発。彼はその反政府活動をバック・アップしているベルギーやイギリスの傭兵組織の撤退を求め、ニューヨークの国連本部を訪れます。そしてこの時、彼はマルコムXに「黒人解放運動は、アメリカ国内だけでなくもっと広い範囲での活動としてとらえるべきなのだ」ということを教えました。特に、アメリカとアフリカそしてヨーロッパ、大西洋を囲む三つの地域で黒人たちの意識が高まれば、それが世界的な黒人の地位向上につながると考えたのです。
 彼はこうしてアメリカを離れてアフリカ、中東、イギリスなどの地域を回りながら、新たな黒人社会の未来を模索し始めます。残念なことに、マルコムXはこの考えを実現する前にNOI内部の者によって暗殺されてしまいました。しかし、彼の夢は、後にモハメド・アリというかつての盟友によって、まったく異なる形で実現されることになります。

<アリ、アフリカへ>
 マルコムがアフリカ諸国を歴訪している頃、アリもまた国内の喧噪や彼に対する非難の声を逃れるため、しばらくの間アメリカを離れ、招待をうけていたガーナなどのアフリカの国々を訪問していました。独立したばかりで夢と理想にあふれた国々と彼らを導く優れた指導者たちと出会った彼は、それまでのアフリカに対する考え方を改めることになります。
 そしてこの時、偶然彼はガーナの首都アクラのホテルでマルコムと久しぶりに出会いました。しかし、残念なことに二人がこの時和解することはありませんでした。二人の心が再び通じ合うには、今しばらくの時間が必要だったのです。しかし、この時確かにアリの中で何かが変わったようです。この旅に同行したNOIのメンバーの一人は後にこう言っています。
「あのアフリカへの旅を今後も忘れることはないでしょう、なぜって?それはその旅の過程でわたしはカシアス・クレイがモハメド・アリに変貌するのを目撃したからです、彼はそれまでの彼とは違う人間になった、そうなったのも、ほかでもない、アフリカの地だったからです」

<徴兵拒否>
 1966年、ベトナム戦争はいよいよ泥沼化の様相を呈していました。そして、ついにアリのもとに軍隊への入隊命令が届きます。しかし、彼は入隊を拒否。こうして、彼とアメリカという巨大軍事国家との長い闘いが始まりました。もともとNOIは、アメリカという白人中心の国家を黒人社会とはまったく別のものと考えています。従って、国からの入隊要請に応える義務は存在しないと考えています。教祖のイライジャ自身もかつて第二次世界大戦の際、軍への入隊を拒否し逮捕された経験があります。アリもまた、その信条にのっとって入隊を拒否したわけですが、後にこの闘いは、単に宗教的な論争を越えたより普遍的な反戦運動へと拡大してゆくことになります。

<逆風の中での闘い>
 当初、彼の軍への入隊拒否は、ほとんど世論の支持を得ることができませんでした。それどころか、戦争への協力によってその権利を勝ち取ってきた黒人解放運動の指導者たちからさえも非難されることになりました。
 その頃のアメリカは、2003年にイラク戦争を始めた当時の状況とそっくりでした。その戦争が間違いなのだということを指摘することは、誰にもできなかったのです。
 そのため、戦争への参加を否定した彼に対し、先ずは国内の会場運営者からタイトル・マッチでの使用を拒否する通告がありました。そのため、彼は試合の場所を海外へと移さざるを得なくなります。それでも彼は、ドイツ、カナダ、イギリスで次々に世界選手権をこなし、なんと一年間で7回もチャンピオンを防衛したのです。当時彼にかかっていたプレッシャーや異国の地でのハンディーなどを問題にしない圧倒的な強さでした。彼のボクサーとしての実力は、まさにピークを迎えようとしていました。しかし残念なことに、この後しばらくの間、世界中のファンは彼の試合を見ることができなくなります。彼は世界チャンピオンのベルトとともにプロ・ボクサーのライセンス、それにパスポートまでも没収されてしまったのです。もちろん、それは彼が軍への入隊を拒否し続けたことに対し、裁判が行われ有罪とみなされたからでした。こうして、モハメド・アリ絶頂期の3年半が失われることになったのです。入隊はしても戦場には行かないですむような妥協案も提示されましたが、彼はそれを拒否しました。

<反戦運動の高まり>
 しかし、初めは孤軍奮闘状態だったアリですが、しだいに時代の流れが変わり始めます。ベトナムの戦況がしだいに悪化してゆくにつれて、反戦運動が盛り上がりを見せ始めたのです。さらにいっこうに改善しない人種差別問題と黒人兵士の異常な死亡者数から、黒人解放運動の指導者たちもしだいに政府に対する批判を強め、反戦運動に参加するようになって行きます。その先陣を切ったのは、やはりキング牧師でした。

<再びリングへ>
 世論の変化にともないボクシング界も少しずつ変化し始めます。それまで国内ではまったく試合ができない状態だった彼に試合の話しがやってきたのです。それはキング牧師の地元でもあり、1974年には南部初の黒人市長が誕生したブラック・パワーの中心地アトランタでした。この街は、まわりの街や州の反対を無視し、あえてアリの試合を開催したのです。
 後にアトランタ・オリンピック開会式でアリが病に冒された肉体をあえてさらしたのは、この時の恩返しでもあったようです。
 その後、1971年ついに彼は連邦最高裁で無罪を勝ち取ります。しかし、皮肉なことに、彼は無罪を勝ち取る前の年、ジョー・フレイジャーと世界タイトルマッチを行い、破れてしまっていました。3年半のブランクとこの敗戦により、アリの時代は終わったとボクシング評論家の多くが論じました。
 しかし、アリはボクシングを止めませんでした。ヨーロッパ、インドネシア、日本、カナダなど世界各地を転戦しながら、彼は14試合もこなし、少しずつチャンピオン復帰への道をはい上がって行きました。その間、彼からチャンピオンを奪ったフレイジャーは、世界最強のハード・パンチャーと呼ばれたジョージ・フォアマンに叩きつぶされ、アリにとってはまた新たな脅威が生まれていました。
 結局アリは一度だけケン・ノートンにアゴを砕かれて破れたものの、それ以外はすべて勝利を飾り、1976年ついにチャンピオンへの挑戦権をつかみ取りました。この時、アリはすでに32歳。肉体的なピークがすぎていることは明らかでした。

<運命の国、ザイール>
 現在のコンゴ共和国、ザイール共和国は1971年にコンゴ共和国から国名を変更しています。1960年にベルギーから独立した時の、初代首相はパトリス・ルムンバでしたが、宗主国だったベルギーは、南東部の鉱物資源目当てに軍隊による併合を計画します。ルムンバは国連に協力を求めますが支援を得られず、ソ連に援助を要請します。しかし、このままだとソ連の元で共産化しまうことを恐れたアメリカは、軍の参謀長だったジョゼフ・デジレ・モブツを傀儡にしてCIAは1965年に独裁政権を設立します。モブツは国名をザイール共和国に改名します。彼はその後32年に渡り支配を続けながら私腹を肥やし続けることになります。彼はそうして得た巨額の資産を使って「キンシャサの奇跡」(1974年)を実現させたのでした。(なんとも皮肉なことです)
 こうして、行われることになった世紀のタイトル・マッチは、驚いたことにアメリカでもヨーロッパでもなく、アフリカのザイールで開催されることになりました。そして、この決定は、試合結果だけでなくその後のアリの人生、世界の歴史にも大きな影響を与えることになります。
 その後、モブツ政権は国内の鉱物資源を掘りつくし、1980年代にはソ連が崩壊したために支援を受けられなくなったことから弱体化。そんな状況下で、「ルワンダの悲劇」が起き、その影響でモブツは国を追われることになります。

<ルイ・アームストロングとCIA>
 この事件が起きたとき、ちょうどルイ・アームストロングが親善大使としてコンゴを訪れていました。実は、このツアーの関係者の中にCIAの人間が隠れており、彼らがキンシャサでの工作を指揮していたという説があるそうです。さらにこのツアー自体が、事件からマスコミの目をそらすためのカモフラージュだったという説もあります。もちろんルイ・アームストロングは、その件には関わってはいません。それどころか、帰国後彼は人種問題の重さに気づき、より深く人種問題に関わって行くことになります。
 こうして生まれたモブツの独裁政権は、国の富を一カ所に集中させることで、社会をあっという間に荒廃へと追い込んでいました。残念なことに、この世界タイトルマッチは、ザイールの国民から吸い上げられた巨額の富をつぎ込むことで実現したのです。もちろん、アリはそんな現実を十分理解していたはずです。その証拠に、彼は試合の直前、控え室で「この試合を是非ルムンバに見せたかった」と言っていたそうです。
 この時、ついに彼は旧友マルコムXの抱いていた夢を理解できたのかもしれません。そして、異なる形とはいえ、自分がその夢を果たすための闘いを今始めようとしているのだということを認識していたはずです。こうして、「ジャングルの決闘」のゴングが鳴りました。

<世界を驚かせた戦法>
 この試合ほど、観客を驚かせたボクシングの試合は、未だかつてないでしょう。2ラウンドから8ラウンド残り30秒まで、彼はロープを背にして徹底的に守り続けました。というより、撃たれ続けたと言うべきでしょう。「ロープ・ア・ドープ Rope A Dope」と後に名付けられたこの戦法は、今や「間抜けのふりをする」という意味で辞書にまで載るようになったそうです。(ちなみに、「ドープ」は、ヒップ・ホップの基本用語の一つでもあります)
 しかし、回が進むにつれ、しだいにフォアマンは打ち疲れてゆきました。さらに彼はアリに対するもの凄い声援やアリ自身の不気味なまでの余裕と笑顔に精神的にも追い込まれて行きました。8ラウンドにアリが反撃に転じた時、、すでに勝敗は決していたのかもしれません。フォアマンの巨体は、あっという間にマットに沈んでいました。

<世界の頂点と時代の頂点>
 こうして、アリは再び世界の頂点に立ちましたが、それは彼の長い人生における頂点であると同時に、彼がそのシンボルとなっていた「ブラック・パワー」時代の終焉とも重なっていました。当時、キンシャサの街角に立てられた巨大な看板に「ブラック・パワーは現実だ」と書かれたものがあったそうです。しかし、この国の実状がブラック・パワーとはほど遠いものだったように、現実的には黒人解放運動の行き詰まりは明らかでした。一世を風靡していたブラック・パンサー党も一時の勢いを失い、多くの犠牲によってやっと勝ち取った法的権利を行使しようにも、黒人たちにはそのために必要なお金がありませんでした。1960年代以降、白人と黒人の所得格差はせばまるどころか広がる一方だったのです。

<スポーツ・ビジネス・ヒーローの時代へ>
 アリ以降も、マイケル・ジョーダンのような世界的ブラック・スポーツ・ヒーローは現れています。しかし、その本質はアリとは大きく異なります。マイケル・ジョーダンは、世界市場を狙うアメリカ企業のシンボルの役目を担い、人種間格差の増大をごまかすためのアメリカン・ドリームのシンボルになってしまったのです。(もちろん、それは本人が望んだことではないでしょうが・・・)
 しかし、そうしたヒーローとなった彼は、そのために周りのビジネスマンたちにいいように利用される運命も背負うことになりました。もうすでに言葉も遅くなり、それ以上に身体の動きが遅くなっていることは明らかだったにも関わらず、彼は彼の影武者だった男、ラリー・ホームズとのタイトルマッチに挑むことになりました。彼の下で長年修行を積んできたラリー・ホームズはすでに世界の頂点に立っていましたが、アリを完膚なきまでに叩きのめし引退に追い込んだことで、アリ以上のダメージを受けることになりました。その後、史上最強のチャンピオンとも呼ばれた彼ですが、英雄アリを倒したことと、その後敵らしい敵に恵まれなかったことで、いつしか彼はボクシング・ヘビー級の歴史から忘れられた存在となってしまったのです。もし、彼がアリを破った別のチャンピオンを破っていたら、英雄になれていたかもしれませんが、・・・。ラリー・ホームズ、彼は歴史上最も強く、最も悲劇的な世界チャンピオンとなります。

<英雄の代償>
 こうして、長い時を経て再びアリは栄光を手に入れたわけですが、その時アリの肉体はすでにボロボロの状態になっていました。そのうえアリには、パーキンソン病という不治の病との闘いが待っていました。神は、最後まで彼にヒーローとして闘い続けることを望んでいたのかもしれません。そして、彼は病と闘う姿をあのアトランタオリンピックの開会式で見せてくれたわけです。

<時代を代表するカリスマ・ヒーロー>
 アリが世界各地を旅しながら残した数多くのパフォーマンス(それは試合だけでなく、彼お得意のビッグ・マウスも含めて)は、白人黒人に限らず、人種差別や権力と闘う世界中の人々に勇気と希望を与え、その後の世界に大きな影響を与えました。
 1970年代以降、第三世界における最大のカリスマ・ヒーローは誰か?僕は迷わずボブ・マーリーとブルース・リー、そしてモハメド・アリをあげたいと思います。21世紀に入ってなお、あらゆる意味でアリこそが「グレーテスト・チャンピオン・イン・ザ・ワールド」よ呼ぶに値する唯一の存在なのです。

<締めのお言葉>
「哲学的に言って、アリは自由な男だった。おそらく史上もっともグレートなボクサーだろうし、それに加えて、彼は自由なボクサーでもあったんだ。しかも、それが誰であれ、何をしているものであろうとも、自由であることが歴史的にみても非常に困難だった時代に、アリだけは自由だったんだ。・・・」
ビル・ラッセル(元プロ・バスケット・プレーヤー) 

<追記>
<アリ最後の試合>
(2011年6月)
 1980年10月2日、モハメド・アリ最後の試合が行われました。アリを倒したのは、長年アリのスパーリング・パートナーを務めてきたラリー・ホームズでした。たぶん彼は戦う前にすでに自分が勝つことを知っていたのではないでしょうか。試合は圧倒的なホームズの勝利でした。あまりに無残な敗北に多くの観客は衝撃を受けましたが、それ以上にがっくりきていたのはアリを倒したホームズでした。
 試合後、彼は控え室でのインタビューで目に涙を浮かべながら、モハメド・アリの栄光はこの試合によって汚されたわけではないと述べたといいます。その表情は英雄を打ち破ったチャンピオンにはとても思えなかたっといいます。その後、彼は控え室のベッドに横たわったままのアリのもとを見舞いに訪れました。しかし、彼がベッドに近づくと、アリは繰り返しそう叫んだそうです。
「かかってこい!ホームズ!かかってこい!」
 ジョー・フレージャー、レオン・スピンクス、ケン・ノートンと、彼は一度負けた相手にも必ず二度目の対戦では勝利を収めてきました。だからこそ、次はお前を倒してやる!そう言いたかったのでしょう。しかし、もうそのとき、彼の身体は脳だけでなく腎臓などの内臓も含め、ボロボロの状態にありました。減量に用いた薬物も、それに追い討ちをかけており、障害が表れるのは当然の結果でした。それは金の亡者たちが彼を無理やりリングに引きずり上げたからなのか?それとも彼のプライドがそうさせたのか?どちらにしても、彼にはそのときもう自らの進退を判断をすることはできなかったのでしょう。

「対戦相手のすべての動きに対して、類を見ない、そして威圧的な注意力を持ち、相手の動きを予測したうえ、さらに、観衆の気分のごく微妙な変化にまでも注意を払っていたボクサーが、少なくとも史上一人はいた。彼は、観客の気分についても、自分に個人的責任があると感じているように見えた
- もちろん、カシアス・クレイ/モハメド・アリのことである。」

ジョイス・キャロル・オーツ著「オン・ボクシング On Boxing」より

「詩を書き、KOラウンドを予言し、相手をみんなやっつけ、人を笑わせ、泣かせ、そして俺みたいに背が高く、美しいファイターが、またいつか現れるかね?この世の始まり以来、世界史上、俺のようなファイターはほかにいなかったぜ」
トマス・ハウザー著「モハメド・アリ」より

「哲学的に言って、アリは自由な人間だった。・・・どんな人間でも自由でいることが歴史的にきわめてむずかしかった時代に、彼は自由だったのだ。アリはアメリカ史上最初の真に自由な人間の一人だったよ」
ビル・ラッセル(プロ・バスケット選手)

<追悼>
 2016年6月3日、アリゾナ州フェニックスでモハメド・アリは74歳でこの世を去りました。栄光の後の病と闘う苦難の人生にもついに終止符が打たれました。お疲れ様でした。

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