- モハメド・アリ Muhammad Ali (前編) -

<国境を越えたヒーロー>
 元々このサイトは、「世界の歴史」を「音楽」というキーワードをもとにグローバルな視点からとらえようと作り始めました。それは「音楽」という文化は、他の文化に比べ容易に国境や人種の壁を越えることができると考えたからです。
 しかし、国境を越えることができるのは、「音楽」だけの特権ではありません。スポーツもまた競技によっては世界中の人々の心を打つことが可能です。そんなスポーツ界のヒーローの中でも飛び抜けて巨大な存在が、モハメド・アリことカシアス・マーセラス・クレイです。
 彼はプロボクシングのヘビー級世界チャンピオンであっただけでなく、アメリカン・ドリームの象徴でもあります。しかし、それと同時にアメリカを揺り動かした反体制運動「ブラック・パワー」を代表する存在であり、ベトナム反戦運動の象徴、そしてアフリカの地においてはその独立運動の象徴でもあったのです。70年代のアリは、まさに全世界の大衆にとっての「自由の象徴」だったとも言えるでしょう。だからこそ、彼は「グレイテスト・チャンピオン・オブ・ザ・ワールド 世界で最も偉大な男」と呼ばれていたのです。
 もしかすると、「キンシャサの奇跡」と呼ばれた「ジャングルの決闘」(1974年)を制した瞬間の彼にまさる全世界的な英雄は、今後二度と現れないかもしれません。

<「キンシャサの奇跡」の時>
 あの歴史的名勝負が行われた1974年、僕は14歳でした。小学生の頃からプロレスが好きだった僕は、少しずつよりリアルな格闘技、ボクシングの魅力にひかれるようになっていました。そのうえ当時は、日本のボクシング界には柴田、海老原、西城、大場など次々とスター選手が現れ、まさに黄金時代を迎えようとしていました。しかし、アリが闘うヘビー級の世界戦を見てしまうと、その迫力はあまりに違いすぎました。しかし、それはアリのもつスピードやしなやかさが、ヘビー級のボクシング・スタイルを革命的に変えてしまったせいでもあったことが後に僕にもわかりました。なぜなら、その後アリからホームズの時代へと移り変わり、ヘビー級の魅力はしだいに失われていったからです。多くのボクシング・ファンの目は、シュガー・レイ・レナード、ロベルト・デュラン、トマス・ハーンズなど、ミドル級のヒーローたちへと注がれるようになって行きました。

<時代の波にほんろうされた男>
 「ジャングルの決闘」が「キンシャサの奇跡」を生んだ1974年12月のアリ対フォアマンの試合は、僕も含めた世界中の人々の心を遙かアフリカの地へと飛び立たせてくれました。自ら国境を越え、人種の壁を越えて人々の心をつかんだ男。人々は彼の魅力に引き込まれることで、その瞬間国境や人種の壁を越える体験をしたのです。
 しかし、偉大なるチャンピオン、アリもまた長い人生において自分一人の力だけで闘い続けられたわけではありません。まして、その闘いの相手は、リング上の敵だけではありませんでした。彼ほど時代と社会に影響を与えたスポーツマンがいないのと同じように、彼ほど時代の波にほんろうされたスポーツマンもまたいないのです。

<1960年、ローマ・オリンピック>
 1960年のローマ・オリンピックは、エチオピアからやって来た裸足のランナー、アベベ・ビキラが初めてブラック・アフリカに金メダルをもたらしたということで、多くの人々の記憶に残る大会となりました。しかし、このオリンピックで金メダルをとり一躍スターの座をつかんだカシアス・クレイにとって、それは栄光への小さな一歩にすぎませんでした。
 この大会の後、すぐにカシアス・クレイは18歳でプロ入りし、ヘビー級の世界チャンピオンに向けて華々しいスタートを切ります。そして、そのために彼は白人の金持ちたちが作るシンジケートとの付き合いも始めていました。世界チャンピオンになるためには、そのために必要な資金の後ろ盾が不可欠だったのです。しかし、オリンピックのヒーローはすでに国民的アイドルとなっていました。この時点での彼の未来には、まさにアメリカン・ドリームを実現した輝かしい生活が待っていたと言えるでしょう。ところが、この時すでに彼はカシアス・クレイからモハメド・アリへと危険な変貌をとげつつあったのです。

<ブラック・ムスリムとの出会い>
 彼がブラック・ムスリム(ネーション・オブ・イスラム)の指導者イライジャ・モハメドの説法を初めて聴いたのは1959年のことでした。その後。ネーション・オブ・イスラム(NOI)のメンバーが彼の巡業を手伝うようになり、クレイ自身もその教えに少しずつひかれて行きました。しかし、NOIを代表する二人の人物、イライジャとマルコムXは、当時アメリカで最も危険な存在としてマスコミや政府からマークされる存在でした。そのため、クレイは自らがNOIの信者であることを秘密にしていました。

<ネーション・オブ・イスラムとは?>
 1930年代にデトロイトで誕生した典型的なカルト宗教団体。ただし、この団体はブラック・ナショナリズムを中心思想としており、その柱にコーラン、聖書、マーカス・ガーヴェイの思想などを組み合わせています。
 一応イスラム教の分派ではありますが、ほとんど別個の宗教というべきでしょう。彼らの思想における重要なポイントは、その目標が人種平等を実現することではなく、悪魔である白人社会と分離した新しい社会を創設することにあったということです。実際彼らは人種隔離を政府に要求し続けただけでなく、その際KKK(クー・クラックス・クラン)と協力関係を結んだことさえあったのです。
 娯楽を否定するイスラムの教えのとうり、彼らはボクシングという娯楽スポーツを認めていませんでした。その点、カシアス・クレイはNOIにとっては明らかな異端派だったはずです。しかし、彼には地位と名声、そしてそれ以上にお金がありました。その宣伝効果の大きさと資産価値は、NOIの教義を曲げるのに十分だったと言えるのです。NOIの指導者イライジャ・モハメッドは、例外的な措置として、自らが彼の信仰を認めると同時に彼に新しい名前「モハメド・アリ」を授けました。
 さすがにNOIを全米ナンバー1の組織にまで育てた人物だけのことはあり、イライジャ・モハメッドという人物もまたなかなかのくせ者だったようです。彼にはマルコムXのように他者を圧する危険なカリスマ性とはまた別の、誰もが心を許して引き込まれるようなカリスマ的な魅力を兼ね備えていたようです。
 こうして、クリスチャンだったカシアス・クレイはこの世から消え、新しい黒い思想を持つ存在「モハメド・アリ」がこの世に登場しました。

<盟友マルコムX>
 NOIを代表するもうひとりの人物マルコムXとアリが出会ったのは1962年のことでした。そのカリスマ性と黒人ならではコール&レスポンスの技をこころえた語り口、そして辛辣でありながらユーモアを巧みに織り交ぜた知的な演説内容。マルコムの才能は、まさに後のアリに引き継がれることになる特質でもありました。
 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容されたアリのボクシング・スタイルは、思えばマルコムXの演説スタイルを肉体で表現したものだったのかもしれません。
 すぐにお互いを理解し合うようになった二人は、その後ほんの数年間とはいえ、お互いに影響を与え合う重要な関係を築くことになりました。当初、マルコムは自分の部下をアリのマネージャーにつかせ身の回りの世話をさせていましたが、しだいに自らも彼と行動をともにするようになります。当然、二人の関係はマスコミにも知られるようになり、すぐにアリに対し圧力がかかり始めます。
 1964年2月25日、そんな状況の中、彼はついに世界チャンピオンのソニー・リストンに挑戦することになりました。しかし、この時すでに彼はブラック・ナショナリズムの代表であり、逆にソニー・リストンは人種融合のシンボルであり、白人に飼い慣らされたアンクル・トムの代表と見られるようになっていたのです。
 戦前の予想では、断然実績のあるソニー・リストンが有利と見られていましたが、結果はまったくその逆でアリの圧勝に終わりました。試合後、彼は記者会見で正式に自分がNOIに入信していることを認め、今後自分はモハメド・アリと名乗ることを発表しました。こうして、一気に彼は黒人解放運動に対する逆風の矢面に立たされることになりました。
 驚いたことに、当時公民権運動などで活躍していた活動家のリーダーや他のスポーツ選手、アーティトたちのほとんどは、アリのこの発表を喜びませんでした。それは彼やマルコムXのような過激な活動家の登場により、これまで白人穏健派とともに築いてきた人種融和の政策が破綻してしまうことを怖れたからでした。
 NOI以外の黒人の中で、彼の勝利を素直に喜び、お祝いの言葉を伝えたのは、マーティン・ルーサー・キング牧師サム・クックなどごくわずかだったと言われています。ただし、黒人の一般大衆は別でした。彼らは新しい黒人ヒーローの登場を熱狂的に祝い、その後彼がどんな立場に追い込まれようと彼を支持し続けました。このことは、非常に重要なことです。なざなら、この大衆からの支持は、その後世界中へと拡がって行くからです。

<もう一人のヒーロー、サム・クック>
 1963年、アリは初めてサム・クックと出会いました。当時サムはすでに黒人R&Bヴォーカリストとして大スターの座を獲得しており、その人気ぶりはアリにとっても憧れの対象でした。ニューヨークのアポロ・シアターで歌っていたサムはハーレムにあるホテル・テレサに宿泊しており、同じホテルにアリもまた宿泊していました。さらに、このホテルにはマルコムXの事務所にもなっていたため、当時の黒人文化を代表する新世代の3人が一堂に会することになりました。
 レコード業界というアリとは別の世界で、人種の壁を越えたアイドルを目指していたサム・クック。彼のビジネスに対する厳しい姿勢は、アリに大きな影響を与えました。(映画「アリ」にも、サム・クックは登場していました)
 3人はその後、より密接な関係をもつようになり、すでにレコード・デビューを果たしていたアリとサムが共同でレコードを録音する計画も立てられ、そのプロジェクトにマルコムXが関わることも決まっていました。しかし、1964年12月にサムはモーテルで謎の死をとげてしまい、その計画が実現することはありませんでした。(詳しくはサム・クックのページで)

<マルコム、アフリカへ>
 結局この後しばらくして、アリとマルコムXとの関係も終わりを迎えることになります。過激な黒人解放運動の闘士として、彼の名が有名になるにつれ、マルコムはNOI内部から邪魔者扱いされるようになり、アリはマルコムの存在を否定するようになったのです。その後マルコムは、NOI上層部から活動停止処分を受けることになり、アメリカ国内では何もできなくなります。そこで彼は新たな活動の場を求めて、ヨーロッパを経由してアフリカへと向かうことになります。
 なぜなら、当時アフリカの大地は、アメリカに住む黒人たちの故郷であると同時に、今まさに目覚めようとする未来の土地でもあったからなのです。そして、そこで再び二人は出会い、アフリカの旅はその後のアリの人生に大きな影響を与えることになります。

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