「無法松の一生」

- 稲垣浩 Hiroshi Inagaki
三船敏郎 Toshiro Mihune -

<誰もが知るタイトル>
 昔から「無法松の一生」というタイトルは知ってはいましたが、実際に見たことはなく、2011年になって初めてちゃんと見ることができました。正直、古臭いストーリーで、どうかな?と思って見たのですが、さすがはヴェネチア映画祭金獅子賞受賞作です!先ずは、この映画のあらすじから。

<あらすじ>
 人力車を曳く「車曳き」の富島松五郎(三船敏郎)は、彼の地元九州の小倉(北九州)では有名な暴れん坊で、近所の人々から「無法松」と呼ばれていました。
 ある日、怪我をした子供を助けたことから、その家の父親、吉岡陸軍大尉(芥川比呂志)に気に入られ、家族みんなと親しく付き合うようになります。ところが、ある日、急病で吉岡大尉はこの世を去り、彼は残された妻、良子(高峰秀子)と息子の敏雄の父親代わりをすることになります。そしていつしか彼は寡婦となった良子に密かに思いを寄せるよおうになっていました。しかし、学校にも行ったこともなく字も読めない自分と良家の女性ではあまりに身分が違いすぎることを知っていた彼は、あくまで使用人の立場から出ず、家の仕事を手伝うことで家に出入りする生活を続けてゆきます。
 時代は明治から大正へと移り変わり、敏雄は熊本の大学に入り、良子は一人暮らしをするようになります。しかし、相変わらず彼は使用人として彼女の家に出入りするだけで、自分の思いを言い出すこともできず、彼女に似た女性が描かれたポスターを前に一人酒を飲む日々が続きました。
 夏休みになり、敏雄は教授を連れた里帰りして来ました。先生に本物の祭り祇園太鼓を見せたいという敏雄のため、松五郎は自ら櫓に登り、見事な祇園太鼓を演じてみせます。

<「無法松の一生」>
 もともと「無法松の一生」は、「富島松五郎伝」というタイトルで書かれた岩下俊作の小説です。1939年に「九州文学」という文芸誌に発表された後、1942年に文学座が現代のまま舞台化して上演。翌年1943年には「無法松の一生」とタイトルを改めて映画化され、大ヒットとなり、その後、小説のタイトルも「無法松の一生」に代えられることになりました。実は、この最初の映画化で監督したのも、本作の監督稲垣浩でした。

「無法松の一生」 1943年
(監)稲垣浩
(原)岩下俊作
(脚色)伊丹万作
(撮)宮川一夫
(音)西梧郎
(出)阪東妻三郎、月形龍之介、永田靖、園井恵子、澤村アキオ

 監督の稲垣浩には、この1943年版には大きな不満がありました。それは、この映画が公開された時代のせいでした。この映画の中、松五郎がついに自分の思いを良子に告白する場面があります。それは、この映画のクライマックスでもあったはずです。ところが、この映画が公開されたのは太平洋戦争真っ只中の時期でした。そして、主人公の告白を聞く良子は、未亡人とはいえ軍人の妻です。それが、軍人でもないヤクザ者から愛を告白されるとは!とダメだしされてしまったのです。
 それでも、当時検閲官は映画の素晴らしさは理解してくれていたようで、終戦を待って公開してはどうかと提案したとも言われています。しかし、いつ戦争が終わるかわかず、なおかつ戦況が悪化しているだけに、公開を伸ばすことはできず、結局その場面を10分カットすることで映画は公開されました。(このカットされた10分のフィルムはその後、ずっと行方不明になっていましたが、最近になって発見されDVDで見ることができるようです)
 終戦後、この映画は再上映されますが、その際、今度は占領軍からクレームがつけられました。この映画の中で尋常小学校の学芸会の場面、敏雄が「青葉の笛」という曲を歌う場面が軍国主義的であるとされ、この度はその部分が8分カットされてしまいます。こうして、時代の波に飲まれるようにこの映画のフィルムはズタズタにされてしまいました。いつか、この借りを返したい。その思いがセリフ・リメイクによる「無法松の一生」を生み出したのでした。

「無法松の一生」 1958年
(監)(脚)稲垣浩
(原)岩下俊作
(脚色)伊丹万作
(撮)山田一夫
(美)植田寛
(音)團伊玖磨
(出)三船敏郎、高峰秀子、芥川比呂志、飯田蝶子、笠智衆、田中春男、多々良純、中村伸郎

 この映画の最大の見所のひとつは、彼が連れてきた大学教授のために松五郎が櫓の上で祇園太鼓を連打する場面でしょう。この場面の三船敏郎の太鼓の叩きっぷりは、彼が得意な立ち回り以上の迫力かもしれません。
 そして、かつて検閲によってカットされた松五郎の告白の場面。実は、この映画では、その告白が、告白ではなくなっています。告白しないことで、かえって松五郎の思いは強いものとなり、感動も増しました。古きよき時代の純愛物語です。
 主人公の松五郎は見た目も性格も、漫画「亀有交番前派出所」の両津勘吉にそっくりなのは偶然でしょうか?そう考えると、「フーテンの寅さん」こと「車寅次郎」も似ています。「車屋の松五郎」と「車寅次郎」、日本を代表するダメ男の英雄です。
 彼が曳く人力車の車輪が回る映像がこの物語の時間の流れを表し、2時間弱の映画ですがそこからは長い人生が感じられ、ラストには泣かされるはず。この作品は、完成後、ヨーロッパに渡りヴェネチア国際映画祭に出品され、見事グランプリにあたる金獅子賞を受賞しました。この時、ヴェネチアで行われた授賞式に出席していた稲垣浩は、日本に向けて電報を送りました。

「トリマシタ、ナキマシタ」

<稲垣浩>
 稲垣浩 Hiroshi Inagaki は、1905年12月30年東京に生まれています。彼の父親、留次郎は関西新派の俳優、東明二郎だったこともあり、彼は7歳の時には舞台に立っていたといいます。旅回りが多かったため、彼は独学で読み書きを学び、その後は自ら戯曲を書くようになりました。
 17歳の時、日活に俳優として入社。溝口健二の「夜」(1923年)では親子で共演しますが、彼自身は俳優ではなく監督になることを望み、助監督として働き始めます。そして、伊藤大輔の「日輪」(1926年)や衣笠貞之助の「十字路」(1928年)などで助監督を勤めた後、片岡千恵蔵プロの映画「天下太平記」(1928年)でついに監督デビューを果たしました。
 その後、彼は時代劇「放浪三昧」(1928年)、「絵本武者修行」(1929年)、「元禄十三」(1931年)、「瞼の母」、「一本刀土俵入り」(1931年)「弥太郎笠」(1932年)などの股旅物などの作品を次々に発表。時代劇と現代劇の融合を試みてゆきます。1935年には大河内傳次郎主演で「新撰組」や「富士の白雪」、「大菩薩峠」(1935年)などの大作を撮り、片岡千恵蔵とは「宮本武蔵」(1940年)を撮ります。
 1934年、彼は同世代で友人の山中貞雄と共に、仲間を集め20〜30代の監督、シナリオライターによる「鳴滝組」を立ち上げました。(京都の鳴滝で誕生したことで名づけられました)彼らのモットーは、「ムダめしを食う奴はきたるな、映画が好きな奴は集めれ」でした。このグループは、1937年に山中が東京で東宝の前身となるP・C・Lに入社するまで続きました。参加したのは、稲垣と山中の他、滝沢英輔、土肥正幹、荻原遼とシナリオ・ライターの八尋不二、三村伸太郎、藤井滋司。彼らは共同で20数本分の脚本を書きあげています。
 彼は山中貞雄と共に新たな時代劇を生み出したといえます。それは、どんな時代劇だったのか。映画評論家の山田宏一はこう書いています。

 その最も大きな仕事といえば、時代劇のセリフを現代語にしたということである。いまではなんの抵抗もない時代劇の現代語であるが、当時としては相当に勇気を要することだった。活弁の七五調より書けぬ作家もいたし、現代語のセリフを発声できない俳優たちもいた。・・・
山田宏一
 「鳴滝組」はいわば時代劇のヌーヴェル・バーグ、ひいては戦前の日本映画におけるヌーヴェル・バーグ的存在だったといえそうです。

 戦後も彼の活躍は続き、1950年には大谷友衛門主演の「佐々木小次郎」3部作、1954年から56年にかけては三船敏郎主演の「宮本武蔵」3部作をヒットさせます。なかでも「宮本武蔵」第一部は、見事アメリカのアカデミー賞で最優秀外国語映画賞を受賞。世界にその名を知られることになりました。1960年代に入っても、彼の活躍は続き、1962年には「忠臣蔵/花の巻、雪の巻」、1967年には「佐々木小次郎」(リメイク版)、1969年には井上靖原作の超大作「風林火山」を監督し、これも見事に大ヒットさせています。

「風林火山」 1969年
(監)稲垣浩
(原)井上靖
(脚色)橋本忍、国弘威雄
(撮)山田一夫
(音)佐藤勝
(出)三船敏郎、中村錦之助、石原裕次郎、大空真弓、中村賀津雄、緒方拳、市原悦子

 歴史に残る軍師、武田信玄率いる武田軍の山本勘助を主人公とする戦国絵巻物大作。三船、中村、石原という大スターの競演ということも大きなヒットの要因でした。

 彼の遺作となったのは三船プロが企画したオールスター時代劇「待ち伏せ」(1970年)でした。この作品には三船敏郎以外に、石原裕次郎、中村賀津雄に加え、勝新太郎も出演し、大きな話題となりました。
 1980年5月21日、静かに車の回転が止まるように、彼は静かにその人生を終えました。

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