- 向田邦子 Kuniko Mukouda -

<年の初めの向田邦子>
 ずいぶん昔のこと、NHKのドラマ「あ・うん」「阿修羅のごとく」を見た頃から、僕は向田邦子さんのドラマを欠かさず見るようになりました。その後、新春「向田邦子スペシャル」として、年に一度1月に放映されるテレビ・シリーズが始まってからは、「一年の始まりは向田ドラマから」として無くてはならない存在になり、その日はテレビの前に正座をしてのぞんだものです。(本当ですよ)
 そのせいでしょうか。僕は向田邦子ドラマの常連だった田中裕子さんの大ファンで、その後も向田ドラマの女優さんたちにはぞっこんです。なぜか彼女たちは、みんないつまでも年をとらないように見えるのは気のせいでしょうか。
 小泉今日子、岸本加世子、いしだあゆみ、吉村実子、田畑智子、戸田菜穂、清水美砂、岸恵子、山口智子、そして加藤治子などなど素敵な女優さんたちばかりです。(ついでながら、彼女のドラマになくてはならない男優たちも忘れられません。小林亜星、小林薫、四谷シモン、藤田敏八、大口広司、杉浦直樹など)
 しかし、先日文春文庫から出ている「向田邦子ふたたび」という本を読んでいた僕は途中で大変なことに気づきました!その本に載っている向田邦子さんの若い頃の写真を見ていて、僕が恋しているのは、ドラマの女優さんたちよりも誰よりも、作者その人だったということに気づいたのです。数多くのドラマを見てきた僕には、写真に写る向田さんの見た目の美しさはもちろん、心の奥に隠された哀しみまでもが、見えるような気になっているのです。まるで、昔から知っている幼なじみのように身近な存在であり、憧れの存在なのです。
 もし、タイムマシン(「キテレツ大百科」の航時機でもいい)があったら・・・今の自分が生まれたばかりの時代、1930年代に戻って、映画雑誌の編集者として活躍していた向田邦子という素敵な女性に会ってみたい!そう考えただけでちょっとドキドキしてしまいます。もちろん、年齢的には彼女は僕の母親にあたる世代に属するのですが、ドラマの中の彼女、写真の中の彼女は20代だったり、30代だったりと若いままなのですから・・・まったく問題ないのです。
 よく考えてみると、僕はテレビというタイムマシンに乗って「昭和」という時代に戻り、彼女の人生を覗き見しているうちに恋をしてしまったということなのでしょう。

<向田邦子、その青春時代>
 向田邦子は、昭和4年(1929年)11月28日、世田谷区に生まれました。父親は保険会社に勤める真面目なサラリーマンでしたが、エリート社員ではなく夜間の商業高校に通うたたき上げの苦労人でもありました。もちろん、その性格は明治生まれの頑固オヤジ、あの寺内貫太郎そのものだったようですし、母親もまた従順に夫をたてる古風な妻、加藤治子そのものだったのでしょう。
 父親の仕事の都合で3年に1度は引っ越しをする生活の中、彼女は悪性のリンパ腺炎にかかり、1年近く療養しながら生活をしていた時期がありました。この時、彼女の父は自ら大好きだった煙草を断ち、なおかつ家を建てるために貯めていた貯金を彼女の療養や治療のために使い果たしてしまったのだそうです。まさに寺内貫太郎一家です。そのおかげで彼女の病気は回復し、東京に戻ると目黒高女に入学、そこから実践女子専門学校国語科に入学します。

<就職、映画の世界へ>
  1950年、大学を卒業した彼女は就職先を探しますが、戦後間もない時期、キャリア・ウーマンという言葉など存在しなかった時代に、才能があるとはいえ女性が自らの能力を活かす就職先を見つけるのは非常に困難でした。
 1952年、やっと彼女は就職先を見つけました。それは雄鶏社という出版社で、そこで彼女は映画雑誌「映画ストーリー」の編集を担当することになりました。(なんと、この時採用された女性は数百人の希望者の中から彼女ただ一人だったそうです。採用試験の際、すでに彼女の文章の巧みさは担当者からみて明らかだったのでした)
 この雑誌の編集部は4,5人の所帯だったこともあり、彼女は編集だけでなく、取材、ニュース集め、原稿書きまで何でもこなさなければなりませんでした。しかし、もともと映画が大好きで何より優れた文章力を持つ彼女は、すぐにこの業界でその名を知られるようになります。

<謎の男性とのつかの間の恋>
 ちょうどこの頃、彼女は未だに謎となっているある男性との恋のドラマを演じていました。その人物が映画関係者だったのか、カメラマンだったのか、ミュージシャンだったのか、それすら明らかではなく、二人の関係がいつどうして終わったのかも確かなところは謎のままです。(だからこそ、何度もこの恋については向田ドラマの中にいろいろなバリエーションで登場しているのでしょう)
 黒い服にこだわり、帽子にこだわるお洒落なキャリア編集者のつかの間の熱い恋。これこそ、彼女の最初で最後の恋の物語であり、熱い青春のひとときだったのでしょう。
 この恋物語を、彼女が残した手紙から再現、ドラマ化したのが山口智子主演の「向田邦子の恋文」です。このドラマで彼女が愛したのは病に苦しむ年上のカメラマンということになっているのですが、前述の本に載せられた彼女の素敵なスナップ写真を見るとこの撮影者こそ、その恋人だったのではないか?そう思えてきます。だから彼女はあんなにも輝いて見えたのでしょう。
 ということは、その写真に見とれる僕はタイムマシーンに乗って彼女を見つめているだけでなく、彼女の恋の相手の視線で彼女を見つめていることになるのかもしれません。どうりで、彼女に恋してしまうはずです!

<テレビ・ドラマへの進出>
 昭和33年(1958年)彼女は知人からテレビ・ドラマの脚本を依頼されます。こうして彼女は初めて「ダイヤル110番」というシリーズ番組のうち3本の脚本を担当します。その後、彼女はラジオ・ドラマの作家として、森繁久弥の「奥さまお手はそのまま」の台本を書き、さらには「週間平凡」など週刊誌のライターとしても執筆するようになります。
 編集者としての仕事、映画を見る仕事、ラジオの台本書き、週刊誌用エッセイの執筆と多忙な日々を送る彼女は、当時1日睡眠3時間が当たり前だったといいます。そこまで仕事に打ち込む理由は、最初で最後の恋を忘れるためだったのでしょうか?

<本格的活躍の始まり>
 昭和35年(1960年、ちなみに僕の生まれた年です)彼女はついに雄鶏社を退社。フリーのライターとして本格的なスタートを切ります。昭和39年(1964年)彼女はテレビ・ドラマ「七人の孫」の脚本を担当。ついにテレビ・ドラマの脚本家として一本立ちします。さらにこの年、彼女は長年いっしょに暮らしてきた父親のもとを離れ一人暮らしをするようになります。(「七人の孫」は樹木林のテレビ・デビュー作で、この後、彼女は同じ久世&向田コンビの「時間ですよ」で大ブレイクを遂げることになりました)
 長い間たまっていた父親への反発の思いがついに爆発、家出という形で二人は別れることになりました。その後二人が同じ屋根の下に暮らすことはなく、昭和44年(1969年)2月、その父親が急性心不全でこの世を去ってしまいました。彼女にとっての父親の存在の大きさは、ドラマを見れば明らかですが、その父親の死によって彼女の人生のドラマはひとつの大きな区切りを迎えたといえそうです。

<乳ガン、生き急ぐ人生>
 昭和50年(1975年)彼女の人生において、もうひとつの節目となる事件が起きます。それは乳ガンの発病による入院です。幸い悪性ではなく発見が早かったこともあり大事にはいたりませんでしたが、回復後も彼女は常に再発の恐怖を感じ続けることになります。
 だからこそ、彼女は眠る間も惜しんで仕事をし、海外旅行に行き、友人たちとおしゃべりをし、さらには夢のひとつだった居酒屋「ままや」をオープンさせるなど、残りの人生を駆け足で歩み続けたのです。
 そんな彼女の駆け足の人生に対して与えられた輝かしい勲章のひとつが、昭和55年に彼女が小説「思い出トランプ」で受賞した直木賞でした。しかし、この受賞によって彼女の人生はさらにスピードを増すことになりました。そうでなくても仕事漬けだった彼女のもとには、それまで以上に原稿依頼、出演依頼が殺到するようになります。そしてその仕事の依頼の中に、彼女の写真集を作るための写真撮影がありました。撮影の場所は台湾。でもまさか、この旅が彼女にとって最後の旅になろうとは、・・・。

<永遠の休息>
 昭和56年(1981年)8月22日彼女の乗った飛行機が台湾で墜落。駆け足の人生は突然終わりを迎えることになりました。享年51歳。まだまだこれからという年でした。しかし、その51年の人生の中でも彼女が謎の恋人に恋文を書き続けたほんのわずかの期間は、まさに時が止まるほどに濃密なひとときだったに違い有りません。
 縁側のある小さな木造住宅。小林亜星による懐かしさに満ちた音楽と蓄音機から流れ出る敵性音楽の魅力。永遠の少女、黒柳徹子のナレーション。父と母、娘たちが囲む小さなちゃぶ台とその上の美味しそうな料理。突然家族の前に現れる謎の男と近づく戦争の足音。正月に訪れたひとときの平和とささやかな幸せ。
 あのメロディーを思い出しながら目を閉じると、すぐに浮かんでくるあの映像と音楽。自分が生きた時代でもないのに、なぜこうも懐かしく心にしみるのでしょうか?もしかすると、僕もやっぱり昭和の人間だからでしょうか?

<天国の向田邦子様へ>
 前略 お元気ですか。
天国でもきっとまた一生懸命お仕事をされていることと思います。とはいえ、その後あなたの友人たちの多くがそちらへ旅立って行かれましたので、たぶんあなたの仕事の邪魔をするおしゃべりの相手には不自由しなくなったのではないでしょうか。
 あなたの死後25年が過ぎました。さすがにあなたの作品のほとんどは脚本化され、テレビ・ドラマとして放映されてしまい、最近ではめったにあなたの脚本もしくは原作によるドラマを見ることができなくなりました。淋しいかぎりです。
 ついには、あなたの「恋文」までもがテレビ・ドラマ化されてしまいましたので、いよいよあなたの新作を見ることはできなくなりそうです。リメイクものというのも、何だか淋しいです。
 考えてみると、僕自身いよいよあなたがこの世を去った時の年齢に近づきつつあります。もしかすると、僕も突然そちらの世界へお伺いすることにならないとも限りません。そうなった時、自分は胸を張ってあなたに自己紹介することができるだろうか?あなたに笑われずにすむ程度には、人生を生きてきたと言えるだろうか?ふとそんなことを考えたりしています。
 ところで、例の素敵な男性とは、そちらで上手くいっているのでしょうか?そちらの世界で永遠の時をを与えられてしまい、もしかして愛が冷めてしまったなんてことはありませんか?
 ご無礼な発言お許し下さい。でも、もしそうなら、僕にもチャンスを与えてはいただけませんか?まあ、まだお会いできる予定はないのですが、その時はよろしくお願いいたします。天国でなら年の差などどうでも良いことでしょうから・・・。
 いつかお会いできることを楽しみにしております。くれぐれもお仕事し過ぎないように!
鈴木創

向田邦子さんのお墓には森重久弥さんのこの挽歌が刻まれているそうです。

花ひらき はな香る 
 花こぼれ なほ薫る」


<締めのお言葉>
「幻想の恋は、現実の恋よりもうんと良い。しないことはひじょうに刺激的だ。けっして会うことのないふたりの間には、最も強烈な魅惑が存在する」

アンディー・ウォーホル 

<追記>(2006年7月18日)
 先日、このページを見て感動したという近所のカフェ「あんな」さんから「向田邦子・映画の手帖」(徳間書店)という本をお貸しいただきました。
 なんとこの本、向田さんが「映画ストーリー」という雑誌の編集者だった頃に書いた編集後記をまとめて本にしたものでした。たかが編集後記と思いきや、わずか10行程度の文章でありながら、それを発表順に並べてみると、そこには20代前半の彼女の青春や当時の時代状況がしっかりと見えています。常に良い文章を書くことを心がけていたであろう彼女の努力があったからこそ可能になった企画なのかもしれません。
 念願かなって、駄文を本にすることができた僕ですが、天国に行った時、せめて向田さんに握手ぐらいはしてもらえるよう、今後とも気をぬかないよう文章作り励みたいと思います。

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