「叫び」

- エドヴァルド・ムンク Edvard Munch -

<名画「叫び」とは?>
 ムンクの「叫び」は、もしかすると世界で最も有名な絵画かもしれません。今や、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」に匹敵する存在になっている気がします。時代の変化がその知名度を高めているのかもしれません。不気味な空の色と異次元空間のように揺らいだ背景、そしてそんなゆがんだ世界に耐え切れずに苦しむ人物像。絵を見ないで「叫び」のイメージは多くの人の脳裏に刻まれているということでしょう。もちろん、パロディとして様々なヴァージョンがその知名度を上げているのも確かです。
 でも「叫び」という作品は、「橋の上で主人公が叫んでいる姿」を描いた作品だと思っている人が多くないでしょうか?本当は、聞こえてくる「叫び」(幻聴?)に耐え切れず、耳をふさいでいる様子を描いた作品なのですが・・・。
 現代社会の不安を象徴する強烈なイメージがあまりにも大きくなり、作品や作者の存在すらも越えてしまうというのもこの作品の特徴といえるかもしれません。実際、僕もムンクが精神的に病んでいたことは知っていましたが、彼がどんな人間で、どんな状況下で「叫び」を描いたのか。そして他にどんな絵を描いているのか?僕はほとんど知りませんでした。そんなわけで、あまりにも有名でありながら、あまりにも知られていないムンクと名画「叫び」について調べてみました。

<エドヴァルド・ムンク>
 エドヴァルド・ムンク Edvard Munchは、1863年12月12日にノルウェーの首都オスロから北へ100キロほどにあるロェーテンという小さな村で生まれました。父親のクリスティアン・ムンクは、村に駐屯する部隊の軍医で、その家系には画家や詩人などのアーティストが多かったようです。さらに一族の歴史をさかのぼるとムンク Munchが英語のMonkと同じ修道士を表しているように一族には昔から聖職者が多く、父親もまた熱心なクリスチャンでした。(同じモンクつながりで同じように精神的に不安定だった人物として、ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンク、それに潔癖症の探偵ドラマ「モンク」が思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか)
 それに対して母親のラウラの家系は、農家や船乗りが多かったようですが、病弱な体質をもつ者が多かったようです。こうして、ムンクは母親からは病弱で神経質な面を、父親からは創造的で生真面目な面を受け継ぐことになりました。そうした家系の影響はすぐに表れます。次男のムンク以外にも、4人の子供を産んだ母親はムンクがまだ5歳の時に持病だった結核の悪化によってこの世を去りました。さらにその10年後にはムンクの姉ソフィエもまた結核で亡くなっており、ムンク自身も病により命を落としかけた時期があったといいます。こうした病弱な家族の系譜は、元々熱心なクリスチャンだった彼の父親を狂信的なクリスチャンへと変えてしまい、その厳しい躾がムンクの性格にも影響を与えることになりました。
 こうして彼は、冬は一日中暗闇に覆われる北欧の地の気候で病魔と狂気に囲まれて育つことになりました。

「病と狂気が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」
ムンク

<絵画の道へ>
 16歳になった彼は、父親の薦めで工業学校に入学しますが、絵画の魅力にひかれて学校を退学。翌年、王立美術学校に入学します。当時、彼に影響を与えた画家クリスティアン・クローグは前衛的で反体制的ナグループ「クリスティアニア・ボヘーメン」のメンバーでした。性の解放やアナキズム、キリスト教の否定を掲げる過激なグループは、20世紀に登場する反抗する若者たちの先駆だったともいえます。
1885年、彼は遠い親戚にあたる画家フリッツ・タヴロヴの援助により、パリに行き、サロンやルーブル美術館を見学。そこでマネやピサロら印象派絵画の影響を受けて帰国します。この時期の代表作「思春期」や「フルダ」はそうした影響のもとで描かれた作品です。
1889年、彼は油彩画110点を並べて初の個展を開催。批評家たちからは酷評されますが、政府から留学のための資金を得ることができ、再びパリへと向かいました。そして、当時、サロンの大御所だったレオン・ボナのアトリエで美術の基礎から学び始めますが、師とは上手くゆかずにパリ近郊のサン=クルーに引っ越してしまいます。アトリエもやめ、酒場で飲み明かす中、彼は突然、それまでの絵画スタイルとの決別を決意します。これ以降、彼は「読書する人」や「編み物をする女」などを描くことをやめ、生身の人間の感情をそのまま描く新しいスタイルを模索し始めます。
1890年、一度帰国した彼は、ル・アーブルへ向かいますが、持病のリューマチ熱が悪化して入院。その後、暖かなニースに行った後にパリに戻って描いたのが、後に「叫び」の構図のもとになったともいわれる「ラファイエット通り」です。この作品以後、彼の作品は印象派的な明るい光に満ちたものから、重いトーンの色彩からなるゴーギャン的なものへと変わってゆくことになります。
1891年、彼にとっての英雄だったクリス・クローグと彼の妻オーダそして友人のニールセンの三角関係からイメージを得た作品「メランコリー(嫉妬)」を描き高い評価を得ます。この作品になるともう「叫び」まであと一歩という雰囲気です。何かが、そこに足りないとすれば、それは「狂気」なのかもしれません。この年の年末から再びニースに滞在していた彼は、翌年1982年1月に「叫び」のもととなる着想を得ています。

「二人の友人と道を歩いていた。太陽が沈み、ものうい気分におそわれた。突然、空が血のように赤くなった。私は立ち止まって手すりにもたれた。とても疲れていた。そして見たのだ、燃えるような雲が群青色をしたフィヨルドと街の上に、血のように剣のようにかかっているのを。友人たちが歩み去ってゆくが、私は恐怖におののいてその場に立ちすくんだ。そして聞いた。大きな、はてしない叫びが自然をつらぬいてゆくのを」
ラインホルド・ヘラー(著)「エドヴァルド・ムンク叫び」より

 ニースで着想を得たといっても、その背景となったのは、ノルウェーのオスロにあるヴァルハール通りから見る風景といわれます。さらに真っ赤な夕日の背景については、1883年5月に起きたインドネシアのクラカトゥア火山の大噴火によってもたらされた異常な夕焼けがもとになっているという説もあります。(空中を浮遊する粉塵の影響によるこの時の真っ赤な夕焼けは数年間続き、ヨーロッパでも見られたといいます)

<時代の最先端から精神病院へ>
1892年、彼はベルリン美術協会の招きでベルリンで個展を開催します。しかし、協会内部において作品に対する批判的意見が多かったことから、一週間で打ち切りになってしまいました。ところが、そのことが発端となり、美術協会内部が分裂状態となります。そしてムンクを支持するグループが新たな美術協会を立ち上げ、ベルリン分離派と呼ばれるグループが誕生することになりました。この事件により、ムンクの名前はヨーロッパ中に広まり、彼の個展が各地で開催されるきっかけとなりました。その後、彼はベルリンにしばらく滞在。そこで多くの芸術家たちと交流をもち、その中には美しい才女ドゥーシャとの恋もあり、そこから彼の代表作のひとつ「マドンナ」が生まれました。作家としての彼はこうして成功の道を歩みつつありました。しかし、運命は彼を「叫び」へと導きます。
1894年、妹ラウラが精神病院に入り、翌年には弟のアンドレアスが結核でこの世を去り、彼はその哀しみもあり、アルコール依存症になってしまいました。
1898年、彼はつき合っていた裕福な商家の娘ドゥラ・ラーセンから結婚を迫られます。しかし、アーティストとして生きるには結婚は足かせになると考えていた彼は、結婚を望まず、彼女から逃げ出してしまいます。彼のことを忘れられない娘は、彼を追いかけると銃を持って彼の部屋に押し入り、目の前で自殺をはかります。あわてて彼が銃を取り上げようとした時に銃が暴発し、彼は左手中指の先を失ってしまいました。彼の作品「女の殺し屋」はこの事件の模様を描いた作品です。自らのスキャンダルをあえて描くことで、彼は必死で精神のバランスを保とうとしていたのかもしれません。
 この事件により、さらに彼の精神はそのバランスを失い、ついには警察に追われているという強迫観念に取り付かれたり、幻覚を見るようになってしまいます。1908年、彼は精神病院に入院し、8ヵ月に渡り治療を受けることになりました。

<隠遁生活へ>
 退院した彼はノルウェー南部の港町に引越し、アルコールを絶ち、自然の中で静かな隠遁生活に入ります。静かな風景画「クラーゲリョーの冬」は、この時期に描かれた作品です。こうして、田舎の村での孤独な制作活動を行うようになった彼ですが、その間にもノルウェー王室から聖オラヴ騎士勲章を授与されるなど、彼に対する内外からの評価は変わりませんでした。
1933年、70歳の誕生日に彼はフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されますが、再び彼を悲劇が襲います。ドイツでヒトラーが政権をとると、ムンクの作品が「退廃芸術」と認定されてしまい、ドイツの美術館に所蔵されていた82点の作品が没収され、売り払われてしまったのです。そのうえ、彼の母国ノルウェーもドイツ軍に占領されてしまいます。彼はナチス政権下のノルウェーで生きるために、庭で農作業をしながら自給自足の生活を続けることになりました。
1943年、80歳になった彼の自宅が戦闘に巻き込まれてしまします。窓ガラスを失った家で彼は寒さのために気管支炎を患います。
1944年1月23日、気管支炎をこじらせてしまった彼はついに死を迎えることになりました。
 精神的に弱かったはずの彼ですが、80歳という年月を生きるうちに、彼は「叫び」の呪縛から逃れることで芸術性、体力、人間性に自信を持つことができるようになったのかもしれません。彼は「叫び」をその後何度か描きなおしていますが、それは最初に彼が着想を得た時の「叫び」が時と共に彼の中で変化してゆくのを作品として残したかったからなのかもしれません。
 それにしても、彼自身まさか自分が80歳まで生きられるとは思っていなかったはずです。それだけに、運命の叫び声に脅えていた画家は、最後の瞬間にきっと自信をもって死神を迎え入れたのでは?そんな風に僕は思うのですが・・・。
 他人から見ると、「叫び」以後の彼は凡庸な人生を送ったようにも思えるかもしれません。でも、ゴッホのように死を迎えようが、彼のように80歳まで生き延びようが、その絵の価値はそんなことおてゃ無関係に21世紀の今、より重みを増している気がします。
 確かなことは、「叫び」は彼ではなく我々に今なお襲いかかりつつあるということです。

<参考>
「ムンクの世界」
 2012年
(解説)平松洋
新人物往来社

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