「村上春樹 雑文集」

- 村上春樹 Haruki Murakami -

Part 3

<ベスト・オブ・雑感>
 小説家は作品にすべてを語らせるべきであって、その種を別の形で明かしてはいけない。これはたぶん、ほとんどの小説家がモットーとしていることではないでしょうか。もちろん、そのことは他の芸術ジャンルにもそのままあてはまりそうです。しかし、小説家が作品で語れるのはごくごくわずかな思いに過ぎず、彼が語りたいことは他にもいっぱいあるはずです。
 大好きな音楽についてだったり、昨日食べた美味しいラーメン屋さんについてだったり、最近のテレビ番組のくだらなさについてだったり、野球やサッカーのひいきチームの試合結果についてだったり、いくらだって語りたいことはあるはずです。しかし、それらをすべて自らの作品に詰め込むわけにはゆきません。
 そんなわけで、あの村上春樹氏も今まで小説の中には書けなかった様々な雑感をエッセイとして文章化し、いろいろな雑誌などで発表しています。そしてそれらの文章の中には、一度きりの掲載で消えるのはもったいないものも数多く存在しました。そこで、これまで彼が発表したものの中で、その後、エッセイ集などには載せられなかった文章を集め、そこから選び抜いた作品集が作られました。それが2011年発表の「村上春樹雑文集」です。(1979年から2010年までの間に発表された文章の中から選ばれた69編は、間違っても「雑な文章」ではありません)

<文章を書くために必要ないくつかのこと>
 この文集には、音楽や友人たち、政治についてなど、様々なについて書かれたものが収められています。しかし、最も印象に残るのは、やはり「小説」について「小説を書くこと」について書かれた文章です。
「なぜ、小説を書くのか?」
「小説を書くためには何が必要か?」
など、実にコアなことについて、作家、村上春樹がその手の内を明かしてくれます。このサイトの読者にとっても、僕にとっても、大いに勉強になる内容です。そんなわけで、ここでは、それらの文章の中から「文章を書くために必要ないくつかのこと」というテーマでいくつか選んで見ました。

「これじゃあ、国語の教科書じゃないか?」と言われそうですが、より良い文章を書こうと思うならこれらはどれも頭にとどめておきたいことばかりです。もちろん、これらはほんの一部なので、より正確に理解するためには、是非、本を買ってただければと思います。

<観察せよ!>
 様々なことを常に観察することは、小説家の大切な仕事。そして、それを読者に分かりやすく提示するのも小説家の仕事です。あとは読者が自らの判断を下すことが求められます。
「小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。『小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業(なりわい)としている人間です』と。」
「自己とは何か」より
以下、太字はすべて村上春樹による

<自分とは何かを問いかけよ!>
 常に「自分とは何か?」を考えている人は、その問題意識が文章にも反映される。それが小説を魅力的にする重要なスパイスになるはずです。
 また小説とは、自己への問いかけを物語として描いた文章のことでもあります。
「『自分とは何か?』という問いかけは、小説家にとっては - というか少なくとも僕にとっては - ほとんど意味を持たない。それは小説家にとってあまりにも自明な問いかけだからだ。我々はその『自分とは何か?』という問いかけを、別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている。・・・」
「自己とは何か」より

<世界を受け入れ、文章に生かせ!>
 世界との関わりをもち、世界の歴史、現実、文化、政治、芸術・・・すべてを用いて小説を生み出すこともまた小説家の目指すべきこと。
「僕が言いたいのは簡単にいえばこういうことだ。僕の輪は開かれている。ぽっかりと開かれている。僕はそこから、世界中の牡蠣フライやメンチカツや海老コロッケや地下鉄銀座線や三菱ボールペンをどんどん受け入れていく。物質として、血肉として、概念として、仮説として。そして僕はそれらを使って、個人的な通信装置を作り上げていこうと思う。ちょうど『ET』がそのへんにあるがらくたを組み合わせて惑星間通信装置を組み立てたのと同じように。なんだっていいのだ。なんだっていいということがいちばん大切なのだ。僕にとって。本当の僕にとって。」
「自己とは何か」より

<虚構の世界で語れ!>
 虚構こそ小説の本質、真実は虚構の中でしか描けません。
「・・・真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写することは多くの場合ほとんど不可能です。だからこそ我々は、真実をおびき出して虚構の場所に行動させ、虚構のかたちに置き換えることによって、真実の尻尾をつかまえようとするのです。しかしそのためにはまず真実のありかを、自らの中に明確にしておかなくてはなりません。それがうまい嘘をつくための大事な資格になります。」
「『壁と卵』 - エルサレム賞の受賞挨拶」より

「つまり小説というものは、使用されているマテリアルをひとつひとつ取り上げれば、虚構=擬似であるけれど、それが従う個人的オーダーと、並べ替えの作業プロセスについていえば、紛れもなく実際的なものである(べきである)。我々小説家がどこまでも虚構にこだわるのは、多くの局面において、おそらくは虚構の中でしか、仮説を有効かつコンパクトに積み上げることができないと知っているからだ。・・・」
「『壁と卵』 - エルサレム賞の受賞挨拶」より

<自分の目で見たものだけを信じよ!>
「『そこに行くな』『それをやるな』と言われると、とくにそのように警告されると、行ってみたり、やってみたくなるのが小説家というもののネイチャーなのです。なぜなら小説家というものは、どれほどの逆風が吹いたとしても、自分の目で実際に見た物事や、自分の手で実際に触った物事しか心からは信用できない種族だからです。」
「『壁と卵』 - エルサレム賞の受賞挨拶」より

<システムに抗する魂を描け!>
 あのエルサレム賞授賞式で語られた伝説的講演より。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。・・・」

「私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。・・・」

「考えてみてください。我々の一人一人には手に取ることのできる、生きた魂があります。システムにはそれはありません。システムを独り立ちさせてはなりません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。・・・」


<リズムのある文章を書け!>
 小説も音楽と同じように読者はリズムを感じながら読むものである。リズム感のある文体を身につける必要があります。

「音楽にせよ小説にせよ、いちばん基礎にあるものはリズムだ。自然で心地よい、そして確実なリズムがそこになければ、人は文章を読み進んではくれないだろう。僕はリズムというものの大切さを音楽から(主にジャズから)学んだ。それからそのリズムにあわせたメロディー、つまり的確な言葉の配列がやってくる。それが滑らかで美しいものであれば、もちろん言うことはない。そしてハーモニー、それらの言葉を支える内的な心の響き。その次に僕のもっとも好きな部分がやってくる - 即興演奏だ。」
「違う響きを求めて」より

<普通の言葉を用いよ!>
 専門用語などもっての他。普通の言葉を用い、それに独自の意味、そして命を与えることこそ小説家の仕事なのです。

「・・・そう、新しい言葉なんてどこにもありはしない。ごく当たり前の普通の言葉に、新しい意味や、特別な響きを賦与するのが我々の仕事なんだ、と。そう考えると僕は安心することができる。我々の前にはまだまだ広い未知の地平が広がっている。開拓を待っている肥沃な大地がそこにあるのだ。」
「違う響きを求めて」より

<居心地の良い部屋を創造せよ!>
 「ナルニア物語」のようにドアを開けて入った瞬間に夢の世界へと見も心も引き込まれてしまうような居心地の良い世界を創造するのも小説家の仕事。そうすることで読者が本を読んでいることを忘れられればそれは最高の作品。小説家は魔法使いでなければならない。

「小説を書くということは、つまり物語を作るということであると考えています。物語を作るというのは、自分の部屋を作ることに似ています。部屋をこしらえて、そこに人を呼び、座り心地のいい椅子に座らせ、おいしい飲み物を出し、その場所を相手にすっかり気に入らせてしまう。そこがまるで自分だけのために用意された場所であるように、相手に感じさせてしまう。それが優れた正しい物語のあり方だと考えます。・・・」
「遠くまで旅する部屋」より

<自分なりの判断基準を持て!>
 文章を書く者は、それぞれが「良い文章」について、独自の判断基準を持たなければなりません。その判断基準は誰もが同じではないはずです。
「・・・真っ暗で、外に木枯らしが鋭いうなり声を上げている夜に、みんなで体温を分かち合うような小説。どこまでが人間で、どこまでが動物か、わからなくなってしまうような小説。どこまでが自分の温かみで、どこからがほかの誰かの温かみなのか、区別できなくなってしまうような小説。どこまでが自分の夢で、どこからがほかの誰かの夢なのか、境目が失われてしまうような小説が、僕にとっての『良き小説』の絶対的な基準になっているような気がする。・・・」
「温かみを醸し出す小説を」より

 村上春樹が彼なりの判断基準を築くために最も重要だったのは、音楽を聞き続けてきた経験だったといいます。ただし、それは人ぞれぞれ異なるはずだといいます。
「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさとは何か?それは、いいものと悪いものの差がはっきりわかる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。・・・」
「余白のある音楽は聴き飽きない」より

<世界の果てを描け!>
 誰も見たことのない世界の果てを想像し、その場所を描くのもまた小説家の仕事。もちろん、他にも日常の中にも世界の果てが存在するかもしれません。
「・・・もちろん現実の地球は球形だから、どこまでいっても「果て」はないわけですが、僕が考えているのはもっと神話的な世界のことです。内的な世界、と言ってもいいかもしれない。そういう世界にはちゃんと「端っこ」があるわけです。そしてそこには「ここが世界の端っこです」と書かれた立て札が立っているかもしれない。あなたはそういう場所に行ってみたいと思いませんか?僕は思います。だからこそ僕は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という小説を書いたわけです。・・・」
「うまく歳をとるのはむずかしい」より

<大切なものを探求せよ!>
 大切な何かを探求するのは、面白い物語の基本のひとつ。「指輪物語」「市民ケーン」も「聖書」も「偉大なるギャツビー」も、どれも探求の物語です。
「僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは『あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず
我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから』ということです。」

「遠くまで旅する部屋」より

<魂と世界の交流を描け!>
 魂とは何ぞや?それは意識が世界と交流することで生まれる。そしてそれがすべての物語の始まりでもあります。
「魂は存在するのか?それは有限なものなのか、無限なものなのか?死とともに消えてしまうものなのか?そのような問いかけに対する答えを僕は、そしておそらくはチェーホフ氏も、持たない。僕にわかるのは、我々には意識というものがあるという事実だけだ。我々の意識は、我々の肉体の中にある。そして我々の肉体の外にはべつの世界がある。我々はそのような内なる意識と外なる世界の関係性の中に生きている。その関係性は往々にして、我々に哀しみや苦しみや混乱や分裂をもたらす。
 でも、と僕は思う。結局のところ、我々の内なる意識というものはある意味では外なる世界の反映であり、外なる世界とはある意味では我々の内なる意識の反映ではないのか。つまりそれらは、一対の合わせ鏡として、それぞれの無限のメタファーとしての機能を果たしているのではあるまいか?」

「自分の物語と、自分の文体」より

<開放された夢の世界を築け!>
 閉じられた世界(カルトな世界)ではなく、開かれた世界を築くことが、物語の重要な基礎になる。その物語は「はてしない物語」のように現実へのつながりがなければならない。
「・・・僕らは物語という装置を通してそれを行う。『跳びなさい』と僕らは言う。そして読者を物語という現実外のシステムの中に取り込む。幻想を押しつける。勃起させ、怯えさせ、涙を流させる。新しい森の中に追い込む。固い壁を抜けさせる。自然ではないことを自然であると思わせる。起こるはずのないことを起こったことであると信じさせる。
 しかし物語が終わったとき、仮説は基本的にその役割を終える。・・・言い換えれば、その物語は開かれている。・・・
 しかし個人としての麻原彰晃が、組織としてのオウム真理教が多くの若者に対してなしたのは、彼らの物語の輪を完全に閉じてしまうことだった。・・・」

「自己とは何か」より

<奇跡を起こす物語を描け!>
 スポーツ史における数々の名勝負において奇跡ともいえるプレーが生まれているように、素晴らしい小説は現実世界に奇跡を起こすことがあります。その奇跡を現実と思わせるのが小説家の仕事です。
「小説を書くというのは、頭の中で物語を思うがまま、自由に作り上げる作業にほかならない。それは根も葉もない物語かもしれない。しかし一度作り上げられ、印刷され、作品というかたちを与えられた物語は、しばしば - もしそれが正当な物語であればということだが - 自立した生命体として、それ自体の資格でひとりでに動き始める。そして予期してもいないときに、あっと驚くような真実の側面を、作者や読者に垣間見させてくれることになる。・・・」
「物語の善きサイクル」より

<読者との善きサイクルを生み出せ!>
 素晴らしい小説が奇跡を起こすように、素晴らしい小説は読者に影響を与えるだけでなく、逆に読者からの影響を受け、それが作品に新たな影響を及ぼすことになります。こうした「善きサイクル」が生まれたとき、作者は新たな段階へと進化することになるのです。
「作家が物語を創り出し、その物語がフィードバックして、作家により深いコミットメントを要求する。そのようなプロセスを経過することによって作家は成長し、固有の物語をより深め、発展させていく可能性を手にする。言うまでもなく、この世界に永久運動というようなものは存在しない。しかし手入れを怠らず、想像力と勤勉さという昔ながらの燃料さえ切らさなければ、この歴史的な内燃機関は忠実にそのサイクルを維持し、我々の車両は前方に向かって滑らかに - あくまで行けるところまでということだが - 進行し続けるまではあるまいか。僕はそのような物語の「善きサイクル」の機能を信じて、小説を書き続けている。」
「物語の善きサイクル」より

 いかがでしたか?参考になったでしょ?もちろん、すべて村上春樹師匠のお言葉であって、僕はそれを再編集し代読しただけです。
 こうなったら、是非、まるごと本をお読み下さい!

「村上春樹 雑文集」 2011年
(著)村上春樹
新潮社

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