ミュージカルの歴史
<PART1>
19世紀から1930年代

- 「レビュー」から「ミュージカル」への発展期 -

<PART1>
19世紀から1930年代
<PART2>
1940年代~1960年代
<PART3>
1970年代~1990年代
<PART4>
2000年代~2020年代
ロングラン・ヒット・ランキング
歴代トニー賞作品賞 
<ミュージカルの原点>
 ミュージカルの原点は、1728年にロンドンで初演されたジョン・ゲイ作「乞食オペラ The Beggar's Opera」だと言われています。民謡を基にしてジョン・ゲイが作詞を行い、編曲を作曲家のヨハン・クリストフ・ペープシュが担当しました。イギリスで大人気だったイタリアのオペラを皮肉る犯罪者を主人公にしたコメディタッチのオペラ作品です。この作品は、1750年にニューヨークでも初演されました。さらにこの作品を、200年後の1928年に翻案したのがベルトルト・ブレヒトの名作「三文オペラ」です。(音楽はクルト・ワイル)
 ロンドンで生まれた音楽と演劇のコラボ作品は、その後ヨーロッパ全土に広まってゆきました。

<フランスにて>
 19世紀半ば、パリでオペレッタと呼ばれる軽歌劇が誕生。「小さいオペラ」として、広い客層にポピュラーな文化として受け入れられました。
 1858年、オッフェンバック作曲の「地獄のオルフェ」が、パリで初演され、初の本格的オペレッタとして大ヒット。挿入曲「フレンチ・カン・カン」は、パリのエンターテイメントを象徴する曲となりました。
「レビュー」
 フランスが生んだ大衆芸能「レビュー」は、元々は年の終わりに一年の出来事を回顧(レビュー)する時事的風刺劇のことでした。それに歌やダンス、コント、スケッチなどを加え、舞台装置や衣装もを豪華にし、最終的には「ダンスや歌を中心に大がかりなセットで行われるショー」のことを「レビュー」と呼ぶようになったのでした。
 日本ではこの「レビュー」の影響を受けて、宝塚歌劇団が誕生することになります。

<イギリスにて>
 19世紀イギリスでは、作曲家アーサー・サリヴァンと劇作家W・S・ギルバートのコンビによるコミック・オペラ「サヴォイ・オペラ」がブームとなりました。その後、同じようなオペラのヒット作が次々誕生します。「軍艦ピナフォア」(1877年)、「ペンザンスの海賊」(1879年)に続きジャポニズム・ブームに乗った日本を舞台にした作品「ミカド」(1885年)も大ヒットしています。
「ミュージック・ホール」
 パブの経営者チャールズ・モートンが労働者相手の大衆娯楽の殿堂として1852年に建てた「カンタベリ」が原点と言われます。収容人員1000人という当時としては大型のその施設は、当初はお酒を楽しむ大型の居酒屋で、オペラや歌謡ショーはオマケ的な存在でした。しかし、しだいにそのオマケがいつしか主役になり始めます。そこにシンガー・ソングライターや専属の作曲家・作詞家などが登場し、看板スターが誕生。それぞれの店が独自のスターを求めて、盛り上がりを見せるようになります。
 1937年初演のミュージカル「Me and My Girl」は、カンタベリへのオマージュ作品でした。
 1880年代になり、興行の内容についての規制が緩和されたことで、演目は一気に多様化。歌とダンスの他にも、手品、モノマネ、腹話術、力自慢、パントマイム、アクロバット、ドタバタ劇などが登場。この延長にサーカスが誕生することになりました。
 ミュージックホールは、19世紀末にはロンドン市内に150以上に達し、週に百万人が訪れる一大産業に成長しました。

<アメリカにて>
 1843年、「ヴァージニア・ミンストレルズ」というミンストレルズ・ショーの最初の劇団が誕生しています。
「ミンストレルズ・ショー」
 1850年~1870年代にかけてピークを迎えた黒人文化と白人文化を初めて融合させたアメリカならではのショーのスタイルです。
 顔を黒く塗った白人による歌、ダンス、ジョークなどを融合させたショー。
 「チャーリー・ミンストレルズ」が3幕ものの形式を確立し、このスタイルはアメリカ全土に広がることになり、その後に生まれたバーレスクやヴォ―ドビルに影響を与えることになりました。
「バーレスク」
 英国の発祥ですがアメリカで独自の発展を遂げました。本来は英国の本格的な演劇や文学作品をパロディー化したコミック・オペラのことで、「乞食オペラ」もその一つでした。
 19世紀半ばから、アメリカのバーレスクは文学性を完全に捨て、お笑いとお色気を売りにしたエンターテイメント・ショーになります。後に伝記ミュージカルが作られることになるジプシー・ローズ・リーは、この時代の大スターでした。
 アメリカでもミュージック・ホールの影響を受けて出し物が多様化し、それらはまとめて「ヴォードヴィル」と呼ばれるようになります。そのメニューとしては、アクロバットや動物の芸、寸劇、スターによる見世物、コーラス、オーケストラのショー、様々なショーがあり、最後にバンド演奏による締めの演奏が行われるスタイルでした。
 1881年「ヴォードヴィルの父」と呼ばれたトニー・パスタ―がニューヨークで劇場をオープンさせて大当たりとなり、その後、1920年頃にかけて大衆演芸の中心文化として発展を続けることになります。
「レビュー」
 1894年、フランス生まれの「レビュー」を持ち込み、ブロードウェーで初のレビュー「The Passing Show」が上演されました。
 「レビュー」をさらに大がかりなものに発展させたのが伝説的プロデューサーのフローレンツ・ジーグフェルドです。
 1907年、彼が製作した「フォーリーズ」が大ヒットし、「レビュー」は大衆娯楽の花形となりました。
 「レビュー」にはヴォードヴィルと違い、全体のコンセプトがあり、音楽・脚本・演出が重要な意味をもつことになります。
「ミュージカル」
 「ミュージカル」とは英語で「音楽的な」です。そもそも「ミュージカル」は、「ミュージカル・コメディ」のことで「音楽」と「コメディ」の融合した「レビュー」でした。
 1866年、「黒い悪魔 The Black Crook」が、ブロードウェイのミュージカル・コメディとして最初のロングランヒットとなりました。
 百人のバレエ・ダンサーが登場する大がかりなメロドラマ作品で、物語の基本は「ファウスト」からとられています。(475公演)
 1884年、「アドニス Adonis」は603公演のヒットなり、「黒い悪魔」の記録を抜きました。
 1891年、「中華街への旅 A Trip to Chinatown」は657公演のヒットとなり、「舞踏会のあとで」「ルーベンとシンシア」「バクリー」の3曲がヒットしています。

<ブロードウェイの時代始まる>
 1904年、ニューヨークの新聞社「ニューヨーク・タイムズ」の本社ビルが、ブロードウェイの中心に建てられ、「タイムズ・スクエア」と呼ばれることになります。その頃から、タイムズ・スクエアを中心としたブロードウェイがミュージカルの中心地となりました。

<3人のオペレッタの作曲家>
 当初、アメリカはヨーロッパからオペレッタを輸入していましたが、ヨーロッパ生まれの3人の偉大なオペレッタの作曲家によって、アメリカ・オリジナルのオペレッタが生み出されることになりました。
<ヴィクター・ハーバート>
 ヴィクター・ハーバート Victer Herbert は、1859年2月1日アイルランドのダブリンに生まれました。ドイツで音楽を学び、27歳の時、アメリカに移住しました。チェロ奏者でもある彼は、ウィーン・オペレッタをアメリカに持ち込みました。
 代表作は、「占い師 The Fortune Teller」(1898年)(挿入歌「ジプシーのラヴ・ソング」)、「おもちゃの国の子供たち Babes in Toyland」(1903年)(挿入曲「おもちゃの行進曲」)、「赤い風車」(1906年)、「いたずらマリエッタ」(1910年)、「恋人たち」(1913年)

<ルドルフ・フリムル>
 ルドルフ・フリムル Rudolf Friml は、1879年12月7日オーストリア=ハンガリー帝国(現チェコ)のプラハに生まれました。プラハ音楽院でドヴォルザークに学んだ作曲家、ピアニストで、1906年アメリカに移住。ヴィクター・ハーバートのおかげでオペレッタが大人気となったものの、後継者になれる作曲家がいなかったため、本格的な教育を受けたフリムルに作曲の依頼が来ました。
 代表作は、「蛍」(1912年)、「三銃士」(1924年)、「放浪の王者」(1925年)(主題歌「バガボンドの唄」は日本で別の歌詞がつけられ「蒲田行進曲」となります!)、「ローズマリー」(1924年)(挿入歌「インディアン・ラヴ・コール」はスタンダード曲)

<シグムンド・ロンバーグ>
 シグムンド・ロンバーグ Sigmund Romberg は、1887年7月29日オーストリア=ハンガリー帝国に生まれ、ウィーンで音楽を学びました。その後、英国経由で1909年にアメリカに移住。オペレッタの作曲家としては活躍し、オスカー・ハマースタイン2世との共作で多くの名曲を世に出しました。
 ウイーンのオペレッタ「楽園の一日」を原作とした「青い楽園 The Blue Paradise」(1915年)、「5月の頃 Maytime」(1917年)のヒットにより、ハーバートの後継者として認められるようになりました。
 「花咲く頃 Blossom Time」(1921年)は、フランツ・シューベルトの曲をもとにしたミュージカルで516公演のヒットになりました。クラシック音楽を借用した最初のブロードウェイ・ミュージカルと言われています。
 「ハイデルベルクの学生王子」は、ドイツの戯曲「懐かしのハイデルベルク」を原作にした作品で、608公演のヒットになり、挿入歌「セレナーデ」はスタンダードとなりました。

<フローレンツ・ジーグフェルド>
 伝記映画「巨星ジーグフェルド」(1936年)でも有名なプロデューサー、フローレンス・ジーグフェルドは、1907年から1931年にかけて、21本のレビュー「フォーリーズ」を製作しました。
 「フォーリーズ」とは、「愚行」「ばかげた出来事」のことで、新聞のコラムにあった「今日のフォーリーズ」というコーナーの名前からとられたそうです。
 大ヒットした彼の「フォーリーズ」は、1911年からは「ジーグフェルド・フォーリーズ」と名づけられ、アメリカ型レビューの原型となりました。

<ジョージ・ホワイト>
 ジョージ・ホワイトは、レビュー「ジョージ・ホワイトのスキャンダルズ George White's Scandals」を1919年から21年間に13本製作しました。
 いずれも彼自身が製作、演出、振付を担当し、作曲と作詞をジョージ・ガーシュインが担当しました。彼の名曲「ラプソディ・イン・ブルー」も、その26年版に挿入曲として使用されました。

 その他の代表的レビューとしては、「シューバート兄弟のパッシング・ショー The Passing Show」1912年から1924年まで12本製作。「アール・キャロルのヴァニティーズ Earl Carrol's Vanities」は、1923年から11品上演。アーヴィング・バーリンによる「ミュージック・ボックス・レビュー Music Box Revue」は、1921年から4本上演。
 1920年頃までは、これらのレビューが中心でストーリー性のある作品ではなかった。

<黒人音楽の影響>
 1920年代以降、黒人音楽の影響が増してきます。
 1921年の「シャッフルで行こう Shuffle Along」は、初の黒人ミュージカル作品です。
 作曲者は、黒人奴隷の息子ユービー・ブレイクで、脚本、演出、出演すべてが黒人による作品となりました。
 その影響のもと、1924年にジョージ・ガーシュインがジャズとクラシックの融合となった名曲「ラプソディ・イン・ブルー」を発表します。

<ブロード・ウェイの父>
 ジョージ・M・コーハン(1878年~1942年)は歌って踊れる俳優で、作曲、作詞、脚本、演出を一人でこなしました。
 1904年「小さなジョニー・ジョーンズ Little Johnny Jones」をヒットさせ、「ブロードウェイから45分」など、21本のミュージカルをヒットさせました。
 1942年の映画「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」は、コーハンの伝記映画で、彼は「ブロードウェイの父」と呼ばれる存在となりました。
 ブロードウェイのタイムズ・スクウェアには彼の銅像もあります。
 この時代のミュージカルのヒット作品は、「シンデレラ・ストーリー」と「ボーイ・ミーツ・ガール」が基本的なストーリーでした。

<初期ミュージカルの5大作曲家>
 アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュイン、リチャード・ロジャース、コール・ポーターが、戦前のミュージカルを支えた5大作曲家です。
 1925年9月は、大物作曲家たちの歴史的名作4本が同時期に公演され、ブロードウェイのミュージカルはいよいよ黄金時代を迎えることになります。
 9月16日、「ノー、ノー、ナネット No,No,Nanette」は、コール・ポーターの作品。
 9月18日、「最愛の敵 Dearest Enemy」は、ロジャーズ&ハートのコンビによる作品。
 9月21日、「放浪の王者」は、ルドルフ・フリムル作曲のアメリカ製オペレッタ。
 9月22日、「サニー Sunny」は、ジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン2世のコンビによる作品。

 1929年10月24日にニューヨークから始まった世界恐慌により、オペレッタは衰退し、逆にわかりやすいエンターテイメント作品のレビューが人気となります。
 ただし、社会不安の中、政治批判を盛り込んだ社会派の作品が登場するきっかけともなりました。ガーシュイン兄弟はその先駆的な作家です。

<アーヴィング・バーリン>
 アーヴィング・バーリンは、1914年のレビュー「足元にご注意  Watching Your Step」で初めてラグタイム(ジャズの原点のひとつ)を導入。
 後に世界初のトーキー作品として映画化されることになる「ジャズ・シンガー」(1927年)の作曲者で、この映画からはアル・ジュルスンの「ブルースカイ」がヒットし、スタンダード曲となりました。
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「フェイス・ザ・ミュージック Face The Music」(1932年165公演)
 (作曲・作詞)「アーヴィング・バーリン(台)モス・ハー
 赤字続きの劇場を利益を生み出そうとわざと駄作を作ろうとした劇場主のコメディ。
 2001年に「プロデューサーズ」として映画化。

「幾千の喝采をあびて As Thousand Cheers」(1933年400公演)
 「イースター・パレード」が大ヒットし、スタンダード曲となった。

<ジェローム・カーン>
 ジェローム・カーンのヒット作としては、「オー、ボーイ! Oh,Boy!」(1917年)、「サリー Sally」(1920年)などがあり、「サニー Sunny」(1925年)からは「Who?」がヒットしています。
 自立し遊びにお金を使う女性たち「フラッパー」のブームもあり、この時期の題材には女性の自立やモダンな女性ファッション、チャールストンなどの新たらしいダンスが目立っていました。
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「ショウ・ボート Show Boat」(1927年572公演)
 (作曲)ジェローム・カーン(作詞・台本)オスカー・ハマースタイン2世(製)フローレンツ・ジーグフェルド
 原作は女流作家エドナ・ファーバーの同名小説(1926年)
 1927年12月27日ブロードウェイ、ジーグフェルド劇場で初
 劇場船コットン・ブロッサム号で働く芸人・音楽家らの人間模様を40年に渡って描いた大作。
 白人と黒人の結婚、アルコール依存症などの社会問題も扱った当時としては斬新な作品だったため、初演では拍手もなくカーテン・コールもなかったそうです。しかし、深い物語性と計算された音楽、シリアスな社会性を盛り込んだことでこの作品の評価はしだいに高まることになりました。そして、その後のミュージカルの歴史を大きく変えることになりました。
 1929年、1936年、1951年に三回映画化されました。
 この作品により、作品のメインテーマとなるメロディを様々なパターンに展開する「ライト・モチーフ」の手法が確立されたと言われます。

「ロバータ Roberta」
 (作曲)ジェローム・カーン(作詞・台本)オスカー・ハマースタイン2世(1933年初演で295公演)
 パリのブティックを舞台にしたラブ・ロマンスもの。
 挿入歌「煙が目にしみる」、「イエスタデイズ」が有名。
 この後、二人はミュージカル映画の作曲・作詞でも活躍。フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャースの映画「有頂天時代」(1936)でアカデミー主題歌賞を受賞します。

<ジョージ・ガーシュイン>
 1924年にポール・ホワイトマンの楽団と「ラプソディ・イン・ブルー」を発表し、一躍、時の人になったジョージ・ガーシュインは、同じ1924年に初めて兄のアイラ・ガーシュインの作詞によるミュージカル「Lady ,Be Good!」を発表。この後、二人はジャズを用いた新しいミュージカルのスタイルを確立して行きます。
 1926年の「Oh,Kay!」は、アデールとフレッドのアステア兄弟の出世作となった記念すべき作品。
 1930年の「ガール・クレイジー Girl Crazy」からは、「I Got Rhytnm」、「抱きしめたいあなた」、「But Not For Me」など、誰もが知っているスタンダード曲が生まれています。

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「バンドを打ち鳴らせ Strike Up the Band」(1930年191公演)
 (作曲・作詞)ジョージ・ガーシュイン、アイラ・ガーシュイン
 スイス産チョコレートへの関税が低すぎると怒るアメリカのチョコレートメーカー・オーナーが夢の中で米軍を率いてスイスとの戦争を始めるというブラック・ユーモア作品。
 「君に首ったけ」は、この作品から生まれたスタンダード曲。
 演奏担当は、レッド・ニコルズの楽団でメンバーには、ベニー・グッドマン、ジーン・クルーパ、グレン・ミラーらがいました。

「我、汝を歌う Of Thee I Sing」(1931年441公演)
 (作曲・作詞)ジョージ・ガーシュイン、アイラ・ガーシュイン
 アメリカの大統領選挙をパロディー化した作品で、ミュージカルとして初めてピュリッツァー賞を受賞しました。

「ポーギーとベス Pprgy and Bess」(1935年124公演)
 1927年に舞台化された戯曲「ポーギー」をガーシュイン兄弟と原作者のデュボース・ヘイワードが作詞にも参加してミュージカル化。
 アメリカ南部サウスカロライナ州チャールストンの黒人貧民街を舞台にしたミュージカル。
 黒人音楽の要素を導入し、「フォーク・オペラ」とも呼ばれゴスペルとジャズの用いた名曲が生まれました。
 1959年、オットー・プレミンジャー監督、シドニー・ポワチエ主演で映画化。「ポーギーとベス」
 「サマータイム」、「I Love You Porgy」などは、多くのアーティストにカバーされることになります。
 人種問題を扱った社会派の作品は、当初は大衆受けすることなく124回公演で終了しました。
 しかし、その後、世界中でこの作品は再演されるロングランヒットとなります。
 残念ながらジョージ・ガーシュインにとって、これが最後のブロードウェイ作品となり、彼は1937年にこの世を去ります。
 彼の死後、その遺作をまとめて作られたのが、映画「巴里のアメリカ人 An American In Paris」(1951年)で、そこからは名曲「I Got Rhythm」が生まれています。

<リチャード・ロジャーズ&ロレンツ・ハート>
 リチャード・ロジャースの作曲、ロレンツ・ハートの作詞による最初のヒット作は、レビュー「ギャリック・ゲイエティーズ Garrick Gaieties」(1925年)で、挿入曲「マンハッタン」がヒットしました。「最愛の敵 Dearest Enemy」(1925年)に続き、アーサー王伝説を下敷きにした「コネチカット・ヤンキー Conneticut Ynnkee」(1927年)がヒット。「ハートが立往生」「あなたは素敵」などの曲が有名です。

「オン・ユア・トーズ On Your Toes」(1936年315公演)
 リチャード・ロジャースの作曲、ロレンツ・ハートの作詞。
 ロシアン・バレエとジャズを融合させた作品。
 振付はロシア出身のジョージ・バランシン。
「ベイブズ・イン・アームズ Babes In Arms」(1937年289公演)
 リチャード・ロジャースの作曲、ロレンツ・ハートの作詞。
 保安官に労働農場に送られそうになった若者たちが、それを逃れるためにレビューを上演しようとするお話。
 「My Funny Valentine」、「When Or When」、「もう一度恋ができたら」、「Johnny One Note」、「The Lady Is A Tramp」などがヒットし、スタンダードとなりました。
「パル・ジョーイ Pal Joey」(1940年374公演)
 リチャード・ロジャースの作曲、ロレンツ・ハートの作詞。原作はジョン・オハラの短編小説。
 流れ者のクラブシンガーと女性たちの物語。最高傑作とも言われる作品。
 「魅せられて」がヒットし、スタンダードになり、主演のジーン・ケリーの出世作ともなりました。
「ジュピターにかけて By Jupiter」(1942年427公演で当時の最多上演記録)
 リチャード・ロジャースの作曲、ロレンツ・ハートの作詞。
 この後、ロレンツ・ハートがアルコール依存で仕事をしなくなり、ロジャーズは別の作詞家と組むことになります。
 それが「オクラホマ!」です。
映画「ワーズ&ミュージック」 Words and Music 1948年 
(監)ノーマン・タウログ(アメリカ)
(製)アーサー・フリード(脚)フレッド・F・フィンクルホフ(撮)チャールズ・ロッシャー、ハリー・ストラドリング(音)リチャード・ロジャーズ、ロレンツ・ハート
(出)ミッキー・ルーニー、トム・ドレイク、ジーン・ケリー、レナ・ホーン、ジューン・アリソン、ジュディ・ガーランド、ペリー・コモ、シド・チャリシー、アン・サザーン、ベティ・ギャレット
ミュージカルの作曲家コンビ、リチャード・ロジャーズ&ロレンツ・ハートの伝記映画
2人の作品の名場面をミュージカル界のスターたちが歌ってゆく豪華なミュージカル作品でしたが、当時日本では公開されませんでした。
ハリウッド・ミュージカル黄金時代の名場面集とも言える歴史的な作品です。
アルコール依存症となり短い生涯を終えたロレンツ・ハートはどうやらゲイだったようです。そう思うと、彼が彼女に振られ続けたのも納得です。
たとえブロードウェイとは言え、当時はまだ同性愛者が堂々と生きることは難しかったのでしょう。
彼の作品の中に潜む、悲しみの原因はそこにあったのかもしれません。 

<リチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン>
 シアター・ギルドが音楽劇「ライラックは緑に茂」のミュージカル化をリチャード・ロジャースに依頼。ロジャーズは作詞をロレンツ・ハートに依頼しますが、彼が断ったことからオスカー・ハマースタインと仕事をすることになります。
 1943年、そのミュージカルは「オクラホマ!」として初演がスタート。歴史的なヒットとなり、ミュージカルのその後の歴史を変えることになりました。残念なことに、その仕事を降りたハートは、1943年11月22日にマンハッタンのバーで倒れ、肺炎により48歳でこの世を去りました。

「オクラホマ! Oklahoma !」(1943年2212公演)
(作曲)リチャード・ロジャース(作詞・台本)オスカー・ハマースタイン(原)リン・リグス
 1907年オクラホマ準州が州に昇格した年のカウボーイと農民と娘たちとの恋物語。
 物語、歌、ダンスを一体化させたミュージカルとしてブロードウェイ・ミュージカルの基本スタイルを確立。
 ピュリッツァー賞特別賞を受賞し、第二次世界大戦中のアメリカの国費発揚にも貢献することにもなりました。
 この作品は、初演の12月にミュージカルとして初めて全曲を収めたオリジナル・キャスト・アルバムが発売されゴールド・レコードを受賞しています。
 1955年、フレッド・ジンネマン監督、ゴードン・マクレー、シャーリー・ジョーンズ主演で映画化。「オクラホマ!」
 この作品から二人の黄金時代が始まり、彼らの5大傑作が次々に誕生します。「回転木馬」、「南太平洋」、「王様と私」、「サウンド・オブ・ミュージック」

「回転木馬 Carousel」(1945年890公演)
(作曲)リチャード・ロジャース(作詞・台本)オスカー・ハマースタイン
 ハンガリーの戯曲「リリオム」を19世紀後半のイングランドの漁村に置き換えた悲劇的なファンタジー。
 娘を残してこの世を去った父親が、娘が心配で地上に戻ってきたお話。
 1955年、ヘンリー・キング監督、ゴードン・マクレー、シャーリー・ジョーンズ主演で映画化。「回転木馬」
 「もう独りぼっちじゃない」、「ミスタースノー」、「六月は花と開く」などがヒット。

「南太平洋 South Pacific」(1949年1925公演)
(作曲)リチャード・ロジャース(作詞・台本)オスカー・ハマースタイン
 第二次世界大戦の南太平洋の小島が舞台。男女二組の恋愛ドラマですが、人種差別の問題なども描かれた社会派作品でもあります。
 ピュリッツァー賞演劇部門賞受賞作。
 1958年、ジョシュア・ローガン監督、ミッチー・ゲイナー、ロッサノ・ブラッツィ主演で映画化。「南太平洋」
 「バリ・ハイ」、「ハッピー・トーク」などがヒット。

「王様と私 The King and I」(1951年)
(作曲)リチャード・ロジャース(作詞・台本)オスカー・ハマースタイン(出)ユル・ブリンナー、ガートルード・ローレンス
 1860年代初めのシャム王とその家庭教師となった英国人女性との友情と文化摩擦を描いた作品。
 映画版「アンナとシャム王」を見て感動したガートルード・ローレンスがミュージカル化をコール・ポーターに依頼。
 しかし、断られたため、彼女が次に依頼したのがロジャース&ハマースタインでした。
 1956年、ウォルター・ラング監督、ユル・ブリンナー、デボラ・カー主演で映画化。「王様と私」
 「Shall We Dance」、「ハロー、若い恋人たち」、「だんだんと知り合って」などがヒット。 

<コール・ポーター>
コール・ポーターのページへ
 コール・ポーターの作品からは、今でもスタンダード曲として多くのミュージシャンに演奏されるヒット曲が数多く生まれています。

「ニューヨーカーズ The New Yorkers」(1930年168公演)
 (作曲・作詞)コール・ポーター
 ニューヨークの裏社会を背景にした恋愛ドラマ。
 「ラブ・フォー・セール Love For Sale」

「陽気な離婚 Gay Divorce」(1932年248公演)
 (作曲・作詞)コール・ポーター
 「ナイト・アンド・デイ Night and Day」(フレッド・アステアが歌い大ヒット)

「エニシング・ゴーズ Anything Goes」(1934年420公演)
 (作曲・作詞)コール・ポーター
 ニューヨークから英国に向かう豪華客船を舞台にしたコメディ作品。
 コール・ポーター最大のヒット作と言われ、ヒット曲、スタンダードを多く生み出した。
 「Anything Goes」、「I Get a Kick Out of You」、「You Are The Top」、「All Thourh Night」

「ジュビリー Jubiliee」(1935年169公演)
 (作曲・作詞)コール・ポーター
 「ビギン・ザ・ビギン Gebuin The Beguin」

<PART2>1940年代~1960年代の代表作

<参考>
「ミュージカルの歴史」
 2016年
(著)小山内伸
中央公論新社

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