ファシズムの父のあまりに悲惨な最期


- ベニト・ムッソリーニ Benito Amilcare Andrea Mussolini -
<ファシズムの生みの親>
 「ファシズム」といえば、「ナチス・ドイツ」であり、ヒトラーが生みの親だと思っている人が多いのではないでしょうか?
しかし、「ファシズム」の生みの親はイタリアの独裁的指導者だったベニト・ムッソリーニであり、ヒトラーのナチス・ドイツを象徴する独特の敬礼や力強い演説のスタイルを生み出したのもまたムッソリーニでした。実際、ヒトラーはムッソリーニのことを思想的な面で師と仰いでいました。1922年、1923年に若かりしヒトラーはムッソリーニを訪ね、直接教えを受けています。その後、しばらくは彼は「ドイツのムッソリーニ」という呼び方をされていたようで、イタリアのファシスト党はナチ党に対し資金援助をしていた時期もありました。二人の立場は逆転したのは、1936年にヒトラー率いるドイツがヴェルサイユ条約を無視して、フランス領だったラインラント地方を占領した頃からのようです。
 実はムッソリーニはヒトラーのパクリでイタリアの独裁者にのし上がったのではないのです。
 ヒトラーが、「ファシズム」の思想を利用し、それを自らのカリスマ性を用いることで、ドイツを支配し、ヨーロッパの多くの右派の心をとらえたのは事実です。そのうえ、彼はヨーロッパ全土だけでなくアフリカにまでその支配地域を広げようとしたのに対し、ムッソリーニはそうした拡大路線に対する欲望を持たなかったようです。そこはやはりイタリア人、彼らはアーティストではあっても、勤勉に働く国民性ではないのです。(ムッソリーニはサッカーが好きで、1934年にワールドカップ「イタリア大会」を開催したことでも知られています)
 忘れられたファシズムの創始者のついて調べてみました。

<ベニト・ムッソリーニ>
 ベニト・ムッソリーニ Benito Amilcare Andrea Mussolini が生まれたのは、1883年7月29日。イタリア中部のプレダッピオという村の鍛冶屋の長男としてでした。母親は小学校の教師で、真面目そのものの家庭だったといいます。その名前は、メキシコ独立の英雄ベニト・フアレスなど、父親が尊敬する革命家の名前からとられたものでした。そんなバリバリの社会主義活動家だった両親の影響を受けた彼は、社会主義運動の活動家となるべく育てられたといえます。師範学校を卒業すると、彼は代用教員として働き出し、社会主義運動の闘士として活動に参加するようになります。
 暴力を肯定し、革命を夢見る青年となった彼は、農民たちを指揮して地主との闘争を助けたり、学生たちによる反戦デモを組織したりして何度も投獄されています。刑務所を出た後、29歳になった彼は社会党の地方機関紙の編集長に抜擢されるまでになります。レーニンとも親交があった彼はイタリアにおける共産主義のリーダーとしてソ連からも一目置かれる存在となっていました。そのまま行けば、彼はレーニンホー・チ・ミンのような共産圏の英雄になっていたかもしれません。ところが、運命は彼を180度違う方向へと向かわせることになります。そのきっかけは、第一次世界大戦でした。

<ファシズムの誕生>
 第一次世界大戦においてイタリアは微妙な立場に立ち、連合軍側に参戦するかどうかで国会も混乱します。そんな中、トンマーゾ・マリネッティは積極的に戦争に参加することを目指し、国際行動参戦ファッショを結成します。「ファッショ」とは古代ローマにおける執政官のシンボル「結束」のことで、これが「ファシズム」の原点となります。そんな中、イタリアの社会党が戦争に積極的ではなかったのに対し、マリネッティ的な愛国主義思想の立場に立つムッソリーニは社会主義者の戦争参加を主張。これが社会党内部からの批判を浴びることとなり、ついに彼は社会党から除名されてしまいます。彼の中には、当初は戦争の混乱の中で共産主義革命を行うという思惑があったという説もありますが、党からの除名後は、どんどん共産主義から離れて行くことになります。人生を捧げてきた党に裏切られたと感じた彼は、その反動でそんな社会党最大の敵に変貌を遂げることになります。
 こうして、彼は「社会主義」に「愛国主義」を加えた新たな思想として「社会愛国主義=ファシズム」という政治の新たな波を生み出し、1921年ミラノで新たな政党「国家ファシスト党」を立ち上げます。

<広場の英雄>
「広場がなければ、ムッソリーニのファシズムは誕生しなかったかもしれない」
アンジェロ・ドルシ(イタリアの歴史学者)

 イタリアでは、街の中に何か所も広場があります。そこは古代ローマ時代から指導者たちが、大衆に向かって演説をしたり対話を行うために使われる場所でした。ムッソリーニはそんな広場で、かつてのシーザーを思わせる力強いポーズにより大衆に語り掛け、その心をつかんだのでした。(映画「独裁者」におけるチャップリンの演技は、まさにそのパロディでした)
 手を斜め上に伸ばすナチス・ドイツで有名な敬礼ももとはと言えば古代ローマの兵士たちがやっていたものの復刻で、ファシスト党が着用して有名になった黒シャツを着てテンポよく語りかける演説スタイルはイタリアの国民的詩人ダヌンツィオ(ファシスト運動の先駆的詩人)を真似たといわれます。
 彼は「若々しさ」を強調するため毎朝、運動を欠かさず、行進も常に駆け足で参加。(背が小さいために走る必要があったのかもしれませんが、ヒトラーも、ムッソリーニも、三島由紀夫も、そしてチャップリンもみんな小さかったのは偶然ではないのでしょう)
 自分を大きく見せるためのパフォーマンスに関して、彼らはいずれも優れた能力を発揮しました。しかし、それがあまりにも加熱してしまったがゆえに、自分だけでなく、国全体、国民全体までも大きく見せる方向へと向かいだしてしまったのかもしれません。
 彼の演出はどんどん派手になり、力強くなり、いつしかその演出に自分自身が我を忘れるまでになってしまったのでしょう。

<カリスマ・ヒーローからの転落>
 国民をひとつにする愛国主義思想が、いつの間にかその中心に自分を置く「独裁政治」へと変化するのは、「スターリン」「毛沢東」「ヒトラー」と同じ流れだったといえます。ただし、そうした「独裁者」たちに比べて彼の知名度が低いのは、成功よりも転落の方が印象深いからかもしれません。
 第二次世界大戦の終盤、イタリアへの連合軍の侵攻により、彼はあっさりと捕虜になってします。もともと日本、ドイツに比べて軍事力、士気の高さ、どれをとっても低かったイタリアの敗北は当然でした。それでも南ヨーロッパにおいてイタリアは重要な位置にあり、ヒトラーはそう簡単にイタリアに負けられては困ると判断。ドイツ軍が誇る精鋭部隊を送り込み、ムッソリーニを奪還し、北イタリアで新政府を興させます。(もちろんそれは傀儡政権にすぎませんが・・・)
 しかし、連合軍によるイタリア開放が始まると、彼はドイツ兵に変装してスイスに逃げ込もうとします。ところが、パルチザンに途中で見つかり、裁判もろくにないまま銃殺されると愛人と共に、街中につるされさらしものとなりました。
 広場から登場したカリスマ・ヒーローは、皮肉なことに広場で大衆の罵声を浴びる最期を迎えたのでした。

 ムッソリーニのこの悲惨な最後を知ったヒトラーは、自らの最期を考え、部下に自分の死んだ後について詳細な指示を残しました。そして、彼が自殺するとその死体は指示通りに焼かれ、残された骨などはわからないように隠され、その発見にソ連軍は苦労させられます。ムッソリーニは、ヒトラーに死に方までヒントを与えたともいえます。
 「20世紀」を「大衆文化の世紀」と見るのが、このサイトの大きなテーマですが、ムッソリーニという政治家はそんな大衆の力をいち早く利用した先駆者でした。
「大衆の戦争は大衆の勝利に終わる。数は支配を熱望する」

 暴言も甚だしいこれらの言葉は、21世紀の今もなお通用しているかもしれません。彼はメディアの利用に関しても先駆的で、自宅に作った専用の映写室でニュース映画をチェックしたり、新聞写真で自分が真ん中にいないものをボツにするなど、徹底的な情報管理を行っていたといいます。(見た目にこだわるのは、ある意味お洒落なイタリア人らしい感覚といえなくもないですね)
 自らのイメージ作りのために様々なイベントを利用し、その最大のものとしてサッカー・ワールドカップ・イタリア大会(1934年)を開催しています。

「大衆は女性と同じだ。強い人間を愛する」
 これも彼の言葉ですが、これはさすがにもう古いのではないかと・・・「女性と同じだ」は要らないですよね。

<参考>
「100人の二十世紀(下)」
 2000年
(編)朝日新聞
(出)朝日新聞社

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