- 中島みゆき Miyuki Nakajima -

<中島みゆきは、まさに孤高の存在である>
 「日本のエディット・ピアフ」「美空ひばりの後継者」「日本人の心を歌う最後の歌い手」「あらゆる男性を越えた女性」「歌手を越えたパフォーマー」「日本一明るいディスク・ジョッキー」「中年男性サラリーマンの女神」…etc.彼女についてのキャッチ・コピーは、いくらでも浮かんできます。そのうえ、最近の彼女はマスコミへの露出も極端に少なく、ごく一部のファンの間で熱烈に支持される存在となっています。その意味では、彼女ほどカリスマ性と神秘性を合わせ持つアーティストは、日本には、もう他にいないのではないでしょうか。彼女こそ、日本の芸能界最後の「スター」なのかもしれません。
 しかし、かく言う僕は、もしかすると、彼女のことを知らないまま人生を過ごしていたかもしれませんでした。元々、歌謡曲もほとんど聴かなくなっていた僕が、中島みゆきの歌を自分から聴く可能性は、ゼロに近かったはずです。でも、歌との出会いは、人との出会いでもあります。どんな歌とも、どこかで、誰もが出会う可能性があるものです。

<最初の出会い/初期の中島みゆき>
 初めて中島みゆきの歌を聴いたのは、大学時代、近所に住んでいたクラブの後輩の下宿ででした。その頃、僕らは大学の学園祭の実行委員会の仕事などでいっしょに苦労していました。その後輩、板倉君は、後輩ではありましたが同じ歳で、広島県人らしく酒が強くて男気のある剣道と書道の得意な日本男児でした。
「鈴木さん、絶対これ気に入ると思いますよ」そう言いながら、ある日彼が聴かせてくれたのが、中島みゆきの4枚目のアルバム「愛していると云ってくれ」(1978年)だったわけです。
「お元気ですか…」と手紙の朗読から始まり、名曲「時代」と並ぶスケールの大きな中島みゆきらしい曲「世情」で終わるこのアルバムは、他に「わかれうた」「化粧」「怜子」など初期の中島みゆきの魅力がつまった傑作でした。
「なんで俺がこんな暗いのが好きそうなんだよ!」と文句を言いつつも、僕はそのカセットをダビングしてもらい、けっこう気に入って部屋で聴いていたものでした。

<再会/80年代の中島みゆき>
 しばらく僕は中島みゆきの存在を忘れていました。というより、僕はユーミン世界の住人になっていました。こちらは、友達の女の子に聴かされてはまっていました。その世界は、実に心地よく、バブルの時代に入っていた僕たちの青春時代にぴったりの世界でした。
 ところが、就職してしばらく後、トルコ映画「路」を見て、あの場所に行ってみたいと思いたったことがきっかけで同じ会社のある先輩と知り合うことになり、彼が大ファンだった中島みゆきと再開することになりました。

<Mr.物井と中島みゆき>
 その人は、物井さんといって、会津の旧家の出で酒にめっぽう強く、以前は柔道をやっていたということでしたが、なにやら謎の多い人物でした。(中島みゆきのファンは、体育会系が多いかもしれない)彼は、僕が勤める会社の工場で生産管理の仕事をしていましたが、その前は宝島出版にいたといいます。英語は、もちろんフランス語も堪能で、部屋にはフランス文学や哲学関係の書物、パシュラールやサルトルに、宮沢賢治の作品などが山のように積み上げられ、不思議な「知の空間」を形成していました。なぜこの人が工場の現場で生産管理という地味な仕事をしているのか?僕は不思議だったものです。(そう言う自分も変わってはいたが)
「サラリーマンは、楽でいいぞ。一回やったら止められないって」と彼は言っていました。(今は、その気持ちが痛いほどわかります)そして、毎年夏に一ヶ月の休暇をとると、トルコ人の知人がいるイスタンブールへと出かけて行くのでした。(彼のトルコ人の知り合いというのは、トルコの観光業界の大立て者で、ボスボラス海に面した豪邸に住んでいました。彼は、そこではまさにVIP待遇で、部屋が常に用意されていました。実は、僕もお世話になったことがあります。それはもう贅沢な生活でした。日本の金持ちとはセンスが違いますよ。詳しくは、また別のお話で)

<久々に聴く中島みゆき>
「おい、はじめちゃんよお、中島みゆきって、本当に凄いぞ!」ある日彼は、独特の太い声で、そう言いました。いつも、オペラやクラシックばかり聴いていたはずなのにと思いつつ、久しぶりに僕は中島みゆきの歌声を耳にしました。(僕は、他人の影響を受けやすいたちではないのですが、一度気に入った人に出会うと、とことん影響を受けてしまうのが、常でした)
 久々に聴く中島みゆきは、ずいぶん以前とは違って聞こえました。「臨月」「寒水魚」など80年代の作品は、中島みゆき自身大人になったせいなのか、作品の中身も大人の女性の歌に変わり、聞く側である僕自身の成長とともにずいぶん身近な存在に変わってきたようでした。

<小樽にて/90年代の中島みゆき>
 僕が仕事を辞めて小樽に帰ろうと決心をした時、最初にそのことを相談した相手は、やはり物井さんでした。
「おう、そうか。帰れ帰れ」と彼は言った。
 そして、再び彼と会ったのは2年後の僕の結婚式。そして、それから数年後、彼は小樽に遊びにやって来ました。

<ハッサンと中島みゆき>
 その時、彼は自分が後見人として世話をしてやっているトルコ人の留学生、ハッサンを連れてやって来ました。日本人の学生など問題にならないほど、勉強熱心な彼は、日本人以上に日本の心を理解していました。
「中島みゆきさんは、僕と結婚するために、今まで独身でいたんですよ」彼はそう言っていた。(ちなみに、そんな彼が僕に奨めてくれたのが、ニルヴァーナ「ネヴァー・マインド」でした)
 まさか、その夏休みが物井さんにとって、人生最後の夏休みになるとは。その年の11月、彼は癌で、静かにこの世を去りました。

<永久欠番>
 その頃聴いた中島みゆきのアルバム「歌でしか言えない」には、彼女のライフ・ワークとも言われる演劇的コンサート「夜会」の美術を担当していた方の死を悼んだ曲「永久欠番」が収録されています。

 どんな立場の人であろうと
 いつかはこの世におさらばをする
 たしかに順序にルールはあるけれど
 ルールには必ず反則がある     作詞・作曲 中島みゆき

こうして、物井さんは故郷の会津のお墓で眠りにつき、その遺骨の一部はハッサンがトルコに持ち帰り、ボスボラスの海に船からまかれました。

<中島みゆきと人生>
 昔から、「歌は人生とともにある」という言い方をしますが、年がら年中音楽を聴いていると、かえって、その意味が実感としてわからなくなるものです。その意味では、僕と中島みゆきの出会いは、音楽の持つ意味を改めて考えさせてくれる素晴らしい機会でした。
 「歌でしか言えない」は、僕の大好きなアルバムです。歌詞の素晴らしさはもとより、音楽的にも、ぐっとスケール・アップし幅が広くなっています。「おだやかな時代」は、ニュース23でも使われた美しくかつ力強いゴスペル調の名曲。「南三条」は、彼女にしては珍しいスピード感あふれるかっこいいロック・ナンバーで、同じくロック・ナンバーの「Meybe」はギターがやけにかっこいい。(と思ったら、なんとそれは元はっぴいえんどの鈴木茂でした)

<誰よりも日本的な音楽へ>
 その後、彼女のサウンドはロック的な要素を再び排除し始め、より日本的な歌を目指した音作りをしているようです。伝説のコンサート(パフォーマンス)「夜会」での演奏曲をアルバム化した「10 Wings」は、その代表的な作品といえるでしょう。

<中島みゆきの音楽が与えてくれるもの>
 中島みゆきの音楽と深くつきあいだすと、人は皆今までより、毎日を明るく生きられるようになります。それはたぶん、「長い目で見ると人生は間違いなく暗いが、だからこそ、毎日を明るく生きておかなきゃいけない」というふうに開き直れるからでしょう。しかし、そう思えるようになって初めて、彼女の歌とつきあえるようになった、と考えられなくもありません。どっちが先かは、人それぞれなのかもしれません。

「中島みゆきの歌にはあきらめよりも未練が多く含まれていることが多いが、そこには中島の対象に対する突き放した視線が、暗黒の奥を常に見据えている緊張が感じられる。その緊張の高まりと弛緩の塩梅の妙が中島酔いを生じさせる。」
湯浅学「音楽が降ってくる」より

<追記>
物井さんに「夜会」を見せてあげたかった。残念。

<締めのお言葉>
「人間が全体として真実から逃げる一方だとすれば、他方では、真実が四方八方から人間に迫ってきているとも言える。真実の一面に触れるには、昔は一生努力しなければならなかったが、今日では逃げないだけでよい」

E.F.シューマッハー 「スモール・イズ・ビューティフル」より 

2012年公開されたライブ映画「歌旅2007劇場版」は、必見です!

スペシャル・リンク
新宿にある中島みゆきファンの店「世情」のホーム・ページです。濃ーい世界があなたをお待ちしています。(僕はまだ行ったことがありませんが、以前テレビにも出ていました)

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