新たなポップスの方向を示し続けた音楽評論家


「ニュー・ミュージック・マガジン創刊とロック黄金時代」

- 中村とうよう Touyou Nakamura (前編) -

<このサイトのルーツ>
 このサイトのルーツが雑誌「ミュージック・マガジン」であることは、今までちゃんと書いていませんでした。かつて、このサイトの名前が「ロック世代のポピュラー音楽史」だったことは、もう憶えている方も少ないかもしれません。当初のタイトルが示すように、このサイトはロック世代の視点から見たポピュラー音楽の歴史をまとめる試みとして始まりました。しかし、その後、音楽以外の分野にも目を向けるようになり、タイトルを「ポップの世紀」と改めました。「ポップ」には音楽だけでなく、文学や映画、芸術、スポーツまでもが含まれているわけです。
 このことは、中村とうようさんが、自らが始めた雑誌のタイトル「ニューミュージック・マガジン」をより広い音楽全般へと取り上げる範囲を広げるために「ミュージック・マガジン」と変更したこと共通しています。
 今回、僕と同じ年のとうようさんの愛弟子である田中勝則さんが書いた「中村とうよう 音楽評論家の時代」を読んで、改めていかに僕が「ミュージック・マガジン」から多くの影響を受けていたのかを再認識しました。さらに、とうようさんの仕事と日本のポピュラー音楽シーンがいかにリンクしており、それが僕の音楽体験に決定的な影響を及ぼしていたのかに驚かされました。
 1980年代を東京で過ごした僕は、「ミュージック・マガジン」の黄金時代と共に生きることが出来ました。そのことに改めて感謝しなければいけないと感じました。1990年代に東京を離れ北海道に戻った僕は、このサイトを作り始めましたが、しだいに取り上げる範囲は音楽意外の分野へと拡がり今に至っているわけです。
 中村とうようという音楽評論家の人生は、僕に影響を与えただけではなく、日本における音楽文化の変化を左右し、それが多くのミュージシャンたちにも多大な影響を与えることにもなりました。ここで彼の仕事と音楽シーンの変化を振り返ってみようと思います。(もちろんより深くお知りになりたい方は、本書をお読みいただきたいと思います!)

・・・やはり一方にはメジャーなものがあり、他方にはマイナーといいますか、自分は皆の聴いているものとは違う音楽が聴きたいという方がいなければ、困りますね。
 そういった意味で文化の音楽の場合には、多様化ということが非常に大事だと思います。私は基本的にそのような考えを持っていて、自分でも皆が見落としているようなものの中に、いい音楽がないかと探してきて、それを及ばずながら活字メディアで皆さんにお知らせする、あるいはディスクジョッキーみたいなことをやって、それを電波に乗せたりと、そういう形で、皆さんが一般に聴かれている以外にも、こういったものもありますよということを、紹介してゆくことが、自分の使命だと思ってきたつもりです。

中村とうよう「新星堂ミュージックタウン」(1995年)より

<生い立ち>
 中村とうよう(本名は中村東洋)は、1932年7月17日京都府北部の小さな町、峰山町のテーラー中村の御曹司として生まれました。新制宮津高校1年生の時、肺結核にかかり1年近くの間休学を余儀なくされます。しかし、元々頭が良かったのでしょう、ダメもとで受験した京都大学に見事合格し、京都で一人暮らしを始めることになります。
 学生の街、京都でバイト仲間の影響で彼は初めてアメリカン・ポップスを聴くようになり、その魅力にひかれます。当初はラジオで音楽を聴いていましたが、自らラジオを改造してプレーヤーを作り、レコードを買い始めることになります。
 幸い、彼の周囲には様々な音楽マニアがいて、そのグループのひとつ「中南米音楽研究会」に彼は参加するようになります。1940年に始まったというその会には、後に中南米音楽やシャンソンなどの評論家として活躍することになる永田文夫らが所属していて、そこでの活動が彼の活動に大きな影響を与えることになります。
 京大を卒業した彼は、家族の薦めもあり東京に出て銀行員として就職。東京に出れば好きなレコードを好きなだけ買えると考えた彼に依存はありませんでした。多くのレコードを売る店がある東京の街は、彼には天国でした。さっそく彼は働きながらレコードを買い始めると、仲間を集めてレコード・コンサートを開催するようになります。真面目に銀行員として働きながらの音楽生活は幸福な暮らしでしたが、運命が彼を次なる道へと向かわせることになります。
 1960年、責任感が人一倍強かった彼は、仕事以外にも組合活動に熱心で、そのために会社と衝突。安保闘争の時代で左翼の活動が過激だった時代、彼はそのまま会社を辞めてしまいます。と言っても、彼は銀行員時代からすでに音楽ライターとしての仕事を始めていて、音楽の評論という仕事で食べて行く道を進もうと考えていたようです。
 記念すべき最初の仕事は、「ミュージックライフ」1957年5月号にカリプソについての記事で、最初のレコードのライナー・ノーツは1960年ハリー・ベラフォンテのレコードだったようです。ただし、それはカリプソという当時はあまりにマイナーで専門家がいない分野だったからこそ依頼が来た記事でした。なんの実績もない彼に、定期的な執筆の仕事が来たり、ライナーノーツの注文が来るわけはありませんでした。結局、彼は食べて行くために印刷会社で働きながら、ポツポツと来るラテン音楽関連の記事を書きながら、チャンスを待つ日々が続くことになりました。
 それでも1962年彼についにチャンスが訪れます。

<音楽評論家が求めらる時代>
 1950年代から60年代にかけては、日本のレコード市場で洋楽の売上比率が現在よりも高い時代でした。特に70年代はピークとなり、前半の5年間は洋楽の比率が40%を越えていました。(最高は1968年の45%でした)それだけ洋楽が売れるとなると日本のレコード会社は、海外の売れる音楽を探し出し、現地のレコード会社とライセンス契約を結ばなければならなかったわけです。当然、洋楽に詳しい評論家による情報が求められることになります。こうして、音楽評論家のニーズが急激に高まったわけです。
 第二次世界大戦後、世界の社会情勢が安定してくると、大衆のニーズに応えるため、様々なレコード会社が各地に誕生し始めます。
 アメリカでは、アトランティック(1947年)、「インペリアル」(1947年)、「エレクトラ」(1947年)、「マーキュリー」(1947年)、「ベル」(1954年)から「アリスタ」(1973年)へ、「リバティ」(1955年)、「ワーナー・ブラザース」(1958年)、「モータウン」(1959年)、「リプリーズ」(1960年)、「A&M」(1962年)
 ブラジルでは、メジャーのオデオンやヴィクターの他にコンチネンタル(1941年)、1950年頃に「コパカバーナ」、「ローゼンブリット」など
 アルゼンチンでも、戦後になってTKレコードが誕生しています。

 このように世界中でいきなりたくさんのインディ・レコード会社が登場することになったのは、端的に言えば、たくさんのレコードが売れる状況になったからだ。そんな大きな変化をもたらした理由として考えられるのが、これまでは購買層では小さな数字しか占めていなかった若者たちがレコードを買うようになったことだ。アメリカでは50年代のロックンロールの登場がそれに当たるが、それに続いたのがフォーク・ソングだった。
 ただし、この二つのジャンルはマーケットが大きく違っていた。ロックンロールは貧しいキッズたち、そしてフォークは同じ若者でも富裕層を取り込んだ。レコード会社は、貧乏少年少女向けにドーナッツ盤でロックンロールを、富裕層のフォークファンには高額のLPレコードを、という振り分けをした。
(エルヴィスはシングル、ディランはアルバムということ)

 そして、そんな新しい音楽スタイルの紹介者として音楽評論家という職業にチャンスが巡ってきたわけです。

<常に新しい方向へ>
 中村とうようさんと他の多くの音楽評論家の違うところは、彼が一つのジャンルの専門家にならなかったことです。常に彼は新たなポップスを探して、世界の音楽を探索し続け、自分の専門を決めようとはしなかったことです。

・・・もしとうようさんがデビュー作の『ラテン音楽入門』以来、ずっとラテン音楽一筋の評論家をやっていたら、間違いなくラテン音楽の権威になっていた。フォークだって、ロックだって、・・・本人さえその気だったら、どの分野の権威でもなれただろう。でも、実際にそうはならなかった。反対に、何かの権威になりそうなときには意識的にそこから身を引いてしまうのがとうようさんであり、ときには自分がかつて紹介したジャンルの悪口を書いて強引に距離を置こうとしたこともあったくらいだ。とうようさんは、単にひとつのところに留まるのがイヤだったのではなく、留まることで権威として奉られることを極端に嫌っていたのだ。

1962年 
「ラテン音楽入門」中村とうよう(著)
 音楽之友社に彼が直接持ち込んだラテン音楽についての論文が認められ、雑誌の記事ではなく一冊の本として出版されることになりました。ラテン音楽について国会図書館にこもって研究を行った彼の努力が認められたのでした。一冊だけとはいえ、ラテン音楽についての専門書を出版したことで、彼には専門家としての活動のチャンスが増えることになりました。
 ただし、ラテン音楽の専門家は、京都時代の先輩でもある永田文夫など先駆的な評論家がすでにいたため、彼は別の道を選択、探求する必要に迫られることになります。
1963年 
アルバム「ジョーン・バエズ」(ジョーン・バエズ)
 このアルバムの解説を書いたところから、彼とフォークとのかかわりが始まります。
ピート・シーガー来日コンサート
 フォーク界の大御所ピート・シーガーの来日コンサートが実現。
 彼は来日記念盤の解説を書いただけでなく、フォーク・ブームの後押しをする様々な紹介記事を書き、フォーク・ミュージックに詳しい評論家として活躍し始めることになりました。 
1965年 
 多額の借金をしながら、メキシコ、ジャマイカ、ハイチ、プエルトリコ、コロンビア、ペルー、チリ、アルゼンチンを一か月ちょっとで回りながら、各地の音楽を体感。生でその土地の音楽を体験したことで、ラテン・アメリカ音楽の専門家として彼の知名度は高まり、その分野における第一人者としての地位が固まります。
1966年 
 ボブ・ディランの日本での編集盤が発売されることになり、その編集を任されます。前年のニューポート・フォーク・フェスティバルでの衝撃的な変身により、ボブ・ディランは新たな段階に突入していて、とうようさんもまた彼と共に新たな段階へ進む決意を固めようとしていました。そして、そのために必要な新たな言葉とこの時、出会っています。

 フォークに関する言論をリードしていた雑誌『シング・アウト』の1966年9月号で、ポール・ネルソンが「ビートルズの『ラバー・ソウル』はディランの『ハイウェイ61』とともにニューミュージックの金字塔である」と言ってるのを読み、そうだ、フォークかロックか、じゃなくて、"ニューミュージック"なのだ、と膝を打った。

 この時の新しいボブ・ディランとの出会いにより、「ニューミュージック・マガジン」の誕生とその方向性が定まったといえます。
この年、彼は三橋和夫、三井徹、神崎浩と共に「フォークソングのすべて」(音楽之友社)を発表しています。
「ジャズ批評」創刊
1967年 
 この年の年末から翌1968年にかけて、彼はメキシコとキューバを訪れています。さらにこの頃、彼はブラジルから登場したばかりの新たなブラジリアン・ポップス「ボサ・ノーヴァ」と出会い、さらにラテン・ポップスへの興味が深まっていました。
1968年 
 第三回フォーク・キャンプのステージにまだ無名に近かった遠藤賢司が登場し、大きな衝撃を与えることになります。
「そこでのフリー・セッションに突然登場したのが遠藤である。ギターを抱えて畳の部屋の真ん中に立った彼が、いきなり『ほんとだよ』などを歌った。それは東京のフォークだけでなく、関西フォークをも根こそぎ驚倒させるシャウトの強烈さであり、ニヒリズムのディープさだった。
 少々強引だけどそれを第3作『時代は変る』の段階にたどり着いたのに対して遠藤はすでに『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』から出発していた、つまりフォークよりもロックの世界に踏み込んでいた。・・・」 

 1968年8月21日ソ連軍が民主化を進めていたチェコに侵攻し、民主化にストップをかけました。この事件は世界中の共産主義、社会主義の支持者に大きな衝撃を与えました。そのことは、中村とうようさんも同じでした。
 このソ連の実例を他山の石として、われわれは真に理想的な社会主義社会を建設する方策を考えねばならぬ。まず考えるのは、人間の頭の中を変えずに社会構造だけ変えてもダメだということだ。内容を変えずに外形だけ変えても、すぐに空洞化してしまうことは、ソ連の実例で証明ずみだ。では、人間の頭の中を変えるとはどういうことか。私有財産制度に基礎をおくあらゆる既成道徳観、価値観を捨て、まったく新しいモラルを作り出すことだ。そのためには、他人の物を盗むなとか、暴力をふるうなとか、貞操を重んずべしとかいうようなあらゆる道徳観から、美しい音楽だといった価値判断の基準まで全部ひっくり返し、人間の情念のパターンを一新せねばならぬ。
 そういう、人間を根底から変えるような方向に沿った音楽は、ロックしかない。お説教めいたフォーク・ソング、プロテスト・ソングではダメなのだ。 - ぼくは実感としてそう思わざるをえなかった。

中村とうよう「フォークからロックへ」(1971年)より
1969年
「ニュー・ミュージック・マガジン」創刊
 この年の4月、64ページのオフセット印刷で作られたミニコミに毛が生えた程度の作りで雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン」がスタートしました。著者の中には、小倉エージ、水上はる子が参加し、翌1970年には北中正和も加わります。

 プレスリーのロックン・ロールの時期から、ロックン・ロールが商業化したヒット・ポップスの時期を通じてずっとロックだのヒット・パレードだのに関心をもっていた人よりも、ニューロックが出てきてはじめてロックに本気で興味を持ち始めたぼくのほうが、ニューロックの時期にようやくハイティーンになった若者たちと気持ちを通じ合える部分があるんじゃないか - そんなふうに考えたぼくは、ずっと黒人音楽を愛してきたものの立場からロック・ファンの若者に語りかけるための場がほしかった。そんな場を、自分自身で作り出そうと思って『ニューミュージック・マガジン』 の創刊を決意したのだった。

 十代、二十代の若者たちにとっては、音楽は、日常の生活そのものである。遊び、勉強、ゲバルト、お洒落、スポーツ、みんな音楽と一体なのだ。彼らには、音楽のない毎日なんて考えられもしない。・・・
 いまや、文学への信仰は権威を失い、視覚文化の地位は急速に後退した。このとき、ロックンロールという、すぐれて触覚的な、それだけに有無をいわさぬ強い力をもつ情報伝達形態が、大衆文化の中核としての位置を獲得しつつある。私たちは、ロックンロールという若者の文化、明日の文化をを極めて重視する。・・・
 私たちは、ロックンロールを、金もうけの手段として扱う意図をもたない。リトル・マガジンとしてのゲリラ性を留保し、絶えず状況の中に鋭く切り込み、若者の立場を発言しつづけて行くつもりである。

「フォーク・リポート」1969年1月号より
第一回「日本ロック・フェスティバル」開催(9月28日)
 このイベントは、アル・クーパーの来日に合わせた歓迎ライブとして準備された企画がもとになっています。ところが、アル・クーパーの来日が中止になってしまい、主催のキョードーに代わって、マガジン社が主催になり日本人アーティストだけでコンサートを開催したのでした。この時、出演したのは、ゴールデンカップス、内田裕也とフラワーズ、エディ藩グループ、パワーハウス、ブルース・クリエイション、成毛滋、井上堯之などのメンバーでした。
 ここからマガジン社は雑誌の編集・発行だけでなく、イベント、コンサートのプロデュースにも関わるようになって行きます。
「フォーク・リポート」創刊
「ミュージック・ライフ」はこの年頃からロック雑誌へと方針を転換しています。
1970年 
 この年もマガジン社の売り上げは好調で、創刊号の64ページからこの年の4月号では160ページに増えていました。そして、新たな試みも行われます。
<100点満点のレコード評>
 それぞれの評論家がどこまでその作品を評価しているのか?そこを読者にはっきりと知らせるために行われました。ただ単に作品を褒めるだけでは、その絶対的な評価は読者に伝わらないのす。とうようさんは、時に100点満点をつけるかと思えば、マイナス点をつけることもあり、この方式を大いに利用しています。
 業界で問題視されることもありましたが、ここを曲げては批評する雑誌とはいえなくなります。
<とうようズ・トーク>
 とうようさんの思いを直接書くコーナー。ここでは音楽だけではなく、政治に関しての熱い思いが書かれることも多くコーナーとして最も話題性がある部分だったかもしれません。
1971年 
「ロック音楽事典」中村とうよう(編著)
「フォークからロックへ」中村とうよう(著)
「ロックの世界」(ミュージック・マガジン増刊) 
「RCAブルースの古典」中村とうよう、日暮泰文、鈴木啓志(共同監修)
 ヴィクターの原盤を用いたブルースの編集アルバム。
 あのアルバムは、ひとことで言うと、基本設計=中村とうよう、施工=日暮・鈴木といった感じでしょうか。・・・このアルバムは内容についての話し合いを経て作っていったという記憶のある、ほとんど唯一のブルース・アルバムではないかと思います。
日暮泰文
 この年の5月号で「日本のロック状況はどこまで来たか」という特集が掲載され、日本語ロックは是か非かの論議が盛り上がりをみせることになりました。
 とうようさんは、この中でビートを重視する一派である内田裕也側の応援に回っていました。しかし、この年、4月号で発表された「第二回ニューミュージック・マガジン・レコード賞」の日本ロック賞で第一位となったのは、内田裕也の反対勢力の筆頭はっぴいえんどのデビュー・アルバム「はっぴいえんど」でした。

 当時のロック評論家はフォーク出身の「言葉派」はたくさんいたが、とうようさんのほかに「リズム派」を自認する人は存在しなかった。従来のロック評論家にはなかなかわからなかったようなリズムの面白さ、「ビートの揺れ」やそれに伴って生まれる「リズムのコク」みたいな味わいを、とうようさんだけが嗅ぎ分けることができた。
(キューバ音楽などリズム音楽の専門家だったせいでもあるのでしょう)
 当時のとうようさんが持っていた方向性を箇条書きにすると、まずは「熱血ロックおやじ」、そして唯一の「リズム派」、さらに三つ目は「ルーツ指向」ということになるのだろうか。

田中勝則(本文より) 
1972年 
 とうようさん、「日本レコード大賞」の審査員に任命される。
「ソウル・オン」創刊
 桜井ユタカ編集によるソウル専門の音楽雑誌
1973年
アルバム「民族音楽シリーズ」発売スタート(キングレコード)
 小泉文夫(1927年~1983年)と中村とうよう共同監修。1974年にかけて、全27枚が発売されました。
 このシリーズで紹介されたのは、インドネシアの「ガムラン音楽」やハムザ・ウッディーン、アイヌ音楽、カリブ海のヴ―ドゥー音楽など世界中の民族音楽でした。
<小泉文夫>
 小泉は日本における民族音楽・芸能研究の第一人者として活躍した人物。1957年にインドに留学し、当地の古典音楽を学んだ後、1959年から東京芸大の教授に就任。NHK・FMなどで民族音楽の紹介を行い、民族音楽のレコードの監修・解説も行いながら、日本における民族音楽普及の先駆者として活躍した。
 中村とうようとは1973年頃に知り合い、この共同企画を行いました。 
1974年
「ブルースのすべて」(ミュージック・マガジン増刊) 
第一回「ブルース・フェスティバル」
 国内初の本格的ブルース・コンサートとなったフェスのプロモーターに中村とうようさんが就任。
 この時の出演者は、スリーピー・ジョン・エスティス、ハミー・ニクソン、ロバート・Jr・ロックウッド&エイシズ
アルバム「アリオン民族音楽の世界 大地と人と音楽」発売スタート(トリオ・レコード)
 キングの「民族音楽シリーズ」に対抗して、小泉&中村コンビ監修で1975年までに15枚が発売されました。(1975年から1976年にかけて、第二期10枚が追加発売されました)
 「アリオン」はフランスで1962年に設立された民族音楽レーベル。
 このシリーズで紹介されたのは、ザンフィルのパンパイプ、セネガルのコーラ、ポリネシアの音楽、コルシカ島の音楽など。 
1975年 
アルバム「ブラック・ミュージックの伝統」上下巻(ビクター)
 MCAブルース・トラディション・シリーズとして発売。(監修・解説は中村とうよう)
 彼らは白人や日本人のジャズ愛好家のために芸術性の高いレコードを作ろうなんていう邪心はひとかけらもなく、ただただ黒人大衆の日常生活のためにダンス音楽やエンターテイメントを提案し続けてきた。こういう人たちこそ真にブラック・ミュージックの発展を支えてきたのである。
「ブラック・ミュージックの伝統」上巻解説より
 このアルバム上巻の映画タイトルは「ジャズ・ジャイヴ・アンド・ジャンプ」。ここでは一般的なジャズではなくキャブ・キャロウェイ、ライオネル・ハンプトンなどジャイヴやジャンプ・ブルースのアーティストを中心に取り上げています。こうした考え方はとうようさん以外にあり得ない内容でした。
日暮康文、高地明が新会社「ブルース・インター・アクションズ」を設立し、翌年には新レーベル「Pヴァイン」を設立します。 
松岡直也コンサート開催(8月22日)
 サルサの先駆的アーティスト松岡直也の無料コンサートが日比谷野音で開催され、そのプロモートと出資をとようさんが担当しました。それまでのラテン音楽とは異なる新しい都会派のダンス音楽「サルサ」の魅力にはまったとうようさんは、この後、サルサをマガジン誌上でも猛プッシュして行くことになります。そのための記事を書く新たな書き手には、イラスト・レーターとして活動していた河村要助を起用しています。
 サルサの日本での発売を実現するため、とうようさんは日本ビクターにニューヨークの新興レーベル「ファニア」との契約をするよう進言します。ビクター側は、とうようさんの強いプッシュがあればサルサ・ブームが来ると判断し、ファニアとの契約を実行しました。そして、1975年から1977年にかけて、ファニア・レーベルのサルサ・アルバムが31枚が日本盤として世に出ることになります。その中には、サルサの記念碑的作品「ライブ・アット・ザ・チーター Vol.1&2」、「ライブ・アット・ヤンキー・スタジアム Vol.1&2」があり、ウィリー・コローン、レイ・バレット、オルケストラ・ハーロウ、イスマエル・ミランダ、エクトル・ラボー、ピート・ロドリゲス、ジョニー・パチェーコルベン・ブラデス、松岡直也などのアルバムがありました。
 この後、トリオ・レコードがTICOレーベル(この後ファニアに吸収されます)と契約。エディ&チャーリー・パルミエーリ、ティコ・オールスターズ、ティト・プエンテのアルバムが発売。さらに日本フォノグラムも追随し、モンゴ・サンタマリア、チェオ・フェリシアーノ、セリア・クルースなどのアルバムを発売。いよいよサルサのブームが盛り上がりを見せる中、翌年にファニア・オールスターズの来日が決まります。
アルバム「キューバン・リズムの精髄」シリーズ発売(ビクター)
 サルサの人気に火がついたところで、そのルーツにスポットを当てる企画を発表。代表的なアルバムとしては、「キューバ音楽の歴史」(V.A.)、「ソンのリズム」コンフント・チョコラーテ、「チャチャチャの創造主」エンリケ・ホリン楽団などがあります。
 いろんな国のポピュラー音楽の歴史を研究してみると、キューバ音楽の歩みは、非常に興味深いものであることに気づく。こんにちのポピュラー音楽は、すべて混血音楽であると言っていいと思うが、それらの中でも、ヨーロッパの音楽とアフリカの音楽がもっとも理想的な形でうまく溶け合ったのがキューバ音楽なのだ。最高に幸福な結婚によって生まれた、最大に祝福された娘、それがキューバ音楽だ。だからこそこの小さな島が、あれだけ大きな音楽の贈り物を世界中にとどけることができたのだろう。
「キューバ音楽の歴史」解説より
1976年 
ファニア・オールスターズ来日コンサート(9月) 
アルバム「恐山 銅之剣舞」芸能山城組、「地の響き : 芸能山城組 東ヨーロッパを歌う」「芸能山城組ライブ : 開かれた合唱十年の展開」(ビクター)
 中村とうよう初のプロデュース作品誕生。
 芸能山城組は、お茶の水女子大、筑波大の学生たちによる混声合唱団「ハトの会」が母体で1974年結成。リーダーは、山城祥二。ブルガリアやグルジアなど東欧の合唱を取り上げて話題となりました。
1977年 
エリゼッチ・カルドーゾが来日し、この後、とうようさんはブラジル音楽にはまり始めます。 
 かつて、60年代において、ロックは確かに、自分自身の足で時代を前向きに生きて行く生き方と、しっかり結びついていた。その時点において、ロックこそわが音楽、わが生き方だ、と思い定めた人は、70年代になろうが80年代になろうがどこまでもロックに貞操を尽くすのが、信念をまげない生き方なのか。ぼくはそうは思わない。世の中が大きく変わればロックだって変わることはありうる。それを冷静に見据えて、かつて自分がロックに求めていたものが、いまはロックからは失われ、他の音楽にある、と見たならば、いさぎよくそっちに切り換えることのほうが、信念ある一貫した音楽とのかかわり方ではないのか。・・・形の上でのロックを選ぶか、精神としてのロックを選ぶか、その二者択一をすべてのロック・ファンが迫られたのが、77年であったわけだ。
「77年に死んだもの、78年に死にかかっているもの」マガジン増刊年間78より
1978年 
「地球のでこぼこ とうようズ・バラード」中村とうよう(著)話の特集 
「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」(ミュージック・マガジン増刊)中村とうよう(著)
 若い連中で、熱心にブルースを研究する人たちも現れた。だがそれらのほとんどがもとロック・ファンだった連中で、ジャズ・ファンがブルースに関心をもってブルースのレコードを買ったという例は、ほとんどないようだ。・・・そしてブルースを聞いていた連中はサザン・ソウルへ、アフリカ音楽、ジャズなどへと興味を広げつつある。ジャズ・ファンに比べて彼らははるかに関心の持ち方が柔軟なのだ。・・・
 ブルースからスタートした研究者たちの方が、アフロ・アメリカ音楽の本質を、既成のイメージにとらわれることなく自由に掘り下げ得る立場にあるからだ。

中村とうよう「ジャズ - 感性と肉体の祝祭」より
アルバム「ニュー・アフロ・ミュージック・シリーズ」発売(全10枚)
 新たなジャンルとなるアフリカン・ポップスを日本に紹介するシリーズの解説を担当。「アフロ・ビート」の時代到来を告げるシリーズとなります。
「アフロビートの王者」フェラ・アニクラポ・クティ、「ジュジュマジック」エベネザー・オベイ、「アフロヴィジョン」マヌ・ディバンゴ、「タブー・レイ」タブー・レイと彼のオルケストル・アフリカ、「オルケストル・ヴェヴェ」オルケストル・ヴェヴェ、「フランコとT・P・O・Kジャズ」フランコとT・P・O・Kジャズ・・・ 
「ブラジル音楽にまきおこる音楽の波~アーティストとレコードをたずねて」がマガジンに連載開始。
 この年、RVCからブラジルの新しいポップス・アルバムが日本盤として次々に発売されます。
「すばらしき世界」ベッチ・カルバーリョ、「ブラジル音楽のすばらしい世界」V.A.、「サンバを歌おう」マルチーニョ・ダ・ヴィラ、「真夜中のマリア」マリア・クレウーザ、「サンバの宴」ベッチ・カルバーリョ、「輝く愛のために」アントニオ・カルロス&ジョカフィ、「歓びのフェスタ」ジョルジ・ベン、「コパカバーナの誘惑」ミルトン・バナナ・トリオ・・・
1979年 
「ブラジル音楽のすばらしい世界」クラウス・シュライナー(著)中村とうよう(監修) 
アルバム「アトランティック R&B Forever 1500」シリーズ発売(ワーナーパイオニア)
 中村とうよう、桜井ユタカ、日暮泰文、鈴木啓志(監修)によるアトランティック・レーベルの名盤を日本盤で発売するシリーズ
 このシリーズからは、ドリフターズ、ラヴァーン・ベイカー、レイ・チャールズ、プロフェッサー・ロングヘアー、コースターズ、クライド・マクファーター、ルース・ブラウン、ジミー・ターナーなどのアーティストがベスト・アルバムとして発売されました。

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