- 直木三十五 Sanjyugo Naoki -

<なぜ「直木賞」なのか?>
 このサイトを作っていて楽しいことの一つに、今まで気になっていた謎が解けてすっきりすること、があります。今回、また一つ以前から気になっていた謎が解けました。
 その謎とは、「直木賞」の直木三十五に関する謎です。
 日本文学の最高峰とされる賞につけられた名前の作家の本がなぜ今、読まれていないのか?(僕自身、短編小説を読んだことがあるだけです)文学好きならずとも不思議に思った方がいるのではないでしょうか。
 直木三十五の甥っ子にあたる人物、植村鞆音によって書かれたこの伝記でやっとその謎が解けました。
 さらにもうひとつの疑問、なぜ「直木賞」という名前がつけられたのか?その直接的な理由は、直木三十五という人物が小説家としてだけでなく様々な面でこの賞の主催者である文芸春秋社に多大な貢献をしたからでした。さらに文芸春秋社の経営者でもあった菊池寛との親交もまたその理由です。直木が死ぬまで面倒を見続けた菊地の存在なしに直木三十五という作家は存在しえなかったでしょう。ただ、忘れてならないのは、彼が当時文句なしに日本を代表する人気作家だったということです。短い期間ではあっても、当時大人気だった売れっ子作家である彼の存在は、良くも悪くも近代日本文学の作家たちの人生を凝縮したのが彼の人生だったともいえます。もしかすると、その人生があまりにも劇的で小説的だったために、彼の書いた小説がかすんでしまったのかもしれません。
「小説よりも奇なる人生を歩んだ男」直木三十五の波乱の人生を追ってみましょう。

<生い立ち>
 直木三十五は本名を植村宗一といい、1891年(明治24年)2月12日大阪市の南区に住む古物商(古着屋)の父親のもとに生まれました。
 1911年、元々文学者を志していた彼は、早稲田大学の英文学科に入学するため東京に出て、同郷の藤堂杢三郎と共同生活を始めます。
 1912年、大阪で知り合っていた年上の女性、沸子寿満(ぶっしすま)を東京に呼び寄せ同棲生活を始めます。ただし、この同棲は寿満という女性の積極性なしにはありえなかったようです。恋多き作家として有名だった直木ですが、けっしてチャラい男ではなく、基本的には奥手で寿満以外に付き合った女性は、ほとんど水商売の女性ばかりでした。問題は、そうした女性たちに貢いだお金の方かもしれません。このあたりが、明治の作家らしい生き様として語られる理由でしょう。しかし、この生き様が今では過去のものなのも確かです。これもまた彼の存在が今評価されない原因の一つともいえます。
 とはいえ、学生時代から年上の女性と暮らす彼のことを、同期の仲間たちは一目おいていたのも確かです。彼は性格的に暗く生意気で、お金にも汚いことを誰もが知っていたはずですが、それでも彼の周りには仲間が集まっていたのは、彼がただものではないと認められていたからでしょう。この時期の付き合いはその後彼の作家生活を大いに救うことになります。
 1916年、25歳の時、長女、木の実が誕生しますが、お金がない彼は大学を卒業できず、かといって仕事もないまま借金生活を始めることになります。この後、彼はその死の直前まで家というものをもたず、借家住まいを続けます。しかし、ほとんどの場合、彼は家賃を払うことなく住み続けていたようです。彼にとって、家賃の支払いはお金の使い道としては最後にあまった時に払うものという優先順位でしかありませんでした。

<編集者としてのスタート>
 1917年、新興美術社に就職し編集に携わるようになり雑誌「新興美術」を発刊。その雑誌に自ら執筆し始めます。彼の才能は作家としてよりも、雑誌の企画や編集に優れていたとも言われており、この後も彼は雑誌の創刊や文学全集の企画などに数多く関わることになります。ここで特筆すべきは、彼がそうした企画をもとに出版社を興したり、勤め先で企画を実行したものは、どれも一応は成功しています。しかし、問題はその成功が長く続かず、そこで得た利益の多くが彼のポケットへの消えてしまったことです。家にもお金を入れず、会社の利益も食いつぶす。困った男ですが、これぞ明治の作家って感じなのかもしれません。

 直木は、人一倍金を求め、人一倍金を使った。普通なら収入に支出を合わせようとする。それが彼の流儀であった。直木には、菊地が指摘する「必要な金は後回し」という金銭感覚があった。芸者、自動車、チップなどなど、一般的には無駄と思われるものには、惜しげもなく札びらをきった。そのため、どんなに稼いでも、生活にまでは手が回らない。家計はつねに後回しにされた。

 飛行機好き(今のような旅客機ではないプロペラ機。もちろん誰もが乗れる乗り物ではなかった)、刀剣の収集、外国製自家用車、旅行、競馬、花札、麻雀などのギャンブル・・・様々な趣味を彼は持っていましたが、最も多額のお金をつぎ込んだのは間違いなく女性との交際費でした。彼の場合、素人の女性としか付き合わなかったため、その出費はより大きなものになったようです。
 たとえば、彼が一時期入れあげた芸者さん、八重千代。彼女は静岡の超一流料亭「浮月」で働く静岡ナンバー1の存在でした。彼はその八重千代に逢うため頻繁に静岡まで友人を連れて出かけていたようです。彼はそのたびに出版社で原稿料の前渡しを受け取り、それを料亭でのどんちゃん騒ぎにつぎ込んだようです。
 こうして、彼の原稿料はどんどん消えていったため、彼はさらに別の仕事を受け、必然的に仕事量は膨大なものになっていったようです。彼はそんな自分の生き方について、朝日新聞にこんなふうに書いていました。

金もうけといふ事は、結局愛する女へやる事だよ。これ以外に最善の貨幣使途は無い。・・・・・人間は何かの悪をするものだが、女に与える時のみは悪をしない

 しかし、考えてみると、「よその女に貢ぐために俺は稼いでいるんだ!何か文句あるのか!」的な開き直りの文章を載せてしまう新聞社も新聞社です。これぞ明治男子の正しい生き様である、という時代背景があったと考えるべきでしょう。今なら完全な時代錯誤です。ここにも、直木三十五が今読まれない理由のひとつがあるのかもしれません。

 こうしてできた巨額の借金を抱えた彼の仕事量はやはり半端ではなかったようです。特に彼が書くスピードもまた伝説的でした。文芸春秋社の編集者がある時、原稿の催促にいくと、直木にタバコを一本渡され、これでも吸っていてくれと言われたといいます。ところが、彼がそれを吸い終わる前に、もう原稿は完成してしまったといいます。
 もちろん、スピード勝負で書き上げた文章の完成度には疑問があります。しかし、書くのと遊ぶ以外の時間を読書に費やしていたこともあり、彼の頭の中には膨大な情報が詰め込まれていました。そのため、資料集めや調査旅行などしなくても、彼は頭の中だけで歴史小説や時代劇小説をどんどん書き上げることが可能だったようです。
 それでもなお書くネタに困った時、彼には奥の手もありました。それは文学仲間や交友のある有名人たちに関するゴシップ・ネタです。もちろん、そうしたゴシップ記事の中には、自分自身の貧乏生活も含まれていましたが、実名で作家たちのプライベートを描いてしまうことで多くの敵を作ることにもなりました。こうした文章も彼が人気を得た理由の一つだったようです。

<直木三十五誕生>
 1921年、30歳になった彼は自らのペンネームを直木三十一とします。その後、三十二、三十三として最後に三十五としてところでそれを固定します。こうして、彼の直木三十五が誕生したわけです。(セルジオ・メンデスの遥かに先を行っていた!)
 1923年(大正12年)直木三十五として、創刊されたばかりの雑誌「文芸春秋」に評論や雑文を執筆し始めます。この時、まだ彼は小説を発表してはいませんでした。この年9月彼の人生を大きく変えることになる事件が起きます。関東大震災です。東京を襲った未曾有の大災害により多くの人が命を落とし、財産を失いました。しかし、この時、わずかながら大地震の恩恵を受けた人もいました。それが直木三十五でした。
 街が崩壊しすべてが混乱する中で、彼は多額の借金の督促から逃れることができたのです。そのうえ、機能停止に陥った東京を離れ大阪へと移り住むことで、それまでとは違う人生を歩みだすことが可能になったのです。
 大阪で編集者としての仕事を得ることができた彼は安定した生活が送れるようになり、小説の執筆も開始します。こうして、彼はそれまでの苦しい借金生活が嘘のような生活ができるようになりました。順調に稼げるようになった彼は、出版とは異なる分野への進出を考え始めます。

<映画界への進出と挫折>
 1924年に彼が発表した小説「心中きらら坂」がヒットしたことから、映画化の話がきます。それをきっかけに彼は当時の人気監督、牧野省三と知り合うことになりました。結局、「心中きらら坂」は、牧野が脚色を担当し、「雲母坂」としてマキノ・プロダクションが映画化しヒット作となりました。(主演は阪東妻三郎)この作品で彼は映画化権という新たな収入の道を得ることになったわけです。さらに彼は映画という仕事が、まさに新時代のビジネスであり、大きな利益を生み出しうる美味しい仕事であることを確信することができました。
 1925年、彼は牧野省三らと「総合映画芸術家協会」を設立し、映画の製作に乗り出しました。
 当時、関東大震災の影響により日本は大きな打撃を受けましたが、映画業界は伸び盛りの時期にあり、映画の需要は増え続けていました。そのうえ、関東での映画製作が困難になったことから、関西は映画製作の中心地となり活気にあふれてもいたのです。彼にとって、映画は最高のチャレンジの場とうつっていたようです。
 協会の第一作は「月形半平太」。監督は衣笠貞之助で出演は新国劇のリーダー澤田正二郎と劇団員たちで、興行的に無事成功。ところが、第二作の「日輪」は製作が遅れただけでなく、日本古代の神話を題材にしたことから天皇陛下侮辱するものとして右翼からの攻撃を受け公開できなくなります。(後に一部カットして公開)これで協会は大きな借金を抱えることになりました。さらに大きな問題がありました。それは映画会社大手からの様々な妨害や規制による攻撃です。協会の成功は、大手の牙城を崩し映画興行の地図を変えかねない事件として、危険視されていたのです。
 この時代は協会の設立以後、独立プロダクションの一大ブームが起きていました。阪東妻三郎の阪東妻三郎プロ、市川右太衛門の市川右太衛門プロ、片岡知恵蔵の知恵蔵プロなどが次々に設立されています。直木の協会設立はそうした独立プロの先駆けだったわけです。そんな時期に彼は映画界に飛び込み、そこで脚本家だけでなく、時には自ら監督まで担当して作品を発表しています。(残念ながら、映画史に残るような作品は生まれなかったようですが・・・)
 しかし、独立プロのほとんどは、その後、すぐに大手の圧力により立ち行かなくなり、消えて行きます。そして、協会もまた3年で解散に追い込まれてしまいました。それでも、この間に彼は様々な映画スターや映画業界の人間たちと親しくなり、作家活動においても大いに役立つことになります。

<作家活動の本格化>
 1927年(昭和2年)、総合映画芸術化協会を解散した彼は、家族と共に再び東京に戻ります。そして、いよいよ本格的に作家としての仕事に集中するようになります。中でも大ヒット作となった小説に「南国太平記」があります。(1930年)
「南国太平記」
 舞台は九州南部の薩摩、時代は江戸時代の終わりのことです。後継者問題に揺れる薩摩藩の内紛を描いた小説です。ただし、藩の後継ぎになる人物を呪いによって暗殺しようとする呪術師、牧仲太郎とそれを阻止しようとする仙波八郎太とその息子。さらに明治維新の英雄、益満休之助が対立するエンターテイメント歴史時代劇になっています。

 新聞連載小説として大人気となった後、単行本として出版されてベストセラーになりました。この小説はそれまでインテリ層の読み物だった歴史小説というジャンルを大衆層にまで広めた先駆作とも言われています。
 当時、彼は量・質ともに作家としてのピークにあったようで、様々なジャンルの小説を書いています。特に彼が力を入れようとしていたのは、意外なことに空想科学小説いわゆるSFで、「科学小説一課」(1930年)、「近藤勇と科学」(1930年)などの作品を残しています。さらに満州を一週間取材してまわった後、「太平洋戦争」(1931年)という作品も発表しています。これは、社会学的に近未来の日本の危機を描いた内容でしたが、マスコミは日本を戦争へと向かわせる危険な右派作品として批判しました。
 元々政治にまったく興味がなかった彼は、そうした批判に対して開き直り、自ら「ファシズム宣言」をしてしまいます。このあたりもまた、その後彼の作品が戦後読まれなくなる理由の一つになったのかもしれません。

<死へ向かって>
 作家として稼いでは、それを遊びで使い切る。そんな生活がどんどん加速度的に勢いを増す中で、彼はしだいに身体を壊してゆくことになります。当時はまだ不治の病だった、結核、それにリュウマチにも冒された彼は、そのせいで脊椎カリエスになり、坐骨神経痛で歩くことも困難になってゆき、最後は脳にまで転移して、脳膜炎にも苦しむことになります。しかし、彼は死の直前まで、自分はまだ死なないと考えており、病院でも執筆できなかれば入院しないと宣言していたといいます。

 まず消費があり、次にそれを補う収入があるという直木の金銭哲学は、同じように自らの病気にも当てはめられた。彼にとって優先順位のもっとも高いのは、現在の生活の継続であった。生活を維持するためには稼がなければならない。稼ぐためには書き続けなかければならない。健康は二の次である。執筆の中止は直ちに経済的な破綻に繋がる。病気は漸時に死をもたらす。これが直木の基本的な考え方であった。

「俺は、人の世話になるのが嫌いだ」
 これは、直木の弟、清二が入院費用については出版社(文芸春秋社)がちゃんと世話をしてくれることになっているから安心しろと伝えたのに対しての言葉で、これが弟への最後の一言になりました。

「これ等の、極めて、うはべの特質は、親しくつき合ってきた僕等を、生存中苦笑させ、また腹立たしくもしたのだが、今、かうした、美点とかいうよりも、彼としてはどうにも止むを得なかった生活の姿、形の全部を統合するとき、限りない愛情を、人間直木に対してよみがえらせないわけにはいかない。兎に角、二人と同じものを此の世で見出せない、ユニークな存在としての彼が、馬鹿になつかしく、もう一度、たった一目でも眺めて見たくてならなくなるのだ」
三上於蒐吉

「彼が、出版や映画で失敗だけの人生を送ったとしても、彼とともに生きたという記憶が、生涯われわれの心に焼き付いてはなれない。それほど特色のある人物だった」
広津和郎

 こうして、直木三十五の人生を駆け足で振り返ってみると、直木三十五という作家は、そのペンネームといい、映画製作への進出といい、SFや近未来小説への挑戦といい、とにかく新しいジャンルへの挑戦を生きがいに前へ前へと進み続けたといえます。そのエネルギーは、仕事だけには納まりきらず、賭け事や恋愛にも注ぎ込まれ、そのために必要なお金を稼ぐためにならなる仕事を生み出すことにもなりました。そんな無限ループの人生をあまりに早く駆け抜けてしまったため、彼と同じ時代を生きた人間以外は、その凄さを知る暇がなかったかもしれません。歴史には、人生そのものがあまりに興味深く、作品となっってしまった人物がいます。しかし、そうした人物の場合、なかなか歴史や記録にはその名前が残らないものです。例えば、
路上」の二ール・キャサディー
セックス・ピストルズシド・ビシャス
ボクシング界の斉藤清作
映画界のエド・ウッド
などなど
 自身の作品ではなく生き様によって伝説となった英雄。その一人が直木三十五でした。そう考えると、「ロック世代の文学史」として、ぴったりの人物だったといえそうです。

「私は氏に面接していると、氏の作品を読もうという気持ちには常にならなかった。作品などよりも人物の方が遥かに上であったからである」
横光利一

 彼の死後1935年、菊地寛により、大衆文学の新人作家のための賞「直木賞」と純文学作家のための「芥川賞」が設立され、現在まで年二回の選考が行われています。

<参考>
「直木三十五伝」
 2005年
植村鞆音
文芸春秋社

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