- 植村直己 Naomi Uemura -

<冒険とは?>
 「冒険」とは何か?辛口のエッセイだけでなく、「冒険と日本人」という著書がある本多勝一氏は、「冒険」をこう定義しています。
「冒険とは、第一に必ず生命の危険がともなう。そして、第二に冒険者は主体的に冒険を行なっていなければならない。」(ということは、徴兵によって兵士になった場合は、どんなに危険な目にあっても「冒険」とはならないことになります)
 この二つの条件さえそろえば、犯罪でも反政府活動でも「冒険」と呼べるということになります。元々冒険と犯罪の境界線は微妙です。例えば、ヨットで世界一周を行なった堀江謙一は、事なかれ主義の日本政府が旅券の発行を拒否したため、密出国というかたちで旅立たざるを得ませんでした。日本のように「冒険」の歴史がない国の場合、冒険家は犯罪者として扱われることもあったわけです。
 僕もかつてはちょっとした冒険野郎でした。アラスカでシーカヤックに乗ってザトウクジラをまじかでみたり、モロッコのフェズで怪しげな男に案内されて迷路のような街の中を歩き回ったり、小笠原のケータ列島でのダイビング中にはものすごい勢いの海流に流されそうになったりとけっこう危険な目にあってきました。
 海外一人旅とスキューバ・ダイビング、シーカヤック、テレマーク・スキーにはまっていた僕は、弱虫なくせに冒険が好きで、年に一度はどこかの国や海に冒険旅行に出かけていました。(今では、こうしてパソコンの前に座りっぱなしの人生になっていますが、・・・・・)
 考えてみると、僕のような普通の人でさえ、ちょっとした冒険ができるようになったというのは、20世紀になってからのことかもしれません。またその逆に究極の冒険といえるもののほとんどは、20世紀の間に成し遂げられたともいえます。人類が月面に到達し、南極に越冬隊の基地ができ、深海まで潜水艇が潜れるようになった今、もう地球上に秘境は存在せず、冒険家にとっては夢のない時代になったともいえそうです。
 1984年にマッキンリーで消息を絶ち、未だに遺体が発見されていない日本が生んだ偉大な冒険家、植村直己。もしかすると、彼は歴史上最後の冒険家だったということになるかもしれません。彼のようなストイックで古いタイプの冒険家の時代はすでに終わっているように思えるのです。
 彼の遭難は当時大きな話題となり、「冒険とはなんぞや?」という議論がさかんに行なわれました。彼の死後、命がけの単独行というものはあまり聞かれなくなりました。映画「INTO THE WILD」では久しぶりに「冒険魂」というものを思い出させてもらいましたが、今や、あの映画の主人公のように無名の存在でなければ、本当の意味の冒険はできないのかもしれません。冒険とは、けっして世界初の偉業でなくても、本人にとって初めての体験であれば十分に冒険といえるはずですから、こうしている今でも世界のどこかで無名の冒険家が自分にとっての新たな冒険に挑戦しているかもしれません。(もちろん、それを第三者が冒険と判断するかどうかはわかりませんが・・・)
 では、「世界のウエムラ」にとっての「冒険」とは何だったのでしょうか?彼の人生を振り返りながら考えてみたいと思います。

<植村直己の生い立ち>
 植村直己は、1941年2月12日兵庫県日高町という日本海に近い田舎町で生まれました。実家は農家で、彼は七人兄弟の末っ子として、豊かな自然の中で山遊びをしながらのびのびと育てられました。成績は良くも悪くもなく、高校卒業後は普通に就職したのですが、ものの一年ともたずに退職し、明治大学に入学します。この時すでに彼は自分が普通のサラリーマンとしては生きてゆけないことを自覚していたのかもしれません。そのため、なんとか自分に合う世界を見つけようと悩んでいた頃、たまたま彼は大学で山岳部と出会いました。
 明大の山岳部といえば、日本でもトップクラスの山岳部として有名ですが、そんなことを彼は全然知りませんでした。当時明大の山岳部では、自分の体重と同じ重さの荷物を担いで登山練習をするというどこよりも厳しいといわれる訓練を行なっていて、多くの新入部員はすぐにやめてしまったといいます。ところが彼は、入部するとすぐに何の才能もない自分でも、登山でなら気力と根性によってどうにかなると気付き、誰よりも熱心に練習に励むようになりました。
 1964年、その後明大を卒業した彼は、山への思いが断ちがたく、建設現場で貯めたお金で南米行きの移民船に乗船しロサンゼルスに向かいました。ところが、カリフォルニアの農園やレストランで働きながらアラスカの氷河へ行く資金を貯めているところを移民局の係官に見つかってしまい、国外退去処分を言い渡されてしまいました。ところが彼は、日本へと強制送還されるべきところを、モンブラン登頂のためという理由で、係官の了解のもとフランスへと向かうことができました。この係官の配慮のおかげで彼は「世界のウエムラ」への道を一歩踏み出すことができたのです。どうやら、彼の人柄の良さはこの頃から周りの人々に影響を与えるカリスマ性を発揮していたようです。

<冒険の始まり>
 フランスに着いた彼は、ろくにスキーがすべれないにも関わらず、1960年にオリンピックの滑降で金メダルを獲ったジャン=ビュアルネの経営する山小屋で働くことになりました。それもまた彼の人柄と熱心な働きぶりをビュアルネが気に入ったためでした。この後、彼はそこで働きながらお金を貯め、次々に海外の山々に挑戦して行きます。
 1964年、モンブラン(4807m)の単独登頂に向かった彼はクレパスに落下、大怪我をしてしまいます。しかし、1965年、怪我から復帰したばかりの彼は古巣である明治大学の山岳部がヒマラヤの高峰ゴジュンバ=カン(7646年)に挑戦することを知り、人足でいいからと頼み込んで同行させてもらうことになりました。ところが、途中から参加した彼に意外なチャンスが訪れます。
 当時未踏の山だったゴジュンバ=カンの登頂を目指していた明大山岳部の登山隊は、天候不順と体力の消耗によって山頂付近で立ち往生。メンバー全員が疲れきって動けなくなってしまいました。そこで裏方だったはずの彼に急遽山頂アタックの指示が出されます。すると、彼はシェルパのペンパ=テンジンとともに見事初登頂に成功。この快挙により、一躍彼の名は日本中に知られることになりました。
 1966年、彼はヨーロッパ・アルプスの最高峰モンブラン、そしてマッターホルン(4478m)の単独登頂に成功。さらにこの年、彼はアフリカ、ケニヤのレナナ峰(4985m)に続きアフリカ最高峰のキリマンジャロ(5895m)の単独登頂にも成功しました。
 1968年、アルゼンチンのブエノスアイレスへ向かった彼は、エル=プラタ(6503m)と南米大陸の最高峰アコンカグア(6960m)の単独登頂に成功。しかし、彼が挑戦したのは山だけではありませんでした。彼はアコンカグアの登頂後、アマゾン河の源流ユリマグアスからの6000キロを二ヶ月かけてイカダで下るという冒険にも成功。
 その後、彼は北米最高峰マッキンレーに登るため、アメリカに渡りますが、登山許可が得られず、サンフォード(4941m)の登頂に挑戦後、4年半ぶりに日本に帰ってきました。彼は休むことなく冒険にし続けていました。

<エベレストへの挑戦>
 無名の登山家から一躍日本中にその名を知られることになった彼は、帰国後、日本山岳会のエベレスト遠征隊に加わることになりました。そして、1970年松浦輝夫とともに日本人として初めてエベレスト(8848m)の山頂に立ちました。こうして、5月にエベレストの山頂に立った彼は、その3ヶ月後にはアラスカに向かい念願のマッキンリー(6194m)の単独登頂に成功。さらに年末にはヨーロッパに渡りグランド=ジョラス北壁に挑む登山チームに参加、翌年1月にはその登頂に成功しています。
 1971年2月にエベレスト南西壁国際隊に参加しますが、天候不順の中、国籍の異なるメンバーが対立する事態となり、登頂は失敗に終わりました。この時の失敗から、彼はいよいよ単独での冒険にこだわるようになってゆきます。
 帰国後、彼が行なった次なる冒険はそんな嫌な経験を忘れるかのような気楽な旅、北海道の稚内から九州の鹿児島まで3000キロを52日間かけて徒歩で旅するというものでした。この年、彼は30歳。年に一回どころか、年に2回、3回と冒険に挑んでいた彼のこの時代は、まさに駆け足の青春時代でした。もしかすると彼はエベレストを登りながら、もうすでに次に登る山のことを考えていたのかもしれません。

<極地への挑戦>
 1972年、彼の駆け足の人生に変化の時が訪れます。目標としていた山を登りきった彼は、次なる目標としてエベレスト山頂よりも厳しいかもしれない場所、極地を選びます。そして、そのための準備と偵察のため、グリーンランドを訪れます。そこで彼はイヌイットの人々と1年間に渡り生活をともにします。そして、彼らから犬ぞりの扱い方や猟の仕方など極地で生き延びるために必要な知識を身につけてゆきます。けっして偉そうにしない人好きのする彼の人柄はイヌイットの人々にすぐに受け入れられ、彼らの一員として認められることになったといいます。(見た目の優しそうな雰囲気も、同じアジア系同士伝わりやすかったのでしょう)
 1973年、彼はグリーンランドのシオラパルクから3000キロに渡る犬ぞり単独行を成功させます。そんな忙しい人生を送る中、彼は自らの生涯の伴侶を見つけることにも成功します。グリーンランドから帰国後、彼は下宿近くのトンカツ屋で野崎公子さんと知り合い、翌年にはゴールインしてしまうのです。彼の冒険を常に理解してくれた素晴らしい妻の存在もまた彼の人生の大きな支えとなります。「家族」の存在こそ、「生きて帰らなければならない」最大のモチベーションとなったはずです。しかし、だからといって、彼の冒険への熱が冷めることはまったくありませんでした。結婚後、彼は再びグリーンランドに向かい北極圏1万2000キロを制覇する単独犬ぞり行に出発します。1974年の11月にスタートしたこの旅は、なんと1976年5月アラスカのコッビューに到着して終了。しかし、彼の冒険はそれだけでは終わりませんでした。その年、彼は今度はソ連に出発。コーカサス山脈にあるヨーロッパ最高峰の山エルゴルーズ(5633m)の登頂に成功した彼は世界で初めて五大陸の最高峰全てを登頂した登山家となりました。
 こうして、彼の名は「世界のウエムラ」として世界中に知れ渡ることになりました。しかし、この頃から再び彼の人生は、大きな曲がり角にさしかかることになります。それは彼が「世界のウエムラ」として、まわりの期待を背負わざるを得なくなったことから始まったともいえそうです。

<「世界のウエムラ」として>
 1978年3月、彼は世界初となる北極点への犬ぞり単独行に出発、4月末には無事、北極点に到達します。さらに5月には、彼は犬ぞりでグリーンランドを横断。これまた人類初の快挙でした。この二つの冒険は海外のメディアでも高く評価され、翌年2月彼は有名なイギリスのバーラー賞(勇気ある賞)を受賞することになりました。
 こうして、彼は日本国内以上に海外で高く評価されるようになりますが、しだいに彼に対する批判的意見も目立つようになってきました。特に彼の北極圏への冒険については、数々の疑問や批判的見解が発表されるようになり始めます。その旅の全貌が明らかになる中、それは本当に冒険と呼ぶに相応しいのかが問われるようになっていったのです。
 冒険の途中、4回にわたって空から食料やそりをひく犬など装備品が補給されました。これって、単独行といえるの?
 彼の位置は、NASAの協力によりGPSを用いて常に位置を人工衛星で確認されていました。それって冒険といえるの?
 おまけに冒険の帰り道はヘリコプターに乗っていたことも明らかになりました。ええ〜?
 それらは本人が望んだことではなかったのかもしれません。しかし、二つの旅にかかった総費用は1億4千万円以上といわれ、寄付金やTV局などの協力で集められる金額を遥かに超えるものでした。そのため、彼は冒険の資金集めを大手広告代理店の電通に依頼しています。その道のスペシャリストでもある電通は、商売としてマスコミや企業への協賛金依頼を行なって資金を確保しますが、当然、そのためにはスポンサーとなった企業からの数々の依頼と、それ以上に絶対に失敗は許されないという厳しい条件を、彼は受けざるをえなくなりました。だからこそ、彼はGPSによる位置確認や空からの補給を受けざるを得なかったのです。
 確かに彼は一人で犬ぞりに乗って北極点に到達しました。しかし、そこまで行く間に犬たちがクレバスに落ちてしまったり、食料の多くを白熊に襲われて失ったりと大きなトラブルがあったのも確かでした。そのため、空からの補給がなければ彼は北極点まで到達できなかったかもしれないのです。
 21世紀の今、こうした冒険を行なうとなれば、安全のために間違いなくGPSや食料の空輸はセットになるでしょう。そう考えると、やはり「世界のウエムラ」は「20世紀最後の冒険家」だったといえるかもしれません。彼はこうした批判を気にしていたのでしょう。犬ぞりによるグリーンランド縦断は、その点究極の単独行といえる旅だったといえます。しかし、彼に対するプレッシャーは、その後も高まり続けました。

<さらなる危険な旅へ>
 1980年、その期待に答えるため、彼は厳冬期のエベレスト登頂を目指し、ヒマラヤへと向かいました。さすがにそれは単独登頂ではありませんでしたが、冬のエベレストは予想以上に厳しく彼の隊は、竹中昇という隊員一名の命を失うという惨劇に見舞われてしまいました。この時、彼は登頂の失敗以上に、仲間の命が失われたショックに苦しみ、いよいよ自分ひとりだけの冒険にこだわるようになります。
 1982年、彼は南極へと向かいます。目的は、南極大陸3000キロの犬ぞり単独行と南極最高峰ヴィンソン=マシフ(5140m)の登頂でした。彼はアルゼンチン領のサンマルティン基地に滞在し、準備を行いました。しかし、運悪くその間にフォークランド紛争が勃発、イギリスと戦闘状態となったアルゼンチンの軍隊からの協力を得られなくなってしまい、計画は断念せざるを得なくなってしまいました。
 1983年秋、彼はミネソタ州にあるアウトドア・スクール「ミネソタ・アウトワード・バウンド・スクール」でアウトドア教育について学びました。彼自身、このまま冒険をいつまでも続けることができないのはわかっていただけに、次なる目標として自らが講師となるアウトドア教室の開校があったようです。この年、彼は42歳。体力的な衰えもあり、次なる展開を考えるのは当然でした。しかし、それが彼の望むところだったのか?それはわかりません。少なくとも、彼はまだ冒険をやめる気はありませんでした。途中で中断してしまった南極での冒険を実現することを彼はあきらめてはいなかったのです。(彼の遺志を継いだアウトドア・スクールは、彼の死後21世紀まで北海道の地で続いています)

<最後の冒険へ>
 1983年冬、彼はアラスカのマッキンリーに向かいます。冬のマッキンリーに単独登頂しようというのが目的でした。そして、それは彼がその先に目指していた南極最高峰ヴィンソン=マシフ登頂のための訓練であると同時に、南極に基地をもつアメリカへのデモンストレーションでもあったといわれています。南極に基地をもつアメリカ軍の協力を得ることが、自分の南極探検には不可欠と、彼は考えていたのです。
 1984年1月、こうして彼は最後の冒険となるアラスカのマッキンリーへと向かい、ベース・キャンプを設置します。ところが、この年は不幸にも天候が不順で、出発までに1週間待機せざるをえませんでした。そのため、彼の出発は2月1日と大幅に遅れてしまいます。そのうえ、彼は新しく採用した登山靴や防寒着の予想外の不具合に悩まされ、体力を消耗。それでもなんとか2月12日無事に登頂に成功します。しかし、この後、急激に天候が悪化し、ベース・キャンプから彼への交信がまったくできなくなってしまいます。この時、山頂ではものすごい風が吹き荒れており、人が到底立ってはいられない状況だったといいます。
 天候がやっと回復したのは、1週間後の2月20日。空からの捜索が始まりますが、彼の姿は発見できず、その後、同行していたテレビ朝日のディレクターらが4200m地点まで登って捜索を開始しますが手がかりはなく、明大山岳部のOB隊が5200m地点の雪洞で彼の装備品を発見します。この発見により、「世界のウエムラ」遭難のニュースが世界中へと広まることになりました。その後、4月に入り再び大規模な捜索が行なわれますが、彼の遺体は発見されず、現在もなお謎のままです。
 彼は生きていて、イヌイットの村でその姿を見たものがいるという噂もずいぶん広まったそうです。重くのしかかるプレッシャーから逃れるため、彼は大好きなイヌイットの人々と静かに暮らす道を選んだのではないか?そんな説を語る人もいました。
 しかし、彼を知る多くの人は、いつまでもアマチュア冒険家だったがゆえに、彼は常に死の危険にさらされていたと指摘しています。そのうえ、誰よりも冒険を愛した彼にとって、「冒険」から引退する生き方など考えられなかったのかもしれません。そうなれば、彼の冒険は半ば自殺的な行為だったという意見も出てくるわけです。
 しかし、実際に彼を知る人々にとって彼は、誰よりも「心優しく冒険心にあふれた素晴らしい」人間性の持ち主でした。だからこそ、同年6月16日に東京で行なわれた「植村直己に別れを告げる会」では、三千人もの人々が花を捧げ、デンマークの駐日大使はグリーンランド南端の岩峰に「ヌナタック=ウエムラ峰」と名前をつけることを発表しました。
 死へと向かわざるを得なかった彼の人生を悲劇と考えるのか。幸福な人生と考えるのかは、やはり人それぞれの考え方でしょう。それは命をかけた冒険という行為に共感できるかどうか?その人の感性によるでしょうから。
 ところで、あなたは冒険がお好きですか?
 最後に、世界の有名なクライマーたちのインタビューを集めた本「ビヨンド・リスク」の著者ニコラス・オコネルの言葉で締めましょう。

<締めのお言葉>
「・・・・・クライマーたちを駆り立てるのは、死の願望ではなく、生の願望 - せいいっぱいに、激しく、完全に生きたいという願望である・・・・・」

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