- ニール・ヤング Neil Young -

<孤独の旅路>
 この男の歩んできた道は、60年代以降のアメリカン・ロックの歴史であると同時に、アメリカという国において、反体制的な生き方を貫いてきたウッドストック世代の波乱に満ちたドラマでもありました。
 ビートルズローリング・ストーンズボブ・ディランなど世界の歴史や音楽に大きな影響を与えたミュージシャンたちに比べると、そのインパクトは弱いかも知れません。しかし、60年代から世紀を越えて、なおパワフルな反骨ロックン・ローラーとしての活躍を続け、未だに若いアーティストたちの先頭に立っているアーティストは、この男ひとりだけではないでしょうか?いや、この男はまるで年毎に若返っているかのようです。髪の毛が薄くなればなるほど、その過激さは増しているではないでしょうか!
 今やこの男の生き方は、ロック的生き方の理想像にまでなってしまいました。だから、日本では遠藤賢司のことを、「和製ニール・ヤング」と呼んだり、イギリスではポール・ウェラーのことを英国版ニール・ヤングと呼んだりもするのです。

<トロントからのスタート>
 ニール・ヤングは実はアメリカ人ではありません。カナダのトロントに1945年に生まれたカナダ人です。父親は有名なスポーツ・ライターだったそうですが、彼が10歳の時に離婚してしまったため、その後は母親とともにウェニペグで生活しました。(父親は彼のドキュメンタリー映画「イヤー・オブ・ザ・ホース」に出演していました)そして、その頃から彼はギターをもって歌い始めます。高校を卒業すると彼は再びトロントの街に戻り、フォーク・クラブを中心に活動を始め、カナダ出身のジョニ・ミッチェルやアメリカからやって来たスティーブン・スティルスリッチー・フューレイらと知り合いになりました。

幻のバンド、マイナー・バード
 1965年、ニール・ヤングは、後にバッファロー・スプリングフィールドを結成することになるブルース・パーマーと、後にステッペン・ウルフ(映画「イージー・ライダー」の「ワイルドで行こう」で有名なバンド)のキーボード・プレーヤーとなるゴルディ・マックジョン、そしてファンク・ミュージシャンとして80年代に入って大活躍することになる黒人ミュージシャン、リック・ジェイムスことジェイムス・ジョンソンとともにマイナー・バーズという幻のバンドを結成しています。このバンドはモータウンと契約し、アルバムも録音しましたが結局発売されることのないまま解散してしまいました。この幻のバンドは、その名のとうりマイナーのままこの世から姿を消してしまったのでした。
 いったい彼らはどんなアルバムを作ったのでしょうか?今や伝説のグループ、バッファロー・スプリングフィールドがカントリー・ロック・バンドの先駆けでありながら、ソウルの影響も大きかったのには、このマイナー・バードの存在があったのかもしれません。

<伝説のバンド、バッファロー・スプリングフィールド>
 1966年、LAに移り住んだニール・ヤングは相棒のブルース・パーマーにスティーブン・スティルス、リッチ・フューレー、デューイ・マーチンを加えて、フォークロックの歴史にその名を残すバンド、バッファロー・スプリングフィールドを結成します。彼らは短期間ではありましたが、後のロックの行方に大きな影響を与える3枚のアルバムを発表して1968年に解散しました。

クレイジー・ホースとの出会い
 バッファロー・スプリングフィールドがLAのウィスキー・ア・ゴー・ゴーなどでコンサート活動を行っている頃、ニール・ヤングは、後に彼とともに行動をともにすることになるクレイジー・ホースのメンバーたちと出会いました。ビリー・タルボット(ベース)、ラルフ・モリーナ(ドラムス)、ダニー・ウィットン(ギター)の3人は、当時ザ・ロケッツと名乗って活動していましたが、ほとんど無名のバンドでした。しかし、彼らの演奏が気に入ったニールはギターをもって彼らのもとを訪れ、何度もセッションを行っていたといいます。
 そして、彼がソロとしての活動を開始するにあたり、迷わず3人をバック・バンドに採用。1969年のデビュー・アルバム「ニール・ヤング」に続く、同年のセカンド・アルバム"Everybody Knows This Is Nowhere"では、ニール・ヤング&クレイジー・ホースとクレジットし、ここから彼らとの長い付き合いが始まることになりました。

<ウッドストック世代の象徴、C.S.N.&Y>
 1970年になって、彼はクロスビー、スティルス&ナッシュに加わることになり、フォークロックの歴史的名盤「デジャブ」を発表しました。しかし、彼は同時にソロとしてサード・アルバムの制作にもかかっており、クレイジー・ホースとジャック・ニッチェニルス・ロフグレン(当時19歳)をバックに、彼の代表作のひとつ「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」(1970年)を録音します。

<熱い時代の終わり>
 1972年、彼はナッシュビルのカントリー系のミュージシャンたちをバックにした彼にとって最大のヒット作「ハーヴェスト」を発表しました。このアルバムからのシングル「Heart Of Gold 孤独の旅路」は、彼にとって唯一の全米ナンバー1ヒットとなりましたが、彼はけっしてそのヒットを喜んでいたわけではありませんでした。それよりも時代の急激な変化、ウッドストック世代の時代が終わったことを感じ、ロックの方向性にも不安を感じていたに違いないでしょう。そして、そんな時代の流れを象徴するようにロック界では不幸な出来事が続いきます。
 1970年、キャンド・ヒートアル・ウィルソン、それにジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックスが立て続けにこの世を去り、翌年にはドアーズジム・モリソンデュアン・オールマンまでも20代の若さであの世へと旅立った。そして、ついにニール・ヤングのすぐそばでも、不幸な事件が起きます。

<ダニーの死>
 1972年の12月にクレイジー・ホースのギタリスト、ダニー・ウィットンがヘロイン中毒が原因で死亡、さらに翌年にはC.S.N.&Y.のスタッフだった友人のブルース・ベリーも死亡してしまったのです。この出来事に大きなショックを受けた彼はクレイジー・ホースの二人のメンバーらとダニー追悼のためのアルバム"Tonight The Night"を録音しました。(このアルバムはレコード会社が重すぎる内容に尻込みし発売を拒否、2年後の1975年にやっと発売されます)

新生クレイジー・ホースとともに
 ダニーを失ったクレイジー・ホースは、フランク・サンペドロを新しいギタリストとして加入させ、再びニール・ヤングとともにアルバムの制作に入ります。こうして1975年にアルバム"ZUMA"が発売され、ニール・ヤングとクレイジー・ホースの新しい時代が始まりました。
 1977年"Amerikan Stars'n Bars"("Like A Hurricane"収録)、1978年"Comes A Time"を発表した後、彼らは6週間に渡る全米ツアーを敢行、それもほとんどの曲が未発表という大胆なもので、それらの曲はツアー後にスタジオ録音され"Rust Never Sleep"(1979年)として発表されました。このアルバムには、ニールがセックス・ピストルズジョニー・ロットンに捧げた曲(対抗した曲とも言える)"Hey Hey,My My"が収録されていますが、当時彼の世代でパンクに対してエールを送ったアーティストはほとんどいませんでした。
「ロックは死んだ」と言われた時代に、彼はどうどうと「ロックン・ロールはけっして死なない」と歌って答えたのです。そして、この後も彼は自らロックが生き続けていることを証明してみせます。

<1980年代>
 1980年代に入っても、彼の創作意欲は衰えることはありませんでした。
"Hawks & Daves"(1980年)、"Re・ac・tor"(1981年)、「トランス」(1982年)、"Everybody's Rockin'"(1983年)、"Old Ways"(1985年)、"Landing On Water"(1986年)、"Life"(1987年)、"This Notes For You"(1988年)、"Freedom"(1989年)、"Eldorado"(1989年)、そして1990年に「傷だらけの栄光 Ragged Glory」を発表した後、1991年、70年代から80年代にかけての集大成とも言えるアルバム「Weld ライブ・イン・ザ・フリー・ワールド」を発表しました。このライブは、前座にグランジの元祖的バンド、ソニック・ユースを抜擢しただけあって、爆音とノイズにあふれたグランジ以上にグランジらしいパワフルなものでした。マイナーな存在だったグランジが全米でメジャーになったのが、この年ニルヴァーナが「ネヴァーマインド」を大ヒットさせてからだったことを考えると、ニール・ヤングは、まだまだ時代の先端を突っ走っていたことがわかります。
"Harvest Moon"(1992年)、"Sleeps With Angels"(1994年)このアルバムでは、パール・ジャムと共演し、カート・コベインに捧げた歌も収められています!、"Mirror Ball"(1995年)、"Broken Arrow"(1996年)、そして再びライブ・アルバム"Year Of The House"を発表、もちろん21世紀に入ってもその勢いは衰えていません!

<21世紀も突っ走る男>
 21世紀に入っても相変わらず、エリック・クラプトンら60年代から活動しているベテラン勢は元気ですが、彼らの多くがベテランの味を売り物に人気を得ているのに対し、ニール・ヤングは相変わらず円熟味などというものには縁遠い青い臭いほどの力強さを見せています。
 かつてウッドストック世代が夢みた世界が、例え幻だったとしても、彼だけはいつまでも自由な世界でハリケーンのようにロックし続けるに違いない。そして、彼にとっては、それこそが先に死んでいった者たちへの最大の供養なのかも知れません。
 願わくば、彼の思いがより多くの人々に届かんことを!

<追記>2014年9月
「ニール・ヤングの内省的印象のいくつもに濃く”死の匂い”がある。人の死は生きる者に何を与えるか。死を悼むだけなら、歌は空々しく響き、いくつかの悲哀をなぐさめて消えていくだけだ。ニール・ヤングは一つの解答を歌で与えて、問いかけに”完了”の印を押すようなことはしない。問いかけをいつまでも引きずりながら、答えをいくつも探し続けている。人、一人の死に対して、その友人と接した人の数だけ想いがあるように、ひとつの結論で解決できぬ問いかけがある、ということを音楽で示し続けているのだ。」
湯浅学「音楽が降ってくる」より

<追記>2001年アメリカで起きた同時多発テロ事件のチャリティーTVでニール・ヤングは「イマジン」を歌ったそうです。ラジオでは、放送自粛になっている曲をあえて歌うとはさすが!
<追記>彼のライブとインタビューを収めたドキュメンタリー映画「イヤー・オブ・ザ・ホース 馬年」は、お薦めです。監督は、あのジム・ジャームッシュですから面白くないわけがありません。
必見です。
<追記>
 2006年、彼は「リヴィング・ウィズ・ウォー」という反戦のメッセージをこめたアルバムを発表。強烈なブッシュ批判を展開しています。反骨魂健在なり!

<締めのお言葉>
「今流行っているロックは墓石なんだ。ロックは、10億ドルの墓石の商売に成長した」

ボブ・ディラン

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