- ネヴィル・ブラザース、ミーターズ Neville Brothers,Meters -

<ネヴィル・ブラザース前史の重要性>
 ネヴィル・ブラザースの歴史は以外に新しく、1978年から始まっています。そして80年代後半にニュー・オーリンズ・ファンクの代表格として世界的注目を集めるようになり、90年代にかけては、ニュー・オーリンズ・ファンクの枠を飛び出し、ソウルやロック、ラテン、レゲエをも取り込んだファンク・ロックの最高峰とも言える存在となりました。
 しかし、彼らがそこまでの成功をおさめられたのは、バンド結成にいたるまでの長い道のりがあったからこそであり、その長い道のりこそニュー・オーリンズ・ファンクの歴史そのものと言ってよいでしょう。

<ネヴィル兄弟>
 ネヴィル・ブラザースは、読んで字のごとく、ニュー・オーリンズに生まれ育ったネヴィル家の子供たち4人によって作られたバンドです。(ニューオーリンズの街はある種特殊な街で、家族単位で音楽を演奏することが当たり前なほど、昔から音楽が家庭に浸透していました)
 アート・ネヴィル(1937年生まれ、キーボード)、アーロン・ネヴィル(1938年生まれ、ヴォーカル)、チャールズ・ネヴィル(1941年生まれ、サックス)、シリル・ネヴィル(1948年生まれ、パーカッション)、この四人は、ネヴィル・ブラザース結成以前、それぞれが別々に活動していました。特に、長男のアートは1950年頃すでにターコイズというグループでキーボード奏者として活躍していた大ヴェテランで、1952年にはホーケッツというバンドを自ら結成しました。そして、このバンドがメンバー・チェンジを繰り替えした後、1967年頃、ネヴィル・サウンズというバンドになり、そこにアーロン、シリルの二人が参加し、ネヴィル・ブラザースの母体ができました。しかし、ここでバンドは再び二つに分裂してしまい、別々の行動をして行くことになります。
 そのうちアーロンとシリルは、ソウル・マシーンというバンドを結成、ニューヨークで活動していたチャールズと合流し、彼らの叔父であるビッグ・チーフ・ジョリーのもと、アルバム「ワイルド・チョピトゥラス」を録音しました。(このアルバムのセッションにはアートも参加しています)そして、残るメンバー、アートとその友人たちからなるリズム・セクションの3人、ジョージ・ポーター(ベース)、ジョー・モデリステ(ドラムス)、レオ・ノッセンテリ(ギター)の4人が結成したのが、ニューオーリンズ・ファンクの源流とっも言える重要なバンド、ミーターズでした。

<ミーターズ>
 ミーターズのジョージ・ポーターとジョー・モデリステはニューオーリンズ育ちの幼なじみで、10歳の頃から一緒に演奏していたようです。そこにネヴィル家のメンバーが加わり、ホーケッツやネヴィル・サウンドへとつながっていったのです。もうひとり、レオ・ノッセンテリは他の3人とはまったく違う経歴をもっています。彼は13歳でギタリストとして活躍を始め、オーティス・レディングクライド・マクファーターらのアトランティック系アーティストのバックを務めただけでなく、モータウンのセッション・ギタリストとしても活躍しています。なんと、シュープリームスの大ヒット曲「愛はどこへ行ったの」のギターは彼だといいます。
 1968年、彼ら4人がミーターズを結成、後にニューオーリンズ・ファンクの仕掛け人と呼ばれることになるプロデューサー兼ミュージシャンのアラン・トゥーサンのもとでセッション・バンドとして数多くのミュージシャンのバックを務めながらニューオーリンズ・ファンクの名作を次々に発表して行きました。(かたやLAではドクター・ジョンを中心とするニューオーリンズ移住組がニューオーリンズ・ファンクをロックの世界に広めようとしていました)
 デビューは1969年の「ソフィスティケイテッド・シシー」ですが、当時はヴォーカルのアーロンがまだいなかったこともあり、インストロメンタル系ファンク・バンドとしてのスタートでした。(1970年ビルボード誌のベストR&Bインストロメンタル・グループ賞をいきなり受賞しています)
 しかし、メジャー・レーベルのワーナー・リプリーズと契約して発表したアルバム「キャベジ・アレー」(1971年)あたりから、いよいよヴォーカルも本格的なファンク・バンドとしての本領を発揮し始めます。特に、1974年の「リジュビュネイション」と1975年の「ファイヤー・オン・ザ・バイユー」は、彼らの最高傑作とも言えるアルバムで、「ヘイ・ポッキー・ア・ウェイ」、「アフリカ」、「ファイヤー・オン・ザ・バイユー」などの曲は、後のネヴィル・ブラザースのライブでも演奏され続けているニューオーリンズ・ファンクのスタンダード・ナンバーと言えるでしょう。
 こうしてミーターズはアラン・トゥーサンとともに、セカンドライン・ファンクと呼ばれるニューオーリンズ独特のファンク・サウンドのブームを築いてゆくことになります。

<ディスコ・ブームのまっただ中で>
 1970年代半ばといえば、世界中がディスコ・ブーム一色に染まっていた時期で、ファンク・バンドの多くがディスコの単純なリズムに合わせて演奏せざるを得ない状況に追い込まれていました。そんなファンク・バンド受難の時代をなんとか乗り切ることができたのは、P−ファンク系のミュージシャンとジェームス・ブラウン、そしてニューオーリンズ・ファンクのミュージシャンたちぐらいでした。その中でも、ニューオーリンズのミュージシャンたちは、地域独特の文化「セカンドライン・ビートの文化」によって守られていたと言えるでしょう。

セカンド・ライン・ビートとは?
 セカンド・ライン・ビートと呼ばれるニューオーリンズ・ファンク独特のビートは、もとをただすと、この地に連れてこられた奴隷たちの間に伝わり続けたアフリカ起源のヴードゥー教の集会で用いられていたリズムがもとになっています。そして、その名の由来は、ニューオーリンズの文化を代表する葬式のパレードで先頭を行くブラス・バンド(ファースト・ライン)の後に続いてバラバラに歩いてついて行く参加者の列の名前(セカンド・ライン)にあるようです。そして、この文化はしっかりとこの地域に根付いており、ディスコ・ブームごときで失われるような柔な文化ではありませんでした。まして、ニューオーリンズは、地域文化の保存と発展に対して、他のどの地域よりも熱心な土地柄でもありました。それは、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルが1960年から続けられ、年々その規模を拡大していることからも明らかでしょう。その意味で彼らは恵まれた環境の中で活動できたと言えるのでしょう。
「音楽には穴があった。いつも隙間があった・・・。ずっと思ってきたことなんだが、何を言うかではなくて、何を言わないかが大事なんだ」
ジョージ・ポーター

<ロック界とニューオーリンズ・ファンク>
 この時期、ロック界にニューオーリンズ・ファンクを積極的に取り入れようというバンドが現れ始め、それもまたブームの火付け役としての役目を果たしたと言えるでしょう。ザ・バンドのアルバム「カフーツ」収録の「ライフ・イズ・ア・カーニヴァル」のホーン・アレンジをアラン・トゥーサンが担当したことは、その先駆けでした。ロスのバンド、リトル・フィートも、ニューオーリンズ・ファンクを大胆に導入したアルバム「デキシー・チキン」(1973年)によって、そのバンドの基礎を築いています。それにあのロバート・パーマーのデビュー・ソロ・アルバム「スニーキング・サリー・スルー・ジ・アリー」(1974年)もまたニューオーリンズ・ファンク一色の作品でした。もちろん、ドクター・ジョンのニューオーリンズ・ファンクの名盤「ガンボ」(1972年)もこの時期のアルバムです。

<ネヴィル・ブラザース誕生>
 1978年、それまでバラバラに活動していた兄弟たちが、ついに結集しネヴィル・ブラザースが誕生しました。デビュー・アルバムは、づばり「ネヴィル・ブラザース」。その後、このバンドには、4人の兄弟以外にブライアン・ストルツ(ギター)、ウィリー・グリーン(ドラムス)、ダリル・ジョンソン(ベース)が加わり、いよいよ本格的なネヴィル・ブラザースの時代が始まります。

<ワールド・ワイドな活躍>
 ダリル・ジョンソンがトニー・ホールと代わってから発表されたアルバム「イエロー・ムーン」(1989年)あたりから、いよいよ彼らの人気はニューオーリンズの枠を越えワールド・ワイドなものになって行きます。
 「イエロー・ムーン」はいろいろな意味でニューオーリンズ・ファンクの枠を越えていました。プロデューサーには、U2ピーター・ガブリエルを手がけ世界中にその名を知られるようになっていたダニエル・ラノアが選ばれていましたし、サム・クックの名曲のカバー「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」では、ブライアン・イーノがエンジニアとして参加するなど、ロックの要素を大きく導入していました。さらに、歌詞を見てみると、黒人だけでなく世界中の虐げられた人々への救いを神に求める歌「マイ・ブラッド」や公民権運動の発端となったバス・ボイコット運動を始めたローザ・パークスに捧げられた曲「シスター・ローザ」など、明るく楽しいファンク・サウンドにかなりハードな内容の歌詞が載せられた重量級の内容でした。

<ネヴィル一族は永遠なり>
 その後も彼らは自らのルーツにこだわった重みのあるファンク・アルバム「ブラザース・キーパー」(1990年)、「ファミリー・グルーブ」(1992年)を連発します。しかし、ネヴィル・ブラザースの時代は、まだまだ終わることはないでしょう。それは、この一族にはまだまだ続きがありそうだからです。チャールズネヴィルの娘、シャーメインやアーロン・ネヴィルの息子、アーヴァインなど、次世代がすでに活躍を始めているのです。これぞ、まさに「ファミリー・グルーブ」です。

<ライブが見たかった?>
 彼らほどライブが楽しそうなバンドはいないのに、残念ながら僕は彼らのライブを見ていません。悔しいので、以前彼らのビデオを買いました。タイトルは「The Super Session X」、1989年「イエロー・ムーン」発売直後、絶好調時の作品です。
 ゲストが実に渋いのです。ジョン・ハイアット、ボニー・レイット、グレッグ・オールマン、ダニエル・ラノア、ダーティー・ダズン・ブラスバンド、ジミー・バフェット、バックウィート・ザディコ、デキシー・カップス、それにミュージカル・ディレクターのハービー・ハンコック(本当に、この人出たがりですねー)ついでにデニス・クウェイド(俳優クウェイド兄弟のひとりですが、ミュージシャンとしても有名)これはお薦めです!
 2005年、ニューオーリンズの街はハリケーン「カトリーナ」によって大きな被害を受けました。そ影響は未だに大きいようです。しかし、素晴らしい音楽を生んだ歴史ある街は、きっと復興してくれると信じています。いつか僕も、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルに行ってみたいと思います。

<締めのお言葉>
「文化が現れたことで、それまで存在しなかった型の進化的」発展の萌芽がみられた。すなわち文化の進化、言い換えれば本来の意味での人間の進化である。・・・生物の遺伝は遺伝子が媒介する。したがって、その伝わり方は、親から子、さらに他の直系の子孫へ、という排他的なものである。文化は教えることと学ぶことによって伝達される。<社会的遺産>は、少なくとも原則的には、生物学上の家系とは無関係に誰の手から誰の手へも伝えることができる。他の生物には生物的遺伝しかないが、人間には生物的、文化的の二つの遺伝があると言えよう」
ドブジャンスキー著「人間の自由の生物学的基礎」より 

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