「アメリカン・ニューシネマ- 反逆と再生のハリウッド史 - A Decade Under the Influence」
2003年

- ポール・シュレーダー、ウイリアム・フリードキン、ジョン・ヴォイト
ロバート・アルトマン、ロジャー・コーマンなど、その他大勢 -

<ニューシネマの時代>
 僕が映画館で映画を見るようになった1970年代前半、映画界はニューシネマがブームを迎えている頃でした。5年生の時にやって来た担任の先生も「バニシング・ポイント」を小学生の僕らに進めてくれた。そんな時代でした。まだ小学生だった僕らにはまだ早かったのですが、中学に入る頃になると、それらの映画はテレビで放映されるようになり、僕もそれらの作品を見るようになります。特に弟と深夜に見た「真夜中のカウボーイ」「スケアクロウ」「アリスのレストラン」などの渋いニューシネマの作品群は、僕に実に強烈な印象を残しました。
 その後も僕は大学に入るとニューシネマ系の作品群を名画座などで見続けました。もちろん、それらの作品のすべてが良かったわけではなく、傑作から超大作までずいぶん幅が広かったように思います。しかし、僕にとって「ニューシネマ」は間違いなく最も「青春」という言葉にぴったりの映画だったように思います。

<「アメリカン・ニューシネマ- 反逆と再生のハリウッド史 -」>
 「アメリカン・ニューシネマ- 反逆と再生のハリウッド史 - A Decade Under the Influence」というDVDがあります。1960年代後半に登場し、1970年代中頃までにハリウッドの構造自体を大きく変えることになった「ニューシネマ」の歴史を追ったドキュメンタリー作品です。(ニューシネマ以降、「スターウォーズ」や「ジョーズ」などその終わりとも言える作品群までを取りあげています)
 この作品は次ぎの言葉から始まっています。
「映画の成功に優秀な頭脳は必要ではない。大事なのは作り手と大衆の欲求が一致すること、無意識が時代と同調する瞬間だ」
フランソワ・トリュフォー Francois Truffiaut「わが人生の映画たち」より

 1970年代前半、奇跡的に映画の作り手と大衆の欲求が一致する時期がありました。ただし、ここで重要なのは「作り手」とは「監督」や「脚本家」など映画の制作現場に関わる人たちであって「映画会社」ではありません。それ以前も、それ以後も映画とは、「映画会社」が大衆のニーズに合わせて「映画製作者」を雇って撮らせるものでした。(その枠からはずれているものをインディペンデント独立系作品と呼ぶわけです)
 ではなぜ、1970年代前半のわずか数年の間だけ、インディペンデントがメジャーと肩を並べることができたのでしょう?それがこのドキュメンタリー作品のテーマです。

<ニューシネマを生んだ時代>
 ニューシネマの時代を生んだ原因はいくつかあります。最も大きいのは、やはり1960年代後半にピークを迎えたヒッピー・ムーブメントとその影響により爆発的発展をとげたロック・ミュージック、この二つの影響によるものでしょう。
 ベトナム反戦運動、公民権運動、ウーマンリブ、フリーセックス、ドラッグ・カルチャー、民族意識の高揚などによって、若者たちの意識はこの時期を境に大きく変化しようとしていました。その変貌があまりに急激だったため、世代間には大きなギャップが生じてしまい、いつの間にかハリウッドが生み出す映画は時代錯誤的なものばかりになっていました。
 例えば、F・F・コッポラは1968年にミュージカル映画の大作「フィニアンの虹」を撮っています。ビートルズやストーンズがブレイクし、フラワー・ムーブメントがピークを迎えていた時代にフレッド・アステアの昔ながらのミュージカルが製作されていたとは驚きです。ちなみに、ウッドストックで巨大なロック・イベントが行われた1969年にも、数多くのミュージカル映画が撮られています。ジーン・ケリーが監督した「ハロー・ドーリー」、ハーバート・ロス監督の「チップス先生さようなら」、ジョシュア・ローガン監督の「ベンチャー・ワゴン」、ボブ・フォッシー監督の「スウィート・チャリティー」などなど。アカデミー賞には当時まだミュージカル映画部門がというのがあったのです。

<若者たちの映画>
 プレスリーですら過去のものになりつつあったこの時代にフレッド・アステアやジーン・ケリーのミュージカルを若者たちが見に行くわけがありません。
 では、ニューシネマが現れるまで、映画好きの若者たちは何を見ていたのでしょうか?彼らは実はアメリカ映画ではなく海外の映画の新しい映画に熱中していたのです。
 イタリアの監督では、フェデリコ・フェリーニ、ビットリオ・デ・シーカ、ロベルト・ロッセリーニルキノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ベルナルド・ベルトリッチ、フランスではジャン・リュック・ゴダール、ルイス・ブニュエル、フランソワ・トリュフォー、その他スウェーデンのイングマール・ベルイマン、日本の小津安二郎黒澤明、インドのサタジット・レイ、ポーランドのロマン・ポランスキーアンジェ・ワイダなど、そうそうたる顔ぶれの監督たちが世界中で活躍を始めていたこの時期、映画の中心はハリウッドではなかったと言えるでしょう。特にヌーヴェルバーグ(新しい波)の中心にいたトリュフォーやゴダールの人気は世界中に広がりをみせており、アメリカにもその影響を受けたアーティストが現れようとしていました。
「撮影所を出なければそれを越える作品は撮れない。街自体が大きなスタジオだ」
ジャン・リュック・ゴダール

<イギリスの映画界>
 地味ながらニューシネマに影響を与え、その後は活躍の場を自らアメリカに移して活躍したイギリスの監督たちの存在も忘れられません。「土曜の夜と日曜の朝」(1960年)「長距離ランナーの孤独」(1962年)「蜜の味」(1961年)などを作ったトニー・リチャードソンは、後にアメリカに活躍の場を移し、メキシコとアメリカ国境を舞台にした「ボーダー」やジョン・アービング原作の見事な映画化「ホテル・ニューハンプシャー」(1984年)などの名作を作りました。その他にもジェームズ・カーンの代表作「熱い賭け」を作ったカレル・ライス、そしてやはりイギリスでドキュメンタリー・フィルムを撮っていたジョン・シュレシンジャー、彼はご存じ「真夜中のカウボーイ」や「イナゴの日」「マラソンマン」など、数多くの傑作をアメリカで撮ることになります。
 その他にも、ビートルズ映画で音楽映画の新しいスタイルを築いたリチャード・レスターや「もしも・・・if」(1968年)を作ったリンゼイ・アンダーソン、「小さな恋のメロディー」(1970年)の脚本を書いたアラン・パーカーなどが次々に現れました。

<新しい監督たちの登場>
 ニューシネマを生み出した監督たちの中には、テレビという新しいジャンルで下積みを経験したり、ドキュメンタリー・フィルムの世界で鍛えられた実力派が数多くいました。
 ジョン・フランケンハイマー、アーサー・ペンシドニー・ルメットウィリアム・フリードキンなどは、50年代に黄金時代を迎えていたと言われテレビの世界で頻繁に撮られていた生放送のドラマやドキュメンタリー番組などを担当、そこから映画界に進出した監督たちです。
 そして、もう一人、ドキュメンタリー・フィルムと言えば、「アメリカの影」や「フェイシズ」などドキュメンタリーとドラマを融合させた新しいスタイルの作品を作り、アメリカ最初のインデペンデント映画監督と言われるジョン・カサベテスの存在を忘れるわけには行きません。彼は撮影を行う際、現場にいるスタッフたちをつかまえてはカメラを持たせ、「君ならどう撮る?」とやらせてみたそうです。それは新しいアイデアを得るためというよりも、現場のスタッフ全員がクリエイターとして映画作りに参加することでより良い作品になるだろうという発想によるものでした。こうした考え方自体が、すでにニューウェーブだったと言えるでしょう。

<コーマン・ゲリラ映画学校>
 ニューシネマを生み出したもう一つの重要な流れ、それは「コーマン・ゲリラ映画学校」の卒業生たちの存在です。
 F・F・コッポラ、ジャック・ニコルソン、デニス・ホッパー、ピーター・ボグダノヴィッチ、ピーター・フォンダ、モンテ・ヘルマン、マーティン・スコセッシ、ジョー・ダンテ、ジョナサン・デミ、ロバート・デ・ニーロ、ジョナサン・カプラン、ブルース・ダーン、ジョン・セイルズ、それにロン・ハワードなどなど。
 20世紀後半のアメリカ映画における主流派を形づくったのが、B級ホラー映画専門の会社とその社長の指導によるものだったとは、実にアメリカ映画らしい事実です。
 そのB級ホラー映画専門会社AIP(アメリカ・インターナショナル・ピクチャーズ)社長ロジャー・コーマンは、常に才能のある若者を求めていました。それは彼の作る映画のファン層である若者たちの世代を意識すれば当然のことだったのかもしれません。しかし、そのことを実際に実行し続けた映画会社を他になかったのも事実です。彼は才能がありそうな若者を見つけると現金を渡し「好きに一本作ってみろ!」と自由に作品を作らせました。任された若者にとっては、絶好のチャンスですが、誰も彼に撮り方を教えてはくれないため、彼らは先輩に教えてもらったり、現場で知識を盗んでなんとか自力で作り上げて行きました。さらにこうして作られた映画は映画館において公開され、観客という「うるさ型」の試験官によって採点されることにもなります。そこでは芸術性だけではなく娯楽性も含めた総合的な評価が下されるのです。
 こうして、コーマン・ゲリラ映画学校は、映画作りについてのノウハウすべてを学ぶチャンスを多くの若者たちに与えることになりました。

<ハリウッドの方向転換>
 旧態然としたハリウッドのスタジオ・システムは崩壊し、映画会社は映画館から離れたいた若者たちを呼び戻すことができず、途方に暮れていました。そんな中、デニス・ホッパーとピーター・フォンダが作った「イージー・ライダー」がまさかの大ヒットとなり、メジャーの映画会社はロジャー・コーマン一派など若手作家を抱える独立系プロダクションをその配下に収めて流れに乗ろうとやっきになります。こうして、新しい発想と描きたい題材をもつエネルギーにあふれた若者たちに突然チャンスがめぐってきたのです。彼らは、それまでのハリウッド映画が取りあげていた現実離れした夢物語とは違い、若者たちが身近に感じている問題にスポットを当て、誰もが自分を投影できる作品を作り続けます。さらにそんな映画には同じように観客が自らを投影できるような若者たちが出演するようになります。こうして、20世紀後半のアメリカ映画を代表する俳優たちが次々にスクリーンに登場するようになったのです。
 ロバート・デ・ニーロ、ダスティン・ホフマン、アル・パシーノ、ジーン・ハックマン、エレン・バースティン、ブルース・ダーン、ジョン・ボイト、サリー・フィールド、ハーヴェイ・カイテル、ジナ・ローランズ、エリオット・グールド、ドナルド・サザーランド・・・etc.

<映画の新しいルールと新しい作品>
 こうして海外や国内の新しい個性と出会うことで、若手の監督たちは映画はもっと自由に作れるものだということを学んで行きました。ウィリアム・フリードキンは、ジョン・カサベテスの映画を見て「映画にルールはないと気づいた」と語っています。さらには、観客たちの意識が変化したことでアーティストたちは観客に嫌われることを恐れなくなりました。
 例えば、4文字言葉の乱発もこの頃から始まっています。
「フレンチ・コネクション」の中でこんなセリフがありました。
「ニガーの言うことを信用するなよ!」
 人種差別主義者の主人公ポパイが黒人を馬鹿にして言ったこのセリフは、ちょっと前までなら許されないものでした。ところが、この映画が公開されると映画館にいた黒人たちが逆に歓声を上げたというのです。それは、「よくぞ言った!」という賞賛であり、「この映画は本物だ」という驚きの表現だったのです。こうした過激な言葉の使用は、後に「レニー・ブルース」という究極の傑作を生み出すことになります。
 他にも、ホモ・セクシャルやレズビアン、そして暴力の問題を取りあげるようになったのもこの頃からです。
 暴力アクション映画の傑作ジョン・ブアマンの「脱出」は主人公たちが地元の謎の男たちに襲われオカマを掘られ、暴力によって立ち向かうことを余儀なくされるという内容でした。ウィリアム・フリードキンの「真夜中のパーティー」はまさにゲイの若者たちを主人公に彼らの青春を描いた作品です。
 さらに重要な題材として麻薬があります。
アル・パシーノの出世作でもある「哀しみの街角」(ジョン・シュレシンジャー監督)のように麻薬中毒者たちの悲劇的な人生を描いた作品や「イージー・ライダー」「フレンチ・コネクション」など麻薬の密売に関する作品など、数多くの作品がこの時期を境に作られるようになりました。
 今ではどうということはないテーマかもしれませんが、映画でウーマン・リブについて真っ正面から取りあげるようになったのも、この時期でした。女性の社会進出がいち早く進んだアメリカでは、働く女性たち、自立する女性たち、シングル・マザーたちが、他の国より早く登場していました。ポール・マザースキーの「結婚しない女」、マーティン・スコセッシの「アリスの恋」は、そんな女性たちを主役に映画を作った先駆けです。
 そして、政治、とりわけベトナム戦争の問題があります。それまでタブーとされていたこの分野の映画こそ、この時期を境に数多く作られることになりました。ジョン・G・アビルドセンの「ジョー」(1970年)「帰郷」、「タクシー・ドライバー」のように帰還兵の問題を描いた映画が先ず作られました。そして、さらにお金をかけて映画の部隊はベトナムへ。「ディア・ハンター」「地獄の黙示録」そして「プラトゥーン」など、しだいに戦場をリアルに描き出す作品が登場します。さらにベトナム戦争以外にも、タブー視されていた政治問題や社会問題に挑んだ「候補者ビル・マッケイ」「大統領の陰謀」「チャイナ・シンドローム」「ネットワーク」「ホスピタル」など、優れた作品が数多く作られるようになりました。

<ニューシネマのその後>
 ニューシネマから始まったアメリカ映画の新しい流れは、こうして数多くの監督や俳優たちにチャンスを与え、そのチャンスを活かした者がいつしかメジャーとなり、現在のアメリカ映画の繁栄を築き上げることになったわけです。残念ながら、彼らの多くは今ではかつてのように新しい発想で映画を作るというのは無理かもしれません。職人技として、ハリウッドを支える映画人になってしまったようです。(その例外と言えるのは、マーティン・スコセッシロバート・アルトマンぐらいでしょうか?)
 しかし、同じニューシネマ世代の俳優ロバート・レッドフォードは、自ら資金を出し、インデペンデント映画のための映画祭を企画、開催。新たな才能がここから次々に育っており、まだまだアメリカ映画にはニューシネマのエネルギーが流れ続けているとも言えそうです。

<締めのお言葉>
「映画作りは驚きの連続だ。映画は魔法と同じなんだ」

フランシス・フォード・コッポラ

「アメリカン・ニューシネマ- 反逆と再生のハリウッド史 - A Decade Under the Influence」  2003年
(監)(製)テッド・デミ Ted Demme、リチャード・ラグラヴェネーズ Richard La Gravenese
(製総)キャロライン・カプラン Caroline Kaplan、ジョナサン・セリング Jonathan Sehring
(撮) トニー・ジャネリ Tony Jannelli
(編)メグ・レティカー Meg Reticker
(出) ロバート・アルトマン、ジョン・G・アビルドセン、ウォーレン・ビーティ、エレン・バースティン
    ピーター・ボグダノヴィッチ、ジョン・カサベテス、フランシス・F・コッポラ、ロジャー・コーマン
    クリント・イーストウッド、ピーター・フォンダ、ミロシュ・フォアマン、ウイリアム・フリードキン
    モンテ・ヘルマン、デニス・ホッパー、シドニー・ルメット、ポール・マザースキー
    パム・グリアー、シドニー・ポラック、ロバート・レッドフォード、ジェリー・シャッツバーグ
    ポール・シュレーダー、マーティン・スコセッシ、ロバート・タウン、ジョン・ボイト

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