- 1952年 -

<核の時代>
 20世紀を二つの時代に分けるとすると、その分かれ目は1945年ということになるかもしれません。1945年に第二次世界大戦が終わると同時に世界中が戦乱に巻き込まれていた時代は、鉄のカーテンによって世界が二分される冷戦時代へと大きく変わりました。そして、それは「原子爆弾」という人類の歴史を終わらせかねない究極の兵器と人類が共存する危険な時代の始まりでもありました。
 しかし、米ソが鉄のカーテンを隔てて原子爆弾のボタンに手をかけて睨み合う時代は、実は1945年からではありませんでした。なぜなら、1945年にアメリカが広島、長崎に原子爆弾を落とした時、ソ連はまだそれを保有していなかったからです。したがって、この時点でアメリカは世界を武力によって支配することも可能だったわけです。
 そのうえ、アメリカの科学者や情報分析の専門家はソ連は1960年代になるまで原爆を開発できないだろうと予測していました。当時、こんなジョークがあったそうです。
「ロシア人には、スーツケースに原爆を忍ばせてアメリカに持ち込むこともできやしない。そもそもスーツケースが作れないのだから」
 しかし、事実上のアメリカによる一人勝ち状態は、そう長くは続きませんでした。1949年9月3日、米軍の長距離気象偵察機が異常に高レベルな放射線量を示す空気のサンプルをロシア上空で採取。それがソ連による核実験の証拠であることがすぐに明らかになったのです。予測よりも早くソ連が核爆弾を開発したことにアメリカ政府は大きな衝撃を受けました。しかし、政府や軍関係者以上に衝撃を受けたのは、もしかすると先に核兵器を開発していたアメリカの科学者たちだったかもしれません。
 彼らは当然、ソ連にも核爆弾を作れるだろうということを予測できていたはずです。したがって、彼らはソ連が核爆弾の製造に成功したことにショックを受けたのではありませんでした。彼らはソ連が核爆弾を所有したことによって始まる新たな核開発競争の始まりを予見し、その先に地球の滅亡を見たからこそ、大きな衝撃を受けたのです。
 もともと原子爆弾の開発者たちは、原爆の持つ恐るべき破壊力を十分に理解していたはずでした。しかし、彼らにはドイツが核爆弾を開発するより先に、こちら側が開発しなければ世界がヒトラーによって支配されるかもしれないという恐怖がありました。だからこそ、彼らは(その多くはユダヤ人の科学者でした)核爆弾の開発に協力するため、自らアメリカの砂漠に作られた閉鎖され極秘にされた研究施設「ロスアラモス研究所」に閉じ込められる研究生活を自ら選択したのです。

<ロスアラモス研究所>
 第二次世界大戦という異常な状況下だったことから、ロスアラモス研究所は世界中から優秀な科学者を集めることに成功しました。所長のオッペンハイマーがまとめることになったのは、彼よりも有名で、その多くがノーベル賞を受賞している天才科学者たちばかりでした。
 エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーアジョン・フォン・ノイマン、ハンス・ベーテ、リチャード・ファインマン、ユージン・ウィグナーなどのそうそうたる顔ぶれは、まさに「知のドリーム・チーム」と呼ぶにふさわしい存在でした。この研究所では「コンピューターの父」と呼ばれるあの天才ジョン・フォン・ノイマンですら、ポーカーでいつも負けていたといいます。大きな実績をあげていなかったにしても、そこに呼ばれた科学者たちは誰もが世界トップクラスの天才ばかりだったのです。
 しかし、ナチス・ドイツを倒すために彼らが開発した核爆弾は結局その目的のために使用されることはありませんでした。原子爆弾が完成する前にドイツが降伏してしまったのです。研究者たちはその時点で原子爆弾は不要になったと考え、デモンストレーションとして実験を公開することで日本も降伏させられると考えました。実際、日本の降伏は近かったはずです。しかし、アメリカ軍の上層部はあえて原子爆弾の使用を決断、広島と長崎に投下してしまいました。アメリカにとって原子爆弾の使用は、日本に勝つためではなく、終戦後に訪れることになるであろうソ連との軍拡競争をリードするための重要なデモンストレーションへと変わっていたのです。そして、そのデモンストレーションはあまりに強烈なものでした。その悲惨な投下跡の状況を知った科学者たちは大きな衝撃を受け、その多くはその後核廃絶運動に参加することになります。しかし、原爆の使用によって、終戦を早めたことは、犠牲者を減らすことにつながったとするアメリカ政府の見解はアメリカ国内で広く受け入れられ、彼らの運動も大きな力をもつことはできませんでした。

「地球が滅亡する瞬間、最後の人類が目にするのは、こんな光景なのだろうと感じた」
ゲオルグ・キスタコフスキー

「これで我々はすべて、悪魔の子になってしまった」
ケネス・ベイブリッジ

<開発再び>
 こうして、科学者のほとんどは終戦とともにロスアラモス研究所を離れました。彼らはヒロシマとナガサキの悪夢から早く逃れたかったのです。しかし、ソ連による核爆弾の開発は彼らを再び悪夢へと引き戻すことになります。アメリカ政府は彼らに対し、ソ連のもつことになるであろう核爆弾を上回る新型核兵器の開発を求めていたのです。実は、それは戦争中にすでに理論的には可能と考えられ、開発が計画されていましたが、終戦によりその緊急性が失われ休止状態になっていたのです。彼らはその爆弾を「スーパー爆弾」と呼んでいましたが、後にそれは「水爆」と呼ばれることになります。それは、核分裂を利用して生まれた原子爆弾を利用し、その何倍ものエネルギーを生み出す核融合を利用した爆弾でした。
 ただし、科学者たちの間では、たとえ「水爆」をソ連が開発したとしても、アメリカが百発の従来型原子爆弾を保有していれば、実用上はそれで十分に対抗可能であり、それ以上の核兵器の開発は地球を破壊するだけで誰も使うことはできないはずだと考えていました。地球は一個しかないのだから、それを何個も壊すだけの核兵器を持ってもしかたがない、というわけです。(現実に今の地球にはそれだけの核兵器が存在していますが・・・)
 ロスアラモス研究所のトップとして、世界を代表する頭脳集団のまとめ役として活躍した物理学者オッペンハイマーも、当時は自らの開発した原爆のもたらした結果に強い衝撃を受けており、水爆の開発には否定的でした。彼は当時のアメリカ大統領トルーマンと会った際、さらなる核兵器の開発への参加について、こう言ったとされています。
「大統領閣下、私の手は血で汚れているのです」
これに対し、大統領は「気にするな、水で洗えばいい」と言いつつ、オッペンハイマーはもう使えないと判断を下しました。こうして、彼に代わって、水爆開発計画の中心になった人物が、オッペンハイマー同様ヨーロッパから亡命してきた物理学者エドワード・テイラーでした。

<エドワード・テイラー>
 彼はソ連が核爆弾を所有する以前から、水爆の開発に積極的な数少ない研究者の一人で、軍関係者からの状況についての問い合わせにこう答えていました。
「『状況』など不安ではありません。不安なのは、状況を不安に思わない連中です」
 彼の両親や親戚の多くは、ソ連の支配下となったハンガリーに住んでいたため、彼の反ソ感情は非常に高く、多くの科学者が水爆開発に批判的だった中、彼は軍や政治家の中に同志を見つけながら着実に開発推進派を増やしていました。
 しかし、多くの科学者、技術者を失った研究所ではなかなか開発が進まず、膨大な計算を必要とする爆発のシュミレーションには特に手こずっていました。そこで大きな役割を果たすことになったのが、やはりヨーロッパからの亡命組みで、後に「コンピューターの父」と呼ばれることになるジョン・フォン・ノイマンが開発中だった新型巨大コンピューター「ENIAC」でした。
 あらゆる研究に首を突っ込んでは、そこで大きな役割を果たしていた天才数学者ノイマンもまた反共の保守派科学者だったため、彼は再びロスアラモスの研究チームに参加します。こうして、着々と水爆の開発計画は進められていましたが、アインシュタインやオッペンハイマーらを初めとする世界中の科学者たちがその開発には反対の立場をとっており、そこに参加するのはまだ少数派にすぎませんでした。ところが、この開発を一気に推し進める科学者が現れます。彼の名は、クラウス・フックス。その名を知るもののないまったく無名の科学者でした。しかし、彼の登場によってアメリカ国内の世論は大きく開発容認へと変わり始まることになります。

<クラウス・フックス事件>
 ドイツ人のクラウス・フックスは、母国ドイツからイギリスに亡命し、イギリス軍の原子爆弾開発に参加、その後、イギリスの研究者たちとともにアメリカに渡り、ロスアラモスでの研究に参加しました。ところが、彼はもともとドイルの共産党の党員でソ連共産党の幹部と通じていました。そのため、イギリスに帰国後もソ連側のスパイとしてアメリカの核兵器開発計画についての情報をソ連側に流し続けていたのです。
 彼の情報がソ連の核開発にどの程度役立ったのか、それは定かではなく、たいして役立っていない可能性もあります。しかし、問題はソ連がロスアラモスという政府の最重要極秘施設にスパイを送り込んでいたという事実が明らかになったことでした。
 この事件が明らかになり、クラウス・フックスが逮捕されたことで、軍と政府はソ連に対する危機感を急激に強めることになり、科学者たちによる水爆開発反対の動きは一気にその勢いを弱めることになりました。

<水爆の誕生>
 1952年11月1日、世界初の水爆(熱核爆発)実験が行われました。場所は太平洋に浮かぶ珊瑚礁に囲まれた小さな島エルゲラブでした。(「でした」というのは、その島は爆発実験により地球上から消滅してしまったからです)ただし、「マイク」と名づけられたその爆弾の本体は、あまりに巨大なため、爆弾とはいえず、爆発装置と呼ばれていました。そして、その威力はヒロシマでかつて使用された原爆の1000倍というものでした。
 実験の成功後、オッペンハイマーはテラーにこう言ったそうです。
「エドワード、きみの水爆がついに完成したな。となれば、これで朝鮮戦争にケリをつけたらどうだ?」
それに対してテラーはこう答えたそうです。
「兵器をどう使うかは私の知ったことじゃないし、今後もかかわるつもりはない」
 こうして、ソ連とアメリカの核開発競争の幕が切って落とされ、鉄のカーテンによってさえぎられた冷戦時代が始まることになりました。何度かの決定的な危機を乗り越え、21位世紀の今、人類はなんとか地球上で生き続けていますが、オッペンハイマーやアインシュタインは喜んでくれているでしょうか?
 ある時、記者がアインシュタインにこんな質問をしたことがありました。
「第三次世界大戦はどんな戦争になるのでしょうか?」
それに対する答えはこうでした。
「第三次世界大戦でどんな種類の兵器が使われるのかは分からない。だが、これだけは断言できる。それ以後の戦いでは、石を使うしかなくなるだろう」

[参考資料]
「ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影」(第一部)デイヴィッド・ハルバースタム著

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