トランスナショナルな世界史へ、ようこそ!

「歴史家が見る現代世界」

- 入江昭 Akira Irie -

<世界史の新たなスタイル>
 「世の中、どうやったって変わるわけはないさ・・・」と若者は感じるものです。僕も、昔はそう思っていました。
 でも50歳を越えた今、世界はいやでも変わっていると感じています。
 人は長く生き、様々な時代を体験することで、世界の変化をより長いスパンで俯瞰するようになります。そうなると、「世界はいやでも変化するものだ」という見方に変わるのかもしれません。世界の歴史を長い期間に渡り研究してきた歴史家ならば、なおさら世界の変化に敏感になるはずです。そんな歴史学の大家、アメリカ在住の日本人、入江昭教授(ハーバード大学名誉教授)が新しい歴史学について書いた「歴史家が見る現代世界」(2014年)を読みました。
 入江教授によると、21世紀の今、世界史の見方は大きく変わりつつあるといいます。では、それはどう変わろうとしているのでしょうか?
 さっそくその中で気になった部分をご紹介させていたできます。

<人類は自由へ向かう>
 物理学における絶対的な法則として「エントロピー増大則」があります。簡単に言うと「すべての存在は乱雑さ最大の状態へと向かい後戻りすることはない」というもの。これはたぶん物理学の枠を越えたあらゆる分野に通じる法則で、僕はその別バージョンを考えてみました。

「すべての人類は平等へと向かい、同時にすべての人類は自由へと向かう」

 すべての人が、いつか平等に扱われる権利を獲得し、権利だけでなく自由に生きることが可能な社会を得ることになるだろう、ということです。まあ、それにどれだけの時間が必要かは、風だけが知っているのでしょうが・・・。それでも、長い目で人類の歴史を眺めた時、確かに変化の兆しは刻まれていると思うのです。
 しかし、こうした長いスパンで歴史を把握するには、今までとは異なる歴史の見方が必要となり、より広い視野で歴史を見ることも求められるはずです。21世紀に入った今、新たな世界史の見方が生まれつつあります。

<グローバルな世界史の見方>
 これまで世界史とは、各国の歴史を調べ、それを並べて組み合わせて作られるものでした。しかし、現在そうした世界史の見方は変わりつつあります。
 例えば、トヨタという巨大企業は今や日本の企業とは単純に呼べません。同じように多くの企業が多国籍化している21世紀、そうした巨大企業の命運は世界全体の経済活動に影響を与えます。さらにEUのような国家の枠を越えた集合体は、ヨーロッパだけではなくアジアや環太平洋の国々にも誕生する可能性があります。また、アルカイーダのようなテロ組織には、国籍などまったく関係がありません。
 今や、国別の歴史を調べるだけでは、世界史を把握することが不可能なのです。そこで提案されているのが、「インターナショナル・ヒストリー」から「グローバル・ヒストリー」、さらに「トランスナショナル・ヒストリー」への転換です。このことについて、入江教授はこう書いています。

「国家ではなく地球(グローブ)を枠組みとする、そして国家間(インターナショナル)の関係ではなく、国境を越えたトランスナショナルなつながりに注目する・・・」

 ここでいう「トランスナショナル」という言葉は、どんな意味なのかというと・・・国境を越えると同時に、国家の間をつなげて新しい性格のものにするという趣旨で使われます。
「トランセンド」=超越する、「トランスミット」=渡す、「トランスファー」=変形する、「トランスファー」=乗り換え・・・などの言葉から派生したものです。
 具体的には、どんな歴史を調べようというのかというと・・・
(1)世界全体の動きをとらえようとする姿勢(人類の歴史はたったひとつしか存在しないということ)
(2)国や文化などの境界を越えた人間同士のつながりをたどるということ。(過去の歴史を人間同士、社会同士のつながりを通して理解するということ)
(3)同じ地球に生息する自然環境も歴史研究の視野に入れるということ。(エコロジーの視点からも地球を見直す必要があるということ)

 他にも世界史の見方が変わりつつある理由があります。それは今までの世界史が西欧中心、勝者中心の歴史だったことへの反省もあります。

・・・ニ十世紀には二度の世界大戦が勃発して、数億の人たちが犠牲になっている。この犠牲者の多くがアジア、中近東、アフリカ、南米、太平洋諸島などの人たちであったにもかかわらず、彼らの視点は、強大国中心の歴史ではまったく考慮されていない。

 歴史に名前の残らない多くの人々の人生に光をあてる「プロジェクトX」の世界版が求められるといえます。

<そもそも国家とは何?>
 世界史の変化について振り返る前に、改めて「国家」とは何か?について見直してみます。
 実は「国家」が社会システムのトップに位置している時代は、歴史上つい最近になってからのようです。

 もともと個々の人間にとって重要なのは、家族や地域社会における多数のつながりであって、国家とのつながりは、こうした数多くある関係の一つに過ぎませんでした。
 ところが十九世紀以降、地球に住む人間の大部分にとって、国家とのつながりが最も重要なものだとされるようになりました。
 また「国家」について、入江氏はこう定義しています。

 国家とは地理(境界線)と歴史(過去)によって定義される人間集団である

 さらに入江氏は国家が近代国家として成り立つ条件として、「政府機構と市民社会が両輪として回転していること」をあげています。なるほど、逆にいえば、その両輪がバランスを失えば国家は危機を迎えるということになります。

 歴史が教えてくれるように、ドイツのナチスやイタリアのファシスト、あるいはソ連の共産党政権のような中央集権的な政治体制は崩壊した。つまり、国内のネットワーク作りを独占しようとした国家権力は、長続きしなかったのである。
 それどころか、1970年代以降になると、民主主義国家においても、中央政府の権力が弱まり、市民社会の影響力が高まるという現象が生じている。いわゆる「大きな政府」から「小さな政府」への転移である。
 人間のつながりの歴史の歩みのなかで、1970年代がきわめて重要な転換期だったというのは、このような流れを背景としている。


 国家が強くなるか、個人が強くなるかによって、社会は大きく変わり、逆に社会の変動によって、政府は(国家)が強くなったり、弱くなったりするわけです。
 例えば、戦争などの有事に備えるため「安全保障国家」を目指す時、福祉の向上など「社会福祉国家」を目指す時、大災害への備えを供えようとする時、経済危機からの脱出を目指す時など様々な国家的危機に備えるには「大きな政府」が必要となるでしょう。
 常に変化する国家ですから、隣の国との関係もまた変わるのは当然です。そして、そんな不安定な国家とその関係の上に成り立つのが世界なのです。

<「世界」を改めて振り返る>
 いよいよここから「国家の集合体」から「世界国家」へと少しずつ変化しつつある「世界」の変遷について振り返ります。

 西欧諸国やトルコなどの国々が発展させた航海技術は19世紀に地球を一気に小さくし、世界中の国々との交易が可能になったことで、最初の欧米主導によるグローバリゼーションの波が生まれました。しかし、その波はすぐに逆流し始めます。それは「帝国主義」の登場が原因でした。
 当初は平等な交易が行われていましたが、すぐに状況は変わります。欧米諸国は次々とアジアやアフリカの国々を植民地化してゆき、植民地となった国へ自国の商品、文化、宗教を持ち込むようになりました。こうして始まった帝国主義の手法は、西欧による片道切符の押し売りだったため、グローバリゼーションの流れは完全にストップしてしまいました。
 再び、グローバリゼーションの流れが動き出すのは、第二次世界大戦終了後、植民地が次々に独立を果たし始めた1950年代に入ってからのことになります。当初は、それぞれの国が戦後復興や独立の勢いから活発な貿易が行われます。しかし、その中心は戦勝国だったアメリカとソ連の二つの大国であり、その二つの国が冷戦状態に入ると再びグローバリゼーションは危機的状況になり始めます。

 いまから振り返ると、当時世界は、第二次大戦後の歴史を作るのは冷戦という地政学的、新帝国主義的現象か、あるいは再グローバル化という経済的な動きか、という大きな岐路に直面していたのかもしれない。もし世界を二分する米ソ対立が深刻になったら、経済的グローバル化の流れは途絶えてしまったかもしれない。

 二つの大戦から経済的不均衡が戦争の危機を招くことを思い知った大国のトップは、国際間の経済的連携を重視するようになり、新しい経済の枠組みが作られることになります。それが、第二次世界大戦後にニューハンプシャー州ブレトンウッズで開催された会議で作られた国際経済機構「ブレトンウッズ体制」です。これがその後世界のグローバル化を促進することになります。ただし、この新しいグローバル化の流れは、あくまでもアメリカ主導の帝国主義の新バージョンともいえるものでした。

 その意味では、戦後世界の経済的グローバル化は米国帝国主義の勝利を示すものだということも可能であり、さらに極端に、グローバル化とは、ようするにアメリカ化のことで、米国支配の世界秩序と同義語とする説すらある。

 しかし、アメリカ主導のグローバリゼーションには弱点もありました。それはアメリカが「世界の警察」として各地で軍事行動を行うために巨額の軍事費を必要としたことです。そのうえ、アメリカはそうした軍事作戦でかつてのように勝利することができなくなっています。キューバやヴェトナムなどでアメリカは失敗を繰り返し、その間、アメリカの経済力によって立ち直った日本に経済大国としての地位を奪われてしまったのです。(ライバル国ソ連もまた動揺に崩壊への道を歩んでいました)

 着々と進展する再グローバル化がヨーロッパや日本の経済発展をもたらし、米国の相対的地位を低下させるのと、国際政治においてソ連の地位が弱体化していくのとが時期を同じくしていた。・・・
 それはつまり、帝国主義に対してグローバリゼーションが優位に立ち始めたことを物語っている。地政学的には「唯一の超大国」となった米国だったが、グローバル経済ではもはやそのような地位は保持できなかったのである。
 つまり、ニ十世紀後半の再グローバル化には、米国主導の時期と、米国以外の諸国(とくに非欧米諸国)がグローバル化促進の役割を担うようになる1970年代以降の二段階があったわけである。


 着実に進むグローバリゼーションの波は、一国が一人勝ちすることを許さないようなシステムなのかもしれません。さらに工業化社会は繁栄の後、必ずポスト工業化社会へと移行するのです。それに対して、アメリカは究極の「小さな政府」を目指す「ネオ・リベラリズム(新自由主義)」へと戻ることで、かつての勢いを取り戻そうと考えているようです。それは福祉や教育を切り捨てて、治安維持と国境警備だけに徹する「夜警国家」になることで、国家予算における無駄を一気になくそうということです。さて「エントロピー増大則」が支配する世界において、そうした過去の戦略が通用するでしょうか?

<世界を動かすノンステート・アクターズ>
 21世紀は、大国の思惑だけで世界を動かすことが不可能な時代です。中国は力による支配を国内、国外で強引に続けていますが、それがいつまで続くかはわかりません。ローマカトリック教会、アルカイーダ、マフィア、ユネスコ、FIFA、多国籍企業、様々な国境を越えた団体もまた世界を動かす力をそれぞれもっています。こうした、「非国家的存在(ノンステート・アクターズ)」がどんどん影響力をもつようになってきたのは、やはり最近のことです。
 これら様々な存在が複雑に関係し、お互いに影響を与え合うこれからの社会は、いったいどうなって行くのか、世界の「未来予想図」について入江氏は意外に楽観的な見通しを示してくれています。実際のところ、第二次世界大戦前と比べるだけでも、人類の多くは「ひとつの世界」、「ひとつの地球」、「ひとつの人類」というイメージを共有するようになっています。これは明らかに進歩といえるはず。さらに人類は、軍事力以外の力の重要性も理解しつつあります。

・・・軍事、経済力などの「ハード・パワー」に対して、思想、技術、その他の文化面の影響力、すなわち「ソフト・パワー」こそが歴史を動かす原動力であり、その力を持たない国はいくら「ハード」の面で力強くても、国際社会における影響力にが限りがある、・・・
ジョセフ・ナイー「アメリカン・パワー」より
(ここでいう「ソフト・パワー」とは、思想、心理、理想、感情など文化的なパワーのこと)

 世界史を振り返ると、その象徴的な出来事もありました。

「ヘルシンキ宣言」(1975年)で参加すべてにおける人権の尊重が取り決められた時点で、歴史は「冷戦の時代」から「世界主義の時代」に入ったのだといえる。
 西欧の35か国が参加して開催されたヘルシンキ会議(全欧安全保障強力会議)において締結された宣言。そこには国家主権の保障や戦争の回避に合わせて、個人の尊厳を守り、自由を保障することが盛り込まれていました。西欧の先進国だけの参加とはいえ、この宣言は人類の歴史にとって大きな一歩でだったといえます。

・・・いろいろな障害のあるすべての人たちを対象にした「障害者権利条約」が国連で採択された2006年は、その意味で21世紀初頭のなかでも最も記念すべき年だったといえるかもしれない。この条約は「障害に基づくあらゆる差別」を禁止し、障害者と健常者と健常者とが交流しうるような公共施設の拡張を求めたもので、2014年1月現在日本を含め104か国とEUが締結、批准している。
 障害者の権利を守ることは、将来的にすべての社会的弱者を守り、自由を保障することにつながります。人類全体の平等を実現するための大きな一歩でした。

<ONE NATION ONE WORLD>
 人類の人権意識は、少しづつではあっても着実に「平等」へと進んでいます。さらに今人類はその問題意識を人類だけでなく地上の生命すべてにも向けつつあります。いや、向ける必要に迫られているというべきでしょうか・・・。

 インターナショナルからグローバリズムへ、トランスナショナリズムへと進化する意識は、さらに広がり惑星意識へと拡張される。
「動植物や自然環境なども同じ惑星に存在するものとして、人間とともに共生共存していかなければならない、という認識」

 今や人類が必要としている世界の新たな見方は明らかです。

 これからの世界は現代史の流れに沿って、よりグローバルでトランスナショナルなつながりを持つ人間社会の建設、そして自然を含む地球との相互依存的な関係の確立を目指すことになろう。
 そのためにも、世界中すべての人がつながりの歴史をとおして現代史の意味を学び、ここまでに至った人類の過去についての「記憶」を共有するようにしなければならないであろう。個人個人の記憶、あるいは国家などの集合的記憶とは別に、人類すべての総合的記憶があれば、それをもとにしてこれからの行方を探ることも可能となる。


 人類が共通の歴史認識をもつことは、平和にとって最優先事項といえます。

 日本は中国や韓国とのあいだで、しばしば「歴史認識」について対立することがあるが、「歴史認識」と「歴史解釈」とを混同してはならない。「解釈」は「記憶」と同じように、個人(あるいは集団)がそれぞれのものを持っており、共通のものを見出すことは難しい。
 しかし、「歴史認識」は解釈とは違う。過去についての記憶や解釈が変わるからといって、歴史自体がそれぞれにつれて変化するわけではない。何が、いつ、どこで起こったかという史実、そしてなぜ起こったかを説明するような環境は、あとになって勝手に変わることはできない。したがって、この史実そのものの「認識」はだれにとっても同じものであるべきで、換言すればすべての人が共有できるものだということになる。


 いつか、学校で学ぶ「歴史」は、「トランスナショナル世界史」だけになっているかもしれません。「日本史」はその後の選択科目のひとつになっていて、日本国憲法の第九条は世界憲法にも盛り込まれていることでしょう。問題は、それまで「地球」が持ちこたえてくれているかどうかですが・・・。

「歴史家が見る現代世界」 2014年
入江昭(著)
講談社現代新書

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