- ニュー・オーダー New Order、ジョイ・ディヴィジョン Joy Division -

<1980年、もうひとつの死>
 1980年という年は、多くのロック・ファンにとって、ジョン・レノンという偉大なアーティストが射殺された年として、いつまでも忘れられることはないでしょう。しかし、この年その後のポップスに大きな影響を与えることになる「もうひとつの死」がありました。それはジョイ・ディビジョンのヴォーカリスト、イアン・カーティスの首吊り自殺です。
 ジョイ・ディヴィジョンと彼らを育てたファクトリー・レーベルの存在なくして、80年代以降、イギリスの音楽界をリードすることになるマンチェスターの音楽シーンは、生まれなかったかもしれない。それほど、その存在は大きかった。
 そして、イアンの死はそんなジョイ・ディヴィジョンの終わりであると同時に、ニュー・オーダーという新たなテクノ・ダンス・バンド誕生のきっかけとなり、これが後のブリティッシュ・テクノ・シーンの導火線、さらにストーン・ローゼスに代表されるマンチェスターのアシッド・ムーブメントへとつながってゆくのです。
 考えてみると、イギリスだけでなく、フランス、ドイツ、日本において、21世紀を代表する最も革新的なポップスは、なんといってもテクノでしょう。
 肉体的な快感を得るためのダンス音楽として発展したテクノは、かつてクラフトワークやYMOが生み出したコンピューターによる前衛的な音楽「テクノ」とは、まったく異なる次元の音楽になったと言うべきだろう。しかし、そのダンス天国を生み出す音楽の原点にひとりの男の自殺があった。そして、彼の自殺に象徴される「暗い現実」の存在こそが、テクノが大きなパワーを持ち得た最大の原因であったということを忘れるわけにはゆかない。

<1979年のバンドたち>
 ニュー・オーダーの前身となったバンド、ジョイ・ディヴィジョンが、アルバム"Unknown Pleasure"でデビューした1979年は、続々と新しいアーティストたちが登場したまさに時代の変わり目とも言える年だった。
Gang Of Four "Entertainment"、The Specials "Specials"、The Slits "CUT"、Pretenders "Pretenders"、The Pop Group "Y"、Madness "One Step Beyond・・・"、Joe Jackson "Look Sharp"、The B-52's "The B-52's"、The Cure "Three Imaginary Boys"などなど。
 パンクの爆弾が落ちたイギリスでは、その焼け野原から多様なスタイルをもつバンドたちが次々に現れ、風通しがよくなった音楽業界のおかげでどんどんメジャーになっていった。
 しかし、これらのバンドたちの中には、ギャング・オブ・フォー(このバンド名は、中国の「四人組」からとられている)のように政治性をもつ前衛的なバンドや徹底的にアバン・ギャルドなパンク・ファンク・バンド、ポップ・グループ、キリング・ジョークなど、かなり重い音楽を展開するバンドも多かった。

<ジョイ・ディヴィジョンと時代>
 ジョイ・ディヴィジョンは、そんなバンドの中でも暗い部類に属していたと言えるかもしれない。その名前の由来自体、ナチス・ドイツの将校たちの慰安所の名前からとられたという。(ルキノ・ヴィスコンティー監督の傑作映画「地獄に堕ちた勇者ども」の世界だ)
 当時僕は弟から何本もテープを貸してもらい、これらパンク、ニューウェーブ系のバンドの音を耳にしていたが、どれもけっこう暗い雰囲気だった。おまけに、この時代は世界中が重苦しい雰囲気に包まれた時期だった。
スリーマイル島放射能漏洩事故発生
イランの米国大使館占拠事件発生
サッチャー女史、英国首相に就任
ソ連、アフガニスタンに侵入
イラン革命、ホメイニ氏によるイスラム教主導の政権へ
中国軍、ヴェトナムを攻撃(カンボジア問題)
 1979年の大きな事件だけでも、これだけあるのだ。アメリカがテロ事件に巻き込まれた2001年も、確かに危険な年ではあったが、その危険な状況の根本的な原因は、この年あたりからすでに生まれ始めていたと言えるだろう。ただ、アメリカはその重大さを予測できなかったし、イスラム圏の存在を馬鹿にしていたのだ。僕も含め多くの人々が、世界の将来に不安を感じていたのは、間違いではなかったのだろう。
 イギリスの場合は、そんな時代の状況に長引く不況という身近な現実も加わっていたのだから、その閉塞感はかなりのものだったはずだ。だからこそ、ジョイ・ディヴィジョンのような音楽が生まれたのだろう。そして、その中心となっていたのが、ヴォーカルのイアン・カーティスだった。

<イアンの死>
 彼を中心に1977年マンチェスターでワルシャワというバンドが結成され、その後バンド名をジョイ・ディヴィジョン Joy Divisionと改名、デビューを果たした。2000年時点の音楽でいうとモグワイやラジオ・ヘッド、ナイン・インチ・ネイルズをイメージさせる重いサウンドは、一躍注目を集めたが、セカンド・アルバムの制作中、すでにイアン・カーティスの精神は天国への階段を登り始めていた。
 1980年5月18日、初のアメリカ公演への出発を前に、彼は故郷マクスフィールドの自宅で首を吊った。発売を直前に控えていた彼らのセカンド・アルバムは、「クローサー Closer」(1980年)と名付けられ、悲しみに満ちた印象的なジャケットをもつラスト・アルバムとして、ロック史に刻まれることになった。

<新しい体制作り>
 普通なら、これでバンドの歴史は終わり、ニュー・ウェーブの時代を代表するバンドのひとつとして、一部のファンの記憶の棚に収められるところだ。
 しかし、残されたメンバー、バーナード・サムナー(Gui,Vo)、ピーター・フック(Bass,Vo)、スティーブン・モリス(Dr.)の3人は、それを良しとせず「新たな体制」の確立を目指し、バンド名をニュー・オーダーと改め再出発を行った。
 デビュー・シングル「セレモニー」は、ジョイ・ディヴィジョン時代の曲であり、新たな出発にしては地味なものだった。しかし、それはイアンを弔うためには必要な儀式(セレモニー)だったのかもしれない・・・

<エレクトロ・ダンス・サウンド>
 本格的なニューオーダーの始動は、1982年のシングル"Temptation"あたりだろう。この曲から新メンバーとしてギリアン・ギルバート(女性キーボード、ギター奏者)が参加し、新しい体制が固まるとともに、音楽的にもその後のテクノへとつながるエレクトロ・ダンス・サウンドのスタイルが固まり始めていた。そして、1983年彼らにとって最も重要な曲「ブルー・マンデー Blue Monday」が発売された。この曲は、イアンの死をメンバーたちが知った月曜日の思い出を歌ったもので、暗い内容の歌詞でありながらイギリス国内で大ヒット。彼らはジョイ・ディヴィジョン時代以上の商業的成功を手にすることになった。

<12インチ・シングルへのこだわり>
 この後彼らは、アルバム「権力の美学 Power Corruption&Lies」(1983年)、「ロウ・ライフ Low Life」(1985年)、「ブラザーフッド Brotherhood」(1986年)など次々にヒット・アルバムを連発する。しかし、彼らの作品において、特徴的だったのは、作品の発表の仕方がアルバム中心ではなく12インチ・シングルを中心としていたことだ。これは彼らが当時すでに「ダンス・サウンド」を意識していたためで、1983年発売のシングル「コンフュージョン Confusion」では、ヒップ・ホップの本場NYでの録音が行われていた。そして、ダンスのための12インチ・シングルを「聴くためアルバム」と区別することによって、よりダンサブルに、よりポップに進化させていったのだった。

<新しい体制の果たした役割>
 そして、そのダンス・ムーブメントの中心となったのが、マンチェスターのクラブ「ハシエンダ」だったが、このクラブはニューオーダーのメンバーが資金を提供することで運営されていた。後に、この店に通っていた者たちの中から、ストーン・ローゼスやケミカル・ブラザース、そしてテクノを発展させるDJたちも育っていきました。その点でも、ニューオーダーがエレクトロ・ダンス・サウンドの発展に果たした役割は大きいだろう。(ちなみに、ストーン・ローゼスのデビュー・シングル「エレファント・ストーン」をプロデュースしたのは、ニューオーダーのピーター・フックでした)

<テクノとの出会い>
 
こうして、彼らはマンチェスター・ムーブメントのきっかけをつくり、ブリティッシュ・テクノの元祖となったわけだが、そんな彼らがテクノと出会うきっかけは、なんとやっぱりイアン・カーティスだったという・・・。彼が楽屋でいつもかけていたのが、クラフトワーク「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」だったというのだ。彼の魂が天国からバンドを導いてくれたのかもしれない。

<クラブとの出会い>
 そして、もうひとつ彼らがニューヨークへツアーやレコーディングで訪れるようになった1980年代前半は、ニューヨークのクラブ・シーンが大きな盛り上がりを見せていた時期だった。(マドンナがクラブ・シーンから登場したのも、丁度このころだった)ニューヨークから輸入されたクラブのダンス・ミュージックがマンチェスターでテクノとして大きな花を咲かせたわけだ。
 考えてみると、かつてパンクはニューヨークからロンドンへと輸入されて大ブレイクした。さらに10年ほど前には、R&Bがリヴァプールに輸入され、あのビートルズを生んでいる。
 最も白人的なダンス音楽といえるテクノだが、やはりそのルーツはアメリカ、そして黒人音楽へとつながっているのでしょう。

<コンサートからレイブへ>
 そして、もうひとつ彼らが変えたことがある。それは従来のコンサートのスタイル「演奏者と聴衆」の関係だ。彼らはバンド(演奏者)をステージから降ろし、ダンスを踊る人々(聴衆)と同じ目線、ひとつの共同体へと変えた。この変革があったからこそ、DJという存在は、今や時代の最先端を行くアーティストとなり、クラブ・シーンが新たなる文化発信源としての役割を果たすようになったのだ。イギリスにおいては、彼らがその先駆者だった。
 ニューオーダーが生み出した「新しい体制」は、まだまだより「新しい体制」を生み出す可能性を秘めながら世界各地へと広がり続けている。日本もその例外ではない。ちなみに、電気グルーブのピエールは、最も影響を受けたダンス・アルバムとして、ニューオーダーの「サブスタンス Substance」(1987年)(彼らの12インチ・シングルを中心に集めたベストCD)をあげている。

<締めのお言葉>
「したがって複雑な環境の中で生命システムが環境に適応しつつ発展してゆくためには、拘束条件をつくりだすことと並んで、それをどのようにはずすかということが重要な問題になる。自己の安定性を保ち、自己の内部で創成した拘束条件の記憶ネットワークを発展させながら、他方で自己を不完結に保ち続けるには、結局、自己の内部自由度を大きくしてゆく以外にはない」

清水博著「生命と場所」より

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