「量子力学の確立者」

- ニールス・ボーア Niels Bohr -

<アインシュタイン唯一のライバル>
「神はダイスをころがさない」
 テレビ・ドラマのタイトルにまでなったこの言葉が、かのアインシュタインによるものだということは有名です。しかし、この言葉がいつ何のために、誰に向かって語られたものかを知る人は多くないでしょう。より正確には、アインシュタインはこう言ったとされています。
「あなたは本当に、神がサイコロ遊びのようなことに頼ると信じますか?」それに対して、相手はこう言って切り返しました。

「あなたは、物の性質をいわゆる神の問題に帰するときには、注意が必要だと思いませんか?」

 こう言って、アインシュタインをやりこめた人物、彼こそ20世紀の科学を代表するもうひとりの天才物理学者ニールス・ボーアです。しかし、アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞した翌年(1922年)に同賞を受賞したこの物理学者の名前を知る人は、残念ながら今やごくわずかになってきました。(大学で物理を学んだ人でも知らない人がいるかもしれません)
 しかし、あのアインシュタインにとって、最強のライバルであり、多くの同世代の物理学者にとってカリスマ的存在だった彼の存在は、物理学界だけでなく世界の政治をも左右するほどの重要な存在でもありました。それはあの「指輪物語」の主人公フロドのような存在、地球の運命を左右する重荷を背負い込んだ小さな国の小さな救世主だったとも言えます。ただし、彼はその重荷、「核兵器」を残念ながら封じ込めることに失敗してしまいました。
 物理学にとっての黄金時代と言えるほど天才たちが数多く活躍した1930年代、それはまた「核兵器」という人類の運命を左右する危険な武器を生み出した悲劇の時代でもありました。そんな激動の時代を代表する人物とその時代に迫ってみたいと思います。

<デンマークが生んだ天才>
 後に「量子力学の父」と呼ばれることになる物理学の巨人ニールス・ボーアは、北欧三国のひとつデンマークに生まれました。デンマークといえば、酪農王国として昔から有名ですが、最近はレゴ・ブロックや携帯電話などのハイテク機器でも有名になっている技術立国で成功した小国です。
 国土は狭く、資源もなく、観光資源もない国がヨーロッパ列強の間に挟まれて、いかに生き残って行くべきか?デンマークという国は、実に見事にその解答を出した国と言えます。(ある意味、ヨーロッパにおける日本的な存在と言えるかもしれません)そして、この小国に生まれたことがニールス・ボーアの人生にとっても、後に大きな意味をもつことになります。
 ニールス・ヘンリック・ボーアが生まれたのは、1885年10月7日のことです。彼の父親はコペンハーゲン大学の生理学教授で、祖父は中学校の校長という名門学者家庭の長男として育てられました。彼と弟のハラルドが子供の頃、家には父親の友人たちが集まっては最新の科学について議論を闘わせていました。二人はそんな環境で育ったこともあり、自然に科学者としての道を歩み始めました。

<二人の天才の青春時代>
 その後、ニールスは物理学、ハラルドは数学の道へと向かいますが、けっして二人は学問一辺倒の人間ではありませんでした。それどころか、大学時代彼らはサッカーの選手として大活躍しています。特に弟のハラルドはデンマーク代表チームにも選ばれ、その中心メンバーとしてロンドン・オリンピックに出場。なんと銀メダルを獲得するという快挙を成し遂げています。(ニールスは代表メンバー選考からははずれたものの、ゴール・キーパーとして超一流だったということです)

<物理学の黄金時代>
 彼が大学で物理を本格的に学び始めた1900年代初めは、物理学が大きく発展しようとしていた時期でした。
1898年 キュリー夫妻がラジウムを発見。
1899年 J・J・トムソンが電子論を発表。
1900年 マックス・プランクが量子論の基礎理論を発表
1903年 日本の長岡半太郎が原子模型を発表
1905年 アインシュタインが特殊相対性理論と光量子仮説を発表
 1903年にコペンハーゲン大学に入学した彼にとって、物理の世界は刺激と驚きに満ちていました。そして、1911年に彼がイギリスに渡り、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で活動を始める頃には、彼もそうした物理学における革命の主役の一人になろうとしていたのです。

<量子力学とは?>
 それではここで「量子力学」について簡単に説明しておきます。
「そんなのわかるわけないでしょ!」という読者の声が聞こえてきそうですが、けっしてそんなことはありません。かのアインシュタインも言っています。
「科学の基本的なアイデアの多くは、原理的に簡単であり、誰にでも理解される言葉で表される。・・・」(まあ、天才アインシュタインの言葉ではありますが・・・)

 先ず、「量子力学」とは物質を構成している粒子(電子、陽子、中性子など)についての学問です。量子力学が確立される以前、物理学の世界では物質を構成する原子と分子とはどんな構造をしているのか?その研究が最大の課題でした。イギリスの物理学者ラザフォードは、この疑問に対し、「原子とは、原子核のまわりを電子が回っている「太陽系」のような存在である」と解答を与えました。この考え方に基づき世界中の物理学者たちはさらに細かな原子構造の解明に挑み始めました。そこで大きな役割を果たしたのは、物質のもつ性質と原子の構造との関係でした。
 もし、正確に原子の構造を記述できるなら、そこからそれぞれの物質の特徴を説明することができるはずだ、というわけです。このことを指摘したのがボーアでした。そして、世界中の物理学者や化学者がこの研究を進め、そこから得られた数々の結果をもとに、より詳細な原子構造が明らかになってゆきました。
 原子核の周りを回る電子には落ち着くべき軌道があり、それぞれの軌道には決められた数の電子しか入れません。入りきれなくなった電子はその外側の別の軌道に落ち着くことになり、その時、原子から光としてバランスをとるためのエネルギーが放出されることになります。こうして、電子の数が増えていくことで、その物質は異なる原子配列をもつ異なる物質へと変わったわけです。(ちなみに、この原子配列の最も単純な形、電子を一個だけもつ原子が水素Hです)
 こう考えると、物質のもととなっている原子は、我々人類が住む地球が所属する太陽系の姿にそっくりだということがわかるでしょう。このあたりは、わりとわかりやすいと思います。しかし、この原子模型には不十分な点があることがしだいに明らかになります。そしてそのことを理論的に証明してみせたのが、ボーアを中心にまとめられた量子力学だったわけです。

<量子力学による原子模型>
 では量子力学はそれまでの原子模型のどこを変えたのでしょうか?実は、それまで原子を構成する物質はどれも粒子すなわち小さな粒々と考えられていました。(アインシュタインが1905年に発表した光量子仮説も、光を電子の粒の集まりと考える理論でした)
 ところが、量子力学では原子の周りを回る電子は、実在する粒子ではなく、ある確率で存在する幽霊のような存在とされているのです。それが物質を構成する粒子の真の姿だとすれば、それらの物質からできている我々の世界もまた当然、不安定な幽霊のような存在と考えられるはずです。ということは、ボールを壁に投げつけた時、そこを通り抜けてしまうという奇跡が起きる可能性もゼロではないということなのでしょうか?
 このあたりをもうちょっと具体的に言うと、一個の粒子の動きを予想することは不可能でも、たくさんの粒子が集まっている場合は、確率論を用いた統計学の手法を用いることで十分に予想することができるということです。(雨つぶ一個の動きを予想することは、まったく不可能でも雨雲全体の動きなら、ある程度予想できるのも統計学の原理によるものです)

<不確定性原理>
 さらに量子力学によって次のことが明らかになりました。
「ある物質の性質を調べるためには、その物質になんらかの影響を与える必要があり、必然的にその結果がその物質を試験前とは別のものに変えてしまう」というものです。
 この考え方こそ、量子力学による最も重要な基本原理「不確定性原理」です。それはより具体的には、「原子を構成する粒子の位置と速度(正確には質量×質量=運動量)を同時に知ることはできない」という原理になります。
 例えば、ある粒子がそこにあるかないかを調べるとします。最も簡単かつ影響を与えないであろう方法は、その存在を目で確認することですが、そのためには粒子の映像を眼球を通して脳に伝えるため、粒子に光をあてることが必要になります。しかし、粒子に光を当てることは、粒子に光のエネルギーを衝突させることであり、粒子の性質を変える行為でもあります。

<不確定性原理の意味すること>
 では、この原理からはどんなことが言えるのでしょうか?
 驚くべき事に、この原理によると世界は「確率」によって操られており、けっして神が定めた唯一の運命やニュートンの万有引力の法則によって決められているわけではないということになります。幸い、その「確率」のばらつきはかなり狭い範囲に収まっているため、世の中の現象は、万有引力の法則で十分に説明することが可能になっているだけなのです。(おかげで、我々が幽霊を目にすることはめったにないのでしょう)
 さらにこの原理は「観測者が観測対象に影響を与えないで観測を行うことは不可能である」ことをも示し、科学の世界における常識「原因が結果を生む」という因果律をも崩すことにもなるのです。なぜなら、原因を知って結果を導き出したとしても、その結果があっているか、確かめようとする行為が、すでに結果を変えてしまうことになっているからです。まさにパラドックス(逆説)です。
 ボーアはこの原理を「相補性」と名付けましたが、この原理はその後物理学以外の分野、心理学や社会学、経済学、美術などあらゆる分野に影響を与えることになります。
 当時、アインシュタインはこうした「確率によって操られる世界像」をけっして認めようとしませんでした。だからこそ、彼は「神はダイスをもて遊ばない」と宣言し、量子力学によって説明される確率論的宇宙像を司るより大きな枠組みの理論が存在するはずであると死ぬまで言い続けたのです。

<量子論の確立におけるボーアの役割>
 では、こうした量子論の確立において、ボーアはどんな役割を果たしたのかというと、ある意味彼はアガサ・クリスティーの生み出した名探偵エルキュール・ポワロのような存在でした。彼について、こんな言葉が残っています。
「彼は大理論物理学者であるばかりでなく、実験をしない実験家であり、発見をしない発見家である」H・B・カシミア

 彼は実験が苦手で実験室の機材を壊すことで有名でした。彼は実験によって証明するのではなく、頭の中で実験を行う思考実験の達人でした。彼はポワロのようにイスに腰掛けて、弟子や世界各地からやって来る研究者たちの意見を聞き、彼らと対話しながら理論の再検証を行い、時には助言を与え、時には論文として発表するよう促す、宗教における導師のような存在だったのです。
「・・・導師のように扱われる物理学者はたぶんボーアひとりでしょう。人々は『アインシュタインはああ言った、こう言った』というのではなく『相対論がそう示している』と言うものです。・・・」
ケン・ウィルバー編・著「空像としての世界」より

<物理学における黄金時代>
 歴史上、彼が活躍した1920年代は物理学の世界において最も多くの天才科学者を輩出した時代と言われています。ボーア、アインシュタイン以外にも、イギリスには大御所ラザフォードや数学の世界から参戦したP.A.M.ディラック、ボーア率いるゲッチンゲン研究所にはマックス・ボルンや「シュレディンガー方程式」で有名なシュレディンガーが席をおいていました。ドイツでは「不確定性理論」の証明を行ったウェルナー・ハイゼンベルク、「パウリの排他原理」で有名なウォルフガング・パウリなどが活躍。フランスには、中世史の研究者から物理に転向したルイ・ド・ブロイのような変わり種もいました。
 さらに大西洋を越えたアメリカでは、光速度不変の原理を証明したマイケルソン&モーレーやコンプトン効果を見出したアーサー・コンプトンなど、実験畑の天才が現れ、多くの理論を証明していきました。
 音楽の世界なら、ロックにおける1960年代後半から70年代前半のような時代、それが物理学の1920年代でした。そんな群雄割拠の時代に、彼らのボス的存在として君臨していたのがボーアだったわけです。科学者であり、作家でもあったジョージ・ガモフは、あるロシア人科学者が作った詩を後に伝えています。そのタイトルはずばり「ニールス・ボーア万歳」といい、中にはこんなことが書かれていました。
「・・・ニールス・ボーア万歳!
   あなたはわれわれを導く
   あなたの神秘的な力強い断言に感服し
   あなたの知力にとうていおよばないながら
   それでもあなたに忠実でいます
   あなたに不平は申しません。・・・」

彼はまさに物理界のカリスマ・ヒーローでした。

<歴史的会議において>
 1927年10月のソルヴェイ会議には、そんな物理学界のヒーローたちの多くが参加。量子論についての激論が闘わされました。ボーア、アインシュタイン、コンプトン、ド・ブロイ、ボルン、ハイゼンベルク、シュレディンガー・・・まるでロック史におけるウッドストック・フェスティバルのような綺羅星のごとき出席者たちはそれぞれの理論を展開しました。しかし、議場はしだいに興奮状態となり、ついには収拾のつかない大混乱に陥ったと言われています。
「大勢の人がめいめいの言葉でがやがやとしゃべり出した。議長であるロレンツは、平静をとりもどすために卓をたたき、おだやかに秩序正しく議論を進めようと努力した。しかし、動揺はひどかった。エーレンフェストは壇上に登って、黒板に、『主はそこで全地上の言葉を乱された』と書いた」人々が、バベルの塔の故事にちなんだこの言葉の意味に気づいたとき、騒ぎは収まった。・・・」

 そして、最初に書いたアインシュタインの言葉もまた、この会議の期間中、個別に行われた話し合いの中で出されたものです。こうして、活発化した物理学の世界では加速度的に難問が解決されてゆき、その進歩の早さにこんなことを言った学者もいたそうです。
「数年の間に、われわれは電磁力学を解決し、さらに数年で核を終了し、それで物理学は終わるであろう。それからわれわれは、生物学に向かうであろう」
 なんと思い上がった考え方!しかし、当時の物理学界はそう思わせるだけのエネルギーがあったということでもあります。なんだか音楽によって世界を変えられると考えていた1960年代のロック・シーンを思わせるようでもあります。しかし、神はそんな思い上がった科学者たちに大きな罰を下すことになります。それは第二次世界大戦がきっかけでした。

<第二次世界大戦勃発>
 1939年に第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパの多くの国がドイツによって占領され、ユダヤ人の多くが次々に収容所へと送られ始めました。ボーア自身もユダヤ系でしたが、デンマークが中立の立場を守っていたことから、彼はヨーロッパから脱出するユダヤ人や亡命する科学者たちの窓口として活動するようになります。その後、デンマークがドイツに占領されてもなお故国を離れようとはせず、ギリギリまでユダヤ人たちの脱出を手助けしました。最終的に彼もまたアメリカへ渡りますが、そこで彼は大戦の行方を左右する計画に加わることになります。
 それは当時ナチス・ドイツも研究開発を進めていた核兵器の開発でした。ただし、彼はヨーロッパ戦線が終わりを迎える頃にアメリカに渡ったこともあり、ロス・アラモスで行われていた「マンハッタン計画」はすでに始まっており、原子爆弾はもう完成間近でした。
 しかし、この時彼が知ったのは、この原爆を開発した科学者たちの多くがそのことを後悔し始めているということでした。それは自分たちが生み出した兵器が、どれほどの被害をもたらし、その放射能の影響がいかに広範囲、長時間に及ぶかを十分に理解していたからでした。
<追記>2016年
 イギリス空軍のモスキート機は高速で飛行できるため、ドイツ軍からの攻撃を振り切れました。さらに爆弾のための倉庫部分に一人乗客を乗せることが可能でした。そのため、ヨーロッパ大陸からイギリスへの重要人物の脱出用に何度も利用されました。その最初の脱出作戦によって、イギリスへと飛びたったのが、ニールス・ボーアだったそうです。

<核開発のジレンマ>
 ボーアもまたその危険の大きさを認識し、すぐにその抑止に向けた活動を始めました。この選択もまた彼がデンマークという中立的立場の国の出身だったから可能になったことでした。
 彼はアメリカの核開発に協力したものの、けっして反ソ連の立場はとらず、さらに自らのノーベル賞受賞者という立場を利用して、イギリスでチャーチルと会い、核の抑止に向けた取り組みへの協力を求めます。それは核兵器が実際に使用されその破壊力が世界中に明らかになってしまった後では、もう核開発に向けた枠組み作りは不可能だと彼は考えたからでした。そのため、イギリスが仲介者となり、米ソを会議の席に着かせようという筋書きでした。
 しかし、そんな彼の思惑はソ連を徹底的に嫌っていたチャーチルによって、あっさりと蹴られてしまいました。それどころか、チャーチルはボーアを反逆者として逮捕する必要があるとさえ考えていたようです。
 こうして、物理学の黄金時代を築いた科学者たちが建てた「バベルの塔」は、世界の破滅という悪夢を人類にもたらし、21世紀に入ってもその危険は続いているのです。

<ボーアの残した言葉>
 ニールス・ボーアは1962年6月に脳溢血に倒れ、その後一時的に回復したものの同年11月18日故郷のコペンハーゲンで静かに息を引き取りました。(享年77歳)
 彼は以外なことに生前、論文以外の文章をまったく発表していません。彼の言葉は彼の周りに集まっていた人々の脳裏に焼き付いた記憶としてしか残らなかったことで、その存在感はしだいに薄くなりつつあるようです。それでもこんな言葉が残されています。
「自然がいかにあるかを見出すことが物理学の任務であると考えることは、誤りである。物理学は、われわれが自然について何を言い得るかに、関するものである」
 彼は科学者であると同時に哲学者でもあったと言った彼の伝記作者ルース・ムーアは、こうも書いています。

「・・・また彼は、自然の法則を少数の基礎的な原理に還元しようと、試みもしなかった。彼の哲学は、体系ではなくてむしろ接近のしかた、あるいは姿勢であった」
 さらにボーア自身こう語っていたそうです。

「私が述べるすべての文章は、断定ではなく、質問であると理解されるべきである」
 なんだか哲学と言うよりも、禅問答のように聞こえます。彼が多くの科学者たちに慕われたわけも、このあたりにあったのかもしれません。

<締めのお言葉>
「物理学者というものは保守的な革命家である」

H.R.パージェル著「量子の世界」より
「われわれが観測しているのは自然そのものではなく、われわれの探求方法に映し出された自然の姿だ」
ウェルナー・ハイゼンベルク

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