世界を変えたマッドサイエンティストの肖像


- 二コラ・テスラ Nikola Tesla -
<テスラって誰?>
 このサイトをやっている意味は、彼のような興味深い人と出会える(知ることができる)ことにあります。
 二コラ・テスラとは何者か?僕は大学で物理学を学んでいたので、さすがにその名前は知っていましたが、多くの人はその名前すら聞いたことがないかもしれません。でも、21世紀に入り、テスラのブームが世界中に静かに広まりつつあります。
 クリストファー・ノーランの映画「プレステージ」(2006年)には、デヴィッド・ボウイがテスラを演じて登場。ポール・オースターの小説「ムーン・パレス」(1989年)にもテスラは実名で登場しています。さらにはクリスチャン・ベイルがテスラを演じて、彼の伝記映画が準備中という話もあります。日本でのテスラ・ブームは、もうそこまで来ているのかもしれません。
 そんなテスラ・ブームのきっかけには、1995年に出版された彼の人生を本格的に描いた伝記小説「テスラ」(タッド・ワイズ著)の存在がありました。彼の波乱万丈の人生がやっと多くの人に知られることになり、二コラ・テスラのファンは一気に増えることになりました。
 次々と新技術を開発する21世紀の先端企業アメリカの電気自動車メーカー「テスラ・モータース」も当然テスラへのオマージュとしてつけられた社名です。
 発明王エジソンを倒し、オウム真理教が英雄視した伝説的科学者二コラ・テスラとはいかなる人物だったのか?「テスラ劇場」の始まりです。

<二コラ・テスラ>
 二コラ・テスラ Nikola Tesla は、1856年7月9日から10日にかけての深夜、現在のクロアチア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)のリエカ地方の小さな村に生まれました。彼の家系は、オスマン帝国から土地を守るためにハプスブルク家が移住させたセルビア人部隊に属していました。ただ彼の父親は兵士ではなくセルビア正教の司祭としての人生を歩み、詩集を出したり、社会運動に参加するなど、一族とはまったく異なる道を歩みました。母親は聖職者の家系に生まれてましたが、周囲を驚かせる暗記の能力をもっていて、その才能がそのまま息子に受け継がれることになりました。彼の兄もまた優秀な子供でしたが、12歳で馬の事故でこの世を去っています。その優秀な兄を越えることが、彼の人生におけるもう一つの目標となりました。
 少年時代の彼が考え出した最初の発明は、コガネムシを使った「昆虫エンジン」でした。それはコガネムシを駆動源としたもので、その動きを滑車で伝えて風車を回すことに彼は見事成功しています。そして10歳でギムナジウムに入学すると、彼は親戚のおじさんに、いつか自分はナイアガラの滝を利用して大きな力を生み出してみせるといったそうです。そんな科学大好き少年の彼が父親の後を継ぎたいわけはありませんでした。当初は彼の大学進学に反対していた父親も、彼がコレラを患い、それでもなお技術者になることを望んだため、ついに彼は工科大学への進学を認められます。

<交流モーター>
 1875年、彼はオーストリアの名門グラーツ大学に入学。そこで彼は、その後の人生を大きく変えることになる「発電機」と出会います。そのベルギーのZ・T・グラムが開発した「グラムの発電機」は、交流電流を直流に変換する必要があるため火花を発し、大きなエネルギーロスを生じていました。そこで彼は交流電流をそのまま使って、交流モーターを回すための研究を開始します。
 マイケル・ファラデーが1831年に発見した「電磁誘導の法則」に基づいて生まれた交流発電機は、電流の大きさと方向が周期的に変わる「交流」を生み出します。大電流を扱うのに適したこの「交流」は、送電時のロスが少なく理想的な電気の形ですが理論が複雑で装置の小型化が困難というウイークポイントがありました。テスラは、そのウイークポイントを改善して「交流」を発電技術の主役にしようと考えていました。ところが、母国での政治情勢の変化により、彼は奨学金を受けられなくなり、1879年には父親がこの世を去ってしまい、研究どころか食べて行くために働かなくてはならなくなります。
 1891年、彼はできたばかりのハンガリー、ブタペストの電話局で設備管理の仕事を得ることができました。ところが、彼はそこであまりにも熱心に働き過ぎたのか、それまでになかった異常に苦しまされます。遠くの物音がうるさく聞こえたり、日差しが眩しくて外に出られなかったり、橋の下で圧力に押しつぶされそうに感じたりと様々な感覚異常は、休養をとることでなんとか収まりましたが、その後も、生涯そうした繊細過ぎる感覚に苦しまされることになります。
 1882年2月のある日、友人と公園を散歩していた彼は、ゲーテの「ファウスト」の暗唱をしていて、突然、あるひらめきを得ます。あわてて、小枝を拾った彼は地面に絵を書き始め、友人に新しいモーターのアイデアが浮かんだと告げました。こうして、彼は滑らかに回転を続けることが可能な「二層交流モーター」のアイデアを思いつきました。その後、彼はそのアイデアをもとにして、三相、四相、六相など「多相交流システム」の設計を行い、それが業界でも認められたことから、パリに設立されたばかりのエジソン社のヨーロッパ法人コンチネンタル・エジソン社に入社することになります。

<アメリカへ>
 働きながら部品を地元の向上に作らせた彼は、ついに交流モーターを完成させますが、社内にはそれを正当に評価できる人はいませんでした。すると社長のチャールズ・バチェラーは、いっそのことエジソン社長に直接それを見せる方がいいのではないかと助言。こうして彼はついにアメリカへと旅立つ決意を固めたのでした。
 1884年、アメリカに渡った彼は、大西洋を渡るとまっすぐにエジソン社に向い社長に直談判、見事エジソン社に正式社員として採用されることに成功します。ところが「英雄並び立たず」とはよく言ったものです。彼は一年でエジソン社を退社してしまったのです。その原因は、社内での彼の待遇が悪かったというわけではなく、目指す方向性の違いにあったようです。いち早く直流電流の発電に乗り出し、そのための電球までも売り出していたエジソン社にとって、テスラの目指す「交流発電」への方向転換はやりたくない仕事だったといえるからです。さらには、彼とエジソンとの人間的な違いもあったかもしれません。エジソンが99%の汗を重視する努力の人だったのに対し、テスラは実験よりも理論を優先する天才肌の人だったのですから、話は合わなかったかもしれません。
「エジソンが干し草の山から針を見つけようとしたら、ただちに蜂の勤勉さをもってワラを一本一本調べ始め、針を見つけるまでやめないだろう。わたしは理論と計算でこの労力を90%節約できるはずだとわかっている悲しい目撃者だった」
NYタイムズのインタビュー記事より(1931年)

<テスラ電気会社設立>
 1887年、エジソン社を辞めた彼は、個人投資家からの資金をもとにテスラ電気会社を設立し研究所を開設。交流発電機とそのシステムの研究開発を本格的に開始します。驚かされるのは、こうした研究実験の試作品について彼がほとんど設計図を書いていないことです。部品以外の完成品の図面は彼の頭の中だけにあったといいます。彼は素晴らしい記憶力をもつだけでなく、驚くべき空間認知能力の持ち主でもあったのです。彼と同じくセルビア系の父親を持つ天才にチェスの神様ボビー・フィッシャーがいます。彼もまた天才的な空間認知能力の持ち主だったのでした。テスラがもしチェスをやる暇があったら、きっと強かったに違いないでしょう。
 こうして完成した交流モーターについて、彼はすぐに特許申請を行い、すぐに認可されると一躍電機業界の話題となります。1888年にはアメリカ電気工学者協会の招きでニューヨークで「新しい交流モーター」についての講演会を開催。彼が起こしつつあった「交流革命」に大きな価値を見出したウェスティングハウス電気会社のジョージ・ウェスティングハウスは、共同事業を提案。特許料として25万ドル、電力1馬力(750W)あたり2.5ドルの使用料を支払うことで彼の研究をバックアップすることになりました。(この契約により、彼は10億円以上の資金を得たようです)

<テスラVSエジソン戦争>
 ウェスティングハウスがテスラを正式に手を結んだことで、ついにエジソンとの「直流・交流戦争」が始まることになります。当時、エジソン率いる「直流派」には、物理学者の大御所ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)、英国の電気実業家ルークス・クロンプトンなど、比較的古い世代の科学者、実業家が中心でした。それに対し、テスラの「交流派」には、ウェスティングハウス、交流理論の研究者チャールズ・P・スタインメッツなど若い世代が集まっていました。
 1887年時点、エジソン社系の発電所はすでに57か所稼働しており、「直流」による電気システムをすでに広めつつありました。そして、エジソン社はそこで使用される「電球」を売る必要がありました。
 送電によるロスが大きいために不利な立場になりつつあったエジソン側は、なりふりかまわずテスラ側への嫌がらせを始めます。交流発電機を使い、動物が死ぬことを実証したり、死刑のために導入されようとしていた「電気椅子」にわざと交流のシステムを採用させたりして、イメージダウンを図ります。しかし、時代の流れはすでに「交流システム」へと着実に傾きつつありました。
 1893年、シカゴ万国博覧会の電気設備の契約をウェスティングハウス社が獲得。これにより、世界に交流システムが主役になったことが証明されました。勢いに乗るウェスティングハウス社は、1890年にスタートしたナイアガラの滝を利用した水力発電を行うためのナイアガラ開発会社のコンペに参加し、見事に採用されます。(1893年)1896年にはナイアガラ瀑布発電所が操業を開始s、バファローまでの35キロ間で送電が始まりました。(この発電所で使用された特許13のうち9件はテスラによるものでした)
 テスラ少年の抱いていた夢がついに実現したのです。

<様々な発明品・アイデア(1)>
「脳の創造性が成功に向かって開かれていくときの感動は、発明家にとって何ものにも代えがたいもので、・・・そうした感動は、食事も、睡眠も、友達も、愛も、何もかも忘れさせてくれる」
NYヘラルドより(1895年)

 当時、彼が実用化に向けて研究していたアイデアの中には様々な色のネオン管、蛍光灯の原型、高周波電流による温熱治療、高周波誘導加熱を使った溶接・溶融やIH料理器などもありました。とにかく彼は思いついたアイデアを次々と形にしようと寝る間を惜しんで働き続けました。
 彼が電磁波による振動を応用したイスは、マッサージチェアとしてテスラ家の常連客だった作家マーク・トウェインに気に入られました。

 1897年、彼はニューヨークのマジソンスクウェアガーデンで開催された電気博覧会会場で観衆を驚かせる発明を披露します。大きなプールの水面を自由自在に走り回るラジコン・ボート。身振り手振りで質問に答える自動人形(ロボット)に観衆は大喜びだったと言います。しかし、ここで彼が見せた「ロボット」、「無線遠隔操作」、「無線通信」の革新性は、あまりのエンターテイメント性の高さに正当な評価を得られなかったようです。
 こうした彼のショーマンシップは、後に彼の「マッドサイエンティスト」としてのイメージを生み出す原因のひとつとなります。

 1896年1月ドイツの医学者ウィルヘルム・レントゲンが「X線」の発見を科学誌「ネイチャー」に発表。ところが、テスラはそれ以前に、放射線によるネジの透過写真の撮影を偶然行っていました。それが「X線」だったことを知った彼は、さっそくその利用法を研究し始めます。ところが、彼自身だけでなく助手たちもが放射線被ばくによって体調を崩したことが明らかになり、その危険性を認識した彼は「X線」に関する研究を中止します。

 電磁波による振動を研究していた彼は、ある日、研究所の柱に振動子を取り付けて建物を強振させる実験を行いました。パワーを上げて行くと物凄い振動が始まり、彼は大慌てで振動子を破壊して機械を緊急停止させました。ところが、その揺れは彼のいた場所よりも、離れた場所で共振により大きくなっていて、ニューヨーク市内で地震が発生したとの通報が警察に多数寄せられていました。そのため、常日頃から「魔術の館」として怪しまれていたテスラ研究所に警察が調査に来る事態となりました。
 彼はこの実験により、「共振」を利用することで「地震波」の逆の波を送り込むことで地震を制御することが可能になると考えます。さらに彼は地球自体の周期的な膨張と収縮を利用し、そこに一定の電磁波を送って共振させれば地球を真っ二つに割ることも可能であると豪語。このアイデアは、その後地震を兵器として使うという恐るべき新兵器として、研究対象となります。(ナチスドイツやオウム真理教・・・)

<無線通信・無線送電の実現へ>
 その後、彼は「交流発電システム」の開発から「無線通信」の実用化へと研究の中心を変えて行きます。1897年には、彼が出願した「無線通信」に関する特許が承認されています。こうして、いち早く近距離での無線通信に成功していた彼は、地球規模での無線通信を実現するためには、球体である地球の裏側に電波を送るための研究を開始。直進する電波を送るため、地球をコンデンサーとして使用する「地球コンデンサー構想」を発案します。しかし、彼は無線通信事態にそれほど興味を持たず、次なる挑戦へといち早く向かいます。それはより困難な「無線送電」でした。
 当時、電力会社にとって最も大きな負担となっていたのは、発電設備の問題ではなく大規模な送電システムの構築にありました。どうすれば巨大なアメリカ大陸にくまなく電気を運べるのか?それも低コストで・・・そこで彼が考えたのが、電線が不要で、エネルギーロスも少ない、無線による送電システムの開発でした。
 1899年、研究設備の巨大化により、ニューヨークを離れた彼は、ロッキー山脈のふもとコロラドスプリングスに新たな巨大設備を導入して研究所を開設します。そこには巨大な高周波発信機やアンテナが設置され、さっそく大掛かりな実験が始まります。ところが、ある日、彼がフルパワーで実験を開始すると、あまりにも電力を使い過ぎ、コロラドスプリングス一帯が停電してしまいました。そのため研究所は発電所からの送電を受けられなくなってしまいます。

<様々な発明品・アイデア(2)>
 巨大な設備での実験により、彼は新たな発見をしています。
<人工降雨>
 増幅発信機が周囲の空気を冷却、それにより人工的な霧を発生させることができることを発見。この技術を利用することで、砂漠に雨を降らせることも可能になると彼は考えます。
<地球外生命体発見?>
 研究所の巨大受信機はある日、原因不明の電波を受信。それは明らかに規則的で人工的と考えられる電波でした。まだ地球上には同じように電波を発生する装置は存在しなかったので、宇宙の彼方から来た宇宙人からの通信ではないかと彼は考えます。そして、宇宙人からの通信を受信したと発表します。当然、これは多くの科学者たちによって批判されることとなり、彼の評判を悪くする原因となります。(現在では、この時に受信した電波は、マルコーニが実験電波を発していたものを受信したか、遠くの宇宙から送られてきたクエーサーからの電波だったと考えられています)

 1900年、彼はそこまでの自身の研究をまとめた論文を「センチュリー誌」に発表しています。
「無線通信」、「無線送電」、「ラジオ放送」、「写真電送」、「ファクシミリ」・・・これらの技術を完成させ「世界システム」と呼べる未来の情報網を構築することでまったく新しい社会システムが誕生すると彼は予言しています。
 その論文を読んで大きな衝撃を受けたアメリカの巨大財閥のトップ、J・P・モルガンは、テスラへの資金援助を開始。その資金をもとにテスラは、米英間の無線通信を行うための巨大アンテナ塔を建設し始めます。いよいよテスラの夢が実現しようとしていました。ところが、予想もしなかった逆転劇が起きてしまいます。

<マルコーニ登場>
 巨費を投じた計画の途中で、イタリアの発明家マルコーニが大西洋を横断する通信に成功してしまったのです。それも、マルコーニはテスラのような巨大な設備もなく圧倒的な低予算で成功させてしまいました。これにより、「無線通信」の特許を持ちながら、彼は無線通信発明者としての名誉をマルコーニに奪われてしまいました。
 なぜ、マルコーニは巨大なアンテナ塔なしで大西洋横断の無線実験に成功したのでしょうか?それには当時はまだ発見されていなかった電離層の存在がありました。電波は、電離層のおかげで宇宙に漏れ出すことなく自然に大西洋を渡ることに成功していたのです。天才テスラにも、そこまでは予測できなかったのです。
 J・P・モルガンだけでなく多くの資本家がテスラの研究に疑問を持ち始めます。巨大アンテナ塔の建設も中断され、彼の研究資金は急に減少することになります。彼がマルコーニに先を越されたのは、彼が無線送電の研究に力を注ぎ、無線通信への興味を無くしつつあったせいもありそうです。もし、彼がより大きな利益を生み出す可能性が高い、軍事用の無線通信やラジオ放送などの分野に研究対象を広げていたら・・・
 結局、資本家たちはテスラの大言壮語を信じられなくなり、資金を引き揚げてしまい、彼は1906年ついに研究所の閉鎖に追い込まれてしまいます。

<様々な発明品・アイデア(3)>
 研究所を失い開発資金の出どころも失った彼は、その後大掛かりな研究開発が困難になります。それでも彼の頭の中にはアイデアが次々にあふれており、その後も様々なアイデアを発表し続けています。
<電磁バリヤー>
 第一次世界大戦後、彼は電磁波の軍事利用として、電磁波による巨大な防護壁をつくり、それにより他国の軍隊による侵入を防ぐ「電磁バリヤー」の開発が可能であると発表。それは「テスラシールド」とか「スカラー兵器」と呼ばれるようになります。
<垂直離着陸機>
 1928年、彼は垂直離着陸機「フリーバー」を提案しています。プロペラとタービンを用いたその飛行機は、機体が90度回転することで上昇と直進を行うものでした。(現在のオスプレイなどの垂直離着陸機の場合はエンジンまたはプロペラを90度回転させるデザインになっています)


<生涯独身を通した男>
 彼は生涯独身を通し、発明に人生を捧げましたが、当時、彼のモテ男ぶりは有名だっただけに、そんな彼が独身であることに対し、いろいろと噂があったようです。同性愛説、不能説、マザコン説、精神障害説・・・さらに彼は「名探偵モンク」や「レインマン」のように様々な性癖をもっていました。異常なまでの潔癖症、数を数えないと気が済まない計算強迫症、独言壁、アクセサリー恐怖症、丸いものコンプレックス、闇を愛する性癖、感覚過敏症・・・数え上げればきりがなかったようですから、結婚生活が困難だったことは間違いないでしょう。
 生涯独身だったこと、身の回りのことに時間をかけたくなかったこともあり、彼は死ぬまでホテル住まいを続け、有名なウォルドーフ・アストリア・ホテル(映画「ホームアローン」、「星の王子ニューヨークへ行く」などの舞台)などに住み続けました。そして、彼はそのホテルの部屋で鳩を飼い、それ以外にも公園(たぶんセントラルパーク)の鳩たちにエサを与えるため毎日公園を散歩していたといいます。自分がいけない時は、スタッフやホテルの従業員に代行させるほど彼は鳩が大好きだったのです。(「ホームアローン」にも鳩好きの大金持ちが出てましたっけ)
 そんな孤独な後半生を生きた彼は、1943年1月7日、ホテルの部屋で心臓発作によりこの世を去りました。86歳まで生きたので、電磁波や放射線の影響は意外に少なかったのかもしれません。しかし、部屋の掃除に来たメイドに発見されたのですから、あまりに寂しい死に方でした。

<残された研究と伝記作品>
 彼が死んだ1943年は、アメリカにとっては第二次世界大戦真っただ中の時期でした。そして、彼の研究の中には、当時の戦況を大きく変える可能性がある兵器に関するものもありました。前述の「電磁バリヤー」だけでなく「粒子ビーム砲」、「地震兵器」、「気象制御」などの技術が、もし敵国であるドイツや共産圏のソ連などの国に渡れば、米国は危機に追い込まれるかもしれない。そう考えたFBI長官のJ・エドガー・フーバーは、テスラの監視を命じていたようです。そのため、テスラの死を知ったフーバーは、すぐに彼の家や研究室に職員を送り込み、金庫などを徹底的にチェックさせ、重要な情報がないかを調査させました。ただし、そこからは何も出てこなかったようです。元々図面を必要としないテスラなら、どちらにしてもそうした資料は残っていなかったかもしれません。

 1944年、彼に関する最初の伝記本「惜しみなき天才 Prodigal Genius : the life of Nikola Tesla」が出版されます。(著者はジョン・J・オニール)
 1964年には「稲妻をわが手に Lightning in his Hand」(著者はイネッツ・ハント&ワネッタ・ドレイパー)が発表され、1980年には初の伝記映画「ニコラ・テスラの秘密 The Scret of Nikola Tesla」が公開されています。(ユーゴスラビア映画で監督はKrsto Papic、主役はユーゴの俳優ですが、ウェスティングハウス役にはストローザー・マーチン、J・P・モルガン役にはなんとオーソン・ウェルズが出演しています!)
 1980年、伝記「テスラ - 発明王エジソンを越えた偉才 Man Out of Time」(マーガレット・チェニー著)
 1995年、伝記「テスラ」(タッド・ワイズ著)
 1996年、伝記「魔術師 - 二コラ・テスラとその時代 Wizard : The Life and Times of Nikola Tesla」(マーク・J・サイファー著)
 2010年、「稲妻」(ジャン・エシュノーズ著)
 さらに今後はマイク・ニューウェル監督による伝記映画「Tesla,Ruler of the World」(クリスチャン・ベイル、ニコラス・ケイジ)が予定されています。

<狂気のヴィジョン復活>
 1995年、テスラの「狂気のヴィジョン」が突如復活した事件がありました。この年、1月に起きた阪神淡路大震災は、二コラ・テスラが発明した地震発生機によって起こされた人口の地震である!そんなおバカな記事をオウム真理教の機関紙が発表したのです。
 同年、2月にはオウム真理教のメンバーの中から井上嘉浩ら6名(平田悟、菊池直子のその中にいたらしい)が当時のユーゴスラビアにあるテスラ博物館を訪問し、テスラに関する論文を閲覧。それをすべてパソコンに取り込んでいたようです。彼らはその時、自分たちを「ニコラ・テスラ協会」のメンバーであると言っていたようです。しかし、作業の途中で地下鉄サリン事件のニュースが世界中に広まり、6名はパソコンもそのまま残して逃亡してしまいました。浅原彰晃は、当時本気でテスラの研究から地震兵器を開発するつもりだったようです。ハルマゲドンのための最終兵器にテスラの発明品が用いられそうになるとは・・・
 「マッドサイエンティスト」たちにとって、テスラは究極の英雄となってしまったのかもしれません。

「テスラは86歳で、誰にも看取られずに亡くなった。彼は、その言葉の意味はおくとしても、風変わりだった。・・・彼は既知か未知かに分かれる複雑で神秘的なフロンティアの兆候を探求した。・・・しかし今日、わたしたちはときには愚かな老紳士に見えるテスラが優れた知性によって答えを探し求めたことをよく知っている。彼の推理はしばしばぎょっとさせるほど正しかった。おそらくわたしたちは数百万年後に彼をもっとよく理解することだろう」
ニューヨーク・サン紙の死亡記事より

 「マッドサイエンティスト」の象徴的存在と言われた彼に責任はなく、彼のヴィジョンに魅せられそれを悪用しようと企む狂気の人間たちこそが「マッドサイエンティスト」であることは間違いなさそうです。
 もしかすると、本当の意味で彼のヴィジョンが実現されるまでにはまだまだ時は必要なのかもしれません。

「知られざる天才二コラ・テスラ エジソンが恐れた発明家」 2015年
(著)新戸雅章 Shindo Masaaki
平凡社新書

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