- ニーナ・シモン Nina Simone -

<ジャンルを越えたアーティスト>
 ジャズ・ピアニスト&シンガーというよりもソウル・アーティストとして扱われてきた彼女は、ゴスペル、ロック、シャンソン、クラシックなど、あらゆるジャンルの音楽を取り入れたクロス・オーバーの先駆者といえる存在です。そのため、それぞれのジャンルにおいて、彼女の扱いは小さくなりがちで、残念ながら正当に評価されていないのかもしれません。そのうえ、彼女がこだわり続けた人種差別に対するプロテスト・ソング(抗議の歌)は、1970年代以降、運動自体が勢いを失っってしまい、彼女もまたその活動の場を失ってゆくことになったのです。その後、彼女自身がヨーロッパへと移住してしまったことから、1980年代以降、彼女の名前も音楽も、ほとんどポピュラー音楽の世界では聞かれなくなってしまいました。今や伝説となったカリスマ的な存在感をもつ彼女の歌声はライブでこそ、その魅力を発揮していましたが、その魅力の源は何だったのか?彼女の生い立ちとともに探ってみたいと思います。

<生い立ち>
 ニーナ・シモンは本名をユーニス・ウェイマンといい、1933年2月21日ノースカロライナ州のトライオンという小さな町で生まれました。時代は大恐慌の真っ只中、貧しい家庭には男4人女4人の8人の兄妹がいて、彼女はその中の6番目でした。しかし、彼女の母親は熱心なクリスチャンでメソジスト派の牧師も勤めたことがありました。そのため、家庭では賛美歌を歌うためにピアノやオルガンによる音楽があふれていました。彼女も姉らと共にザ・ウェイマン・シスターズとして各地の教会で演奏活動を行い伝道活動に参加していました。
 ある日、そんな彼女の演奏を見たある裕福な白人女性が彼女の音楽の才能に感動。彼女が音楽教育を受けられるようにと学費を出してくれることになりました。そのおかげで、彼女は8歳から地元のピアノ教師からピアノのレッスンを受け始め、すぐにその天才ぶりを発揮するようになりました。その後、そのピアノ教師が彼女のために「ユーニス・ウェイマン基金」を設立してくれたため、彼女はアッシュビルのハイスクールに入学することができました。そして、その残った資金でニューヨークの超名門校ジュリアード音楽院に入学。ピアノと音楽理論を学びます。その当時、彼女はクラシックのピアニストを目指していました。しかし、途中でお金がなくなってしまったため、学業を続けることができなくなり、しかたなく彼女は家族の住むフィラデルフィアへもどり、そこでピアノを教えたり、スタジオでピアニストをして生活費を稼ぐようになります。そんな中、彼女はより稼ぎの良い仕事として、東部の歓楽都市アトランティックシティーでクラブ専属のピアニストとして働くことになります。

<ピアニスト&ヴォーカリスト>
 クラブでピアニストとして働き出したある日、彼女はクラブのオーナーに歌も歌うように指示されます。ピアニストを目指していた彼女はもう歌いたくはなかったのですが、週給90ドルをあきらめるわけにはゆかず、しかたなく歌い始めました。ところが、そのおかげで彼女は人気者になり、歌手としてデビューするチャンスを得ることになりました。人生はわからないものです。
 1959年、彼女はビリー・ホリデーが編曲してヒットさせたことでも知られるジョージ・ガーシュインの曲「アイ・ラブズ・ユー・ポーギー」をヒットさせ、歌手として知られるようになりました。「ニーナ・シモン」という芸名を使うようになったのはこの頃です。それは、単に覚えやすいとかカッコいいからということではなく、必要に迫られてつけたものでした。それは彼女の母が牧師をしていたことから、教会の信者たちに彼女の仕事を知られたくなかったから、さらに彼女がまだピアノ教師をしていたことから生徒にも知られたくなかったからでした。ジャズ・ミュージシャンという仕事は、けっして堅気の仕事ではなく、「悪魔の仕事」と思われていたのです。
 「ニーナ・シモン」という名前の由来は、子供時代からの彼女の愛称「ちっちゃな」という意味の「ニーナ」とフランスの大女優で彼女にとって憧れの女優だったシモーヌ・シニョレからとられたのだそうです。したがって、彼女の名前は本当は「ニーナ・シモーヌ」と発音するべきなのです。
 けっして美人でないが強い女性のイメージを打ち出した個性的な新しいタイプの女優シモーヌ・シニョレは、確かにニーナ・シモンというアーティストのイメージと似ているかもしれません。おまけに彼女が後にフランスに住み、最後にその生を終える土地になることを考えると強い運命を感じさせます。多くのジャズ・ミュージシャンがフランスを愛したので、彼女だけが例外というわけではないのですが・・・・。

<クロスオーバーの先駆者>
 小さな頃はゴスペルに親しみ、その後クラシックのピアニストを目指した後、ジャズの道に進んだ彼女にジャンル分けは元々意味がなかったのかもしれません。しかし、そうしたクロスオーバー的なアーティストは音楽業界ではその居場所が定まらず、結局ジャンルの狭間に埋没してしまうというのが今も昔も普通です。そんな中でも、彼女が一時代を築くことができたのは、彼女自身がこだわり続けていた「時代を反映し、伝えたいことを歌う」という信念を貫き通したからかもしれません。
 時代は1960年代、人種差別の撤廃に向けた公民権運動は全米で盛り上がりをみせていました。彼女もまたマーティン・ルーサー・キング牧師の闘いに賛同し、しだいにメッセージ・ソングをメインに歌うようになります。そして、ついにそんな彼女の代表曲となる「ミシシッピ・ガッデム Mississippi Goddam」が1963年に生まれます。

<プロテスト・シンガーとして>
「ミシシッピ・ガッデム Mississippi Goddam」より

「アラバマは、わたしを激怒させた
 テネシーは、わたしの安らぎを奪った
 そして、誰も彼もがそこについて知っている
 ミシシッピー、くたばれ!」

 
 この過激な歌詞は、当時起きた二つの事件から生まれました。ひとつはアラバマ州バーミンガムの教会に白人の人種差別主義者が爆弾を投げこみ、そのために4人の少女が命を失ったという事件。もうひとつは、テネシー州ジャクソンで黒人解放運動の指導者として活躍していたメドガー・エヴァーズが射殺されてしまった事件です。ともに当時の黒人たちにとって大きな衝撃であり、公民権運動の歴史においても重要な出来事でした。
 この二つの事件をテーマとして作られた曲を歌ったことで、彼女の名は黒人解放運動の象徴的存在となります。1964年発表の名盤「Nina Simone In Concert」では、当時の彼女が見せた怒りと情熱をこめた「ミシシッピー・ガッデム」を聴くことができます。
 1966年、彼女は黒人女性4人の人生ドラマを描いた「Four Women」という曲を自ら書き、発表しています。「黒人」であり「女性」であるという二重に差別される立場にある自分と同じ黒人女性に生きる勇気を与えるこの曲もまた彼女の代表曲となりました。
 1968年、キング牧師がテネシー州のメンフィスで暗殺された日、彼女のバンドのベーシスト、ジーン・テイラーが書いた曲「The King of Love is dead」も、すぐに彼女はコンサートで歌い、そのライブ・レコーディングは、アルバム「Nough Said !」に収められました。
 当時は非常に厳しい時代ではありましたが、そんな時代に生きて、時代について歌うことに彼女は喜びを感じてもっていたようです。
彼女はインタビューでこう答えています。

「そうです。けれども、いろいろな意味で、生きていくにはいい時代です。今までで一番生きているという実感がします。多くの黒人にとっても、それがほんとうだと思います。そのことを直視しましょう」

<冷めた時代>
 1970年代、公民権運動の熱気は一定の成果を得たことで急激に冷めてゆきました。それまで、プロテスト・ソングを歌っていたアーティストたちも、そのモチベーションを維持できなくなってゆきます。彼女自身もまた目標を見失い、アメリカを出て世界各地を旅しながら音楽活動を行なうようになります。
 カリブの島バルバドス、西アフリカのリベリア(アメリカで解放された黒人奴隷がアフリカに渡り建国した国、エチオピアに次いで独立した黒人国家)、それにスイス、オランダ、英国と渡った後、2000年に彼女はフランスで生活するようになります。そこで彼女は、乳がんに冒されていることがわかりますが、もう故国アメリカへ帰ることはなく、2003年4月21日フランスで静かに息をひきとりました。

 時代と共に、歌とともに生きた彼女は、自ら伝説となる道を選び、ポップ・アーティストとしてアメリカで活躍する道を選びませんでした。しかし、彼女はけっしてプロテスト・ソングばかりを歌いたかったわけではありませんでした。彼女はインタビューでこう語っています。

「・・・もっとラブ・ソングをたくさん歌える日が来ればいいと思うんです。プロテスト・ソングを、そんなに必要としなくなる日が来れば、と。
 でも、今は必要だから。・・・」


 もすかすると、70年代以後も、彼女はラブ・ソングを歌う気にはなれなかったのかもしれません。時代はけっして、差別のない平和な時代にはなっていない、彼女はそう思っていたのではないでしょうか。彼女はまたこうも語っていました。

「・・・われわれが死んでも幸いにして、その遺志が残されば、わたしたちもまた生きているということにもなるのです」

<代表作>
「Little Girl Blue」
ベツレヘム(1958年録音)
 ベースとドラム、それと彼女のピアノをバックにジャズのナンバーを中心に歌ったアルバム。彼女の最初のヒット曲となった「 I Loves You Porgy」が収められています。ここから彼女のアーティスト人生が始まることになります。

「Nina Simone In Concert」フィリップス(1964年録音)
 彼女の新しいスタイルを決定づけることになったプロテスト・ソング「ミシシッピー・ガッデム」を収めたライブ・アルバム。観客を前にしているからこそ、燃え上がる彼女のパフォーマンスの魅力が感じられる作品。

「ソウルの世界 - ニーナとピアノ - Nina Simone and Piano」RCA(1968年録音)
 多重録音なども用いながら彼女の弾き語りで録音されたスタジオ録音盤としての代表作。公民権運動の行き詰まりを感じながら、自らもまたその音楽の原点ピアノの弾き語りに立ち返った静かな名作。

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