「21世紀少女」たちへの応援歌

- 西加奈子 Kanako Nishi -

<遅まきながら・・・>
 「サラバ!」での直木賞受賞以後、テレビでも引っぱりダコとなっていた西加奈子。遅まきながら、一気に9冊過去の本を読んじゃいました。彼女が出演した番組も結構見てしまい、すっかり彼女のファンになってしまいました。
 NHKの「アサイチ」に出演した時、彼女は「最近の世の中は共感でつながっているみたいやけど、共感できない人とつながることにこそ、魅力があると思うんやけど・・・そう思わへんですか?」そんなことを言っていました。
 ええこというなあ・・・イランで生まれて、エジプトのカイロで育ったという彼女は、異邦人との共感と異邦人としての疎外、どちらも体感していたのでしょう。しかし、帰国子女みんながそんな感覚を持つわけではないはず。そこに、関西人の血や家族の影響、それに素晴らしい小説との出会いなどが加わったことで、数々の素敵な小説が生まれたのでしょう。(トニ・モリソンの「青い目になりたい」は特に重要な作品だったと言っていました)
 僕自身は、トルコやモロッコとイスラム圏の旅の思い出があり、トルコ人の友人がいるだけに、イスラム圏の人々への誤解の広がりが最近心配でなりません。
 しかし彼女の小説に共感を覚えるのは、なんといってもその作品の持つ素直さ、純粋さに好感がもてるからです。彼女の小説には「西加奈子節」ともいえる共通したイメージが貫かれています。彼女の小説は、「悲劇」とそこからの「再生」が共通するテーマだと思いますが、それを描くために用いている彼女ならではの手法が「らしさ」を生み出しています。
 それをキーワードとしてあげると、「色」、「共感」、「肉体」(プロレスやセックスも含め)がある気がします。というわけで、ここでは「西加奈子ワールド」をこれらのキーワードから探ってみようと思います。
 西加奈子による素敵な名文集へ、ようこそ!

<色、そして絵画>
 第一のキーワードは「色」。彼女の小説の表紙の多くは彼女は自ら描いたもの。その色使いは実に鮮やかで、独特のものです。そんな彼女の「色」に対するこだわりは、作品のタイトルにも表れていて、「こうふく あかの」、「こうふく みどりの」、「白いしいるし」、「黄色いゾウ」などにも明らかです。

「茜は、お日さんが昇ってくるときの、カーッと景気のええ色や。これからぜーんぶ、いちから始めますよ、いう色。藍色は、海が穏やかなときの、浜から見える沖の色。あすこに何があんのやろうなぁって、想像して、それだけで心がすーっとする、藍色。緑はな、新芽の色や。
 毎年毎年、季節を間違わんと、きちーんと土から顔を出す、やわらかい新芽の、堅い、緑。桃は、春になったらみいんな優しなる、花の桃色。」
 おばあちゃんが若い頃は、色がなかったんやて言うてた。焼けた家の灰色とか、ランプに巻きつけた布の黒、兵隊さんの着る服の深緑。そんなふうな、ちょっとくすんだ、男の人の色しかなかったんやて。・・・

「覚えてるのは、赤。赤だけやで。家の燃えるときの、赤だけ。うちの怖うて、赤は、よう着ん。」

「こうふく みどりの」より

 色は、ある種のイメージを象徴する存在となりますが、その好みは人それぞれです。さらにそんな色を様々に用いた「絵画」はより幅の広いイメージを表現できるツールとなります。しかし、その絵画が作者の思いを伝える対話ツールとして機能することは、絵画のもつ本質的な意味でしょうか?「色」が人それぞれ受け止め方が違うように、「絵画」はそれ以上に見た人によって受ける印象は違うはずです。(有名な画家の作品は、例外ですが)

 絵画は自分の感情や伝えたいことを補てんするものではなくて、そもそも、何かを伝えるようなものではないと、思っていた。絵画は、絵画だ。絵を描きたい。その素朴な欲求、行為、それだけを私は信じたい。それを見て分かってもらいたいことはないだけ。一方的な感情かもしれないが、表現の始まりが一方的なのは、当然だと思う。
「白いしるし」より

 絵画を見るとき、普通は作者の生い立ちや描かれた時代の情報など知らないものです。まして、作者が作品に込めた思いなど知るはずはありません。絵画は、アトリエを出た時から、作者のもとを離れ、その意図は見る人に与えられる運命にあります。

 例えば、私も、絵を描いているけど、やっぱり、好きな人の描く絵は、好きです。逆もあって、好きな絵を描いた人やから、好きになることもあります。勝手に絵に人柄を付加したりしてしまうんです。でも、見たことも、会ったこともんばい人の作品に、強く心を打たれることもあるでしょう。塚本さんが見た、そのメキシコの女の子の絵のように。その子は、めっちゃ嫌な奴かもしれんし、実際会ったら塚本さんにとって、災いをもたらす人かもしれん。でも、そういうところから離れて、根底からさらわれるものがある。
「白いしるし」より

<人との共感>
 絵画への共感が人それぞれならば、人間に対する共感が人ぞれぞれになるのは当然のことでしょう。ならば、人が人に恋をするという状況は、まさに奇跡的なことなのかもしれません。

 私もそうだ。「間島昭史」のどこが好きなのだ、と聞かれたら、「間島昭史」が好きなのだ、としか、答えられない。彼だから、惹かれたのだ。
 それは、もしかしたら心をさらう作品に触れたときと、同じなのかもしれない。理由がない。まったく。ただただ、対峙していると、触れたい、と思うだけだ。それだけ、恋は、圧倒的なものなのだ。

「白いしるし」より

 逆に、「共感」を感じる素晴らしい作品の作者が同じように「共感」をもてる人格の持ち主とは限りません。僕の知り合いにもアーティストの方がいますが、人間的にはどうなの?という人が多いのも事実。わかりやすいところでも、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、レッドツェッペリンのような伝説的なロックバンドの絶頂期、メンバーの人間的なダメダメぶりは半端ではありませんでした。薬物依存、アルコール中毒、セックス依存症、ギャラでごねてステージを拒否したり、グルーピーを弄んだり、新興宗教の広告塔になったり、暴力事件を起こすだけでなくそれを金でもみ消したり、バンド内で不倫問題を起こしたり・・・人間的には最低ランクだったのかもしれません。
 でも、彼らが当時生み出した音楽の偉大さは、時を越える素晴らしいものなのは間違いありません。そう考えると、現代のロックバンドがそうした事件を起こしていたら、間違いなくネット上で世界規模のバッシングをされ、キャリアが消されるかもしれません。21世紀のアーティストは、厳しい目にさらされているのです。

<子供の共感力>
 人間への共感力に関して独特の能力を持つのが子供時代です。そんな子供の持つ「共感力」について描いた作品が「円卓」です。思えば、大人になると人はみな自分が子供時代、どれだけ漫画やスポーツの世界に素直にはまり込んでいたのかも忘れてしまうものです。

 こっこの想像力は、並大抵のものではないのだ。狼に育てられた少女の話を聞いたときは、給食のうどんを手に使わずにすすりあげ、皆にうんと驚愕されたし、アンネ・フランクの話の開いたときには、図書室にある本棚の裏側に住みこもうとし、本棚そのものを倒壊、図書委員にこわごわ叱られたこともある。こっこの好きな言葉、11歳にして、「孤独」だ。
 こっこは。孤独になりたい。誰からも理解されず、人と違う自分をもてあまし、そして世界の隅で、ひっそり涙を流していたいのだ。

「円卓」より

 そんな純粋な子供の共感が、「孤独」に結びついてしまうのは、その共感を感じる範囲がいつの間にか自分だけの世界に限られてしまい、他者を理解することをやめてしまうからで、それってよくあること。そこに「客観的な視点」もしくは「思いやりの心」が欠けるのは、子供特有の残酷さです。
 そんな子供、こっこにお父さんは優しく語りかけます。

「イマジンはな、年取ったらな、分かってくることも、ある。」
「いまじんの意味?」
「違う。相手が、どう思うか、年取ったほうが、分かることもあるのや。琴子は、死ぬのんが怖くないやろう。」
「怖くない。全然。死にたい、と思うときがある。」
「そっそうなんか」
「そうや。だから、不整脈も、嫌なことやないねん。格好ええねん。ボートピーップルも、格好ええ。あんな風に死にたい。」
「ぽっさんは」
「お、俺は怖い。し、死にたない。」
「そうか、もしかしたら、琴子より、ぽっさんのほうが、イマジンかもしれへんぞ。」
「死ぬのが怖いのが、いまじんなん。」
「死ぬの怖いいうことは、生きることを大切にするということやら。」
・・・・・・
「分からんかったら?うちにはあかん人け?」
「あかんや人やない。でも、琴子がしんどい、つらい思いをするやろうし、それ以上に人にしんどい、つらい思いをさせるかもしれへん。」
「い、いまじんは、大切なんやの。」
「俺はな、俺は、そう思う。ぽっさんと、琴子が、どう思うかは、お前らで、決めたらええ。ただ、自分が思って、言ったことに、責任を持たなあかん。」

「円卓」より

<肉体による共感>
 大人はどうやったら共感を得ることができるのか?小説家なら「言葉」による共感を描くのが普通かもしれませんが、彼女の場合は、肉体にこだわります。それも、「プロレス」と「SEX」。(ちなみに、彼女が尊敬するアメリカの作家、ジョン・アービングはレスリングにこだわり続けています)

「嫌っつうかよ、言ったろ?プロレスは、思春期とか、少なくとも10代の頃に食らわないと駄目なんだよ。体感しないと、一生わかんねえんだよ。頭で見るもんじゃねえんだからよう。」
・・・・・
「そんだ。社会経験がだめなんだ。いろんなことに脳みそを使っちまったんじゃよ、感じられねえんだから。」

守口廃尊「ふくわらい」より

 思えば、肉体による共感とは、小説のような文字による共感よりも強烈なものであり、その記憶はなかなか消えないものともなります。暴力やSEXだけでなく味や香りの記憶はそう簡単に消えないものですし、特にはトラウマとして人を苦しめる場合もあります。

「もっとこう、モヤモヤとした、言葉にできないものがあるんだ。脳みそが決めたもんじゃない、体が、体だけが知ってるよう、言葉っちゅう呪いにかからないもんがあるんだよ、て、ああ、『言葉にできない』も、言葉なもんだから、ああ、もう、嫌んなるなあ。嫌だあ。」
守口廃尊「ふくわらい」より

 こうした、様々な人との共感を描いた文章こそ、彼女の作品の中でも最も忘れがたい部分です。

 病室の中で見たあいつは、ほとんど人間とは思えなかった。赤黒い塊は、まったく妖怪のようであったし、こんな風に人間同士の共感を覚えるなど、もってのほかであった。しかし今、俺たちは、共通の道を知っている、共通の人間であった。それは大変不快な事実であり、しかし、避けがたいことであった。
 あいつは、人間である。

「こうふく あかの」より

 惹きつけられるのは、顔だ。猪木の顔。相手を見る眼は、スポーツをする人間の眼では無い。確実に息の根を止めてやろうという、殺戮者の眼であり、捕食者の眼である。筋肉の躍動は試合が進むほど人間のそれからは遠のき、彼の意見の力の介在しない場所で働き始める。相手の技をかわすときのうねり、相手を捕えたときの腕、リングアウトした相手を挑発する眼、その全てに「死」の匂いがする。それは同時に、「生」の匂いでもある。「死に物狂い」という言葉がここまで似合う男だったとは、思わなかった。彼はまさに「今この場所で死のう」と思いながらリングに立っており、その気迫は遠い時間が経過した今現在でも、この汚い、小さなビデオに釘付けになっている男たち全ての心に、響いてくるのである。
「こうふく あかの」より

 アムンゼンは苦痛に喘ぎながらも、体中の血液が、筋肉が、細胞が、喜びに震えていることにも気付いていた。今や誰も、彼の敵では無かった。「がむしゃらに」立ち向かってくる若い選手はいても、「死ぬ気で」挑んでくる者は、ここ数年、いや数十年いなかった。アムンゼンは己と戦うしか無かった。相手を組み伏せることで己の体の動きを感じ、細胞のダンスを喜び、筋肉の躍動を確認するしかなかった。もはや試合はアムンゼンにとって、自己満足のトレーニングのようなものでしかなかったのである。
 しかし今。アムンゼンの体は、叫んでいた。痛めつけられ、反発を阻止され、苦痛を訴えていた。アムンゼンは久しぶりに自分の体の存在を、第三者によって確認させられた。これは俺の体だ。

「こうふく あかの」より

<「恋」という名の共感>
 「共感」の中でも人類の存続にとって最も重要な「共感」、「男女の間の共感」=「恋」、そして、それ以外の愛についても彼女は描いています。

 目に入るもの、耳に飛び込んでくるもの、唇を撫でるもの、すべてが眩しく、そして、くすぐったかった。今定は、世界を、これ以上ないほど、クリアに見ていた。定と世界の間には、お互いを隔てるものは何もなく、そしてそのことがまた、定を、くすぐったい思いにさせるのだった。それを恋というのなら、こんなにも美しく感情はない、と定は思った。
「ふくわらい」より

「・・・知るって何だろう。今も分かりません。だから僕は、自分で自分の『知る』を決めるしかないと思った。僕は定さんの姿が見えない。でも、僕の知ってるすべての定さんは、見えている人よりも、もしかしたら小さな世界かもしれないけれど、とても美人で、優しくて、それが大切なんです。僕は、優しくて美人の定さんと一緒にいたい。短時間しか経っていないし、もちろんその『すべて』は、刻々と変わってゆくし、かといって『すべて』が完成されるときがくるとは思えないけれど、僕はただ、定さんのことが好きなんです。」
武智次郎「ふくわらい」より

 そうそう、彼女は人間同士の共感以外にも、異なる生き物との「共感」についても描いています。「きりこについて」は人間と共感できない少女が猫と語り合うお話しでした。

<物語たちの共感>
 小説を書く前、本屋に行ってたくさんの本を見たとき、気付いたことがあります。例えば、富士山の見える温泉で誰かが出会う小説があって、違う一冊の中では、おじいさんが富士山に登っていて、また違う小説では、外国人が飛行機から富士山を見ている。そのとき、同じ「富士山」という要素で、みっつの物語は、つながっているのだ。とすると、この本屋の中にある小説たちは、「一方その頃」とか、「昔は」とか「未来は」という言葉で、いくらでもつながっていけるものでは。現在の大阪の物語だって、百年前のメキシコの物語だって、そこに人間がいて、太陽があって、月があって、地球がある限り、つながっているのだ!
「こうふく みどりの」あとがきより

 彼女の小説が多くの人に共感を持って読まれている理由。それは、彼女が多くの作家たちが描いてきた普遍的なテーマを、同世代の若者や女性たちの目線で描くことに成功しているからでしょう。そこで彼女が描いているのは、誰もが持っている過去の幸福なる時の想い出とその終焉。そして、そこからの復活の物語です。例えば、「さくら」では、主人公である若者とその家族が不幸のどん底から立ち直ろうと苦悩する姿を描いていて、誰もが家族の中の誰かの立場に立って読めるようになっています。
 例えば、こんな良い思い出・・・

「美貴という名前を決めたのは、父さんだった。実はそれは会議を開くまでもなく決まっていたことで、ミキを初めて見た父さんは、ミキそのものの美しさや貴さは勿論、世界で何より、小さな頃の思い出や、輝ける未来や、華々しい名誉よりも何より大切に思っている女の人が、自分の子をこの世に誕生させる、しかも家には素晴らしくやんちゃな男の子がふたりも、今か今かと妹の到着を待っているという、そのあまりにも優しく、奇跡的な日常に驚いて、
「なんて美しくて、貴いことだ。」
と言い、そして、大きな声で泣いた。その泣き声は男泣きというにはあまりにも無邪気で、まっとうで、病院中に響き渡るそれを聞いた他のおかあさんたちの瞳をじわりと湿らし、まだ見ぬ赤ん坊を起こしてしまったほどだった。
 母さんが世界で一番幸せなら、父さんは宇宙で一番幸せな男だった。

「さくら」より

 なんという幸福な瞬間。しかし、その幸福な瞬間が素晴らしいほど、それが失われた喪失感が大きくなるのも仕方ないのかもしれません。

 小さな頃のミキは、夜中から雨が降り出すと、小さな声で兄ちゃんを呼んだ。
「お兄ちゃん。」
 でも兄ちゃんは、いつだってぐっすり眠っていた。まるで、眠るのが仕事の王様みたいに、それはそれはいさましく眠った。兄ちゃんが決して起きないことを知っていて、それでもミキは、ますます安心して、何度でも兄ちゃんを呼ぶのだ。
「お兄ちゃん。」
 僕は窓を叩く雨粒と、ミキの小さな声を夢うつつで聞きながら、このまま朝が来なければいいのに、そんな風に思って眠った。
 小さな頃。幸せだった、あの尊い時間。

「さくら」より

 あらかじめ失われることを知っているからこそ、その一瞬が愛おしくてたまらない・・・そんな感受性を感じ続けていなければ、こんな素敵な文章は書けないはず。

 僕らの尊い、失われた時間。
 そのひとつの世界の僕らは、いつまでも笑って、馬鹿みたいに幸せで、どこまでも屈託が無かった。でも僕らは、「こちらの世界」の僕らは、動かないサクラを取り囲んで、涙にくれている。巨漢の母さんは、今まさにギブアップをするところだった。母さんは、その大きな体を震わせて、今まで一度も、たった一度だって言ったことの無かった台詞を口にする。ああ神様はまた、僕らに悪送球をしかけてきた。

「さくら」より

 幸福だった過去を思いながら、明日への一歩を踏み出そうとしている人々へ、その思いでを笑って振り返られるようにするために人は、とにかく歩き出さなければならない。そのために、必要な勇気を少しだけ補う助けになれば・・・。そんな思いが伝わってきます。
 初期の彼女の作品には、そんな彼女の熱い思いがストレートに描かれています。

 空を見上げた。
 雪が、じゃんじゃん降ってくる。小さな頃、大好きだった雪が、私たちめがけて、阿呆のように落ちてくる。いえへい、振り出しに、戻しまっせ!わしら、白いでっさかい!そんな風に、言ってる気がする。じゃんじゃんじゃんじゃん、降ってくる。
 通天閣は、静かに、静かに、雪に打たれてる。

「通天閣」より

<女性たちへの応援歌>
 2012年発表の「ふる」は「女」であること「女性器」をも持つことにこだわった女性たちへの応援歌に徹した作品でした。そして、ここまで彼女が描いてきた「どん底」からの復活劇ではなく、「どん底」を恐れるがゆえの「不幸」というもう一つのテーマを描く作品となりました。(こちらの方が今を生きる女性たちには自分のことと捉えられそうです)

 でもこの空気は、今感じているこの空気は、実はもう過去のもので、こうここには存在しないのだ。「今」は、刻々と動いている。過去の「今」を聞いている「今」も、もうここにはないのだ。自分は次々と、新しい「今」に身を没している。それは避けられない。過去の「今」を忘れてしまうのは、だから当然とも言える。でも花しすは、そのことに、わずかでも抗いたいような気持だった。自分が確かにいた過去の「今」を、少しでも「今」に、閉じ込めておきたかった。
 花しすは、速やかに過ぎて行った「今」を、もう一度体感するように、何度も再生ボタンを押した。何度も何度も押した。

「ふる」より

「サラバ!」上下 2014年
 光星、語り口、キャラクター、物語、舞台、時代背景、引用されている小説、映画、音楽…どれをとっても、西加奈子の集大成といえる小説です。そして、この時点での最高傑作かもしれません。まさに和製ジョン・アーヴィング誕生!です。
 この小説で西加奈子は、「ホテル・ニューハンプシャー」や「ガープの世界」でジョン・アーヴィングが描いた「家庭の崩壊と再生の物語」を彼と同じスケールで描くことに成功しています。こうしたスタイルの小説は、過去の日本文学にはほとんどありませんでした。なぜなら、日本の小説は「私小説」というスタイルによって生まれ、成長してきたからです。そして、著者が男なら「男目線の小説」となり、女性なら「女目線の小説」であって、そのテーマは「家庭」よりも「恋愛」や「仕事」でした。
 しかし、時代は変わり、気がつくと多くの日本人にとっては、「恋」よりも「仕事」よりも「家庭」は重要な存在になりつつあります。そのうえ、男女平等が進み、男性と女性の性差や役割分担の違いもなくなりつつあり、同性愛も少しづつ許容され、「家庭」の在り方は急速に変わりつつあります。男性作家の村上春樹作品でも「1Q84」では、女性が主人公となっています。ならば西加奈子が男性を主人公に選んでも、そこにまったく違和感は感じられません。実は、主人公は「日本男児」にはほど遠いダメ男なんですが・・・これもまた21世紀の今を象徴しています。
 色々な意味で世界が狭くなり、すべてがボーダーレス化することで人種、国籍、性別の違いが混沌となった現在、心はその変化について行けずにいます。そんな中、女性たちはどんどん前向きに生きるようになりますが、男たちは相変わらず受け身にまわり、責任を転嫁しようとする傾向があります。この小説は、まさにそんな21世紀の今を実に見事に写し取ったようにも思えます。村上春樹、ジョン・アーヴィングが生み出した小説スタイルをさらに彼女が進化させてくれることを期待します。

 そんな彼女がこの小説に登場させたアーティストたちの名前を書き出してみました。実にセンスがいいと思いましたので。このサイトで取り上げているアーティストや作品も多いので参考にして下さい。西さんとは話が絶対合いそう!
<映画>
ゴッドファーザー」、相米慎二スパイク・リーウディ・アレン「インテリア」、ジャック・ニコルソン「さらば冬のかもめ」、ジーナ・ローランズ「こわれゆく女」、「女は女である」アンナ・カリーナ
ハリー・ディーン・スタントン「パリ・テキサス」(ヴィム・ヴェンダース)、クエンティン・タランティーノ、「兵隊やくざ」、「人情紙風船」、クリストファー・ウォーケン「ディア・ハンター
フランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダール、デレク・ジャーマン、イザベル・アジャ―ニ、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、キム・ギドク
<作家>
ジョン・アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」、ミヒャエル・エンデ、ジェイムズ・エルロイ、ウラジミール・ナボコフ、太宰治、、坂口安吾、銀色夏色、つげ義春、「AKIRA」
スティーブン・ミルハウザーJ・D・サリンジャーレイモンド・カーヴァースティーブン・ダイベックミラン・クンデラ「笑いと忘却の書」
<ミュージシャン>
オーティス・レディングサム・クックシュープリームスアル・グリーンニーナ・シモン「Feeling Good」、カーティス・メイフィールド「Move On Up」、ジャネット・ジャクソン、スヌープ・ドギー・ドッグ、トライブ・コールド・クエスト、ウータン・クラン、デ・ラ・ソウル、ディアンジェロ「Brown Sugar」、ロバート・ジョンソンエラ・フィッツジェラルド
ニルヴァーナビョーク、ボンジョビ、セルジオ・メンデス、登川誠仁、ショパン
<その他>
アンネ・フランク、マハトマ・ガンジーマーティン・ルーサー・キング牧師、坂本龍馬、チェ・ゲバラ、ジャンヌ・ダルク、ドン・コルレオーネ

<参考>
「さくら」(2005年小学館)、「通天閣」(2006年筑摩書房)、「こうふく あかの」(2008年小学館)、「こうふく みどりの」(2008年小学館)、「きりこについて」(2009年角川書店)
「白いしるし」(2010年新潮社)、「円卓」(2011年文藝春秋)、「漁港の肉子ちゃん」(2011年幻冬舎)、「ふくわらい」(2012年朝日新聞出版)、「ふる」(2012年河出書房新社)
「サラバ!」上下(2014年小学館)

20世紀文学大全集へ   トップページへ