日本の美を生み出し続けた美術監督


- 西岡善信 Yoshinobu Nishioka -

<日本の美の表現者>
 カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した衣笠貞之助の「地獄門」は21世紀に入って、その色がデジタル技術によってよみがえり、映画ファンを驚かせました。カラー映画として日本の美を初めて世界に広めたこの作品の美術を担当した西岡善信の仕事は、戦後日本の映画史に残る重要なものといえます。彼は世界各地の国際映画祭で様々な賞を獲得した大映映画の裏方としてその黄金時代を支えましたが、美術の仕事はなかなかスポットが当たることはありません。
 しかし、彼が残した230本に及ぶ作品の数々はまさに戦後日本映画の歴史そのものといえます。
 ところが、西岡さんの人生の興味深い話は、映画に関わるものだけではありません。もうひとつ彼の人生には、まるで映画のような冒険に満ちたドラマがありました。映画界入りする前に彼が体験したサスペンス小説のような出来事の数々にも注目してみようと思います。

<戦場から捕虜収容所へ>
 西岡善信 Yoshinobu Nishiokaは、1922年(大正11年)奈良県に生まれています。小学校時代から絵が好きだった彼は画家になるため美術学校に行くことを望んでいましたが、父親に反対され仕方なく法政大学の文学部に進学します。それでも、彼は密かに上野美術学校に聴講生として通いながらデッサンを学んでいたといいます。しかし、そんな学生生活も戦争によって終わりを迎えることになります。
 1943年、文科系の学生全員が召集され、彼は海軍に入隊します。そして海軍の少尉として日本各地の基地を巡り、朝鮮の平壌に赴任。そこで中尉に昇進したところで終戦を迎えました。ここまでは平穏な戦争体験だったのかもしれません。ドラマが始まるのは、彼がソ連軍の捕虜になってからでした。
 ソ連軍の捕虜となった彼を含む日本兵たちは平壌から移送された後、咸興から船に乗り日本に帰国することになると告げられます。こうしてソ連兵の指示により3000人の兵士たちが船に乗り込みますが、その船が着いたのは日本ではなくシベリアの玄関口であるウラジオストクでした。燃料補給が目的と告げられ、一時的に上陸すると説明されましたが、それが嘘なのは明らかでした。しかし、ここで反乱を起こしても勝ち目はないと判断した彼らは、ソ連兵の指示に従い行く先のわからない列車に乗り込むことになります。結局彼らはシベリアの収容所に連れて行かれ、そこで抑留生活を送ることになりました。
 シベリアでの厳しい抑留生活を過ごした60万人に及ぶ日本兵たちの多くは、帰国することなく寒さと飢えによってシベリアで命を落としました。西岡もそこで2年間を過ごすことになりましたが、幸い彼は兵士たちの中の芸術家たちによって結成された演芸班の一員となります。そして各地の農村を巡って日本舞踊や歌舞伎などを上演したり、バラライカを演奏しながら「カチューシャ」などの合唱したりしました。こうした慰問活動のおかげで、彼は多くの兵士たちよりも恵まれた生活をすることができ、1947年12月無事に帰国することができました。

<スパイとして生きる日々>
 無事に帰国した彼を待っていたのは、新たな苦難でした。シベリアでの彼の慰問活動は、彼が共産主義のシンパだったからではないか。仲間の兵士による密告により、彼は疑われることになりました。そのため、船で函館港に着いた彼は、すぐに米国中央情報局員に連行され、東京のCIC(対敵諜報部)本部に行くよう命令されます。そして、そのCIC本部で彼は逮捕されるか、情報部の仕事を手伝うかの二者択一を迫られます。こうして彼は本名を隠してスパイ活動をするはめになりました。
 MP付きの特別待遇で直属上司の指令に従う諜報活動では、「スパイ大作戦」のように指令所をその場で燃やすことが求められていたといいます。いったい彼が具体的にどんな活動をしたのかは、謎のままですが、彼は二重スパイとなりソ連の動きを知ることが求められたのかもしれません。
 ある日、彼はそれまでの活動の報酬を渡すのでボストンバッグを持って本部に来るよう指示されます。すべてを疑うようになっていた彼は、この時、報酬を受け取ることは仕事の終わりであり、証拠隠滅のために自分は殺されるのではないかと考えました。そう直感した彼は、そのまま東京を離れると大阪に逃げました。そして、新聞社に勤める友人のもとに身を隠します。
 友人の勤める新聞社で働き始めて、一週間後のこと。上司に呼ばれた彼は、「今、米軍の私服が来て君のことをきかれた」と告げられます。驚いた彼が窓から外を見ると、なんとそこには米軍のジープが止まっていて彼が現れるのを待っていました。あわてて彼は裏口から脱出したものの、彼はこの後どうしたらよいのか?途方に暮れてしまいます。大阪の街のど真ん中、心斎橋の上で悩んでいる彼に救いの手が差し伸べられます。それはシベリアでいっしょに公演活動をしていた演芸班の仲間だった安達という人物でした。

<偶然の映画界入り>
 安達は帰国後、大映の京都撮影所で働いていて、撮影所の中なら仕事もあるし、MPが来たとしても隠れるところはいくらでもあるだろうと、西岡に大映の入社試験を受けるようすすめました。もともと絵が描きたったこともあり、西岡は大映の美術部の入社試験を受け見事に合格します。とはいえ、彼はこの仕事場をほとぼりがさめるまでの隠れ蓑と考えていて、まさかこの後自分が生涯映画界で働くことになるとは思ってもいなかったようです。
 1948年、こうして彼は大映京都撮影所の美術部で働き始め、稲垣浩の「無法松の一生」などで知られる角井平吉のもとで映画の美術について学んでゆきます。当時、大映の美術は他社からの美術担当者も訪れて仕事をしており、まさに絶頂期にありました。例えば、黒澤明監督の「羅生門」のために東宝から来た松山崇。溝口健二監督の「近松物語」のために松竹から来た水口浩。彼ら映画史に残る美術の専門家から彼は多くのことを学ぶことができました。

<美術の専門家として>
 最初に彼が美術助手として関わった作品は1948年の伊藤大輔監督作品「王将」でした。彼は同じように助監督になったばかりの加藤泰と共に製作現場を体験し、いよいよ映画人としての人生をスタートさせます。そして、1952年、彼は恩人でもあるかつての同僚、安達の監督作品「天保水滸伝」で美術監督としてデビューします。
 1953年、「羅生門」(1951年)のヴェネチア国際映画祭グランプリに気をよくした大映の永田雅一は、新たな挑戦としてカラー映画で再び海外映画祭で賞を獲ろう考えます。当時、日本政府も映画が日本の海外向け成長産業になりうると認識するようになり、永田のこのプロジェクトにわざわざ技官を派遣。画家の和田三造をはじめとする美術界の協力も得て、色彩の研究が行われ、その技術をイーストマン・カラー第一作となった「地獄門」に注ぎ込みます。
 当時はまだカラーフィルムの質が悪く発色が悪かったため、撮影には強力な明かりが必要でした。そのため撮影用のライトは俳優のドーランが焦げそうなぐらい強く当てられ、それでもなお午後3時を過ぎると光が足りなくなり撮影を終わらせていたといいます。当然、撮影スケジュールは遅れることになり、監督の衣笠貞之助は助監督の別の撮影班を編成させ分担して撮影を行うことで、かろうじてスケジュール内に収めます。これでなんとか予定どうりに映画が完成し、作品はカンヌ国際映画祭に出品され見事グランプリを獲得します。
 この作品の後、彼は「日本の美」を描き出す作品に関わり続けます。

「炎上」(1958年)(監)市川崑(主)市川雷蔵(美)西岡善信
 この作品は、三島由紀夫の小説「金閣寺」(映画では驟閣寺と変えられてはいました)をもとに製作された作品です。しかし、仏教界の堕落を描いた内容でもあり、モデルとなった住職が当時まだ存命だったことから、仏教界からは映画化をやめるようにという圧力がかかっていました。
 しかし、大映は映画の製作準備を進めます。そして、映像的に最も重要な金閣寺内部のセット作りに着手しょうとします。当然、金閣寺側が撮影に協力してくれるわけはありませんでした。さて、どうやって金閣寺の撮影を行うか?スタッフたちは悩んだ末、まるで映画のような作戦をたてます。それは、撮影所の美術スタッフが「古建築研究会」という架空の会を作り、その会の名刺を持って金閣寺を訪ね、調査の為に中を撮影させてくれるよう依頼するというものでした。この作戦は見事に成功。彼らは金閣寺内部の様々な場所を撮影し、見事にその再現に成功します。こうして、完成した作品もまた高い評価を受けることになりました。

 その他、彼が担当した作品のごく一部をあげてみると・・・(この何倍もあります!)監督の多彩さは驚きです。

「鴈の寺」(1962年)(監)川島雄三(原)水上勉
「越前竹人形」(1963年)(監)吉村公三郎(原)水上勉
「華岡青洲の妻」(1967年)(監)増村保造
「本陣殺人事件」(1975年)(監)高林陽一
「歌麿 夢と知りせば」(1977年)(監)実相寺昭雄
「雲霧仁左衛門」(1978年)(監)五社英雄

「陽暉楼」(1983年)(監)五社英雄
「瀬戸内少年野球団」(1984年)(監)篠田正造
「吉原炎上」(1987年)(監)五社英雄
「ハチ公物語」(1987年)(監)神山征二郎
「利休」(1989年)(監)勅使河原宏

「大誘拐 RAINBOW KIDS」(1991年)(監)岡本喜八
「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年)(監)深作欣二
「藏 」(1995年)(監)降旗康男
「御法度」(1999年)(監)大島渚

「どら平太」(2000年)(監)市川崑
「たそがれ清兵衛」(2002年)(監)山田洋次
「隠し剣 鬼の爪」(2004年)(監)山田洋次
「最後の忠臣蔵」(2010年)(監)杉田成道
その他、座頭市シリーズ、眠狂四郎シリーズ・・・。

 西岡が恵まれていたのは、永田雅一率いる大映が海外で高い評価を得たことで、娯楽映画だけでなく芸術的な作品を自由に作ることが可能だったことです。たとえ国内でヒットさせることが困難な作品でも、海外の映画祭で賞を獲れば国内でもヒットし、海外での公開にも結びつくはずだ。けっして芸術を理解するタイプではない永田は、そうした計算のもとで10億円以上かけた大作を連発し、その結果海外で次々に賞を獲得することになりました。
「羅生門」(ヴェネチア国際映画祭グランプリ)、「源氏物語」(カンヌ国際映画祭撮影賞)、「雨月物語」(ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞)、「地獄門」(カンヌ国際映画祭グランプリ)、「山椒大夫」(ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞)などです。
 そして、これらの作品を作るために招かれた監督やスタッフは大映に多くの技術や思想をもたらしました。ただし、永田は作品に資金をつぎ込んでも、将来のためにお金を使うことをしませんでした。それが映画界の不況と共に大映が倒産に追い込まれる直接の原因となったと考えられます。

<テレビ界での活躍とその後>
 西岡は大映が倒産する頃、テレビの仕事として市川崑のテレビ・シリーズ「木枯らし紋次郎」を担当。この作品における中村敦夫の顔が見えない深めの三度笠や地面に届くほどの長いカッパという独特の衣装は彼のアイデアによるものでした。しかし、このドラマの撮影中に大映が倒産。管財人から仕事を中止するよう命じられます。そこで彼は市川監督らと撮影所をもたない人材集団「映像京都」を設立。自らがその代表に就任しました。こうして誕生した「映像京都」は長く日本映画界の裏方として活躍し多くの名作を誕生させることになります。
「鬼龍院花子の生涯」()(日本アカデミー賞最優秀美術賞)
「陽暉楼」(1983年)(監)五社英雄(日本アカデミー賞最優秀美術賞)
「利休」(1989年)(監)勅使河原宏(日本アカデミー賞最優秀美術賞)(モントリオール国際映画祭最優秀芸術賞)
「鑓の権三」(1986年)(監)篠田正浩(ベルリン国際映画祭銀熊賞)
 木枯らし紋次郎シリーズ以外にも、鬼平犯科帳シリーズ、横溝正史シリーズなども西岡さんが担当しています。
 伊藤大輔から始った彼が担当した映画の監督たちの顔ぶれの多彩さは、戦後日本の映画史を広くカバーしています。ほとんどの大物監督が彼とコンビを組んでいることに驚かされます。こんな映画人は他にいないのではないでしょうか?
 戦後日本映画の「美」を支え続けてきた西岡善信は、もしかすると誰よりも幸せな映画人なのかもしれません。

<参考>
「銀幕の昭和 スタアがいた時代」
 2000年
(著)井上理砂子、板倉宏臣、中澤まゆみ
(編)筒井清忠
清流出版

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