- ノーム・チョムスキー Noam Chomsky (続々編) -

<チョムスキー再考>
 言語学者ノーム・チョムスキーのページをアップした後、ちょっと気になっていたことがありました。その中で僕は、言語学者としての彼と社会活動家としての彼、二つの側面について書かせてもらったのですが、「言語学者ノーム・チョムスキー」についての理解、説明がどうも不十分という気がしていました。
 そんなわけで、その後再度彼について書かれた別の本を読んでみました。すると、その本にこんな文章を見つけてしまいました。
「私が本書を書く気になったのは次のようなちょっと困った人に出会う機会が多いからである。それは、チョムスキーが天才的で革命的な言語理論の開発者であるというふれ込みを素直に受け入れ、その天才的、革命的なるものの中身を問わず、単にその政治批判の姿勢に共感して好意を抱いている人たちである・・・」
田中克彦著「チョムスキー」より(岩波現代文庫)

「うわー痛い!」というわけで、「チョムスキー再考」となったわけです。もちろん、彼の言語学について再度取り上げるわけですが、僕なりに「言語とは何ぞや?」についても考えてみるつもりです。

<言語学とは?>
 先ずは「言語学」とは何でしょうか?
 言葉、もしくは言語というものは、人類が文明を築きあげる以前から存在していました。したがって、「言語学」というものが生まれる以前から「言語」は存在していたわけです。そして、「言語学」は元々存在していた「言語」を機能的により深く理解しようという「文法学」として始まったと考えられます。
 さらに言語学は、世界中に存在する多様な言語を収集、分類、比較対照する博物学的な学問「比較言語学」としても発展するようになります。しかし、それは西欧諸国による植民地支配にとって必要不可欠な学問となります。
 しかし、「文法学」や「比較言語学」は、あくまで現在世の中に存在する言語を対象にする学問であり、そこから何かを予測したり、何かを生み出したりできる科学的な学問とは言えませんでした。

<科学としての言語学>
 では、どうすれば言語を論理的な科学として研究することができるのか?
 ソシュールという学者さんは、言語を時間や社会の枠組みから切り離すことで可能になると考えました。彼は共通の言語共同体はそれぞれ共通の枠組み「ラング」というものをもっていて、それは歴史的な変化に影響されないと考えたのです。したがって、「ラング」という概念を研究すれば、それぞれの言語共同体を歴史の影響を受けずに調べられるというわけです。
「なるほど、確かに民族それぞれのもつルーツにつながるような歴史的に普遍の何かが、存在するかもしれません・・・」
 さらに新しくなってくると、有名な「行動主義」というやつが現れます。この「行動主義」に基づいて言語をみると、そこには口から発せられる「音」としての言葉、ノートに書き込まれた「記号」としての言葉が浮かび上がってきます。ただし、そうなると言語はその意味を失い、ある種の数式として扱われるようになります。
「おいおい、言葉から意味をとっちゃって、それじゃ意味がないんじゃないの?」なんて素人でも思いたくなります。しかし、そうしない限り「言語学」は「科学」の仲間入りをすることができなかったということなのでしょう。じゃあ、そうまでして仲間入りするほど、「科学」は絶対的な存在なのでしょうか?と話は「科学とは?」という話しにまで行ってしまいそうですが、・・・。
 とにかく、こうして、言語学の世界では「言語から意味を取り除く考え方」が主流となり初め、その先導者となったのがアメリカの学者たちでした。彼らは実に厳格に言語学の世界から「Mind(心)」の存在を取り除いて行きました。そして、この考え方はその後コンピューターを用いた「人工頭脳」の研究に活かされて行くことになります。

<Mind(心)の導入>
 ところが、同じ行動主義の牙城アメリカから「Mind(心)」こそ言語の基本であるとする人物が現れます。そう、それがチョムスキーだったわけです。(と言っても、ここでいう「Mind(心)」はちょっとくせ者なのですが・・・)
 チョムスキーは、ある言語の外に別の何か、Mind(心)のような何かを設け、人がしゃべる言葉はすべてそこへもどして、あるいはそれと関係づけることによって説明するとしました。そして、彼はそのMind(心)のような何かを「深層構造(deep structure)」と名付けました。人の口から出る言葉は、単に表面に現れた現象であり、その基礎はすべて「深層構造」にあるとしたのです。
 そして、「深層構造」から生まれた考えを言葉として発するために行う言語化の過程を彼は「変形」と呼びました。
「変形文法の中心的な考え方は、表面構造と深層構造とは一般に別物であること、また表面構造は『文法的変形』と呼ばれる、形式的な操作を、より原初的な種類の対象に繰り返し加えることにより決定されること、これらである。・・・」
ノーム・チョムスキー著「諸相」より

 しかし、彼の理論が本当に凄いのは、ここからさらに一歩踏み込んでいるところにあります。彼は「深層構造」は人類共通のものであり、あらゆる言語に共通していると考えたのです。
「チョムスキーは、言語というものは人間という生物のうちの特別の種が、種として授かった器官の能力として発生するものだと考える。この器官の中には、言語を組み立てる理論や文化などがセットされている。つまり、深層構造はこの器官の中に組み込まれていて、人が言葉を話すときに、それぞれの具体的形をとって出てくるのだ。・・・」
「人は言語能力を与えられて生まれてきているのではなくて、普遍文法を一つの臓器として内蔵して生まれてきているのである。この臓器はまた、言語獲得装置(Language Acquisition Device)、略してLADとも呼ばれる。・・・」


以上、田中克彦著「チョムスキー」より
 彼は、それまでのように言語の多様な現象をちまちま調べるのではなく、人類にとって普遍的な存在である「深層構造」を抑えれば、あとは「変形」の手法によって、どんな言語も説明できると考えたのです。
「うーん、こりゃ確かにすごい。どんな子供でも、自然にその国の言葉を話せるようになるのは、「深層構造」をあらかじめ持っているからなのか。さすがは言語界の革命だ。・・・」

<革命は古いぶどう酒とい新しい革袋>
 チョムスキーは、彼の考え方をデカルトやフンボルトなど、過去の偉大な哲学者、思想家たちから学んだと言われています。それはけっして彼の頭の中から突然生まれたのではないということです。逆に、そうした過去の実績ある理論を拝借することで、彼の理論は素直に受け入れられることにもなったのです。革命とは、確固たる理論がすでに存在し、多くの人々がそれを信じていればこそ成功するものなのです。そういう意味では、彼の理論は新しい革袋「深層構造」に入れられた古いぶどう酒ということになるのでしょう。

<チョムスキー理論の行き着くところ>
 では、こうして生まれた彼の理論が行き着くところは何なのでしょうか?「チョムスキー」の作者である田中克彦氏は、こう書いています。
「・・・チョムスキーが拠り所とした言語に関する一連の普遍概念は、人類の平等、反民族主義、反人種差別という社会的な期待と世論の支持を受けながら、かつて新フンボルト学派、サピア=ウォーフ学派が築いてきた、言語相対主義のとりでを崩すために威力を発揮することになるのである。そこから何が生じるか。言語したがって文化の多様性は、むしろ合理にあわぬ、無用で有害なものだという、古くから繰り返しあらわれる思想が、今や、新たな装いのもとに、支持を与えられることになった。チョムスキーをとらえ、突き動かしているところの秘めたる主張は、もしかしてそんなところにあるのかもしれない。・・・」

 あれあれ?アメリカのグローバリズムを批判する偉大な思想家が、・・・これでは、グローバリズムの基礎理論の創始者みたいじゃないですか。なんだか、わからなくなってきました。田中氏はまた、こうも書いています。
「人間の子供は学ばなければ人間のようには話さない。人間のように話すとは、一般的な言語ではなくて、特定の言語共同体の中で、歴史的に形成された言語を話すということにほかならない。この意味において、言語の中で真に人間的な部分は、一般的な深層構造ではなくして、むしろ特定化された表層構造の方にあると言えるのだ。・・・」
 確かに僕もそうだと思います。深層より表層にこそ人間らしさがあるのでは?したがって、表層の「多様性」にこそ価値があるのではないのか?僕もそう思うのですが・・・。
 しかし、チョムスキーの考えによれば、「英語」さえ調べれば他国の言語のことなど調べなくとも、すべての言語にあてはまる一般理論を作り上げることにもなるのです。(これぞ、究極のグローバリズムかもしれません!)
 1980年代以降、急速に発展した人工知能の研究において、チョムスキーの理論は最も有効と考えられ、もてはやされました。しかし、その後チョムスキー的な単一構造のプログラムだけでは現実の複雑な問題に対応することは困難であることがわかり、最近では複合的なプログラムを同時に用いる方が有利であると言われています。(もちろん、その基礎には彼の理論が有効なのは間違いありません)

<社会活動家と言語学者>
 もちろん、こうした彼の言語学における理論と社会活動家としての発言は、まったく別物であると、彼は再三述べています。彼によれば、イデオロギー批判は科学の場合のように技術的な訓練を必要とせず、「諸事象をしっかりと見つめ、議論を深めて行く意志があれば十分」であるから、社会科学者だけがこうした出来事を扱える専門家だとする考え方は、インテリが信じ込ませようとしているねじ曲げだというのです。
 そうは言っても、・・・。
まさかアメリカのグローバリズムを批判する思想家の急先鋒の思想が、世界の多様性を否定する還元論に通じているなんて・・・。いやあ、「事実は小説よりも奇なり」とは、よくぞ言ったものです。

<正統派となった理論>
 理論というものは、それが正統と認められてしまった瞬間から、その基礎となる思想ではなく、現実的に応用できる細かな部分だけが取り上げられるようになるものです。今やチョムスキーの理論もそんな正統派のひとつになっているようですが、その思想がどうやって、どんな考えを基礎として生まれたかを知らなければ、いつかそれがグローバリズムを正統化するための基礎理論になってしまわないとも限らないでしょう。これは笑い事ではないはずです。チョムスキーの著作をアメリカの未来の大統領が「毛語録」のように手している写真が、タイム誌の表紙を飾らないとも限らないのです。アメリカという国なら、それはあり得ないことではないでしょう。いや、実にありそうなことです。
 チョムスキー最高!のはずが・・・文字どおりチョムスキー再考となってしまいました。まだまだ、彼については勉強すべきことがいろいろとありそうです。

<追記>
 いやあ、まいりました。このページをアップしてすぐ田中克彦氏の「チョムスキー」という本は、かなり批判が多いとのご指摘を受けました。(それについて、びっしり批判が書かれたサイトも見ました)「再考」のはずが、また「再考」させられています。どうやら難しい話しに首をつっこんでしまったようです。皆さんも、このページだけでなくいろいろな本を読んで判断をしていただければと思います。
田中克彦氏についての再考サイト


<締めのお言葉>
「私の言語の限界は、すなわち、私の世界の限界だ」

ヴィトゲンシュタイン

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