- 野茂英雄 Hideo Nomo -

<世界一なった日本野球>
 ワールドベースボール・クラシックにおける日本の優勝は、「勝つための野球」という面で日本がいかに優れているかを証明したように思います。日本は世界一になるために野球の歴史を積み上げてきた野球伝統国のひとつであるということを証明したともいえます。
 明治維新をきっかけに日本にやって来た二つのスポーツ、野球とサッカーはそれほど歴史の長さにかわりはありません。しかし、その発展の歴史は大きく異なります。日本にプロ野球が誕生したのは1936年のこと。J−リーグの開幕はそれに対し1993年と、50年以上も遅れています。そう考えると、日本のサッカーがまだ世界のトップクラスに追いつけないのも当然かもしれません。逆に女子サッカーで「なでしこジャパン」が世界一になったのは、女子サッカーの歴史自体が世界的に浅く、世界と日本の差が小さかったからであり、女子スポーツの環境は海外でも厳しいことに大差ないことの証明なのかもしれません。
 ただし、国際化という点で見るとサッカーは野球よりかなり先を進んでいるといえます。サッカー界では国内サッカーのレベルを上げるため、昔から選手の海外移籍を積極的に進めてきました。1977年に日本人として初めて海外に移籍した奥寺選手(ブンデスリーガのFCケルン)の場合も、本人よりも周りが彼に海外移籍を進めることで実現したといわれています。メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲り、得点王にも輝いた釜本選手にも当時あのバイエルンミュンヘンからオファーがあり、一時は決まりかけていたといいます。(その時は、彼が病気にかかり流れてしまったとか・・・)
 それに比べると、日本のプロ野球界はそうした海外への移籍には昔から消極的いや否定的で、かつて大リーグからのオファーがあったという長嶋、金田、沢村などの選手は、本人の意向以前に球団側が反対し、実現どころか話すら表ざたになりませんでした。野球界には、当時サッカーにおける「ワールドカップ」も「オリンピック出場」もなかったため、海外で武者修行をすることに意義を見出せなかったのかもしれないし、選手は死ぬまでその球団の所有物であるという発想が基本にあったからかもしれません。
 そんな野球界の常識に風穴を開けたという意味で、野茂という選手の功績は大きく、ワールドベースボール・クラシックでの優勝も、彼の海外移籍とその後に続いた選手たちの存在なしにはあり得なかったはずです。

<「イチロー革命」>
 大リーグと日本のプロ野球の関係が明治維新にまでさかのぼって書かれたノンフィクション「イチロー革命」を読みました。その著者は名著「菊とバット」のロバート・ホワイティングですから面白いのは当然です。とはいえ、この本はアメリカ人に日本の野球を紹介するために書かれた本のため、読者をアメリカ人に設定しています。そのため、書かれている日本野球の閉鎖的な体質についての記事には、違和感を感じる部分も多いかもしれません。それどころか、もしあなたが巨人のファンだったとしたら、たぶんこの本を読むと腹が立つかもしれません。巨人中心の日本の野球界がいかに閉鎖的で差別的なシステムだったのか、そのことを知らされることは気分の良いものではないからです。
 しかし、時代は変わり、今やナベツネさんは当然として、王や広岡など過去の英雄と言われる存在をも批判的に描写できる時代になっています。巨人ファン=プロ野球ファンとは限らない時代になった今、それは当然です。そのおかげもあり、国際化という観点でも日本のプロ野球はサッカーに追いつきつつあるのかもしれません。その意味でも、ワールドベースボール・クラシックでの日本の優勝は大きな意味があるといえます。
 ここでは、日本における野球の歴史をたどりながら、野茂選手によるメジャーでのブレイク・スルーまでを追ってみようと思います。

<野球伝来>
 野球が日本に伝えられたのは、1868年のこと、明治天皇が即位した直後に来日したアメリカ人の大学教授が持ち込んだと言われています。当時の日本は、西欧の列強に追いつくためすべてにおいて西欧化を目指していました。そのため、それまで日本の伝統的なスポーツ?として広まっていた剣術や柔術などは過去のものとされ、西欧から来た野球は意外に早く受け入れられていました。
 1886年、第一高等中学(一高)に野球部が創設されます。しかし、そこではベースボールが武道として行われており、精神修養のひとつとしての和製ベースボールが生み出されていました。そこには、1880年代に柔道をスポーツとして復活させた嘉納次五郎が一高の校長になったことも影響していたかもしれません。
 そして、その一高の選手兼監督だった中馬庚(ちゅうまんかなえ)がベースボールに「野球」という名前をつけました。彼はその後、野球についての専門書を発表したことでも知られています。
 1890年、教育勅語が発布されたことなどをきっかけに、日本文化の再評価が始まります。その影響で、野球はより武道的なスポーツとして扱われるようになってゆきます。
 1896年、一高野球部は、貿易商や宣教師らからなるアメリカ人の野球チーム「横浜カントリー・アンド・アスレチック・クラブ」(横浜外人団)に勝利をおさめ、大きな話題となります。この結果は、武道としての厳しい練習によって本場アメリカのチームにも勝てることを証明したものとして、日本の野球界い大きな自信を与えたと言われています。この時、アメリカ人チームを完封した一高のエース、守山恒太郎は、ろうそくをめがけてボールを投げ、火を消す訓練をしていたと言われています。
 1905年、早稲田大学野球チームが北米遠征を行いました。この時、チームは26戦して7勝したできませんでしたが、そこから最新の用具とともに最新のプレー(犠牲バント、スライディング、ワインドアップ・モーションなど)を持ち帰り、日本野球を一気に進歩させることになり、アメリカでも日本の野球が知られることになりました。
 1925年、シカゴ大学の野球チームが来日。早稲田は今回の対戦ではシカゴ大に勝ち越しました。この時の早稲田の監督、飛田穂洲(すいしゅう)は千本ノックの元祖とも言われる人物で、その後の厳しい練習の基礎を作ったとも言われています。

「日本の学生野球は修養の場であり、修養の野球は趣味すら超越し、多くの場合苦痛の野球であり、虐待の練習ともなり、涙と汗と血の連続によってようやく選手の地位が保たれる」
飛田穂洲

 1908年、アメリカのプロ野球選抜チームが来日。力の差は歴然で、この時は一度も負けることなく帰国しています。
 1915年、全国中等学校野球優勝大会、現在の全国高校野球選手権大会が初開催。甲子園でこの大会が行われるようになったのは、1924年ですから、プロ野球の誕生よりずっと古いわけです。
 1934年、大リーグ選抜チームが来日。この時のメンバーには、あのベーブ・ルースやルー・ゲーリック、ジョー・ディマジオらもいました。オールスター・メンバーだっただけに、この時も大リーグ選抜は日本代表チームなどを相手に18戦全勝で帰国。(この時、あの伝説の名投手、沢村栄治は、大リーグ選抜を一点に抑える好投を見せ、日本野球の力を見せました)この時、大リーグ選抜を招聘した読売新聞社の正力松太郎は、興行の大成功に自信を得て、日本にもプロリーグを創設しようと動き始めます。こうして誕生したのが、「大日本東京野球倶楽部」(後の読売ジャイアンツ)でした。
 1935年、沢村、スタルヒン、水原茂、三原脩らをメンバーとした「大日本東京野球倶楽部」は、アメリカ遠征に出発。75勝34敗1分という好成績を残して帰国。日本野球の実力を本場のアメリカで証明してみせました。
 1936年、6チームからなる日本職業野球連盟設立。
 シーズン開幕当初、優勝候補のはずの巨人軍は成績がいまひとつ。そこで監督の藤本定義は群馬県館林の茂林寺で合宿を行い、「千本ノック」など伝説的な猛特訓を行いました。そのおかげで、巨人は見事に優勝を果たしました。こうして、切っても切れない関係の読売巨人軍とプロ野球の歴史が本格的に始まったわけです。

<海外移籍の歴史>
 1935年、最初に海外移籍の誘いを受けた選手は、あの伝説の投手、沢村栄治だったと言われています。アメリカでの大活躍をい考えれば、彼にアメリカから引き抜き話があるのは当然でした。しかし、彼はその誘いを断りました。彼によると、断った理由は、「飯はまずいし、女性は傲慢だし、だいいち言葉がちんぷんかんぷんですから」だったとか。少なくとも、彼の場合はアメリカ生活を体験してのコメントなので、実感かもしれません。
 1961年、日本の大スターとして活躍していた長嶋にドジャースから移籍の申し入れがありました。あの性格なので本人は興味を示したようです。しかし、球団トップであり、日本野球界のトップでもあった正力松太郎がその申し入れを却下。あっさりとこの話は流れてしまいました。長嶋の性格、人間性なら、きっとアメリカの野球に順応して大活躍をしたのではないでしょうか?
 1964年、南海ホークスの二軍選手、村上雅則は野球留学という形で南海から一年間サンフランシスコ・ジャイアンツのマイナー・チームに移籍。当時、チーム間には「もし日本人選手が大リーグに昇格した場合は、1万ドルでSFジャイアンツ獲得がすることができる」という協定がありました。まさか、そんなことが起きるはずはないと、南海は考えていたようですが、そのまさかが起きてしまいました。1Aで大活躍した村上は、その後、9月になり大リーグに昇格。そして、9試合に登板した彼は15イニングを投げて、防御率1.80という成績を残します。この成績にSFジャイアンツは村上獲得に乗り出します。確かに1万ドルなら安い買い物でした。こうして、日本人初の大リーガーが誕生することになりました。この時、SFジャイアンツは、さらに日本人選手の獲得を目論みます。スワローズとの14年の契約が終わっていた金田獲得に乗り出したのです。この移籍は十分可能性がありましたが、金田には日本でやり残していたことがありました。それは400勝4000奪三振という前人未踏の大記録です。さらに金田は言葉の問題も不安だとして結局移籍話を断ってしまいました。
 一方大リーガーとなった村上は「マッシー村上」という愛称をもらい人気者となりますが、その活躍も長くはありませんでした。南海は彼に「このまま大リーグにとどまるなら、帰国しても二度と日本でプレーすることはできないものとい思え」と圧力をかけたのです。その脅しに怖気づいた村上は、日本での実績がまったくなかったこともあり、1シーズンで帰国する道を選びました。

「私は日本人初のメジャー・リーガーです。でも私は悔いを残しています。当時、私は20歳前後。まだまだメジャーでプレーを続けたかったのです。若い皆さん、人生は一度しかないのです。周囲の雑音に惑わされず、自分の思い通りの道を歩んでください。」
村上雅則

 現在もそれに近いのですが、当時のプロ野球選手は自分たちをサラリーマンだと考えていたのでしょう。
「日本の野球チームは、いわば会社組織。”会社が第一”という意識が根底にある。・・・日本人はスポーツに、道徳的指導、会社経営、役割分担などを求める。プロ野球は、単なる”給料を稼ぐための仕事”なのだ」
船橋洋一(朝日新聞記者)

 日本野球はアメリカに追いつくことを目標に発展してきました。そして、その間アメリカはそんな日本からの選手の引抜を行わずにいました。それは選手の引抜が日本国民からの反感をかいかねないと考えたアメリカ政府が政治的に指導を行っていたからちも言われています。日本人にとっての野球はそれだけ大きな存在だったということでしょう。
 1993年、日本野球界にフリーエージェント制が導入されます。この制度が導入されることになった最大の理由。それは、組合の活発な運動の成果ではありませんでした。それは、ドラフト制の導入によって思い通りに選手を獲得することができなくなった読売ジャイアンツのオーナー渡辺恒雄が合法的にスター選手を集めることを可能にすることが目的だったと言われています。ただし、たとえフリーエージェント宣言してもその行使のためにエージェントを雇うことは認められたはいませんでした。(エージェントを雇うことが可能になるのは2001年のこと)そして、結局この年、フリーエージェント宣言をしたのは、60人の資格保有者のうちわずか5人だけでした。
 それでもフリーエージェント宣言をすることで、基本的には大リーグへの日本人選手の移籍は可能になったといえます。しかし、そのフリーエージェント宣言を待たずに強引にアメリカへと渡る選手が、この後現れます。それが野茂英雄でした。

<野茂英雄>
 1968年、大阪の街に野茂は生まれました。父親は漁師を辞めて陸に上がり、郵便局員になった人物でした。小学生の頃、父親とキャッチボールをしながら、すでにトルネード投法をあみ出していたといいます。当然、彼は野球選手を目指して、小学校でも中学校でも野球を続けますが、幸いな事に当時のチームの監督、コーチは、彼のトルネード投法を変えようとはせず、自由に投げさせました。しかし、高校受験で早くも彼は壁にぶつかります。彼のその特殊な投げ方は名門高校の監督らは認めず、しかたなく彼は無名の府立成城工業高校に入学することになったのです。なんとその高校の野球部には13人しか部員がいなかったといいます。
 1985年、それでも彼はその高校で甲子園予選に出場し、完全試合を達成しました。しかし、彼は結局甲子園に出場することはできず、プロ球団からも大学の球団からもスカウトはやってきませんでした。こうして、彼は野球を続けるためにノンプロ球団新日鉄堺に入社。幸いそこでもトルネード投法が認められ、さらにそこで彼はフォーク・ボールを身に着けます。
 1988年、アマチュア選手主体で選ばれたオリンピック代表チームに選ばれた彼は、ソウル・オリンピックに出場。彼の好投もあり、見事銀メダルを獲得。ついに彼の存在は世に知られることになります。
 1989年、ドラフトで8球団から指名を受けた彼は、指名権を獲得した近鉄バファローズから一億円の提示を受けました。ところが、ここで彼は一つ条件を示します。そいれは自らのトレード・マークでもあるトルネード投法をいじらないということをチームに約束してもらうというものでした。幸いにして、当時の監督は西鉄出身の豪放磊落さで有名な仰木監督でした。彼は簡単にその条件を受け入れました。
 1990年、彼は18勝8敗防御率2.91奪三振287という好成績を残し、見事新人王、パリーグMVP、沢村賞など各賞をそうなめにしました。

<旧人類鈴木と新人類団野村>
 1994年、成績不振から仰木監督が退任。代わって監督になったのは、かつて近鉄のエース、鈴木啓示でした。「草魂」で有名なこの人物は、とにかく練習と基本を重視する古いタイプの野球選手でした。そんな彼は野茂の練習内容に文句をつけます。フォアボールが多い原因は投げ込み不足だと指摘。投げ込みを増やさなければ二軍に落とすと指示したのです。現役時代の彼の投げ方は実にスムーズで綺麗なフォームでフォアボールが少ないことで有名だっただけに、そのこだわりが納得できなくもありません。(彼は無四球監督試合78という日本記録をもつ投手でもあります)
 どのスポーツ界でも名選手は名監督にはなれないものです。特に根性を重視する彼の指導は、もう1990年代には完全に過去のものになっていたのですから・・・。しかし、この彼の時代錯誤の指導法のおかげで、メジャー・リーガー野茂が誕生することになるのですから、世の中はわからないものです。このままだと自分の肩は壊れてしまう。そんな思いを感じていた時、彼の前にあの名監督野村克也の義理の息子、ダン野村が現れます。当時、彼は日本の野球選手を大リーグに移籍させる新たなビジネスを始めようとしていました。(実の母親はあのサッチーです)彼に進められたことで、彼は本格的にメジャー移籍を考え始めます。しかし、フリーエージェントの資格を得るまで待っていては肩をだめにしかねない。そう考えた彼はダン野村のアドバイスにより、非常手段を用いる決断を下します。それは、「任意引退選手は海外のチームと契約しうることができる」という条項を利用することでした。彼はチームが飲めないような条件を提示、もし受け入れられなければ任意引退選手となり別の道を探ると宣言。すると近鉄側は、できるものならやってみろと任意引退を認めてしまいます。こうして、自由の身となった彼は晴れてアメリカへと渡ることになります。
 1995年2月、彼はアメリカへと出発します。その前年の1994年、メジャー・リーグ選手会がストライキを強行したため、ワールド・シリーズが中止になり、アメリカの野球界はファン離れが懸念されていました。そんな中、彼はメジャーの中でも名門の球団ロサンゼルス・ドジャースに入団。そこで、13勝6敗防御率2.54奪三振236という素晴らしい記録を残し、見事新人王を獲得しました。この時、彼は26歳でした。
 1996年、彼はホームランが最も出やすいといわれるコロラドの球場でロッキーズ相手にノーヒット・ノーランを達成。その後、肘を壊すなどして一時はもう限界といわれますが、2001年にはボストン・レッドソックスで再びノーヒット・ノーランを達成しています。

<その後の移籍選手>
 その後、野球界は日米の距離が急激に縮まり始めます。そして、1995年には、アメリカから監督がやってきます。ボビー・ヴァレンタインが千葉ロッテ・マリーンズの監督に就任したのです。ロッテは、金田が監督だった時代以来、優勝とは無縁のチームでしたが、ボビーの就任により、チームが活性化され、一躍パリーグの2位に躍進します。ところが、彼を呼び寄せた元巨人監督の広岡ゼネラル・マネージャーは、ボビーの活躍が面白くなく、コーチの江藤とともに、しだいに監督と対立するようになります。こうして、孤立した彼は好成績を残したにも関わらず監督を解任されてしまいます。(この時はファンの多くがフロントのこの暴挙を批判しました)翌年、ボビーと対立した江藤が新監督に就任しますが結局成績は5位に転落。ロッテは再びBクラスのチームに戻ってしまいました。
 1997年、伊良部がニューヨーク・ヤンキースに、長谷川がアナハイム・エンジェルスに入団。いよいよ日本人選手のメジャー移籍が本格化します。
 1998年、日米の移籍市場に「ポスティング・システム」が登場します。
 ある選手について日本の球団がオファーすれば、その選手の獲得のため、メジャー全チームが入札に参加できるというシステム。その中の最高額提示チームは、その金額をチームに支払うことでその選手を獲得する権利を得る。球団側は、フリー・エージェントで移籍されるよりも、多額の移籍金を獲られるこのシステムの方がお得と考えるようになり、選手の移籍はより活発になります。ただし、このシステムの場合、選手には移籍チームの選択権はない。
 この年、吉井理人がニューヨーク・メッツに移籍。
 1999年、大家友和がボストン・レッドソックスのマイナーに入団し、その後メジャー入りすることになります。
 そして、2000年、それまで投手しか日本人選手は通用しないと思われていた常識を覆す選手が現れます。イチローがシアトル・マリナーズに移籍したのです。

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