「アメリカの夜 - 映画に愛をこめて -」 1973年

- フランソワ・トリュフォー Francois Truffaut -

<デイ・フォー・ナイト>
 この映画の原題「アメリカの夜 La Nuit Americaine」とは、ハリウッドでは「Day For Night」と言いカメラのレンズに特殊なフィルターを取り付けることで昼間に撮影した映像を夜のシーンに見せるという技法のことです。現在ではカメラのレンズやフィルムの感度が改良されたことで夜に撮影することは難しいことではなくなり、この言葉は死後になっています。しかし、擬似的にフィルムの中に異世界を作り出す「映画」というマジックを描く作品のタイトルとしては実にぴったりのように思います。サブ・タイトルの「映画に愛をこめて」も素敵です。映画への愛情が隅々に感じられる映画ファンのための映画ファンによる映画。映画ファンならたまらない作品です。

<フランソワ・トリュフォー>
 この映画に使われているエピソードの多くは実際に監督のフランソワ・トリュフォーが体験したことのようです。そして、それを説明するにはその原点ともなっている彼の生い立ちを書く必要があります。
 1932年2月6日、パリ生まれのフランソワ・トリュフォー Francois Truffautは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごすことになり、そのため学校で何度も問題を引き起こし親によって何度も感化院に入れられることになりました。結局、彼は14歳で学業を放棄。勉強の場を教室から映画館に移すことになりました。こうした彼の孤独な少年時代は後に「大人は判ってくれない」に描かれることになります。この映画の中で、監督が見る夢の中で少年時代の彼が『市民ケーン』のポスターを盗む場面は実際にあったことのようです。(『大人は判ってくれない』にも同じような場面があります)

「フランス人によくあるように、私は発育不全の男だ。・・・たとえばポーランド人のように生きて行く強烈な意欲とダイナミズムを私は持ちたい。だから私はいつもの目覚めが悪い。人と会えば気づまりで、話もできない。私は隅っこに放っておかれて夢みてばかりいる子供にすぎないのだ」

 1947年、彼は映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」の初代編集長となる人物アンドレ・パザンと出会います。父親を失った彼にとってバザンは父親代わりとなり、親子同然の関係になってゆきました。その間も映画館に入り浸っていた彼は、バザンが主催し発刊されることになった「カイエ・デュ・シネマ」誌の中でフランス映画界の巨匠たちを徹底的に批判。「フランス映画界の墓掘り人」とまで呼ばれることになります。しかし、そこまで批判するからには自ら映画を撮るべきと考えた彼は、自らカメラを手に取り短編映画を撮り始めます。

「私は自分の幼いころの、そして青春期の夢を描き出すために映画を撮っているのだ。そしてそれは自分自身のためでもあるし、できれば人のためにもなればと思う。人を退屈させたり、また一部の人にしか語りかけないをということを、私は自らに禁じている。私は何よりもまず納得させたのだ」

 「あこがれ」(1958年)は、自らの幼年時代の想い出。その後、自らの分身としての俳優ジャン=ピエール・レオを使い、自らの青春期の夢を映像化してゆくことになります。1958年には、ジャン=リュック・ゴダールと共同で短編映画「水の話」を監督。翌年1959年には長編デビュー作「大人は判ってくれない」を発表します。この作品はヌーベル・ヴァーグの代表作として大ヒット。一躍彼の名は世界中に広まることになりました。
「この映画のジャン=ピエール・レオ少年は、いわば私自身だ。これはドイツ軍のパリ占領下と、そして解放時に少年時代を送った私の心を、そのまま現代に移し変えたものだった。当時のことは、今でも私の心に消えないでいるが、我々の世代の映画俳優から、第二次世界大戦の影響というものを取除くことはできないだろう」
(1962年の「20歳の恋」もまたトリュフォーの初恋をレオ青年に演じさせた作品でした)

 この後、彼は自らの青春時代を映画化することから卒業したかのように、それまでとはまったく異なるジャンルの映画を撮り始めます。そして、それぞれの作品に彼は自分ならではの要素を付け加え独自のエンターテイメント作品に仕上げています。

「私は全く矛盾していると思われる諸要素を一緒に混ぜ合わせるということに気を惹かれる。たとえば、ヒッチコック的なシチュエーションの中にルノワール的な登場人物を動かすといった具合だ。『華氏451』の場合は、そのような意識が働いていたと思う。また、『ピアニストを撃て』や『黒衣の花嫁』などは、ヨーロッパ的な組立ての中でアメリカ的な技法によって描くという方法だが、こういうものも私には興味があるのだ。私は登場人物たちを生かし、動かし、話させることには自信を持っている。だから私が自分の努力を傾注するのは、シナリオの構成であり、見る人に食い入るような物語的な側面だ。そしてそういう点で、私が影響を受けている唯一の映画作家、それがヒッチコックなのだ」
フランソワ・トリュフォー

 こうして「ピアニストを撃て」(1960年)、「突然炎のごとく」(1961年)「柔らかい肌」(1964年)、「華氏451」(1966年)などの話題作を撮り、監督として活躍しつつも、彼の反逆精神は過激さを増します。パリで5月革命が展開したカンヌ映画祭において、権威主義の象徴ともいえるコンテストの必要性があるかどうか映画人の間で議論が巻き起こると、映画祭自体のボイコット運動をゴダールらと展開。ついには、この年映画祭は中止に追い込まれてしまいます。この年は世界的な学生運動の盛り上がりの中、フランスでもパリを中心に反体制運動が高まりをみせており、それがカンヌにも波及したのでした。しかし、こうした活動の中、ヌーヴェル・ヴァーグの仲間たちの中でも対立が生じ、トリュフォーは盟友だったゴダールとケンカ別れしてしまい、生涯その関係がもどることはありませんでした。
 その後、トリュフォーは先鋭的な作品を撮り続けるゴダールらの作風とは正反対といえる正統派の映画を作る方向へと向かうことになります。そのうえ、彼がその後撮り続けたのは、ほとんどが恋人たちの物語でした。(一部は子供たちを描いた作品)
 暴力が嫌いだった彼は、犯罪映画も戦争映画も撮る気がなく必然的に恋愛映画を撮るしかなかったと自分で言っていたそうです。この後、彼が撮った作品「野生の少年」は、フランスでの実話を基に、狼に育てられたという少年を預かり教育することになった教師の物語でした。それまで彼は自らの少年、青年時代を映画化していましたが、この作品では自らが教師を演じることで、少年の立場から大人の立場へと立ち位置を動かしました。

「この映画の主題は私には特に興味あるもの、それは『大人は判ってくれない』では、愛されることがなく、やさしさに恵まれずに成長した一人の子供を描いた。『華氏451』では本というものを奪われた人たち、つまり文化を奪われた人たちを描いた。アヴェロンのヴィクトールにあっては、欠けているものは最も緊急なもの、つまり言語である。この三つの作品は、それぞれ大きなフラストレーションをテーマとして作られているのだ。他の私の諸作品においてさえも、私は社会の枠外にいる人物たちを描くことに執着した。社会が彼らを拒否するのである。・・・」
「この物語のモラルについては、マルソンの研究が既にある程度触れてはいるが、私は映画で次のことをはっきりさせたかったのである、自然は遺産によって我々の所に来る、しかし文化は教育によってしか来ない。そこから、この教育の重要性と、このテーマの美しさが現れるのである。」
「野生の少年」「家庭」(1970年)、「恋のエチュード」(1971年)、「私のように美しい娘」(1972年)と年一本のペースで作品を発表し続けた彼はいよいよ代表作となる「アメリカの夜」の製作準備に入ります。

<「アメリカの夜」>
 1958年に監督としてデビューする前から映画評論家として活躍していた彼はいつか映画の製作現場で起きるドラマを映画化したいと考えていました。1973年にその思いが実現したわけですが、それにはいくつかのきっかけもしくはヒントが影響していました。そのひとつはヒッチコックの言葉でした。彼とトリュフォーの対話の中で、こんな言葉があったそうです。
「ちんぷなドラマも映画製作現場のドラマと組み合わせれば面白い映画になるかもしれない」
 1961年の作品「突然炎のごとく」の撮影中、主役のジャンヌ・モローが「誰か、私の背中をかいてくれない?」という台詞の場面で、小道具係りが間違って彼女の背中を掻いてしまうというハプニングがありました。映画の中に突然撮影スタッフが介入してしまうというハプニング、これは使えるかもしれない・・・・・。これも映画内映画のヒントになったようです。こうした出来事の後、より具体的に彼にアイデアを与えたのは、1971年「恋のエチュード」で撮影中に見た使い古しの映画のセットでした。それはこの映画の撮影が行われたニースのヴィクトリーヌ撮影所で撮られたアメリカ映画「シャイヨの伯爵夫人」という映画で使われ、そのまま壊されずにほったらかしになっていたものでした。パリのカフェテラスと地下鉄の入口、この映画のオープニングに登場したあの映画のセットがそれです。「恋のエチュード」の撮影中、彼はこのセットが気になり、これを使って映画を撮れないだろうかと考え、いよいよ映画のアイデアを具体化させることを決断したのでした。彼は「黒衣の花嫁」(1968年)で脚本を担当したジャン=ルイ・リシャールに共同脚本を依頼。二人でコートダジュールのヴィラに泊り込み、そこで白紙のロールペーパーにアイデアを書き込みながらストーリーを組み立ててゆきました。
 脚本完成後、プロデューサーのマルセル・ベルベールは予算を350万フランと見積もり、その融資を芸術家協会に依頼します。ところが脚本を読んだ協会側は内容が知的で一般向けではないので、その予算では融資できないと断ってきたといいます。結局、ロンドンのワーナーの代表ロバート・ソロが脚本を気に入ってくれたためワーナーからこの映画は公開されることになりました。もちろん、この映画はフランス国内はもちろんヨーロッパ各国、アメリカ、日本など世界中で大ヒットすることになります。この映画はトリュフォー作品の中でも最もヒットした作品となったのです。この映画のDVDメニューを見ると字幕の選択欄に驚かされます。なんと選択できる言語が、フランス語、英語、日本語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語、韓国語、中国語、インドネシア語とずらっと並んでいるのです。これは凄いです。
 それにしても、当時すでに世界的な巨匠の一人だったトリュフォーでも、この時期は映画の製作資金を集めることは困難だったというのは驚きです。確かに1970年代前半は映画にとって最も厳しい時代だったといえるかもしれません。当然、俳優たちの出演料も低く抑えなければならず、イギリス人女優でアメリカから呼ばれたジャクリーン・ビセットも自前に衣裳を準備してくるように言われたそうです。それでも、トリュフォーの映画に出られればギャラはどうでもいいというのが、各俳優の思いだったようです。実際、当時まだ主役級ではなかったジャクリーン・ビセットは、この映画で一躍その名を世界中に知られ、一気に人気女優の仲間入りを果たすことになります。それにしても、この映画の彼女は素敵です。ショート・ヘアーもいいし、カツラをとったロング・ヘアーもいい。彼女を選んだトリュフォーの目もさすがです。

<俳優トリュフォー>
 この映画で彼は狼少年を育てる主人公ともいえる役、イタール博士を演じ、俳優としての存在感を発揮。その後も「アメリカの夜」、「アデルの恋の物語」(1975年)、「緑色の部屋」(1978年)などに自ら俳優として出演します。しかし、なんといっても彼が俳優として世界中に知られることになったのは「未知との遭遇」(1977年)におけるフランス人科学者ラコーム博士役としての出演でしょう。不幸な少年時代、孤独な少年時代に映画にはまり映画オタクとして早くから映画界入りしたスピルバーグとトリュフォーは似たもの同士ですぐに気が合ったようです。スピルバーグやコッポラ、ルーカス、スコセッシらの世代にとって、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは憧れの存在であり、目標のひとつでした。それだけに映画オタク、SFオタクの彼が実現できることになった自らの夢の映画化に師と仰ぐトリュファーが出演してくれたことが、どれでけうれしかったことか・・・・・。
 「アメリカの夜」の中で不倫を夫に知られてショックを受けたジャクリーン・ビセットが「ブール・アン・モット」という樽入りのバターを要求して、スタッフを困らせるシーンがあります。仕方なく製作者らがバターをかき集めて大きな塔の形に固めて皿に乗せて彼女の機嫌をとることになりました。ところが、この時に皿の上に作られたバターの塔の形が「未知との遭遇」のデビルズ・タワーにそっくりなのです。「未知との遭遇」は当初、グランド・キャニオンを舞台にする案もありましたが、それよりはあまり知られていない場所の方がよいということでデビルズ・タワーに決まったということでした。でも、もしかするとこの映画のバターの塔の形に似ていたからデビルズ・タワーになったのではないか?そんなふうに考えるのはあまりに深読みでしょうか?

<ジョルジュ・ドルリュー>
 この映画の魅力としては「音楽」も忘れられません。この映画の音楽を担当したジョルジュ・ドルリュー Georges Delerueほど、世界中の巨匠の音楽を担当した監督も珍しいでしょう。
 彼は1925年3月12日、フランス北部の田舎町ルーベで生まれ育ちました。音楽的には恵まれた環境ではなかったが、パリ音楽院に入学。フランス現代音楽の第一人者ダリウス・ミヨーに師事。この頃からすでに彼は映画音楽の作曲家を目指すようになりました。当時、映画音楽の作曲は芸術として評価はされていませんでしたが、ミヨーは自分自身も映画音楽を作曲し、その将来性を高く評価していたのでした。彼は卒業後、フランス国立放送局管弦楽団の指揮者となり、7年間ラジオ・ドラマの音楽を担当。その後、短編映画の音楽を作るようになり、映画界に本格的に進出します。
 デビュー作はアラン・レネの「二十四時間の情事」で、トリュフォーとは「ピアニストを撃て」以降、「突然炎のごとく」からトリュフォー最後の作品「日曜日が待ち遠しい!」(1982年)まで数多くの作品を担当。それ以外にも、実に多くの監督の作品に参加しています。
フィリップ・ド・ブロカの「リオの男」(1963年)「まぼろしの市街戦」(1967年)、ジャン=リュック・ゴダールの「軽蔑」(1963年)、ルイ・マルの「ビバ!マリア」(1965年)、フレッド・ジンネマンの「わが命つきるとも」(1966年)「ジャッカルの日」(1973年)「ジュリア」(1977年)、ケン・ラッセルの「恋する女たち」(1969年)、ベルナルド・ベルトルッチの「暗殺の森」(1970年)マイク・ニコルズの「イルカの日」(1973年)、ジョージ・ロイ・ヒルの「リトル・ロマンス」(1979年)(この映画で彼はフランス人作曲家として初めてアカデミー・オリジナル作曲賞を受賞しています)、オリバー・ストーンの「プラトーン」(1986年)、ハーバート・ロスの「マグノリアの花たち」(1989年)、アイヴァン・ライトマンの「ツインズ」(1988年)・・・etc,
 サスペンス、コメディ、戦争、恋愛、歴史劇、冒険活劇などなど、あらゆるジャンルの作品で英米仏伊の巨匠たちとコンビを組んだ彼でしたが実は彼、飛行機が大嫌いだったそうです。本人は飛行機にさえ乗れれば日本映画の音楽をやってみたかったそうです。(1992年3月20日に亡くなられました)

<素敵な瞬間の寄せ集め>
 この映画について編集を担当したヤン・ドゥデはこんなことを言っています。
「映画とは、良い瞬間の寄せ集め、そう考えさせる作品だ。例えば、僕が一番好きなシーン、窓辺でジャクリーン・ビセットが向かいのベランダにいる義父たちに向かい、夫はまだ寝ています、というところ。この時の彼女の台詞はフランス語の文法としては誤っていました。しかし、イギリス人という設定の彼女がしゃべれるとそれが実に魅力的に聞こえるのです」

 この作品は、そんな素敵な瞬間を集めた短編映画の集合体と考えることもできそうです。
 そんな素敵な瞬間を生み出すため、この映画には数多くの名台詞が散りばめられています。主人公のフェラン監督のこんなナレーションがあります。
「映画製作は駅馬車の旅に似ている。期待が消え、結局は目的地に着くことだけになる」

「映画監督とはあらゆる質問を浴びる人種である。時には返答する・・・・・」

映画内映画の主人公でもあるアレクサンドル(ジャン=ピエール・オーモン)はまわりのスタッフにしつこく問いかけます。
「女は魔物ですか?」
 それに対して登場人物のひとりがこう応えます。
「脚がね。だから男はズボン、女はスカートなんだ」

「映画って、なんなのよ。だれもがだれとでも寝て、親しげにことばを交わし、みんなが嘘をつく仕事ってなんなのよ・・・まったくなんてことなの!
 これをまともだと思うのかしら。わたしはあなたの映画をがまんできないわ。
 わたしは映画を軽蔑する・・・・・そのとおり、軽蔑するわ!」

 これは製作助手の浮気を心配して、撮影現場に通い続けた彼の妻の台詞です。

<天に召されたトリュフォー>
 54歳の若さで脳腫瘍のためにこの世を去ったトリュフォーは、病に冒される以前、まだ若い頃から自分の人生は長くないとまわりに語っていました。自分は撮らなければならない映画がいっぱいあるので休んではいられないのだ。そういいながら、人生をすべて映画に捧げたのでした。
 この映画は、D・W・グリフィスの「見えざる敵」に出演していた二人の女優リリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュに捧げられています。しかし、いつか誰かがこの「アメリカの夜」を撮ったフランソワ・トリュフォーに捧げる作品を撮ることでしょう。映画を愛する人々にとって、フランソワ・トリュフォーという名は映画黄金期の神々の一人としてヒッチコックやグリフィスの隣に座っているかもしれません。

 映画の終盤、主演女優ジュリーとの不倫事件で部屋に立てこもってしまったアレクサンドルに対して、フェラン監督(トリュフォー)はこう言って彼を復帰させます。
「映画は私生活と違って、よどみなく進む。
 言ってみれば、夜の急行だ。
 きみや私のような人間は、仕事や映画との関わりで
 幸せになるようにできているんだ。
 頼んだぞ」

粋ですねえ!映画って素晴らしいですねえ。

「アメリカの夜 La Nuit Americaine」 1973年公開
(監)(製)(脚)フランソワ・トリュフォー
(脚)ジャン=ルイ・リシャール、シュザンヌ・シフマン
(撮)ピエール=ウィリアム・グレン
(音)ジョルジュ・ドルリュー
(出)フランソワ・トリュフォー、ジャクリーン・ビセット、ジャン=ピエール・レオ、ジャン=ピエール・オーモン、アレクサンドラ・スチュワルト、ナタリー・バイ、ヴァレンチナ・コルテーゼ

<あらすじ>
 ニースのヴィクトリーヌ撮影所で映画監督フェラン(フランソワ・トリュフォー)は新作映画「パメラを紹介します」の撮影を始めていました。しかし、イギリスからやって来るはずの主演女優ジュリー・ベイカー(ジャクリーン・ビセット)はまだ到着しておらずノイローゼになっているという噂がたっていました。ある青年が結婚相手を連れて両親のもとを訪ねたところ彼の父親が婚約者に一目ぼれ。二人は愛し合うようになってしまい、それを知った息子が最後に父親を射殺するという悲劇でした。
 主人公の青年を演じるのは若手の人気俳優アルフォンス(ジャン=ピエール・レオ)。彼は撮影に恋人を連れてきていましたが、アルフォンスのしつこい性格にうんざりした彼女は途中でイギリスから来ていたスタントマンと駆け落ちしてしまいます。落ち込んだアルフォンスを見るに見かねたジュリーは彼と一夜を共にしてしまいますが、アルフォンスはすっかりジュリーに恋をしてしまい、彼女の夫に電話して別れるようにと二人の関係を暴露してしまいます。夫からそのことを聞かされたジュリーはショックを受けて部屋に閉じこもってしまい、撮影が完全にストップしてしまいます。台詞を覚えられない往年の名女優セブリーヌ(ヴァレンチナ・コルテーゼ)、撮影所に恋人の男性を呼び寄せた老男優アレクサンドル(ジャン=ピエール・オーモン)など、トラブルの種はつきず撮影の日程はいよいよ厳しくなり始めます。さらにアレクサンドルが交通事故で命をおとすという悲劇が起き、いよいよ映画は完成が危ぶまれる事態をなります。

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