「ヌーヴェル・ヴァーグ」

- フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール-

「ヌーヴェルヴァーグ」とは?
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは、直訳すると「新しい波」(ボサ・ノヴァ)。1950年代半ばから始まったフランスにおける映画の革新運動のことです。それは、映画における「ルネッサンス」であり、「パンク・ロック」であり、「革命」でした。その後のフランス映画界が世紀末まで、この運動から登場した監督たちによってリードされて行くことからも、その影響力の大きさは明らかです。それは一時的なブームとして消えてしまったようにも見えますが、フランスだけでなく世界の映画史をも本質的に変えるほど、深く静かに広まって行きました。

「カイエ・デュ・シネマ」からの始まり
 「カイエ・デュ・シネマ Cahier du cinema」とは、アンドレ・パザンが主催する映画批評雑誌で、当時最も映画に関して先鋭的な見解を発表する雑誌として有名でした。その執筆者の多くは若者で、後に自ら映画を撮ることになります。ジャン=リュック・ゴダール、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット、クロード・シャブロルらのそうそうたる顔ぶれでした。
 映画史における大転換となったヌーヴェル・ヴァーグがいつ始まったのか?これは映画が誕生した1895年の12月28日同様、ある意味かなりはっきりしています。それは1954年の年初に発行された「カイエ・デュ・シネマ」1月号が店頭に並んだ日といえます。その中に、後に映画監督となりこの運動を牽引することになるフランソワ・トリュフォーが書いた記事。それがすべての発端になったと言われています。その文章のタイトルは、「フランス映画のある種の傾向」といいます。

「フランス映画の『良質の伝統』を継ぐこの流派(エコール)のめざすところはリアリズムなのだが、彼らのやり方では、リアリズムがとらえられた瞬間に崩壊してしまうのである。なぜなら、彼らは、人間はそのあるがままの姿でいききと動かそうとせずに、きまりきった言葉や駄洒落や警句でかんじがらめに囲んだ彼らの小さな世界に人間を閉じ込めることばかり考えているからである。作家は作品をつねに支配することはできない。彼はときには造物主たる神でありうるが、ときにはその被造物にすぎない」

 彼が主張したのは、それまで当たり前と考えられていた「脚本重視の映画作り」への批判でした。脚本があって、監督の頭の中にその映画の完璧なイメージが出来上がっていたとしたら、そのイメージを越える映画は絶対に作れない。そのイメージに近い不完全なものをフィルムに焼き付けるのではなく、それを越えるものを生み出すことこそが、「芸術」としての映画の本質ではないか!映画とは、脚本に書かれた以上の感動を「映像」という魔法を使って生み出すことに他ならない。
 今では、十分に理解できますが、その思想を具体的に映画製作の現場で実行することで、映画は新たな段階へと進歩することになったのです。

「作家主義」
 彼らはそこで「作家主義」という言葉を用いています。それは「作品」を愛するのではなく「作家」とその「個性」を愛してこそ、映画を愛することにつながるものでした。当然、それぞれの作家はそれぞれの個性に基づく作品作りを求められることになります。

 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちに影響を与えた人物として、同じフランスの映画批評家アレクサンドル・アストリックスの存在も忘れるわけにはゆきません。彼は1948年に発表した「カメラ=スティロ」(カメラ=万年筆)で、こんな内容のことを宣言しています。(ちなみに、「カメラ=万年筆」は鈴木慶一率いるムーンライダースの代表作のタイトルとして使用されています)
「映画監督は作家が万年筆で文章を書くようにカメラによって世界を映し出さなければならない。そのために映画監督は、作家たちが苦労して生み出した様々な表現方法をカメラを用いて創造してゆく必要がある」
 当然、その宣言は、映画監督たちにそれぞれの個性(作家性)を求めるものでもありました。ここから、それぞれの映画監督たちが「独自のタッチ」をもつ時代が始まることになります。

「ヌーヴェル・ヴァーグ」に愛された作家たち
 ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちは、個々の「作品」ではなく「作家」そのものを評価しますが、そんな彼らに愛された作家として有名なのは、アルフレッド・ヒッチコックとハワード・ホークスという二人の多作監督でした。二人は、娯楽作品をジャンルの関わりなく数多く撮っていることが共通しており、失敗を恐れず実験的な作品に挑戦し続けたことでも知られています。そうした監督の映画に対する姿勢こそ、ヌーヴェルヴァーグが求めるものだったのです。こうして、この二人の監督は彼らにとっての英雄となりました。
 その他、彼らが高く評価した作品としては、「フィルム・ノワール」の作品群や中平康監督の日活作品「狂った果実」(1956年)さらにフランス国内では、セックス・シンボルとなったブリジッド・バルドー主演ロジェ・バディム監督の「素直な悪女」(1956年)、フィルム・ノワールとジャズを融合させたルイ・マルの「死刑台のエレベーター」(1957年)などもありました。

「ヌーヴェル・ヴァーグ」第一号作品は?
 ヌーヴェル・ヴァーグにおける最初の作品は、クロード・シャブロール監督の作品「いとこ同志」(1958年)とも言われます。しかし、元々「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、作品のスタイルを指定するものではありません。それだけに、どれが最もヌーヴェル・ヴァーグの作品と呼ぶに相応しいのかは判定不能でしょう。
 トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959年)は、大人(体制)へのプロテストを宣言した作品としてヌーヴェルヴァーグを代表する作品といえますが、そのトリュフォーも「ピアニストを撃て」(1960年)ではフィルムノワールのパロディを、「突然炎のごとく」(1962年)では悲劇的な恋愛ドラマを、「華氏451」(1966年)では管理された未来を描いたSFを、どう考えても意識的に様々なタイプの作品を撮っています。
 その他の作家たちでも、「いとこ同志」以後フィルム・ノワールにこだわり続けたクロード・シャブロール、男と女、青春時代の恋にこだわったエリック・ロメールのようにジャンルがバラバラだったのが、ヌーヴェル・ヴァーグ作品の特徴だったともいえます。そんな様々なタイプの作家たちの中で、その中心人物であるトリュフォーの対極に位置していた作家。それがジャン=リュック・ゴダールでした。
 トリュフォーが古典的な映画のスタイルの中で様々なスタイルに挑戦し続けて、その枠組みを再構築しようとしていたのに対して、ゴダールはその枠組み自体を破壊し、「映画」そのものを再構築しようとしていたといえます。例えば、彼が「勝手にしやがれ」で用いた編集手法「ジャンプ・カット」は、フィルムの途中をわざとカットすることで映画の時間軸を破壊する試みでした。最終的に彼が映画というメディア自体を一度は捨ててしまうのも、不思議はなかったのかもしれません。
 トリュフォーとゴダールは、映画手法においてはまったく相容れない存在となってゆきますが、「政治運動」においては共闘をすることになります。

「五月革命」とともに
 1960年代末、世界各地で若者たちが旧体制に対し反旗をひるがえし、改革を迫る政治運動が繰り広げられていました。中でもフランスはその改革運動の勢いが激しく、1968年には「五月革命」と呼ばれる運動のピークが訪れます。映画界で起きていたヌーヴェル・ヴァーグも、そうした運動と無関係ではなく、時にはその運動の中心といえるほどの活動を展開していました。
 「五月革命」は、パリ大学ナンテール校での政治闘争がきっかけのひとつでした。その後、同じパリ大学のソルボンヌ校もデモにより閉鎖になり、その後は学生運動の枠を越えてフランス中の労働者も巻き込んだ巨大な反政府運動へと発展してゆき、ついにはゼネストが行われるところまでゆきました。
 その頃、映画界ではヌーヴェル・ヴァーグの育ての親の一人であるアンリ・ラングロワがフランスにおけるシネマテーク・フランセーズの事務局長を解任されてしまいます。解任したのは、文化大臣のアンドレ・マルローで、ある意味旧体制の象徴ともいえる存在でした。
 それに対して、トリュフォー、ゴダール、アラン・レネらの若手監督だけでなく、ジャン・ルノワールマルセル・カルネらのベテラン映画人たちまでもが反発。新体制のシネマテークをボイコットし、自分たちの作品がシネマテークで上映されることを拒否します。ついに政府はラングロワの解任を撤回、彼は現場に復帰することになりました。さらに彼らの勢いは、旧体制映画界の権威の象徴であるカンヌ映画祭にも及びます。なんとトリュフォーやゴダール、ルイ・マルらの指導のもと、カンヌ映画祭の会場にバリケードが築かれ、ついに映画祭が中止に追い込まれてしまったのです。
 彼らはカンヌ映画祭こそは、映画に権威を持ち込む旧体制の象徴的存在であると判断したのです。確かにそうした一面もありましたが、その後のカンヌ映画祭では、審査員を固定することもなく、フランス人以外にも審査員だけでなく審査委員長を依頼するなどして、権威主義の持込を排除するための仕組みがしっかりしている気がします。ただし、審査の傾向が毎回異なることにもなっているのですが・・・。
 しかし、こうしたやり方は映画界に混乱をもたらしながら少しずつ、運動を分裂へと進ませることになります。盟友だったゴダールとトリュフォーも袂を分かち、トリュフォーは本格的に映画界に復帰し、古典的な作品に回帰したともいえる作品を次々に発表することになります。それに対し、ゴダールは政治活動に深く関わるようになり、商業映画を撮ることを拒否するようになります。こうして、二人はまったく別の道を歩み始めることになります。(ゴダールの映画界復帰は、1980年の「勝手に逃げろ/人生」となります)
 「ヌーヴェル・ヴァーグ」は政治運動と深く関わることで、個々の作家が別々の道へと歩み出すことになり、いつしか運動は拡散、消滅することになりました。ただし、作家たちはその後も一流の映画監督として作家としての活躍を続けることになり、フランス映画界における権威の一人になってゆくことになります。もちろん、それは彼らが望むことではありませんでしたが・・・。
 映画を愛するとは作家を愛することである。自分でそう宣言してしまったトリュフォーが映画監督となって自ら映画を撮る。そのメンタルの強さは、やっぱりフランス人的な気がします。日本人はそこまで自意識過剰ではないと思うのです。少なくとも今までは、・・・本田圭祐のようなタイプがいなかったので

「作品など存在しない。存在するのは作家だけだ」
フランソワ・トリュフォー

「私が死ぬ時、映画も死ぬ」
ジャン・リュック・ゴダール

「ヌーヴェルヴァーグって名前を付けた時点でそれ終わってたんじゃないか。動きってのは魑魅魍魎として命名不可能なものだから、映画を作るってこともそうで、何が起こるか分からない。常に違うことが起こってくるわけで、経験値では計り知れないから面白い。本家のヌーヴェルヴァーグもそうで、みんながとやかく言い始めた頃にはゴダールやトリュフォーは別の方向で歩もうとしてた。・・・」
瀬々敬久

<参考>
「フランス映画史の誘惑」
 2003年
(著)中条省平 Chujo Shohei
集英社新書

20世紀映画劇場へ   トップページへ