- 大林宣彦 Nobuhiko Obayashi -

<「転校生」ラブ!>
 「転校生」は大好きな映画です。「はるかノスタルジア」、「さびしんぼう」など、あまりにノスタルジック過ぎて引いてしまう作品もありましたが、大林監督の作品は基本大好きです。「転校生」以降の作品でも、「青春デンデケデケデケ」や「ふたり」、「理由」なども、良かったです。そして、大林監督の場合、彼が育てた女優たちの存在も忘れるわけにはゆきません。小林聡美、原田知世、富田靖子は、今でも現役バリバリの大スターで、僕も大好きです!特に、小林聡美さんは大好きです。(三谷幸喜氏との離婚は、残念ですが・・・)
 彼が映画監督という仕事について、中高生のために書いた著書「映画監督−さびしんぼうのワンダーランド」を読んでみて、彼の映画のもつ魅力の秘密がやっとわかってきました。多くの映画監督たちと根本的に違う点は、そのまま彼の映画の魅力と直結していて、その後の監督たちにも大きな影響を与えたはずです。しかし、彼ほど純粋な映画への愛をもつ監督は、そうはいないでしょう。「映画監督という仕事は、職業ではなく生き方である」そう言い切れる数少ない監督です。
 そんなノスタルジックな思い出を撮り続ける大林監督の人生は、彼が子供時代に家庭の映写機をオモチャにして遊び始めた時から始まりました。

<映画監督への道>
 1938年1月9日、広島県の尾道市に生まれた彼は、小さな頃から映画にはまりますが、それは見ることよりも撮ることに向けられていました。18歳の時に16ミリカメラを入手すると、そこからは映像製作にのめり込み、1956年に東京に出して成城大学文芸学部に入りますが、1960年には中退してしまいます。
 しかし、映画が大好きだからといって映画監督なることは当時非常に困難なことでした。映画監督という仕事に就くためには、先ず映画会社に就職する必要がありました。そして、そこで助監督として何年も働きながら修行を積み、その後、監督デビューを飾る。それが唯一の道でした。といっても、映画会社に就職するには、東大や早稲田大学なども名門大学を卒業したエリートでなければなりませんでした。しかし、大林青年は異なる道を歩んで映画監督になった先駆者となります。

「僕にとってはまず東大や慶応、早稲田に入ることが大関門で、仕事として映画監督を選ぼうとしたら挫折して映画をやっていなかったかもしれません。
 幸いなことに、僕にはそういう発想が全くなくて、自分の大好きな映画と生涯つき合っていこうと、ただそう思っていただけでした。・・・」


 東京で貧しい生活をしながら、自主製作の映画をつくっていた彼は、エンターテイメント映画ではなく前衛映画の世界で作品づくりを行い、まったく商業映画の業界とは関わりのないところで映画を撮る当時はごくわずかだった映像作家の一人になりました。

「・・・1959年、60年ごろに日本で8ミリをそういうスタイルで使っていた人間は、ぼくと高林陽一さん、飯村隆彦さん、ドナルド・リチーさんの四人しかいなかったんです。・・・」

 好きな映画を好きなように撮り、好きなところが自主上映として公開する。しかし、そんな映像アーティストとして生活が成り立つわけではなく、彼はフィルムを買うのもやっとの状態でしたが。そなままでは、彼は趣味として映画を撮ることすら困難になっていったかもしれません。まして、映画監督になるなど、到底ありえない状況でした。しかし、ここで意外な方向から彼にチャンスが巡ってきました。

<広告業界での活躍>
 当時、前衛映画の監督と商業映画の接点はまったくありませんでした。ところが、映像作家としての彼らの才能に目をつける人物が現れます。それは広告業界大手、電通のコマーシャル制作部門の担当者でした。
 1960年代の日本は、高度経済成長がいよいよ本格化する時期でした。テレビはいよいよ一家に一台の時代になり、広告業界はテレビCMに力を入れるようになります。そうなると、紙芝居のように商品写真とナレーションだけのCMでは、もうスポンサーに満足してもらえません。しかし、カメラマンやアナウンサーはいても、商品を広告する映像作品を一本のストーリーをもつ作品として完成させあっれる人材は広告業界にはいなかったのです。だからといって、商業映画の監督にその仕事を依頼しても、当時はまだ映画は娯楽の王様でしたから彼らのプライドが許してくれるわけはありませんでした。そこで、広告代理店の担当者が目をつけたのが、自主製作で独自の作品を撮っていた作家たちだったのです。
 もちろん、アートとしての映像作品を撮っていた大林青年にとっても「モノを売るための映画」を撮ることには当初抵抗があったようです。しかし、彼は電通の担当者の新しいことに挑戦しようという熱意に打たれ考え方を変えます。ものごとを常にポジティブにとらえようとする彼の生き方が、その後、彼に映画監督への道を用意してくれることになります。

「・・・ところがコマーシャルでは1分のフィルムを撮るのに何千フィートも使うので、映画の何十倍、何百倍のフィルムが使えるのです。映画の1カットはその1カット分の倍も使えなくなっていましたから、これは大変なフィルムの使用量です。そのフィルムを現像所に持っていくと、そこではハリウッド映画のようなオプチカル(合成)の光学処理が技術的にできる。日本映画の中ではそんなことは出来ない時代でした。
 そのときに僕が考えたのは、確かにコマーシャルにはテーマがない、一人のアーティストとして自分の思いを伝えるメッセージもない、しょせんこれはモノを売るためのものでしかないかもしれない。しかし、本当に素晴らしい緑やブルーや黄色を再現することはできるだろう。これは人々にちゃんと訴える、あるいは提供するに意味があるんじゃないか。・・・・・」


 こうして、彼は1960年代から1970年代半ばまでのほぼ10年間、広告業界の人気映像作家として活躍し続け、あの「マンダム」のチャールズ・ブロンソンのCMも彼が撮ったそうです。そんな忙しい時代、1962年に彼は恭子夫人と結婚。彼女と二人三脚で自主製作映画を撮り続け、インデペンデント映画の作家としても活躍し、海外でも高い評価を受けるようになっていました。
 彼はこの時期アメリカに前衛映画界の巨匠として渡り、ニューシネマ前夜のインデペンデント映画の現場を体験してきています。なんと彼は当時、偶然にも「イージーライダー」の編集現場を見学していたそうです。

「・・・恐らく洋の東西を問わず、人々の欲求の中に、作られた映像よりも本物の美しさを見たいという思いが強くなってきていたのでしょう。音楽もギター一本抱えてのフォークソング隆盛の時代に入り、美術でもポップアートが始まってくるし、そういう時代の中でコマーシャルが存在していたのです。・・・」

<映画監督デビューに向けて>
 いよいよ映画監督になるための準備はととのいましたが、そこには現在とはまったく異なる大きな壁が存在していました。その当時の日本映画では、会社外部の人間が映画を撮るということはまず基本的にあり得ません。・・・
 若い監督さんたちが次に自分の番だと思って待ち構えているところに、よそから人が来て撮ってしまうことがあってはいけない。例えば、東宝で日活の映画監督だった藤田敏八がメガホンを取ろうとした時、東宝の監督会が入り口にピケを張って、藤田監督が所内に入ることを阻止しようとしたことがありました。
 彼のデビュー作「HOUSE/ハウス」の企画も、こうした状況を打破できないままお蔵入りになていたといいます。しかし、彼はそれまでとはまったく異なる方法で状況を変えようとしました。映画製作を可能にするための話題作りを自らのできる範囲で展開したのです。それはすでに出来上がっていた脚本をもとにした漫画、小説としてラジオ・ドラマの制作を先行して行うことでした。
 すでに映像作家として高い評価を得ていた彼が、映画を撮るという話題はこれらの作品群によって、いよいよボルテージがあがることになりました。こうなると自ら作品を撮るためのお膳立てをしたからには、大林に撮らせるべきだという空気が映画界から出てくるのも当然でした。
 こうして、1977年、彼は「HOUSE/ハウス」で華々しくデビューを飾ることになりました。もちろん、彼はこの映画によって他にも様々なアイデアを映画界に持ち込みました。
「この映画のプロジェクトで面白かったことは、日本映画で初めてといっていいと思いますが、映画より先にレコードができたことでしょう。レコード会社の方が、東宝の映画化決定ということだけでレコードを出してくれましたから、撮影現場ではゴダイゴの曲をかけながら撮影している状態でした。それからいまでいうスタイリストが映画についたのも、多分「HOUSE/ハウス」が初めてだったでしょう。」

 その他にも、彼はアメリカから当時まだ日本映画では使われていなかったパナビジョン・カメラを持ち込んでいます。小型高性能のこのカメラを導入したことで、映画のロケーション撮影はそれまでよりも少人数で行うことが可能になり、ライティングの最小限ですむために自然光を利用して、よりリアルな映像を撮ることが可能になりました。
 この時期は、彼以外にも様々な若手監督が映画監督に登場し、映画の新しい時代が始まろうとしていました。

「そういうなかで、8ミリ少年の大森一樹が松竹で撮る、あるいは森田芳光君が撮るというような、日本映画にも外部の才能がどんどん入ってきて新しい展望が開いていた。その風穴をあける役目を始めたんだから、風通しさえよくなれば、ぼくがあけたのは穴だから、穴はなにも残らなくてもいいんだというぐらいの気持ちでした。」

 「HOUSE/ハウス」は、「お子様向け映画」と呼ばれながらも大ヒット。しかし、当時、彼はこの映画を15歳以下の映画離れしつつある子供たちを映画館に呼び戻そうと企画していたので、それで十分と考えていたといいます。
 そして、彼はこの作品を完成、ヒットさせたことで生涯映画監督として生きる決意を固めたといいます。しかし、それは単に「映画監督」として映画を撮り続けるということだけではなく、「製作」も含めて映画すべてに関わることでもありました。そのため、恭子夫人は映画製作者として、この後ずっとコンビを組んでゆくことになります。

「とにかく「HOUSE/ハウス」をやるということは、ぼくにとっては持続させなければならないということを意味していました。日本映画の世界の中に入るのなら持続してやらなければいけない。そして大林宣彦のこだわりで持続することを越えて、ジャーナリスティックな場所でやっていく、だから、プロデューサー8割、監督2割の仕事にしようということで、「HOUSE/ハウス」の製作はぼくが務めました。・・・・・」

 「HOUSE/ハウス」のヒットにより、彼はその後も映画を撮ることが可能になりました。彼が尊敬する漫画家、手塚治虫原作のブラックジャックを実写映画化した「瞳の中の訪問者」。当時日本を代表するアイドルコンビだった三浦友和&山口百恵主演の映画「ふりむけば愛」を監督します。(二人のコンビが初めて実現したのは、実は彼が担当したCMの撮影だったそうです)
 そして、ここで彼は彼の才能を高く評価するもう一人の映画界の革新者と出会います。

<角川春樹との出会い>
「ぼくはいま、本屋のおやじです。本屋のおやじが、映画が好きだから映画をつくっていますと言ったら、全国の本屋に対する裏切り行為でしょう。だから、ぼくが世間に対して言える言葉は、本を売るために映画をつくるんですとしか言えないし、ひょっとすると映画嫌いが映画をつくって、本を売ってもうけようとしているとしか思われていないかもしれないけれども、まかり間違ってもぼくは映画が好きで映画をつくっているとは言えない立場にある人間です」
角川春樹

 当時、僕は角川書店の「野生時代」にはまっていて毎月読んでいました。(高校のクラスではちょっとしたブームでした)しかし、映画界における角川映画に対する評価は「宣伝過多の無内容な娯楽映画」という感じでした。(ちょっと言い過ぎか?)
 そんな状況で大林監督に依頼された映画は金田一シリーズのパロディー映画「金田一耕助の冒険」でした。そして、次に与えられたのが、この後日本の映画界における重要なスタイルとなるアイドル映画の代表作「ねらわれた学園」でした。この映画で薬師丸ひろ子を一躍人気アイドルにした彼は、やっと好きな作品を撮るチャンスが生まれます。次なる作品こそ、自分の作りたい作品にしたいと考えていた彼は、その舞台として自らの故郷、尾道を選び。原作として、山中恒の小説「おれがあいつで、あいつがおれだ」を選びます。こうして、映画「転校生」の準備が始まりました。

<映画「転校生」>
「児童文学者というのは、功なり遂げた大人が子供たちに対して意見を言ったり、押しつけたり、大人の尺度で子供たちを教育しようという胡散臭さをぼくは感じる。ぼくはそんな立派な大人ではないし、子供たちに意見ができるような人間じゃない。むしろ子供よりも悪いやつで、子供よりもいい子で、子供よりも好奇心が強くて、子供よりもガキ大将だ。子供よりも夢を信じているし、子供よりもだれかを殺したい、そういうやつなんだ。そういうぼくが子供に負けないように生きるために、子供を相手とした児童読み物をぼくは書いている。子供ぐらい恐ろしい読者はいないよ、大林さん・・・」
山中恒

 映画「転校生」の設定は原作では小学生でした。しかし、それを映像化するにあたり、彼はより性の違いを明確にし、より多くの世代に受け入れられるようにと主人公の年令を高く設定し直しました。そうして完成した「転校生」は、彼にとって、どこまでもパーソナルな作品で、舞台も当時「過去の街」として急激に過疎化が進んでいた尾道ということで、多くの人は映画がヒットするとは考えていませんでした。(監督本人ですら)
 ところが、公開後、この映画は予想外の大ヒットになりました。さらにこの映画は評論家にも高く評価され、その後の彼の作風を決定づける作品となりました。

「ぼくの映画は、ぼくの顔を見ながら女優さんたちが演技をする構図で描いています。普通は物語を描く映画は七・三の構図がいいといわれて、登場人物が二人いれば、その二人を実験的に見るのが物語を描く構図である。ぼくの映画では、レンズを見て芝居することが多いのです。そこには映画という客観的な物語の中にぼくという主観を何とか定義させたいおちうぼくの、パーソナル(個人)映画の姿勢があるわけです。・・・」

 さらに尾道で撮影した「転校生」のヒットは、もうひとりの主役としての尾道の街を一躍有名にしました。この作品の公開後、現在に至るまで尾道は映画やテレビ・ドラマの舞台としてなくてはならない存在として常にロケ地の常連になっています。
 そして、その影響のもと、彼は角川春樹から新人の原田知世を使って尾道を舞台にした作品を撮って欲しいという依頼を受けます。こうして、作られた「時をかける少女」もまた大ヒットを記録。こうして、原田知世を大スターにした彼はその後も多くの女優を育ててゆくことになります。それはそれぞれの女優さんたちの才能はもちろんですが、彼の指導に明らかに他の監督とは異なる何かがあったからのように思います。

「『時をかける少女』ではキスシーンはなかったけれぼも、自分の本当の恋人とキスする前に、映画の中で相手役の俳優さんとキスをしなければならないということだってありうるかもしれない。つまり映画を一本経験するということは、そういう意味で生活の一部、人生の一部になってしまうのです。
 しかも、その責任をだれがとるのかといったら、そういう映画をつくろうとした監督にある。・・・・・」


 こうした、俳優、スタッフたちとの関わりは「人間大林宣彦」のもつ魅力、カリスマ性なしでは考えられません。彼の映画にこめられた「愛」のイメージは作品によって変わることなく常に彼独自のものとして変わらない存在であり続けています。こうした人に向けられた「愛」は、そのまま映画に向けられた「愛」でもあります。

「・・・人間は本当に相手のことをいたわって、いまこそ優しくなってあげようと思うときに相手を傷つけてしまう。大切な人に優しくいとおしくしようとするときこそ人間は傷つけ合う。それは傷つけ合うというよりも、ひょっとすると傷つけ合うということかもしれない。・・・ぼくが人間ってすばらしいと思うのは、そのことを許し合って、理解し合って賢くなったときに、その関係が愛というものを持つ。いとおしい人同士が誠実に切実に傷つけ合うことを避けては、愛はうまれないのです。・・・」

<充実した作品群>
 この後、彼は尾道同様、過去の街になりつつあった水郷の町、柳川市を舞台に「廃市」(1984年)を撮ります。純文学の巨匠、福永武彦作品唯一の映画化作品、「廃市」で小林聡美はシリアスな演技をみせ、単なるカワイコチャン女優から演技派の女優への第一歩を踏み出したといえます。その後、再び原田知世を起用して彼は「天国にいちばん近い島」(1984年)を撮った後、再び彼は尾道を舞台にして尾道3部作の完結編となった「さびしんぼう」の撮影に入ります。
 「アイコ十六歳」でデビューを飾ったばかりの新アイドル富田靖子主演の「さびしんぼう」(1985年)もまた尾道という舞台抜きでは考えられない作品となりました。その後も彼は尾道を舞台に様々な作品を撮っています。
「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986年)、「彼のオートバイ、彼女の島」(1986年)、「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群」(1988年)、テレビ・ドラマ「麗猫伝説」(1983年)・・・・・

 1988年の「異人たちの夏」は、それまでの作品とは異なり、大林作品の新たな世界を生み出しました。原作は、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などで有名な山田太一。その脚本化には同じくテレビ界の大御所、市川森一があたっています。
 幼い時に両親を亡くした中年のシナリオ・ライター(山田太一の分身的存在)が、両親の幽霊と出会い過去を振り返るというこの作品は、中年世代のためのノスタルジックなファンタジー映画の先駆けとなり、その後数多く製作される幽霊ものの先駆けともなりました。

「ふたり」(1991年)
 その後、1991年彼は尾道を舞台にした新三部作の一作目「ふたり」を発表します。交通事故で亡くなった姉(中島朋子)とともに暮らす少女(石田ひかり)の成長を描いたこの作品は、原作者の赤川次郎が最も愛した作品のひとつと言われ、当初は映画化を断ったそうです。それだけに、この作品の映画化には原作をそのままなぞるのではない大林流の変更も加えられ、素晴らしい作品となりました。

「暮らしの本拠を尾道に置いて、富司さんはプロデューサーのぼくの妻と一緒にホテルの部屋でご飯を炊いて、おかずをつくって、ぼくたちが帰ってくるのを待っている。子供たちも帰ってくると、お互いに「お父さん」「お母さん」と呼び合って過ごす。撮影中の一ヶ月半は北尾一家として尾道で過ごしました。
 そういう環境をつくることがぼくの映画づくりではとても大切なことなのです。つまり映画のための演技はしょせんつくりごとの嘘であるけれども、映画を一緒にやることのルールブックとしてシナリオやストーリーがある。そのルールブックのなかで生きているのは、ぼくたちの二度とない人生の一部を生きていることにもなるのですから、そこには人間同士お互いに本当に幸福に生きましょうということなのです。・・・・・」


 1992年の「青春デンデケデケデケ」も斬新な青春映画でした。舞台は1960年代半ばの四国。ロックバンドを結成した高校生たちを主人公とするこの映画は、あえて手持ちカメラで撮られた複数の映像を、テンポ良く編集することで青春映画ならではの勢いを生みだすことに成功。その上、この映画はリハーサル無し、NG無し、メイクも照明も最小限という限りなくドキュメンタリー・タッチの映像という異色の作品でもありました。
 我が町小樽市を舞台にした「はるか、ノスタルジイ」(1992年)は、正直あまりにもロマンチックすぎてがっかりでした。そのおかげで、その後続くことになる新尾道三部作の二作「あした」(1995年)、「あの、夏の日〜とんでろじいちゃん」(1999年)を見逃してしまいました。(大林監督の時代は終わった。なんて思っていました。すみません)
 それでも2004年の「理由」では、彼にとっての新ジャンルとして、本格的な犯罪小説、推理小説の映画化に挑戦。この映画ではそれまでにない重厚なスタイルの映画を見ることができます。それまでにない作品です。まだまだ大林映画には新しい展開が期待できそうです。
 彼がこだわったのは、フィルムに焼付けられた映画というメディアの魅力でした。なぜ、デジタルではなくフィルムなのか?もちろん彼はデジタル技術の導入を否定しているわけではありませんが、そこには重要な違いが存在していることを指摘しています。

「・・・十九世紀は、人は目を閉じて夢想するときに幸福だった。目を見開いていると普通の日常の中のあるひとりの少女が、目を閉じることによって世界一すばらしい自分の恋人になる。夢想することこそが幸福だった。だから、現実を映しとるふりをしながら、現実の陰に隠れている人々の夢想を誘うのが映画、フィルムという発明品の持っている才能だということになるのです」

 彼はこうも書いています。

「映画というのは自分の思いで見る、自分の夢で願いで見る映像、つまり主観的な情緒で見る映像です。そのことが幸福であった時代の映像なのです。」

「フィルムを影絵に例えるならば、ビデオは鏡です」

 当然、そうした根本的な違いがあれば、そこに映し出される作品における俳優たちも異なる役割をもつと語っています。

「映画は演技で感動させる、ビデオやテレビというメディアはパフォーマンスというか、俳優さんが俳優さん自身の行為と行動で感動させるという違いがある」

 正直、大林作品のもつ優しさを胡散臭く感じる人もいると思います。しかし、それはあくまでも暗闇の中で演じられる映画の世界での夢の出来事です。夢の世界では、どんなことも起きることが可能なのですから、あなたも目を閉じて夢の世界に出かけませんか?もしかすると、探し物が見つかるかもしれませんよ。

<参考資料>
「さびしんぼうのワンダーランド」(仕事発見シリーズ26) 1992年
(著)大林宣彦
実業之日本社

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