ピンポン外交で世界を変えようとした男


- 荻村伊智朗 Ichiro Ogimura -

<萩村伊智朗とは何者か?>
 ある新聞社が行った「20世紀を代表する日本のスポーツマンは誰か?」というアンケートで、第16位の中田英寿の上にきた人物、荻村伊智朗をご存知でしょうか?スポーツには結構詳しいと思っていた僕ですが、正直知りませんでした。最近でこそ、日本の卓球界はメダルを獲得できる種目として、人気実力ともに有名になりましたが、つい10年ぐらい前はまったく地味なスポーツでスポーツ扱いすらされない存在だった気がします。そんな卓球界にかつて「ミスター卓球」と呼ばれる選手がいたのです!
 かつて日本は世界最強の卓球王国だった時代がありました。その時代のナンバー1選手が荻村選手でした。彼は個人戦では二度世界チャンピオンになり、団体戦ではキャプテンとして、日本代表5連覇の立役者となりました。それだけではありません。彼はアジア人として初の国際卓球連盟会長に選ばれ、ノーベル平和賞をもらっても不思議ではないくらいの偉業を成し遂げます。日本スポーツ界のレジェンド、荻村伊智朗の偉業に迫ろうと思います。

<生い立ち>
 荻村伊智朗 Ichiro Ogimuraは、1932年6月25日、静岡県伊東市で生まれました。彼が2歳の時、父親が32歳の若さで肺病により他界。母親は「主婦の友」の記者だった才女で、息子には大学を卒業して世界平和の為に貢献できる外交官になってほしかったといいます。そんな親の血を継いで頭が良かった彼は、その期待に応えて熱心に勉強。常にトップクラスの成績でした。さらに彼は少年野球でエースとして活躍していましたが、背が低く痩せた体つきでは上を目指せないと自ら判断。野球をやめてしまいました。でも、何かスポーツがやりたい。そう思っていた彼は進学校の都立西高校に入学後、そこで卓球と出会い自らの生き方を変えてゆくことになります。

<卓球との出会い>
 1950年、高校二年生との時、彼はできたばかりの卓球部に入部しますが、相手も卓球台もなかったため、彼は強い相手を求めて都内の卓球場をまわり、吉祥寺に出来たばかりの「武蔵野卓球場」に通い始めます。彼を中心とした都立西高校の卓球部は都大会で見事優勝しますが、全国大会には出場できずに終わりました。
 高校を卒業した彼は都立大学に入学しますが、卓球部は弱かったため、「武蔵野卓球場」のメンバーで作った「吉祥寺クラブ」のメンバーとして東京卓球連盟に所属して活動します。そのため、彼は日暮里の東京卓球会館や他の大学の練習に参加。その後、夜に吉祥寺で一人サーブ練習をする日々を続けました。
 卓球についての研究にも熱心だった彼は、当時、登場したばかりだった「スポンジ・ラバー」と出会い、その可能性に着目。体格的に細くて小さい自分には、パワーを補える最良の武器になると考えます。当時はラバーの弾力によってスピードが出るものの、コントロールが定まらないため、多くの選手に敬遠されていたのですが、それを彼は練習によって克服。見事に自分のモノにしてゆきます。彼はこのスポンジラバーを使いこなすと同時に深夜に及ぶ毎日の練習によって誰にも負けない持久力を身につけ、トップを目指すためのプレースタイルを確立してゆきます。

「徹底的な先制攻撃で速く攻めて、速く返させて、また速く攻める - 肉を切らせて骨を切るやり方。さきに自分が消耗しても、消耗戦での持久力、速いラリーに対する敏捷性では、負けない」
荻村伊智朗「卓球レポート」より

「剣やボクシングでは遅い者は永遠に後退を続け、おのれを必要とする間合いをとり続けることが理屈では可能だが、卓球では不可能だ。剣では相手のいない空間をうっても意味はないが、卓球では意味がある」

 まるで武士道をきわめた達人のような言葉です。しかし、彼の場合、理論にはそれに見合うだけの練習もともなっていました。彼は卓球台のコーナーに万年筆をキャップを立て、それをロングサービスで落とす練習を続け、確実に命中できるようになるとさらにネットの高さを上げて、そこに命中させたといいます。

彼はバレエ映画「赤い靴」を見て日記にこう書いています。
「俺はまだバレエに対するあの人達の情熱の様なものを卓球に持てない。残念だ。
卓球をして芸術の域に引き上げたい。
既に引き上げてあるモノのなかに身をていするなら誰でもしよう。
引き上げる役を誰かがしなくてはならない。・・・」

 なんという志の高さ。

<卓球世界選手権>
 卓球の競技団体にはひとつ大きな特徴があります。それは国際卓球連盟(ITTF)の基本理念に他のスポーツ団体とはちょっと違うところがあるのです。
 国際卓球連盟は1926年に設立されましたが、この団体には国歌と国旗を使わないという憲章があるのです。世界選手権には各国の卓球連盟が参加するのであり、国の代表チームではないという考え方です。その裏には、国と国との闘いとして卓球というスポーツが民族対立を助長させることを拒否する目的がありました。ジョン・レノンの「イマジン」的発想といえるかもしれません。この未来的な考え方は、その後、「ピンポン外交」と呼ばれる大事業を産む大きな背景となります。
 初代会長はイギリス人のアイヴォア・モンターギュ。日本は1949年、サンフランシスコ講和条約調印(1951年)より前にこの団体への加盟を認められていますが、その加盟承認にも団体の持つ民主的先進的判断があったのでした。そんな卓球連盟の期待に応えるように、日本は初の世界選手権で大活躍することになります。
 1952年、第19回目の世界選手権ボンベイ大会に日本は初出場。佐藤博治の男子シングル。藤井則和・林忠明が男子ダブルス。女子団体と西村登美江・楢原静の女子ダブルス。4種目で優勝。戦後日本における最初のスポーツにおける世界的活躍となりました。

<世界選手権代表へ>
 日本が世界選手権で大活躍した1952年、彼は仙台で行われた全日本軟式卓球選手権で優勝。その後、硬式卓球日本選手権での優勝を目指し、彼は日大の芸術学部へ編入します。矢尾板弘監督の元で卓球を続け、翌年、見事に日大卓球部を大学選手権を優勝に導きます。さらに彼自身もアジア選手権の団体戦メンバーに選ばれて、日本チーム優勝の立役者となります。そして、全日本硬式選手権でも彼は個人戦で優勝。次の世界選手権代表メンバーにも選ばれることになりました。ところが、ここで大きな問題が生じます。
 イギリスのロンドンで開催される世界選手権に出場するため、卓球協会から大会出場者に自己負担金として80万円が求められることになったのです。まだ経済的に貧しかった日本は卓球協会にもまた資金が不足していたのです。とはいえ、サラリーマンの年収が10万円だった時代に80万円という金額は個人では到底不可能な金額でした。そのため、彼は当初は出場をあきらめたのですが、吉祥寺クラブのメンバーが中心となって募金集めが行われ無事に80万円が集まりました。こうして、彼は1954年、日本代表チームの主将としてロンドンに出発しました。
 ロンドン大会の日本チームは、前回大会から大幅にメンバーが入れ替わっていたことから、国内でもあまり期待されていませんでした。(1953年のブカレスト大会に不参加だった日本チームは、海外での試合にほとんど参加していませんでした)そのうえ、イギリスは第ニ次世界大戦で日本から大きな被害を受けていたことから、反日感情が強く、試合会場でのブーイングや明らかな判定の不平等が目立ったといいます。

<世界選手権ロンドン大会1954年>
 初めて対戦することになるヨーロッパの強豪たちとの試合を前に荻村は、自論の「51%理論」をチーム・スタッフに提案します。
 当時、ヨーロッパの強豪の多くはバックスピンをかけたカットを中心に戦うカットマンでした。それに対して日本チームは前陣速攻でスマッシュで攻撃しようとしますが、うかつに攻撃に出るとカットボールに引っ掛かってしまいます。そのため試合はラリー戦に持ち込まれ、お互いにチャンスをうかがう長い試合になりました。最終的には日本の選手は根負けしてしまう場合が多かったようです。
 それに対し、荻村はチャンスを待つのではなく、51%決められる確率があるなら早く勝負に出るべきと考えたのです。ミスはあっても、それ以上に点を取ればよいという考えです。それは確かに論理的な試合運びではありましたが、日本人的な発想では受け入れがたい作戦です。
「現代の卓球はスピードがすべてに優先する。勝負を左右するのは命中率ではなく、命中した場合の致命率すなわち得点率である。すべてのラリーを自分のスマッシュで終わることにしてこの命中率51%であっても、そのジュース後に自力で勝てる。・・」
荻村伊智朗「卓球物語」より

 当初、彼のこの戦法は監督、コーチから危険すぎると受け入れられませんでした。しかし、ヨーロッパの強豪ハンガリーとの試合の際、彼はチームメイトの富田にカットマンの強敵に対し、フォアでまともに打ち合っていては体力負け、根負けしてしまうと説明。51%理論で積極的に攻撃に出ようと進言します。富田も荻村の作戦に従って試合を行い、前回大会の三冠王シドに個人戦で二人ともに勝利をおさめ、見事にハンガリーとの団体戦を制しました。積極的に攻撃してくる日本の戦法にハンガリー・チームは、冷静さを失い混乱してしまったのでした。
 この試合の勝利で勢いに乗った日本チームは、その後、強豪のイギリス、チェコを撃破し、団体戦で男女共に優勝。個人戦でも荻村が世界一となります。荻村は古橋広之進、湯川秀樹に次ぐ世界的ヒーローの仲間入りを果たしたのです。

<世界選手権ユトレヒト大会1955年>
 帰国後、彼は一躍有名人となり取材が殺到します。しかし、その合間を縫っての練習はそれまで以上に困難なものとなり、疲労が蓄積。彼は全日本選手権ではベスト8で敗退。その後、高熱を出して倒れ「急性肝炎」と診断されてしまいます。当時、世界選手権は毎年行われていたため、1955年の世界選手権ユトレヒト大会に彼は体調不十分のまま出場。団体戦こそ優勝したものの、個人戦では5回戦で敗退してしまいました。(個人戦の優勝は田中利明選手でした)
 オランダでのこの大会でも日本チームへのブーイングは続いていました。インドネシアなど南太平洋の植民地をオランダは日本軍に奪われ、多くの兵士が殺されただけにオランダ人の反日感情は激しいものがありました。ただし、この大会でひとつの事件が起き、それがその後の荻村の人生に大きな影響を与えることになりました。
 ハンガリー対日本の試合で、右手に障害をもつセペシという選手がボールを追って、日本チームのベンチに突っ込んでしまいます。その時、日本の選手たちは身をよけるのではなく、あえてセペシ選手の下敷きになり彼が怪我をしないように対応したのです。
 この場面でオランダ人の観客は日本チームの行為に大きな拍手を送り、翌日の新聞も大きく取り上げて、大きな話題となりました。この後、大会期間中の日本チームへのブーイングは明らかに減っていったといいます。帰国後にその事実を知った荻村は、後にこう記しています。
「”スポーツ外交”というか、”民間外交”の果たす役割が大きなものであること、自分たちもその役割をになっているのだということを、心にしみて感じたのはこのときです。卓球を続けることに、またもう一つの生きがいをおぼえたのでした」

<世界選手権東京大会1956年>
 1956年、いよいよ日本の東京で世界選手権が開催されることになりました。参加は20か国で166人の選手たちが出場。それほど大きな規模ではなかったのですが、日本にとっては当時最大規模の世界大会として皇太子殿下も観戦することになっていました。この大会、日本男子は団体戦で3連覇を達成。さらに個人戦ではなんとベスト4がすべて日本人となり、決勝戦では荻村が勝利をおさめました。荻村は富田と組んだダブルスでも優勝。この大会で文句なしに日本は世界最強の卓球王国となりました。日本では卓球ブームが巻き起こり、卓球人口は300万人に達していたといいます。
 1957年のストックホルム大会でも男子は団体戦で4連覇。荻村は江口富士枝と組んだ混合ダブルスで優勝。個人戦は田中に敗れての準優勝でした。
 この時期の荻村のプレーについて、「週刊朝日」の記者はこう書いていました。
「彼は全くほれぼれした完璧な円熟した卓球をやる。融通自在、1cmに近い分厚いスポンジを張ったバットからくり出される、華麗な速球、殺し球、回転球。・・・そして最後の破壊力のある決定的なウイニング・ショット。そのどの一本、一本にも味がある。たかがピンポンじゃないか、とおっしゃる向きがあるかもしれない、しかし、私は思う。昔の剣豪にも比すべき名人の境地に達していると・・・。」

 1959年、世界選手権ドルトムント大会(この年から隔年開催となりました)荻村は男子団体5連覇に貢献。さらに村上輝夫とのダブルス、江口富士枝との混合ダブルスでも優勝し、三冠を獲得しました。しかし、この大会で男子の個人では中国の容国団が優勝。新卓球王国となる中国の活躍はここからすでに始まっていました。
 さらにこの大会以降、スポンジラバーの使用禁止が決まります。これは明らかに日本に不利になるルール変更でした。しかし、日本に対する評価は高く、荻村にスウェーデンから代表チームのコーチに招かれました。ここから彼の海外での活躍が始まります。

<世界選手権北京大会1961年>
 1961年、中国で行われた大会で男子団体はついに連覇を阻まれました。荻村は松崎キミ代との混合ダブルスを制しますが、これが彼にとって最後のタイトルとなりました。この大会からいよいよ卓球界は中国の時代に入ります。そんな中国チームに対し、荻村は大会後の記者会見で、そのマナーの悪さを指摘。世界チャンピオンとしての自覚をこれからは持ってほしいと苦言をていしました。この言葉は中国の選手たちにも大きな影響を与えることになりました。

「選手である前に私たちはまず一人の人間である。人間の社会には政治がつきものであることはだれも疑うことのできない歴史的事実ではないか。まず知らなければならないことは、「スポーツと政治は関係ない」という言葉は、使う人が意識するとしないにかかわらず、たいへん政治的な発言だということだ。」
荻村伊智朗

 北京大会終了後、荻村は中国の周恩来首相から直接、中国卓球チームのコーチ就任要請を受けます。日本が戦後、スポーツによってその活力をよみがえらせたように中国も卓球によって発展のきっかけをつかみたい。そうした考えがあったようです。荻村もその思いに答えようとコーチを引き受けました。そこで彼が感じたのは、国家事業として卓球の選手強化にあたる中国の強い姿勢でした。このままでは、中国に日本は勝てなくなるかもしれない。そんな不安は、1963年のプラハ世界選手権で現実化します。

<世界選手権プラハ大会1963年>
 1963年のこの大会で日本は中国に1-5で完敗。個人戦はベスト4すべてが中国という結果になりました。ここから中国の黄金時代が始まることになります。この後、荻村は選手兼監督として日本チームを指導し始めます。その厳しい練習は伝説となりましたが、1965年のリュブリナ(ユーゴ)大会でも日本は中国に敗れてしまいます。(優勝は女子の深津尚子だけでした)
「画家はキャンバスに絵筆で、バイオリニストは音で宇宙を表現する。俺たちは宇宙を表現するんだ」
「俺たちはただ勝つために卓球をやるんじゃない。人間の文化を向上させるために、ラケットを振るんだ」

彼の言葉は、少々難しすぎたかもしれません。
 この後、彼は現役を引退し、ヘッドコーチとして日本チームの指導に専念します。

<文化大革命の衝撃>
 1966年、北京で開催された国際大会を訪れた荻村は、中国で起きていた文化大革命の現場を目撃します。芸術家やインテリなどエリート階級の追放を行っていた中国政府は、卓球にまでその矛先を向け、1967年のストックホルム大会に中国は出場を辞退せざるをえなくまります。エリートとして迫害の対象となった卓球選手たちは、栄光からどん底へと突き落とされます。ついには中国初の世界チャンピオン、容国団までもが首つり自殺を遂げ。他にも何人もの選手が自殺に追い込まれました。
 中国不在の大会で日本は7種目中、6種目を制しましたが、荻村は帰国後、ヘッドコーチを辞任し卓球協会からも離れます。天才であるがゆえに彼は卓球協会内部で孤立していたのです。しかし、1971年の世界選手権名古屋大会で、再び彼に大きな仕事が巡ってきます。
 それは中国を大会に復帰させることでした。荻村は中国チームの選手たちと付き合いがあったこともあり、なんとか彼らに復帰をチャンスを与えようと名古屋大会への参加を周恩来に依頼します。
「今の情勢を見ると、卓球というスポーツで国際社会への扉を開くのがあなたたちの国にとって最良の方法ではありませんか。
 名古屋で開かれる世界卓球選手権大会に出場すれば、社会主義国だけでなく、アメリカやヨーロッパを含む世界中の交流が回復できるはずです」
 その後、彼は中国を訪れると周恩来に直接会いついに出場の約束を取り付けました。

<世界選手権名古屋大会>
 1971年、荻村の努力もあり、中国が大会に復帰。ブランクを問題にせず見事に男子団体での優勝を果たします。日本チームにとって、それは喜ばしいことではなかったのかもしれませんが、この快挙はさらなる歴史的事件のきっかけを産むことになります。
 大会5日目、会場に向かう中国選手団のバスに、間違ってアメリカ・チームのグレン・コーワンという選手が乗り込んでしまいます。すると中国チームの荘則棟が握手に応じ、バッグの中から杭州製の織物を出してプレゼント。それに対して、コーワン選手は後日Tシャツを持って中国チームを訪問しました。この一件は「米中接近」として世界中に報道されました。すると今度は、アメリカ選手団のハリソン副団長が中国チームを訪れ、アメリカ代表チームを中国に招待してほしいと依頼。これを中国側が受け入れアメリカチームの訪中が実現します。有名な「ピンポン外交」は、ここから始まり、米中正常化が一気に実現することになります。

「ひところは政治活動に力を集中しなければならず、外交がおろそかになった。続いて極左の誤りを正すのに力をとられた。今は外交攻勢を展開すべきときだ。ピンポン外交はわれわれの外交姿勢の一環だ。ピンポン球が弾んで世界を揺り動かした。小さな白い球が地球を動かしたのだ」

周恩来

<国際卓球連盟会長>
 1987年、荻村はそれまでの実績を買われ国際卓球連盟(ITTF)の会長に選出されました。1973年に理事となって以来、彼は世界各地に卓球を広める活動を続け、現役時代の実績以上の結果を残し、こうした国際的スポーツ連盟におけるアジア人初の会長に文句なしに選ばれたわけです。
 1991年、千葉の幕張で世界選手権が開催されました。この大会の出場国数は108か国に増えたいました。しかし、ここで彼は再び大きな仕事に挑みます。彼は戦後初めて韓国と北朝鮮の合同チームによる大会参加実現のために奔走したのです。今思えば、21世紀に入ってからの北朝鮮の暴走ぶりからはありえない挑戦のように思えますが、彼は両国のメンツを立てながら見事にそれを実現してしまいました。それだけではありません。南北朝鮮合同チームは、9連覇がかかっていた中国女子チームを破り、世界一の座についたのです。大会中、合同チームへの応援は大変なものだったようです。この偉業は、ノーベル平和賞ものだと思います。

「自分たちの苦闘というものが、ほんの小さいながらも人間の変化に少しでも輝きを増させる。そういう歴史の中に生きているんだという考えがあれば、かなりの苦しさにも耐えていけると思う。僕は勝っても負けても、そういう気持ちでやってきた。・・・」
荻村伊智朗

 1994年12月4日、彼は肺がんでこの世を去りました。まだ62歳だったので、まだまだやりたいことがあったようです。
 彼は自らの出発点となった「武蔵野卓球場」のオーナー上原久枝に送った「武蔵野卓球場賛歌」にはこうあります。

天界からこの蒼い惑星の
いちばんあたたかく緑なる点を探すと
武蔵野卓球場がみつかるかもしれない
・・・

 なんという素敵な詩。小さなピンポン球をあやつる天才、荻村伊智朗は緑の惑星、地球を宇宙から見下ろす視線を持ち合わせる天才でもあったのです。そして、母親がかつて夢見ていた外交官以上の仕事を成し遂げてこの世を去ったのです。
 誰よりも練習し、誰よりも研究をおこたらなかった彼は他人に優しくしたり、会議で妥協したりすることのできない不器用な人物でした。それでも、彼が尊敬され、信頼もされていたのは、彼の眼差しが遥かな未来の理想像を見すえていたからであり、その目標に多くの人が賛同したからなのでしょう。

「スポーツに大きな転機が訪れるのは、21世紀を待たなければならないだろう。そのころ、卓球の世界選手権大会もナショナリズムや金杯主義から自由になり、国旗や国歌を使わず、国籍も問わない元の姿に戻るかもしれない。遠くの方にそんな灯りが見える気がする」
荻村伊智朗

 21世紀、荻村さんが目指していた世界は、もしかすると当時よりも遠くなってしまったかもしれません。でも、彼のように地球を宇宙から見下ろすような視点を持つ人は、確実に増えている気がするのですが・・・。あなたもまたその一人ではないですか?

<最後に>
 僕は小学校時代、ピンポン大好き少年でした。最初は家のテーブルをつなげてミニ卓球台を作って弟と遊んでいました。その後、我が家に本物の卓球台が登場し、すっかり卓球にはまってしまいました。にもかかわらず、荻村さんのことは知りませんでした。
 偶然、図書館でこの本のタイトル「ピンポンさん」を見かけ、表紙の写真の荻村さんのモノクロ写真に「かっこいい」と一目ぼれ。さらに裏表紙に写っている優しそうなおばあさんを見て、これって傑作卓球アニメ「ピンポン」のおばばか?と思いさらに興味をもちました。表紙の装丁を担当した緒方修一さんお見事でした。もちろん、城島充さんの熱い文章にも星五つです!

<参考>
「ピンポンさん 異端と自己研鑚のDNA」 2007年
(著)城島充
講談社 

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