「泥の河」

- 小栗康平 Kouhei Oguri -

「泥の河」
 1956年の高度経済成長に乗り遅れた大阪の下町を舞台に、一人の少年の成長を描いたモノクロ映像による80年代を代表する傑作。(新聞記事に「もはや、戦後ではない」という有名な言葉が載っていて印象的です)
 川のそばで小さな食堂を営む父(田村高広)と母(藤田弓子)に育てられた少年(朝原靖貴)は、ある日川につながれた船に住む少年とその姉と知り合い、友達になります。(船で売春を行う二人の母親役加賀まり子がまた実に色っぽい!))戦後、まだまだ人々が貧しかった時代、大阪には家をもたない船上生活者は多く、その最下層に位置していました。そんな境遇に生きる少年と出会った少年が、彼らとの出会いと別れによって成長する姿が子供たちの名演技と大人たちの好演によって見事に描き出され、激しく泣かされます。そこにはあざとい「泣かせ演出」はなく、淡々と日常を描いているだけにより深く見る者を感動させました。主人公の少年もまた父親がかつて現在の母親と不倫の末、別れた後で生まれた子であることを知り思い悩む少年だったことが、物語により深い味わいを加えています。
 僕は主人公の少年のランニング姿が今でも目に焼きついて離れません。うちの子がランニング・シャツ姿で遊んでいるのを見ると、ふっと思い出します。男の子のランニング姿って、妙に懐かしく感じるのは、もしかすると50年以上前から変わらない子供たちの夏のファッションだからかもしれません。今も昔も、暑い夏、子供たちは金持ちも貧しい子もみんなランニングシャツ姿だったのです。
 ひさしぶりに見て、また泣かされました。主人公の少年が「キチャアーン!」と叫びながら船を延々と追いかけるラストシーンは、本当に思い出しただけで泣かされます。今回、改めて気づいたのは、お姉ちゃん役の女の子の演技が素晴らしいいことです。少年二人は、そのままの子供らしい演技ですが、お姉ちゃん役は子供というよりも大人の役。演技力らくして無理だったと思います。彼女の存在の素晴らしさに感心しました。

<小栗康平>
 デビュー作でありながら、国内で様々な賞をとったこの作品の監督、小栗康平とは、いかなる監督なのでしょうか?
 彼は1945年10月29日群馬県前橋市で生まれています。世代的には、まさに「泥の河」の主人公と同世代ということになります。高校時代にアンジェ・ワイダ監督の名作「灰とダイヤモンド」を見た彼は映画にのめりこむようになります。早稲田大学に入学した彼は、サークルの先輩だった大和屋竺 監督の撮影現場に参加。卒業後、脚本家の馬場当(「復讐するは我にあり」など)のもとでシナリオ・ライターの修行を積みフリーの助監督として働き始めました。
 彼が参加した作品としては、ATGの名作「心中天網島」(篠田正浩)、五木寛之原作の大作映画「青春の門」(浦山桐郎)、ジャパン・ホラーの原点「HOUSE/ハウス」(大林宣彦)などがあります。

<デビュー>
 1980年、宮本輝の小説「泥の河」を脚本化し、それを映画プロデューサーの木村元(「曽根崎心中」「大地の子守歌」など)に持ち込み、映画化のチャンスをつかみました。しかし、完成後、モノクロの低予算映画で人気スターも出演していない地味な映画ということで、この映画は自主上映での公開となりました。
 ところが、公開後、この映画は口コミでその素晴らしさが広がり、各地で高い評価を得てゆき、ついにメジャーの配給で公開されることになります。(配給の東映セントラルは、小規模映画を公開するために東映が作った会社)
 日本の映画界にとって、当時は興行的に最悪の時期で角川映画のように巨額の宣伝広告費を投入しなければ映画はヒットしないと思われていた時代でした。そんな中、低予算で作られた映画が口コミでヒットしたことは、多くの映画人たちに勇気を与え、日本映画の復活に大きな意味をもつことになりました。

 「泥の河」のように私小説的な原作を私小説的に描く彼のスタイルは、様々な面で寡作にならざるをえません。題材となる作品を探すのも大変でしょう。地味な内容であるために、映画製作のための資金集めも困難にならざるをえません。そこで彼は企業や自治体からの出資を地道に集め、手作りに近い形で映画製作を行い続けることになります。それだけに、彼の作品の質は高く、海外での評価も日本以上に高いといえるかもしれません。

<その他の作品>
 1984年の「伽耶子のために」は、在日朝鮮人の青年(呉昇一)と在日朝鮮人と日本人の夫婦によって養女として育てられた女性(南果歩)の恋を描いた李恢成の小説を映画化したもの。(注)「耶」にはニンベンがつきます!
 1990年の「死の棘」は、作家である夫(岸部一徳)の不倫を知った妻(松坂慶子)が精神を病み、家庭が崩壊。その再生までを描いた島尾敏雄の私小説を映画化したもの。
 ここまでの3作品は、どれも同じ1950年代を舞台にした作品で、彼が思春期を送った同時代の日本人の生き様を描いた作品でもあります。

<海外での評価>
 彼はデビュー作の「泥の河」でモスクワ映画祭の銀賞を受賞。すぐに海外でも有名な監督となり、「伽耶子のために」では、フランスのジョルジュ・サドゥール賞を受賞。「死の棘」は、カンヌ映画祭で審査員特別グランプリと国際批評家連盟賞を受賞しています。
 1996年に初のオリジナル脚本作品として発表された「眠る男」でもモントリオール映画祭審査員特別大賞、ベルリン映画祭国際芸術映画連盟賞を受賞。どう考えても彼は海外の方が評価が高いといえそうです。
 「眠る男」は、群馬県が人口200万人突破を記念するプロジェクトのひとつとして彼に出資をして映画製作が実現した異色の地方映画でもありました。
 地方を舞台に、その地方の活性化も狙った企画は、その土地から資金面でのサポートを得られるだけでなく、様々な協力を得られることから、どちらにとっても大きなメリットがあります。続く第五作の「埋もれ木」(2005年)は、そうした映画の先駆けともいえる作品で、三重県鈴鹿市で集中的に撮影された作品でした。
 娯楽映画以外の映画を撮ることが、非常に困難な時代に「質」で勝負を挑み、さらにそこに地方の人々の映画への情熱を注ぎ込むことで、コツコツと映画を撮り続ける貴重な映画監督。日本映画の復興は、こうした「質」にこだわる監督の存在ぬきにはありえませんでした。


「泥の河」 1981年
(監)小栗康平
(製)木村元
(脚)重森孝子
(撮)安藤庄平
(原)宮本輝
(音)毛利蔵人
(配給)東映セントラル
(出)田村高広、藤田弓子、朝原靖貴、加賀まり子、桜井稔、柴田真生子

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