日本漫画界の父となり、太陽の塔の祖父となった男

- 岡本一平 Ippei Okamoto -
<知られざる漫画家>
 漫画家、岡本一平、写真で見るとかなりのイケメンです。彼は、「太陽の塔」の生みの親となる岡本太郎の父親であり、漫画家として成功した最初の人物とも言われます。しかし、彼がどんな人生を送ったのかは僕もほとんど知りませんでした。
 彼が発表した作品を集めた全集「一平全集」は、当時としては破格の5万部を売り切り、彼はその印税として現在の金額に換算して30億円!相当を得たといいます。当時、彼の名前は総理大臣の名前よりも知られていたといいますが、あり得るかもしれません。ではなぜ、息子の岡本太郎に比べると、父親の知名度は低いままなのでしょうか?
 もしかすると、その最大の理由は、彼が小説家ではなく、漫画家だったからかもしれません。
 彼が朝日新聞に漫画を連載していたのと同じ時期、同新聞には夏目漱石の小説も連載されたいましたが、同僚とも言える一平の作品を夏目漱石は高く評価していました。ところが残念ながら、彼の名は漱石のように歴史に名を残すことはありませんでした。それは、偉大なる文学者、夏目漱石と大衆漫画家とでは、同じ芸術として比較することなどできるわけがない、そう思われていたからです。
 ただし、そうした評価の違いに対して、彼は不満を持っていたわけではなかったかもしれません。なぜなら、彼は夏目漱石よりも経済的には恵まれていたし、有名人でもあったし、芸術家と成功する息子にも恵まれていたのですから。
 「漫画」が芸術の一ジャンルとして認められるようになった21世紀の今、彼の再評価が行われるようになりつつあります。日本の漫画における最初の成功者ともいえる人物、岡本一平とはいかなる人物だったのでしょうか?

<岡本一平>
 岡本一平が生まれたのは、1886年6月11日北海道の函館でした。父親はプロの書家で、彼が生まれてすぐに東京・京橋に引っ越します。絵心もあった彼の父親は、早くから息子の絵の才能に気が付き、小学校に入学するとすぐに絵画を習わせ始めました。ただ、その頃、当の本人は絵を描くよりも文章を書いたり、本を読む方が好きだったようです。それでも、しだいに絵を描くことに魅力を感じるようになった彼は、東京芸術学校の西洋絵画科に入学します。
 ところが、当時の東京芸術学校には、同期に藤田嗣治など優秀な画家が多かったこともあり、画家として生きることを早々とあきらめます。そして彼は帝国劇場の舞台背景を描く仕事など、画力を生かした職につきますが、同じ頃、彼は太郎の母親となる女性、かの子と結婚。家族を養うために収入を増やしたかった彼は、朝日新聞の挿絵を描くアルバイトを始めます。すると、当時社会部の部長を務めていた渋川玄耳が一平の絵の才能に注目。正社員として彼を雇うと、絵を描くだけでなく取材や文章も含めた漫画記者としての仕事を与え、連載企画を担当させるようになります。すると、彼の連載記事は読者の間で人気となり始めます。彼がこの時始めたスタイルは「漫画漫文」と呼ばれました。

<漫画記者>
 例えば、当時、彼が担当した中のヒット企画として、都市伝説的な存在だった有名な芸者「富田屋の八千代」とはいかなる人物なのか?その正体に迫る!という連載企画がありました。
 彼はその「八千代」に会うため調査を始めますが、老舗料亭の「富田屋」は「一見さんお断り」なため、簡単には会えそうもありませんでした。そのため、連載企画では、彼が富田屋に潜入する過程を第5回まで描いたのち、6回目にやっと八千代が登場することになります。なかなか正体が明かされない「八千代」の正体が知りたくて、読者は毎号楽しみに待つようになりました。その企画には、オチまでついていました。ついに彼が八千代に会ってみると、実は彼女はそれほど美人ではなく、男のようなガラガラ声だったというのです。
 彼の漫画記事は、一枚の絵とその解説の文章からなり、風刺的ではあっても、ユーモアにあふれ、多くの人に愛されていたようです。彼を朝日新聞に推薦した夏目漱石は、彼の作品について、風刺の鋭さがありながら、そこに残酷さがないところが魅力だ、とほめていました。

<不思議な家庭環境>
 1911年岡本太郎が生まれたのは、こうして彼の仕事が軌道に乗りだした頃でした。彼の子育ては、当時の父親としては珍しく、子供を自分の友人のように扱い、決して自分に従わせようとはしなかったといいます。同居人として、彼を一人前の人間として常に扱っていたのです。そして、それは彼の妻との関係についても同様でした。
 1915年の終わり、岡本家に事件が起きます。歌人として活躍していたかの子(当時26歳)が、彼女の短歌のファンだったという大学生と恋に落ちてしまったのです。それを正直に告げた妻も妻ですが、それに対して一平(当時29歳)はどうしたか?
 彼はなんとその学生を家に住まわせてしまったのです。外で不倫されるよりもましと考えたのでしょうか?
 どうやら、不倫の原因は一平にもあったようで、それ以前に夫婦の間にはすで愛が失われていたようです。だからこそ、一平は二人の関係を許せたのかもしれません。(嫉妬はなかった?)その後、二人はキリスト教や仏教など宗教に救いを求めるなど悩み続けますが、結局、離婚することはなく、死が二人を分かつまで夫婦であり続けることになります。

<四コマ漫画の誕生>
 岡本一平が「元祖漫画家」と呼ばれるのは、彼が様々な漫画のスタイルを生み出したからです。
 彼が漫画を描き始めた当時、漫画家の仕事は、新聞や雑誌のために風刺画を描くことでしたが、そこにストーリー性は求められていませんでした。その絵に添えられるコメントも、漫画家ではなく記者が書いていたようです。しかし、彼はいち早く自分自身でコメントを書くようになり、そこに「起承転結」を持ち込もうと考えます。そのために、彼は絵を4枚に増やし、それぞれにコメントを加える「四コマ漫画」のスタイルを生み出したわけです。
 「映画小説 女百面相」(雑誌「婦女界」1917年)はその代表作でした。「映画小説」と名付けられているように、コマが映画のフィルムのように縁どられていて、明らかに映画を意識しています。当時、映画は新しい娯楽の主役として急激に広まりつつあり、一平は映画の物語展開を真似て、その短縮版を描いたといえます。
「クローズ・アップ」
 カメラを近づけるように登場人物をアップで描く手法の導入により、顔や物の一部を強調することが可能になりました。
「視点の移動」
 人物を下から見上げるように描くことで犬や子供の目線で人間を描いたり、「視点」を移動させることで物語の主観を変えることが可能になりました。
「俯瞰による描写」
 視点を離し、その場を俯瞰で描くことで、読者の視線を登場人物や背景全体に向かわせる手法。
 こうした、様々な漫画の手法を使い始めたのも、岡本一平だったと言われます。
「子供向け漫画」
 1918年、彼は子供向けのストーリー・マンガ「平気の平太郎」を発表しています。当時は、まだ子供向けの漫画は珍しく、絵付の童話ばかりだったのですが、7歳になった息子、太郎のために描いたともいわれます。
「東京漫画会」
 彼は仲間たちと「東京漫画会」を設立。これはその後、日本漫画会へと発展。漫画家たちの地位向上に向けた運動の中心となって活躍することになります。

<関東大震災>
 1923年(大正12年)9月1日11時58分、関東大震災が起きました。この地震により、10万人の人が亡くなり、190万人もの人が被災しています。
 その日、岡本家は家族3人で鎌倉に出かけていましたが、鎌倉でも多くの家が倒壊。その惨状に衝撃を受けた一平は、太郎も含めて多くの子供たちが受けた心の痛みを和らげようと子供雑誌「コドモノクニ」に「鼻なめ先生」などの作品を発表しています。
 そうした危機の中、日本の経済復興が進む中で、彼の漫画はさらに人気を増してゆき、1929年、そこまでの彼の作品を集めた作品集「一平全集」が刊行されることになります。全部で15巻という大作でありながら、この全集は予約だけで5万部を売り上げます。そして、その印税を元手に彼は家族3人でヨーロッパへと旅に出ます。

<アルプス・スタンド誕生>
 彼のそうした新鮮な描写の手法は漫画だけに生かされたのではありませんでした。1929年、当時最大の人気スポーツだった野球を観戦するため改装オープンしたばかりの甲子園球場を取材。このときに増設された新しいスタンドの絵を描いています。そして、その絵に添えた文章の中で、巨大なスタンドに座る白いワイシャツの観客たちがアルプスに積もる雪のように見えると表現。これがきっかけで、新しいスタンドには「アルプス・スタンド」という愛称がつけられることになりました。(当時、庶民の夏のお出かけ用の服装といえば、誰もが「白いワイシャツ」でした)
 これが今も残る「アルプス・スタンド」の名前の由来です。(最初の「アルプス見たい!」と言ったのは、岡本太郎だったようですが・・・)

<ヨーロッパ旅行以降>
 まだ日本人が海外旅行をするなど夢の夢だった時代、日本人がそれも子どもづれでヨーロッパを3年がかりの旅をしたのですから驚きです。そのうえ、息子の太郎はパリに残り、8年間かけて絵の勉強を続けることになります。どれだけお金がかかったことでしょうか!彼らは、1920年代の終わり、世界恐慌が始まる前の最も華やかだった時代のヨーロッパを見た数少ない日本人となりました。あのスコット・フィッツジェラルドも同じ頃、パリにいたはずだし、ピカソやコール・ポーターとすれ違ったかもしれません。
 ヨーロッパの旅で様々な刺激を受けて帰った彼は、帰国後はより洗練された絵を描くようになり、妻のかの子は、活躍の舞台を小説に移し、作家としてさらなる成功を収めます。しかし、1939年、彼女は脳溢血でこの世を去り、一平は大切なパートナーを失うことになりました。
 その後、彼は「一平塾」を主宰し、多くの漫画家を育てました。日本漫画家協会の初代理事長の近藤日出造、黄桜酒造のカッパの絵で有名な清水崑、「ハナ子さん」シリーズの杉浦幸雄、そして「フクちゃん」で有名な横山隆一らが、塾の生徒でした。
 漫画家として様々な面で大きな影響を残した彼は、1948年10月11日62歳でこの世を去りました。
 彼の死後、22年たって、息子の太郎は大阪万国博覧会の太陽の塔で世界的なアーティストとして世界中にその名を知られるようになり、さらにそれから40年後、日本の漫画はヨーロッパで大人気となります。

<参考>
BS朝日放送 コドモノクニ「夏目漱石が絶賛した漫画家 コミック漫画の草分け 岡本一平」.

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