思わずうなりたくなるお言葉の倉庫

- 様々なジャンルの名言集 -
 このコーナーは、今のところ使う場所が見つからず、かと言って忘れてしまうのはもったいない「名言」の数々を保管するための場所です。今後、少しずつ増えると思いますが、あくまでもここは収納庫なので、ちゃんと整理されていませんが、ご勘弁下さい。

<取上げているテーマ>
芸術・創作 笑い 大災害 人生 人間・人類文明・歴史  知能・ロボット 言語・コミュニケーション  会社・企業 テレビ グローバリズム IT革命・ゲーム 戦争  犯罪・事件
心理学・幻覚 多重人格 生と死  世代 記憶 世界認識・神 未来 人物 日本・日本文化 革命   その他
宇宙とは? 対称性と世界  人類とは? 宗教について

<その他のお言葉については>
文学に関するお言葉 スポーツについてのお言葉 音楽についての名言集 映画について 20世紀経済危機


<芸術・創作・アウトサイダー>
<芸術>
「芸術に進歩などない、ただいろいろな形があるだけだ」

マン・レイ

<芸術のスタイル>
「人が新しい形を発見し、展開するとしたらそれは形式ではなくて”作った人が形なのだ”ということで、これは重要です。
・・・批評家はいつも形というものを考えていて、私は書くことを考えているのです!」

ガートルード・スタイン「インタヴューズ」より

<アウトサイダーとは?>
「・・・アウトサイダーとは自由でありたいと欲する。健康な精神をもった、生まれたままの人間にはなりたくない。そういう人間は自由ではないからだ。人がアウトサイダーかどうかは、自由を求めるかどうかで決まる。生まれた人間につきまとう「束縛」は何にとって見分けられるか?非現実、とアウトサイダーは答える。要するにこういうことだ。アウトサイダーが何になりたがっているにせよ、その新しい在り方は現実に対する認識のかたちによって特徴づけられるであろう。」
コリン・ウィルソン「アウトサイダー」より

<芸術批評とは?(小林秀雄)>
 彼は二流の芸術家たちは相手にしません。一流だと思われる芸術家の創造の秘密の中に入っていって、そこで起こっていることを意識化し、言語化して表現する。それは芸術家本人にはできない芸当です。そのかわり芸術家には無意識の技術がありますから、これを色彩やキャンパスやマッスの形に変換することが可能です。僕はこの二つは同じものではないかと思っていて、そういう意味では小林秀雄さんが文芸批評という形で創り出したんものは、詩や音楽と同等です。
中沢新一「惑星の風景」より

「自分がまだ小説を書かずにいるのは、書くべき登場人物を発見できずにいるからだ」
ロラン・バルト

「わたしたちが生きるこの世界を、どのように形成し、現実化するか。それは、進化するプロセスとしての彫刻なのです。人間は皆それを造る芸術家なのです」
ヨーゼフ・ボイス Joseph Beuys

「かくのごとくなり得ぬと知っても、深く深く渇望すれば、あり得る、にまで到るのが芸術の飛躍である」
埴谷雄高 Yutaka Haniya

「インターネットで簡単にコピーされて著作権が侵害されるなんて言ってるけど、いまの音楽や映画の業界自体が二十世紀前半の財産をかすめ取ったようなもんだと思うんだよね」
保坂和志「カンバセイション・ピース」より
(確かにその通りだと思います。本当にオリジナルと胸をはって言えるものが世の中にどれだけあるか?)

「歌もそう。踊りもそう。スポーツもそうかもしれない。最高のものっていうのは、観た人に歌ってみよう、踊ってみよう、あの選手のプレーを真似してみうようって思わせるものだと思うんです。どんなに上手くてもきれいでも、観た人が”自分もやってみよう”って感じないようだったら、それは最高のものじゃない。・・・」
松本幸四郎(歌舞伎役者)「21 世紀を超える神々たち」金子達仁

「僕なんかの低レベルならまだいいんです。やれること、やらなきゃいけないことっていうのがたくさん残っていますし、やって来た先輩たちの姿も見てる。でも、いつか先輩たちが引っかかってるところ、この先自分でなにをやったらいいかわからないって境地に達した時に、僕も進めなくなってしまうんじゃないか。先に進もうという努力じゃなくて、できることの再確認っていう作業に逃げ込んじゃうんじゃないか。そういう恐怖はすごくあります。」
春風亭小朝「(落語家)21 世紀を超える神々たち」金子達仁

「歌舞伎を見ててもクラシックを聞いても、壁を越えられなくてもがいて人っていうのはたくさんいるんです。もうね、笑っちゃうぐらいにたくさんいる。で、みんな横へ、横へと行こうとしてるのがよくわかる。僕だって、しょっちゅうそういう衝動に駆られていますからね。だけど、もし横へ逃げて、楽をして壁の向こうに行けたとしても、自分の中に負い目が残ってしまう。・・・」

春風亭小朝「21 世紀を超える神々たち」金子達仁

「非常に流行りにくいスタイルだし、ビデオやCDで再生できないから金銭的にもすごくしんどい。だけどその反面、仮に明日、この街が廃墟になったとしても、誰かがここに立って踊り始めれば演劇が成立し始めるわけで、そういう意味からすると、一番滅びにくいものだとも思うんです」
野田秀樹(演出家、俳優)「21 世紀を超える神々たち」金子達仁

「映画だけでなく文化全体の問題としてもジェット機のとびかう今日、民族芸術などなくなるのがあたりまえです。日本とアメリカが同じような映画をつくるというだけでなく、近い将来には、世界の映画が画一的になることだって考えられます。限られた表現形式をもつ芸術は個性というものを失う方向にゆくのがおそらく宿命でしょう。」
小川徹(映画評論家)

「わたしが仕事を始めたころの時代には、作り上げたものは長くもつようにと期待されていたものだった。でなければ、真面目に受け取られることはなかっただろう。今日でもわたしは仕事を続けているが(なかなか時世に適合できないままに)、時代は逆になり、ものを作るときには、早く消費されることこそが期待されるようになってしまった。」
ピエル・パオロ・パゾリーニ(映画監督)

「おわかりですか。私はかつて私であった子供が成長して今日の私になったというふうに考えていません。この子供であった私は今でもどこかに、最も生彩を放ち、弾力性を帯び、しかも具体的な形をとって生きているのです。私はいつも彼のことを心配し、彼に関心を抱いています。私はいつも彼と交信するか、しようと試みています。私はいちばん怖れるのは彼との接触を失いはしないということです」
モーリス・センディック(絵本作家)

<舞踏>
「舞踏とは、命がけで立っている死体である」
土方巽「遊動亭円木」より
<笑い>
「コメディって、凄く論理的なものだと思うんですよ。感覚では絶対にできないもの。たとえば、お笑いの間ってあるじゃないですか。あの間も、本来は数学的なものじゃないかって。みなさん、感覚的に間を作られているような気がするんですが、実際に分析すれば、このセリフの時に一番面白い間は0コンマ何秒だっていうのが法則的にあるような気がして。笑いというのは、すべてにおいてそういうものじゃないかと思うんですよね。コメディにしても、大事なのはいかに論理的に構築していくかということ。・・・」
三谷幸喜「21 世紀を超える神々たち」金子達仁

「なぜ笑いは人間にとって最も高等な感情かは、生まれた直後の赤ん坊を見ればわかる。最初、彼らは泣き、母親の乳をもらって安らかな眠りに入る。笑顔を見せるのは、人間が持つ様々な感情すべてを表現し尽くした後になる。笑いは、人間が最後に習得する感情だからこそ高等なのだ、と言われる。」
金子達仁「21 世紀を超える神々たち」

「・・・どうしてそんなにいつもお笑いのことを考えられるんですかって言われると、魚は泳ぐだけっていうのがあって、泳げない人間が魚を見た時、どうしてそんなに泳げるんですか、って聞かない。おいら、お笑いに関しては魚かなって感じがある。努力とかのレベルじゃないっていうかさ。なんかの病気みたいなとこあるよね。お笑い病にかかっちゃったりして。だから病気にってないやつはね、この世界に入らない方がいいと思う。おいらだって病気にかかって、なおかつ悩むわけだから。」
ビートたけし対談集「頂上対談」より

<横山やすし>
「横山やすしさんは練習嫌いで有名だった。やっさんのすごいところは、私生活で練習するんだよね。オレと会うじゃない?『オラったけし!なにしてんじゃわれーっ』って突込みがすごい。あの人にはそれが練習だった。だからきよしさんと二人で合わせなくったっていいんだよ。・・・」

ビートたけし対談集「頂上対談」より

<松本人志>
「漫才ブームのあとの人たちだから、いい意味でおたく的になってる。おいらたちのころの幅の広い本流があって、もっと荒っぽかったんだけど、今の時代は、それがなくなってしまっているだろう。その支流のひとつを完全に自分の世界にしたことがすごいんだね。毛細血管になってしまったところのスターだと思う。」

ビートたけし対談集「頂上対談」より
<大災害・原発事故>
<核発電所>
「僕に言わせていただければ、あれは本来は「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。NUCLEAR=核、ATOMIC POWER=原子力です。ですからNUCLEAR PLANTは当然「核発電所」と呼ばれるべきなのです。そういう名称の微妙な言い換えからして、危険性を国民の目からなんとかそらせようとする国の意図が、最初から見えているようです。「核」というのはおっかない感じですから、「原子力」にしておけ。その方が平和利用っぽいだろう、みたいな。・・・」

村上春樹「村上さんのこと」より

 劇場の安全確認の点検を含めて、四日間、劇場の灯りを消しました。私はその間、本当に居心地悪く暮らしました。日頃「蝋そく一本があれば、どんな時でもやれる。それが演劇だ」と言っていたからです。現実にはその蝋そく一本も危険だと思い込み、自分の首をしめるような自主規制下におかれている気がします。・・・
 この自分の首をしめる自主規制のような事態は、のちのちの社会や文化に窮屈で不自由な爪痕を残します。つまり「こういう事態が起こっている時に、音楽や美術や演劇などをやり続けるなどもっての外だ!」という考えがまんえんすることです。そういう強弁を発する人は、いつも守られているところにいます。だが、音楽や美術や演劇が不自由になった時代がどれだけ人間にとって不幸な時代であったか、それは誰もが知っていることです。

野田秀樹(2011年3月15日「南へ」の公演初日挨拶より)

「どうすれば復興なんかが出来るんだ」と思われかねないような所に独りで住んでたとしても、「頑張ろうと思ってます」と言えてしまうような人達は、自分の生産手段と共に生きている人達で、それは、地域と共に生き、自然と共に生きていることと同じだ。だから、「ああ、そういう人達は、まだ生きているんだ」と思って、「そういう人達は当分死なない」と思うことにした。そう思わない失礼だから・・・。

橋本治「このストレスな社会!」より(新潟中越地震にて)

 被害はあって、放置したら、確実に日本から、重要な一つの文化が消え失せてしまうだろう。「文化」などという言葉を使うとヤワに響くが、それは「日本の土台の消滅」でもあり、日本という国から「土」そのものが消えてしまうような、大危機の前兆でもある。それは、たまたま新潟県の山間部を震源地にしたというだけで、日本のどこで起きても不思議のないことなのだ。
 そこでの復興は、「耐震性の強い建物を作る」ではない。都市の基準からすればしんどいかもしれない、不便かもしれない土地に、人が、変わらずに住み続け、生活し、土地の産業を成り立たせて行くことなのだ - あまりに人がやりたがらず、そのために高齢化が進んでしまうようなところで。

橋本治「このストレスな社会!」より(新潟中越地震にて)
<人生>
「オルガズムは万物の根源である。人間はオルガズムを求めるために生きている」
ヴィルヘルム・ライヒ Wilhelm Reich

「人生は美しい。未来の世代をして、人生から一切の悪と抑圧と暴力を一掃させ、生を心行くまで享受せしめよ」
レオン・トロツキー Leon Trotsky(ロシア革命の中心人物のひとりだったが、スターリンによって追放された後、メキシコで暗殺された)

「生は暗く、死もまた暗い」
グスタフ・マーラー(彼が師と仰いでいたワーグナーは「生は暗く、死は救いである」と語っていたが、彼は死も救いにはなりえないと考えていました)

どのようなことがあっても、人生にイエスと言うこと!人生を愛し、どんな不運に見舞われても 人生にイエスと言うこと
レニ・リーフェンシュタール Leni Riefenstahl

「人生とは死の欲動に対する長期戦であり、私たちはこのような破壊的衝動を限界内に迎えるすべを学ばねばならない」
ジークムント・フロイト Sigmund Freud

「この人生は一枚の白紙にすぎない。どんな苦しみにおいても、偶然は人を快活にし、好奇心をそそり、それゆえ人を微笑させる」
ジャン・ジュネ

「20年後に人は、やったことよりやらなかったことを悔いるものだ。だから、綱を放ち港を出、帆を揚げ風をとらえて、探検せよ、夢見よ、発見せよ」
マーク・トウェイン

 人生で勝ち負けがあるのなら、その基準はたった一つ - 「生き方が中途半端だった」だけが「負け」である。

橋本治「このストレスな社会!」より

 今の日本では「大人」になるというのは、「社会人らしく物事をわきまえる人間になる」という程度のことと誤解されている。でも「不幸」を乗り越えないと、大人にはなれないのだ。
 「不幸」というものは、向こうからやってくる。だから、人によっては、それを「不幸」として自覚しなくてすむことができる。子供にあまりにひどい不幸を与えたっていいことはないから、子供に向けられる不幸は「回避されるべき」でもある。そして、それに帰れて、不幸を回避し続けると、いつか、「自分は不幸に直面しないですむ、特権の中に人間だ」という錯覚を持つ。

橋本治「このストレスな社会!」より
<人間、人類文明、歴史、時間>
<パラグアイとグアラニ語>
 一般にラテンアメリカではスペイン人が現地人(インディオ)を専制的に暴力支配して、人間的権利を何も与えない完全収奪国家が築かれました。・・・しかし、パラグアイだけは違いました。ここに布教に入ったイエズス会が、神の前にはスペイン人もインディオも同じ人間であるという考えの下、インディオを人間として扱い、学校を作り、文化を教えた。そして、農園を作り、本格的な農業を教えただけでなく、各種のモノ作りを指導し、経済活動を活性化させ(マテ茶はここから生まれた)、一種の修道院共和国のような自治体(コミューン)を作ったのです。イエズス会はインディオの文化を破壊せず大切に扱ったから、グアラニ語もグアラニ文化も今日まで残っている。
立花隆「立花隆の本棚」より

<人類学とは>
「・・・人類学とは人間の本性を理解するために、人間的現象を対称性の状態に引き戻して初期化して考えようとする学問であると、私は理解しています。レヴィ=ストロースの構造という概念がませにそれで、人類がなぜ未開社会を研究しなければならなかったのかを説明する有力な理由となっています。彼はアマゾンの先住民のなかに基本構造を見出していたわけですが、それは対称性のことです。」
中沢新一「惑星の風景」より

「世界で生じている問題の根源は自己愛ではなく、自己嫌悪にある」
エリック・ホッファー

「山と山は出会うことができないが、人と人は出会うことができる」
トルコのことわざ

「人はそれぞれ輝きを持っているが、人は憎んだり、嫉妬したり、暴力を振るえば、その輝きが失われる。そうすれば、天上の祖先や精霊たちが、私たちの輝きを見ていい方向に導こうとすることができなくなってしまう」
アマゾンの先住民クレナック族の言葉

「西側の人間は生きた証として、偉大な記念碑を作ろうとしてきた。彼らは大きな音を立てながら、死ぬことが名誉なのでしょう。しかし、宇宙そのものが偉大な記念碑なのです。私たちは鳥のように静かに降り立ち、また静かに飛び去って行くことができる。
 何を成すためではなく、何もしないために存在していてもいいじゃないかと思うのです」

UNI(インディオ連合)の創始者のひとりアユトン・クレナックの言葉

「私たちの神オマミは、人間が使っていけないものを地面に埋めた。石油、ウラン、金・・・・・。それは掘り出してはいけないものなのです」
ヤノマミ族のリーダー、ダビの言葉

「・・・わたしは、どの言語も複雑で豊かなものだと思います。アフリカ土着の言語も、もともと実に豊かなものです。ただ、人々が日常使用しないと、言語は次第に貧しくなっていくのです。セネガルも、植民地時代を経験して、フランスから独立したものの、フランス語の導入、そして皮肉にも教育の普及が、私たちの母国語、古来よりの言語を日に日に失わせる結果となっています。・・・ウォロフ語とともに、セネガル伝統文化も失われていきます。」
センベーヌ・ウスマン(映画監督)

「歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」
E・H・カー

 昔は時間はひとつだったのに、近代以降は、過去、現在、未来と三つに分断されてしまう。そして、それぞえれが衝突しあう。当然、そこに生きる人間は、分裂した価値を持たざるを得ない。日常の多くの人間は、なんとかこの分裂した価値をバランスよく自分のうちにおさめるのだが、ある少数者たちは、ベテランをとることに失敗する。
川本三郎「時には漫画の話を」

「ネアンデルタールからホモサピエンスへ」
 じゃあ彼らとホモサピエンスの違いは一体どこにあったのか。現生人類の脳は縮小している。その文化がつくり出したものは多くの特徴があるけれども、ネアンデルタールにない部分がある、今のところの認知考古学の仮説だと、ネアンデルタール人の脳をコンピューターに例えると、技術用の脳と、博物学用の脳と、社会学用の脳のコンピューターが、広い部屋の中に並列にあったんじゃないか。そこを横につなぐ回路がまだできていなかったんじゃないかと考えているわけですね。
 ホモサピエンスの脳は縮小します。それは、一つのコンピューターで全部済ますようになっているからじゃないか。技術的なもの、博物館的なもの、社会学的なものを横に一つながりにして、部屋の壁を取っ払っちゃうようなことが起こっているんじゃないか。

中沢新一「惑星の風景」より
<知能・ロボット>
「問題は、研究者ガ、ロボットに人間の真似をさせることに血道をあげているということ、・・・
 最も重要なことは、まずコンピューターに、人間の子供にできるレベルのことができるようにする。そこから成長させていけっばいい。」

マーヴィン・ミンスキー「知の逆転」より(「2001年宇宙の旅」にアドバイザーとして参加した認知科学者)

 科学の歴史を振り返ってみると、叡智というものは、アイザック・ニュートンやジョン・フォン・ノイマン、アラン・チューリング、アルバート・アインシュタインなどの、「個人知能」によってもたらされているのがわかります。わずか100人の個人が、知的革命によって西欧の科学というものを形作ってきたわかで、大衆の「集合知能」のほうは、逆に科学を何百年も停滞させてきたのです。」
マーヴィン・ミンスキー「知の逆転」より(ソクラテスやキリストを死に追いやったのは大衆の意志でした)

 知能は一般的に考えられているものだけではない。言語知能、音楽知能、身体知能など異なるタイプが存在している。
(それぞれ脳内の領域は異なります。たとえば、蛸の保護色への変化は身体知能によるもの)
オリバー・サックス「知の逆転」より
<言語・コミュニケーション>
<名前という呪い>
「山とか、海とか、樹とか、草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするにものを縛ることよ。たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる」
 あらゆる存在はその固有名において呪縛される。だから、王朝時代、男女は一夜をともにしたあとにはじめてその本名を明かした。それはうかつな人間には、決して「素」の自分を見せないという生存戦略を裏返した「あなたに私を呪縛し、傷つけ、損なう権利を委ねる」という、ある意味では壮絶な決断のしるしとして贈られたのである。

内田樹「街場の現代思想」より

「考古学上の資料によれば、約5万年から10万年くらいの周期で、重要な創造力の爆発があるといいます。ですからそれくらい前に人類学者が「大躍進(great leap forward)」と呼ぶような何かが起こったらしい。その頃、記号を使った行動や表記が始まり、天体の記録や複雑な社会構造が生まれ、考古学苦情上の記録だけでも、人間能力の突然の進展や向上が見られるわけです。
   それが言語の出現だったと考えられています。」

ノーム・チョムスキー「「知の逆転」より

「・・・数学の基本的な部分は言語の副産物である可能性が高い。言語の要素をその骨のレベルまで削ると、ほぼ数学的なものに帰趨します。だから言語の副産物としての数学の能力というものも、他の能力と同じように、「大躍進期」にその片鱗を見つけることができるのです。」
ノーム・チョムスキー「「知の逆転」より

「多くの動物や猿が、40もの異なる危険を知らせる音を持っていることが知られていますが、これらはどちらかというと記号のようなものです。
 人間の言語では、チョムスキーの言うような意味での「文法」というものが不可欠になっています。文法こそが言語に限りなく多くの意味というものを生み出すことを可能にし、言語をクリエイティブなものにしますから。」
オリバー・サックス「知の逆転」より

「ほとんどのコミュニケーションには、新しい情報はほいんのわずかしか入っていない。たいていの人は、情報を伝えるためにではなく、自分が安全な人間であることをし示すために会話をしている」
マーヴィン・ミンスキー「知の逆転」より

 <私>が<私>であるためにこそ、デモクラシーが必要なのだということになります。<私>が<私>であるためには、<私>が<私>であることを確認するためのものが必要です。それを他者と呼ぶことができるかもしれません。
 人が自らを確認するためには、外部の視点が重要です。そのような外部の視点を欠くとき、人は文字通り自分に閉じ込められてしまいます。自分に閉じ込められてしまえば、いたちごっことなって、自分を確認することもできなくなります。・・・
 その意味でいえば、デモクラシーとは、一人ひとりの<私>にとって不可欠な社会を再確認し、再創造するためのものにほかなりません。このデモクラシーのプロセスを経てこそ、人は自らの<私>を確認できるのです。・・・

宇野重規(佐藤信の「60年代のリアル」から)
<資本主義・企業>
<資本主義と外来生物>
 それを見ていると、資本主義も外来生物と似ていると感じます。というのも、資本主義自体が自然性を持った経済システムだからです。「資本主義というのは一つの自然なんだ」という視点をつねに入れていかないと、ただのロマン主義になってしまう。要するに、ブルーギルやアライブを日本の社会的生態系に持ってくるということは、経済システムの中に、日本の社会的生態系に合わないもの、しかし物凄く強力で、バックがいて、精力絶倫なものを投入することで経済が活性化するだろうというのが小泉改革のときの基本的な考え方でしたが、あれを見ていると、資本主義の自然性と、外来生物が日本の生態系を危機に追い込んでいるという事態とがとてもよく似ているなと思います。
中沢新一「惑星の風景」より

 サラリーマンはきっと、「自分」と対応するようなヒーローを望んでいなくて、「自分」の突出を許さない組織が揺さぶられるような「事件」を望んでいる。高度成長の頃の昔は、サラリーマンがヒーローを待望して、未組織労働者の方は暴動とか争乱を待望していた。もしかしたら、それが逆になりつつあるのかもしれない。
 もちろん、安定した生活の中にいるサラリーマンが「自分の人生の破綻」を望むわけもない。だから、「自分のところには起こらない衝撃」に対して、「おッ!」という反応を示す。その衝撃が、なんらかの形で、自分の属するところの「身動きの出来なさ」を刺激するように思えて - 。
 だから、事件さえも、現代では浪費されるかもしれない。

橋本治「このストレスな社会!」より

 「社会の中の企業」というあり方を考えたら、経営にタッチしているわけでもない株主は、「自分の利益」なんて口にしない方がいい。それが「持てる者」の慎みでしょう - というとんでもない考え方をしている私には、経済を語る上での常識なんてなにもない。
 「なんにもない方が、これからの経済のあり方を考える上では都合がいいんじゃないか」と、更にとんでもないことを考えている。

橋本治「このストレスな社会!」より

 普通の国民にとって、今や日本という国は、「日本という会社」であったり、「複数の会社が存在する日本という企業社会」であったりする。国民は、そこの会社員か、フリーターだ。帰属意識が薄いと、無党派層のフリーターの大衆になる。こういう国民にとって問題なのは、たった一つ、「日本」という会社や企業社会の景気が悪いことで、「景気が悪いから自分の取り分が減る」という考え方をする。そして、「景気が悪いのは仕方がないとして、その中で無策状態になっているウチの会社はなんだ!」という怒り方をする。
橋本治「このストレスな社会!」より

 今や日本は、「働く人」より「もらう人」の方が多くなる方向へ進んでいる。「もらう人」とはつまり、「年金をもらう人」ですね。その意味で日本国民は、「会社員」でるよりも「配当待ちの投資家」である性格を強くしている。
橋本治「このストレスな社会!」より

「アメリカ経済では消費者が主権者だが、日本では製造者が主権者である。それが根本的なちがいだ」
ジェームズ・ファローズ(半沢一利「昭和史 後篇」より)
(アメリカは消費者重視の考えから「ディズニーランド」を生み出し、日本は様々な「職人技」や「オタク文化」を生み出したといえます)

<お金の功罪>
・・・お金というものはあらゆる均一にならしてしまう効果がある。まったく別の質を持つ労働がまさに「労働」の名のもとに同一の尺度で測られもするし、まるで異質で価値も異なるにちがいないものが同じ値段を与えられたりする。極端な話、たとえば第一次産業の人々が使う通貨と、消費専門の都市住民の通貨を、まるで別のしてもよかったのではないか。・・・
中沢新一「惑星の風景」より

<イノベーション>
・・・たとえばアップル社やグーグル社のデザイナーや技術者たちは、自分のフェシスとしての能力を最大限生かされなかればならない。そうしないと新製品が生まれない。ゆったりした環境の中で、夢想したり、ぼんやりしながらアイデアをつくり出さなければならない。それこそ、昔は詩人がやっていたようなことですが・・・。
・・・技術的イノベーションはどこから出てくるかと言えば、人間なんです。人間の想像力/創造力からしかイノベーションは生まれない。
中沢新一「惑星の風景」より

<帝国主義とは?>
「帝国は歴史のなかに生きていながら、歴史に対して陰謀を企む運命にある。帝国の秘めたる思いはただひとつ。どうすれば終わらないのか、どうすれば滅びないか、どうすれば自らの時代を長引かせられるか。昼は敵を追い求める。帝国は狡猾で非情であり、血に飢えた猟犬をいたるところに送り込む。夜は災禍の妄想にふける。都市を略奪し、住民を陵辱し、骨の山を築き、広大な土地を荒らし尽す。狂気というだけでは片づけられない毒気に満ちた幻想だ」

J・M・クッツェー(小説家)
農業
「農業の経済学」
 自然は無料ではなく、与えてもらった分だけ返さなければならない、という贈与の論理を取り戻さなければなりません。百姓は自然から農作物を受け取りますが、それは自分が働いた分だけです。テクノロジーはその点を忘れてしまっていますが、テクノロジーはその点を忘れてしまっていますが、テクノロジーだって無料ではない。契約とは、負債と贈与のあいだのバランスにほかなりません。
中沢新一「惑星の風景」より

「農業の価値」
 ことに近代経済学は、どうしても第一次産業を扱えない構造になっています。その原因の一つは - そしてそれは近代経済学の最大の弱点でもあるのですが - 生産に非常に短い時間で行われるという前提に立っているという点です。長い時間に渡って生産過程が継続していくものを、近代経済学は扱うことができない。・・・
 労働力を買い込んで、資本増殖を行っていくという工業生産は利潤を拡大していくことができるけれども、農業にはそれがないからどうしたって貧しくなってしまう。

中沢新一「惑星の風景」より

「農業の新展開」
 ところがここへ来て、豊かな第一次産業が発生できるようになりました。サービス業としての本質を第一産業の人々が理解し始めたということです。それからインターネットによって、第一次産業がサービス業と匹敵するだけに成長し始めたのです。僕は農業・漁業はサービス業だと思います。そういった構造を持っている。自然のサービスを人間が受け取って、それを周りの人間にサービスするという産業なのではないでしょうか。
中沢新一「惑星の風景」より
<テレビ・報道・ラジオ>
<マスコミ報道>
 だから例えばとてつもない事件が起きますよね。・・・そうした時にはみんな一生懸命物語を作ろうとするんですね。納得出来るようにしたい。この社会のなかでどうにか落ち着いて場所を作りたいといって、コメンテーターが必死になって物語を作るために頑張っていますけれど、あの頑張り方というのは、江戸の都市の作り方に比べるとずーっと後退しているなと思いますね。
中沢新一「惑星の風景」より

 いつからそうなったのかは知らないが、「視聴者は、ただ”魂”でしかない映像を見ても、そこから意味のあるドラマを抽き出せない。だから我々が、そこに親切な要約を付け加える」的な演出が横行している。
 「NHKには、金と取材力はあるが、愛想がない。だから、NHKの番組は地味で、我々はそこに愛想のよさを付け加えて、視聴者が見やすいようにする」という民放のやり方が、そもそもの「へんな演出」の始まりじゃないのかと思うんだが、そのNHKさえも、へんな演出をする。・・・・・
 テレビが地上デジタルになって、「映像がきれい、ということになって、そこで映し出されるのが「どうでもいいタレント達のリアクション」だったら、誰がテレビなんか見るんだ?電波の無駄じゃないの。
 「愛想のよさ」だけがタレントの条件になると、「愛想のよくない人間の見せる重要なドラマ」は、テレビから消えて行く。テレビが排除する前に、「愛想をよくしたくない人」が、テレビから離れて行く - イチローのように。

橋本治「このストレスな社会!」より

 人は日々、埋めなければならない空間を持ち、そのためには「基準」が必要であり、それを「倫理」とか「世界観」と呼びならわしてきた。しかし、いまテレビの世界の「視聴率」という基準を笑う余裕はぼくにはない。ただ、テレビの世界がこの国の特殊な部分ではなく、もしかしたら資本主義の最後の形として、ここは国そのものがテレビの国になったのではないかという恐ろしい思いにとらわれるのだ。
 テレビの国に<天才>はいらない。<天才>は基準を壊すからだ。

高橋源一郎「退屈な読書」

・・・ぼくはテレビの一番大きな欠点は、とくに民放で、場面がどんどん変わることだと思います。つまり、たいへん深刻でほんとうに深く考えなければならない、あるいはクライマックスでひじょうに感激しなければならない場面になって、こちらがグッと心を入れたとたんに、コマ−シャルがポッと出る。そこで感情が消されてしまうのです。・・・
手塚治虫「ぼくのマンガ人生」より

<ラジオ>
 結局のところ、ラジオは孤独な人たち、よるべない人、世界との接触をなくした人のために作られたのだ。テレビは頑固に同じ方向だけを見つめていて、疲れはてた体全体の奉仕を要求する。それとは違い、ラジオはどこにでもいる。独り者にはラジオが必要だ。どんなにちっぽけな部屋にも漂う大きな空虚を埋められるのはラジオだけなのだ。ラジオは私たちの気がよそに散っても怒らないし、スイッチを入れた瞬間からつつましく関係を再開してくれる。
「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」(編)ポール・オースター
<グローバリズム>
 日本は新しく「開国」を迫られる。この開国に、黒船は来ない。「国」というカテゴリーがない以上、「軍隊」はいらない。「商売をする会社」というものが、剥き出しで来る。「欧米ではM&Aが当たり前だ。日本でもこれを受け入れろ」と。・・・そんな「国際ルール」は信用しない方がいい。黒船の昔から、日本に開国を要求する国は、「商売上の利潤」しか考えていない。
 国際ルール、くそ喰らえである、そんなものを受け入れていると、子供達が危くなる。その点でほんとに、日本はイラク並みの危険地域になりつつある。

橋本治「このストレスな社会!」より
<IT革命・ゲーム>
 垂れ流しの情報があってもそれは情報がないのと変わりません。何を探すべきか知っている必要がある。そのためには、理解あるいは解釈の枠組みというものをしっかり持っていなかればならない。これを個人で獲得するのはたいへんです。機能している教育制度や組織が必要だし、他の人たちとの交流が必要になる。視点というものが形作られ発展していくためには、構造を持った社会が必要になります。
ノーム・チョムスキー「「知の逆転」より

 現代はたいへん細分化された社会で、組合も政党も影が薄くなり、まだなんらかの活動をしている集団といえば教会くらいのものです。そういう社会では、インターネットはカルトを生む土壌になる。全く意味をなさない事柄でも、そこにあるので人々が寄ってきて、意味をなさないまま、ぞろぞろとサイバー上に人が集まってくるという現象が起こります。
ノーム・チョムスキー「「知の逆転」より

 日本の出来上がってしまった経営者達は、根本のところで、新しいものを理解しない - だから、日本の社会に世代交替は起こらない。これは、日本の政治方面でも同じ。ところが、自分達の経営状況が危うくなって、新しいものが「金になる」と分かると、こぞってそこに入り込む。「分かんないけど受け入れる」になる。だから、「受け入れても、根本のところに断絶はある」という不安定要因を強くさせたまま、時代は表面上新しくなる。「なんでもかんでもコンビニを窓口にしてしまえばいい」はその一典型で、「ITはOK、しかし、背広を着ないIT社長はNO」というのは、その一面でもある。
橋本治「このストレスな社会!」より

 私はべつに、この「新しい時代」を「いい時代」だなんて言わない。選択肢は、「オヤジか、ITか」しかない結果の「IT」なんだから、こんなもんがろくなもんだとは思っていない。
橋本治「このストレスな社会!」より

 ITと関連があるであろう「通信産業」というものを、私は「便利」という言葉とは結びつけない。「いい迷惑だ」と結びつける。通信は「手段」であってくれればいいのであって、「産業」なんかにならなくてもいい。
橋本治「このストレスな社会!」より

「ゲームの持ってる可能性って、これはもうホントに凄いモンだと思うんです。たぶん、こんなに自由な世界ってないんじゃないかっていうぐらいに、いろんなことができる。だから僕は、早くゲームを文学や音楽の世界に近づけたい。文化にしたいんです。そのためには、ゲームを作る人間の作家性っていうのも、絶対に必要になってくると思うんですよ」
飯野賢治(「Dの食卓」、「風のリグレット」などのゲーム・クリエーター)「21 世紀を超える神々たち」金子達仁
<戦争>
<兵士の作り方>
 誓ってもいいが、俺はやつらがぜんぜん人間とは思えなかった。俺のような若くて熱烈な「ディック(dedicate infantry combat killer)」(ひたむきな歩兵実戦殺人者)」を仕立て上げる最善の方法は単純で、それは人種差別的な洗脳の効果だ。ロスかブルックリン、でなければテネシーの田舎町からでも、頭の空っぽなやつを連れてくる。今どき、そういうやつはアメリカには掃いて捨てるほどいるから。俺は、例の落ちこぼれゼロ運動の産物の一人だったのさ。ともかく、そういう間抜けを連れてきて、縮み上がらせ、心をずたずたにし、いっしょに苦しんでいるやつらと仲間意識や同志愛を育てさせ、人種差別のナンセンスで頭をあふれ返らせる。アラブ人やイラク人やアフガニスタン人はみんなハジ(イスラム教徒)だ、ハジはおまえたちを憎んでいる、ハジはおまえたちの家族を傷つけたがっている、・・・ただのプロパガンダだが、俺たちの世代の兵士を育てるのにどれほど効果的だったか知ったら驚くだろう。
「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史3 帝国の緩やかな黄昏」より、カナダで脱走した20歳の兵士

<戦争の見方>
 戦後は戦争というものが日本人の意識からなくなっちゃった。あるのはただ悲惨とか悲劇であるとかそういうことばかりです。そこから来る平和というのは観念的なんです。本当の平和論というのはそうじゃない。
「今 戦争と平和を語る」半藤一利

<日本人と太平洋戦争>
 貧乏で世の中が停滞していますから、防空演習が始まると、一気に賑やかになって、おばあちゃんたちが、ニコニコして私たちが何かやるのをずっと見てね、一週間くらいやったんですが、終わったときにおばあちゃんたちが何を言ったかといえば、「祭りが終わって、寂しくなった」と、こういうんです。
「今、日本人に知ってもらいたいこと」半藤一利

 米陸軍の大佐でアーカンソー州立大学で軍事学の教授をしているデーヴ・グロスマンは『戦争における「人殺し」の心理学』で、第二次世界大戦の兵士の発砲率は15〜20%で、ほとんどの兵士たちが敵に向かって発砲せず、弾薬運びをやっていたと指摘している。多くの兵士たちが銃の引き金を引かなかったという事実は、歴史から隠蔽されている。・・・

 どこの軍隊でも、敵を躊躇なく殺すことのできる兵士はほど2%であり、彼らは一般社会では凶暴な犯罪者であり、彼らの多くは特殊部隊に編成されている。

 罪悪感を持たずに殺人が可能なのは、敵との空間的距離である。目に見えている人間を射殺するのと、大砲をぶち込むのとでは違う。心理的に後者はずっと楽なのだ。だから海軍兵士には殺人ストレスが少ない。銃剣で敵を殺すほうが原爆投下のボタンを押すより辛いのは、一生殺した相手の顔を忘れることができないからだ。
斉藤憐「ジャズで踊って リキュルで更けて」昭和不良伝・西條八十より
<国家・法律>
「我々は、この時、この場所から次の言葉を発信しよう。すなわち、たいまつ(the torch)は、アメリカの新しい世代に引き継がれたのであると・・・
 全ての国に知ってもらいたい。我々に対し好意を持とうと悪意を持とうと、自由を守り花開かせる為なら、我々はどんな代償をも払い、どんな重荷でも背負い、どんな困難にも立ち向かい、友を支え、敵と戦うことを誓う。・・・
 我々が自由な者たちの隊列の中に歓迎している新しい国々に対して、我々はひとつの形の植民地支配が終わったことが、もっと厳しい鉄の圧政に取って代わられる為ではない、という誓いの言葉を贈りたい。・・・
 招集のラッパが再び我々を呼んでいる。それは武器を持てという呼びかけではない。武器も必要だが、それは人類の共通の敵である圧政、貧乏、病苦7、そして戦争そのものへの戦いへの呼びかけである。諸君はこの歴史的な努力に参加してくれるのであろうか。・・・
 あなた方が米国の市民であろうと世界市民であろうと、我々があなた方に求めるのと同じ高さの力の犠牲とを我々に要求していただきたい。愛する国の前進を始めようではないか。良心に恥じぬことだけが我々の確かな報酬であること、そして我々の仕事に対する最後の審判は歴史が下すという心構えと共に。・・・
 さればアメリカの国民諸君、あなたの国が自分たちに何をしてくれるかを問うのではなく、自分たちが国の為に何が出来るかを問うて欲しい。」

ジョン・F・ケネディ(スピーチライターのセオドア・ソレンセン作)1961年1月20日の大統領就任演説より

・・・国家がなかった時代の法、あるいは法に匹敵するものはなかったというと、ありました。宗教の領域とは違うところで、法は動いていたと思います。宗教はシャーマンとか特殊な人たちが専門でやっているところがありますが、法律はどういう人たちが扱っているかというと、もめ事が起こったとき、それをどうやって判断して抑えたり、戦争が起こりそうなときにこれをどうやって防いだりするかということですから、それをやっているのは首長ですね。・・・
 ところが、王が出てきたとき、王は超越的な力を体現しているし、社会に秩序をもたらす法も体現しているわけですから、これを合体させちゃいます。しかも、王は人間の世界の中にいます。・・・
・・・それまでは超越的なものを人間の世界の外に置いておいた。だから、国家はできなかったんじゃないか。ところが、これを人間の社会の中に持ってきちゃったとき、法と超越的なものが合体しちゃったときに、国家の法がつくられるようになるんじゃないか。
中沢新一「惑星の風景」より
<犯罪・事件>
「日本では、親が子を私物化しているから、親子心中が多い」というのは、ずっと前から言われているが、これが逆転して、「子が親を私物化しているから」というところまで行ってしまった。
橋本治「このストレスな社会!」より

「なにか事件が起こるたびに人権派がはしゃぎだす。私は基本的には、弁護士は悪徳であってほしい、悪の唯一の味方であってほしいと思うのですが、なにを勘違いしているのか正義の仮面をかぶっている。」
柳美里(ビートたけし対談集「頂上対談」より)

「性と人格が切り離されれば、売春はとくべつな労働ではなくなり、強姦は女性の尊厳に対するとくべつな侵害ではなくなります。松浦理英子さんが『嘲笑せよ、強姦者は女を犯せない』で主張したのはそのことでした。なぜ性器に対する暴力が、身体の他の部位に対する暴力とちがって特権的に人格を侮辱する行為と考えられるのか。そしてそのためになぜ、被害者はとくべつなトラウマを負わなければならないの?他人から暴力を受けることはたしかにゆるしがたいことではあるけれども、なぜ不幸にして骨を折ったとか外傷を受けた、と同じように受けとめることができないのか。松浦さんのこの挑発的な文章が『朝日ジャーナル』に載ったとき、『強姦被害者の心情に無理解で、強姦犯を利するもの』という激しい反発が女性の読者から寄せられました。・・・。
 この論争が示すのも、性の『近代パラダイム』のどちら側に立つか、のちがいのようにわたしには見えます。たしかに現状では松浦さんの説は『現実的』ではないでしょうけど、どちらが家父長制パラダイムの『改革者』であるかはあきらかです」

上野千鶴子「発情装置」より
<心理学・幻覚>
「われわれのやり方はその人をできる限り尊重するということです。その人はどこへいくかわからない。帰ってきたら帰ってきたで成功ですし、帰ってこなかったら付き合う。ただ難しいのは、この世の中は帰るほうがいいということをみんなが言っているから、われわれもそれを忘れられないんです。」
中沢新一「惑星の風景」より

「私たちの正気は『本当の』正気ではありません。病める人の狂気は『本当の』狂気ではありません」
R・D・レイン Ronald David Laing

「幻覚には二種類あって、一つはその個人の資質や思考とは全く関係なく、視覚あるいは知覚器官が勝手に生み出す原始的なもの、もう一つは宗教的あるいは芸術的あるいは科学的な、強い思い込みや情熱から生み出される昇華されたものです。」
オリバー・サックス「知の逆転」より

心的外傷の研究は、関心がなくなったから停滞するのではない。そうではなくて、このテーマはきわめてはげしく論争を惹き起こすので、周期的に『見るもけがわらしいもの』となってしまうわけである。心的外傷の研究は、くり返し何度も『考えることができないもの』とされ、『信用するか信用しないか』というぎりぎりのところまでいった」
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン著
 ハーマンによると、心的外傷の研究における三つのブームがあったといいます。
(1)ヒステリー
(2)シェルショック(砲弾ショック)、戦闘神経症
(3)性的暴力、家庭内暴力
<多重人格>
多重人格という言葉が流行っていますが、もともとひとはだれでも多重人格者だと思うんです。それを無理やりひとつにまとめようとするからおかしくなる。近代以前はもう少しおおらかだったと思うんです。あいつはヘンだ、で済まされなくなってしまった悲劇が起きているのではないでしょうか。」
柳美里(ビートたけし対談集「頂上対談」より)

「少年の猟奇的な犯罪も、その行為もやっている自分を、おもしろがているもうひとりの自分が見ているはずだと思うんだ。その子は夢中になっていないような気がする、自分自身に。」
ビートたけし対談集「頂上対談」より

「多重人格、多様な価値観を受け入れることは、とても苦しい。だから建前と本音とか、夢想と現実とか、いろいろ分類するんです。人格障害とか快楽殺人とかに分類して整理するわけです。でも、その整理しようとする意識が、実は犯罪を生み出している。その整理の、管理の外側に立ちたいという人はかならず存在するんですから。」
柳美里(ビートたけし対談集「頂上対談」より)
<生と死>
「死こそが新しいポルノグラフィの境位だ。われわれはこの二十年間に性をめぐる禁忌の多くに打ち勝ってきた。躊躇するにせよ、忠誠を放棄するにせよ、婉曲さを選ぶにせよ、死がいまだに大きな領野であることには変わりない。」
ピーター・グリーナウェイ(映画監督)

「人間は生まれ落ちたときから三つの本能的恐怖心を持っている。大きな音と、墜落と、光の欠除に対する恐怖心だ」
アイザック・アシモフ「夜来る」より

「生命現象って、今の普通の人たちは「生きていく現象」だと思っていますが、そうではなくて生命現象というのは・・・・」
「瞬間瞬間死んでいく」
「最後は自分が死ぬということです。生と死の両方を司るものが対称形であるんだということを今の学校の生命教育は教えていません。命、命ってうるさい!」

中沢新一「惑星の風景」より(藤森照信との対談)
<世代・子供・教育>
<なぜ、ブッシュは大統領になれたのか?>
 ジョージ・ブッシュがあの程度の才覚でアメリカ大統領になれた最大の理由は「父親が大統領だったから」である。それはべつにジョージ少年が父親に統治の要諦についての帝王学を授けられたからではない。単に、子どものときから日常的な風景として「大統領になるためにやっておくべき手順」を眺めてきていたので、そのプロセスを淡々と歩んでゆく自分の姿を想像することに特段の苦労を感じなかったからである。
 目的地にたどりつくまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように歩んでゆく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどりつくことができる。「夢を実現する」というのは、そういうことなのである。

内田樹「街場の現代思想」より

<教育の問題点>
 近代の悪いところは、この中間的移行期というのを消してしまおうとすることです。今の学校の矛盾はここにあるんだと思います。学校というのは長い移行期で、小学校はまあ文字通り学校と言えるところで、普通の知識を身につけさせなきゃいけないけれど、長い中間的移行期のだんだん最後のほうに近づいてきたら、ハイブリッドで吐き気をもよおすようなものを食べさせなきゃいけない。これがまともな教育ってもんでしょう。
 ところが近代は、この学校というものを外の世界と同じように中間のない世界にしてしまう。だから知識の詰め込みを始める。学校の中の人間関係も中間的なものを排除する方向でつくっていく。いじめってこれですよね。

中沢新一「惑星の風景」より

「十四歳の少年の内面とは、言葉なき自我である。
 それより幼ければ、人はまるで母親から免疫をもらった赤ん坊のように、教わった言葉を喜喜として使うことができる。
 それより成長すれば、社会の一員になるために、他人の言葉を自分の言葉のふりをして使う術を学びとる。
 自分の言葉などないことを知る十四歳は、その中間、天国と地獄の間、煉獄なのである。・・・」

(「エヴァンゲリオン」の碇シンジと「酒鬼薔薇聖斗」について)
高橋源一郎「退屈な読書」

「・・・子供にとって 国というのは
 ミサイルの標のない場所
 もちろん軍隊も なぜなら彼は
 それを行使する権力など知らないから
 ヴィザを出したり 秘密の命令を下したり
 パチンコのように核爆弾を飛ばす術など彼は知らない・・・」

ハ・ジン自由生活
<記憶>
 山下清は放浪しているあいだはスケッチもメモもいっさい取らずに、施設に戻ってからあの細かい日記や切り絵やスケッチを描いたらしいが、その山下清のスケッチにも自分の後ろ姿ごしに電車の窓からの風景を描いたものがあるくらいで、記憶の中の視界に自分自身の姿が紛れ込むのは、技巧というようなことではなくて、もっと原初的な記憶や認識の仕組みということみたいで、そういう記憶が思い出されるたびに変化するのだとしたら、固定されないことが記憶にとって、色褪せずに人の中で息づくための大事なファクターなのではないかと思う。「ウソと本当」とか「想像と現実」というような二分法を単純に記憶にあてはめることはできなくて、記憶は別の原理によって息づいているのだ。
保坂和志「カンバセイション・ピース」(記憶を固定せずに、それをぼんやりと保存しておくことの大切さ)
<世界認識・神>
<沖縄の御嶽>
 沖縄には至る所に自然宗教的なサンクチュアリ(聖なる場所)があちこちにある。地元の人が「拝み場所」などと表現するのですが、そこは神的存在を拝む場所なのです。日本の本土では普通、何かを拝む場所というのは、神社でありお寺であったりします。つまり、宗教的な拝殿が作られたところで拝む。しかし沖縄ではそうではなくて、まったくの自然空間を、コミュニティーの成員がみな「ここは聖なる場所だ」と認める場所があります。そこに行くと自然に、西行が伊勢神宮を訪れたときに読んだ「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」のような気分になるところです。そういう場所を、沖縄では「御嶽うたき」と言います。
立花隆「立花隆の本棚」より

<神という言葉>
 例えば、ヘブライ語で、神という単語は四文字で表しますが、これは神聖四字といわれて発音はされませんでした。あまりに神聖で、これを声に出してはいけないとされていたのです。今は「ヤハウェ」と読まれていますが、昔、これをあえて読むときは「アドナイ」と読まれていました。アドナイとは「主」の意味です。

立花隆「立花隆の本棚」より

<善と悪>
「不思議なことかもしれませんが、僕の経験から言いますと、どんな時代でも、悪と善の量のバランスというのはほとんど変わりません。善が比較的多い時代とか、悪が比較的多い時代とか、そういうのはありません。だいたいどの時代でも同じです。・・・」

村上春樹「村上さんのところ」より

<論理を超えて世界を認識するためには>
「人間は論理で世界全体を捉えるほどには賢くない。論理こそが共同体を閉じるときがある。だからわたしたちは、その外部を捉える別の原理を必要としている。その探求の果てにわたしたちが辿り着いたのは、熟議が閉じる島宇宙の外部に『憐みの海』が拡がり、ネットワークと動物性を介してランダムな共感があちこちで発火している、そのようなモデルである」
東浩紀

<世界を表現するための文学>
 時間の問題が入ってくると、時間過程のなかで物事が発展・展開しています。そのために世界には非対称性の過程が直行します。現実の世界はすべてが非対称性で複雑な構造を持っています。この世界に起こることのすべてを単純な論理や公式で表現することはできない。これから先もできません。だから文学が必要なのです。
中沢新一「惑星の風景」より

<リアリティーとは?>
 シャーマンには独特のリアリティー感覚がありました。それは僕らが、ここにコップがあるとか、ノートがあるというリアリティーではなくて、流動しているものが縦横に横断している。それをリアリティーと呼んでいます。
 シャーマンでももちろん目は覚めますから、普通の意識状態に戻ったときに、ふたつのリアリティーが共存するようになる。両方が見えるようになる。元型イメージは普通の意識に戻ると消えてしまうことが多いのですけれども、さっき言った元型の元型というのは覚めても消えないんです。
 シャーマンはそれを両方見ている。これはヘンな感覚ですよ。つまりコップは実際にあるけれども、そこにはすばやく流動しているものがあって、そのふたつを同時に感じる。

中沢新一「惑星の風景」より

「私はキリスト教の実践者ではあるが、信仰者ではない」
フリーマン・ダイソン

「ぼくたちはこの世界に生きている限り、この世界を超えて答えを出すことはできない。そして、もしそこに真の答えがあるとするなら、それはたぶんこの世界の向こうにしかないのだ。それを知りつつ、なおぼくたちは答えを求めて止まないのである。」
高橋源一郎「退屈な読書」

「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いない事実であり、葬られた後に復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である」
テルトゥリアス
保坂和志「カンバセイション・ピース」

 創世記で「はじめに神は天と地を創造した」と言っているけれど、ユダヤ民族だけでなく他の民族でも、「世界のはじまり」ということが心に浮かんだときに、同時に神が存在をはじめたということなんじゃないかなと思った。
 神がこの世界を造らなくても、この世界のはじまりという、人間として経験することのできない時間にまで考えが延びていくということ自体が、神という媒介項なしには起こりえない。時代とともにそれがいろいろな形に洗練されて、いまでは「150億年前のビッグバン」という言い方になっているけれど、そんな膨大な数を「150億」なんて、たったの一言で言えてしまうことが時間を俯瞰するということで、そのときの人間は時間の外に立っている。それは動物には不可能で、生物学的な肉体を持っている人間にも不可能で、神にしか可能ではないのだが神はいないのだから、その能力は人間の中で起こったことになる。
 「世界のはじまり」でも何でも、一つの世界像を作るということが、創世記で神によってなされたとされているのと同等の行為で、だから現代科学もまったく例外ではない。

保坂和志「カンバセイション・ピース」
(世界を創造したのは神?それとも神を創造した人間?)

・・・切り離した世界と新しく連絡をつけるための媒介項としての人間は神を必要としたのだが、しかしその媒介項たる人間を世界から切り離した動因だった。しかし神が切り離したのではなく、切り離しという出来事の最中に神が生まれた。
 それらはすべて一緒に起こり、それらの出来事はすべていまでも起きたときの力を持ち続けている。なぜなら、神を媒介項にすることなしに生まれない世界像という認識を人間は手放すことができないでいるのだから。・・・

保坂和志「カンバセイション・ピース」
<未来>
「行き止まり」が見えて、「行き止まりへの方向」を放置する動きと、それを制止しようとする動きが組み合わさって、二十一世紀の世界は、方向をなくして動きを失っているように見える。でも、それは悪いことじゃない。「どうにもならない方向へ進む」より、「どうにもならない方向へ進まない」は、ましなあり方だからだ。
橋本治「このストレスな社会!」より

インタビュー集「知の逆転」より(ジャレド・ダイヤモンド、ノーム・チョムスキー
<日本・日本文化>
<日本の政治>
・・・日本の政治の歴史は、権力がフォーマルな最上位者から、インフォーマルな実力者に移行してしまう。その連続だったとも言えます。日本の政治権力は、天皇制の成立以来、天皇を最上位とあおぐ制度だったはずですが、天皇制ができてしばらくすると、摂政・関白といった実力者高官が政治を牛耳るようになり(平安時代)、それに続いては、征夷大将軍に任ぜられる者が政治的実権を掌握してしまう時代になったり(鎌倉、室町、徳川時代)、将軍がいて幕府があるのに、幕府高官の実力者が執権と称して政治を切り回したり(北条時代)、徳川時代は、中期以後、将軍のパワーは名ばかりとなって、老中、大老などの幕府官僚トップが政治を動かしたり、あるいは側用人などというインフォーマルを実力者が政治を切り回したり・・・・・。
 日本の政治は、権力が、フォーマルなところからインフォーマルな実力者のところへ移行することの連続であったとも言えます。
立花隆「立花隆の本棚」より

<日本人の危機管理>
「起きて困ることは、起きないのではないか」と考える。
そう考えているうちに「起きないに違いない」、そしてついには「絶対に起きない」という結論になるんですね。何の根拠もなしに確信してしまう。太平洋戦争のときの日本の作戦は全部そうなんです。・・・・・
福島の原発の場合は、「津波が岸壁を乗り越えたら困るんじゃないか」。それはわかっていた。でも最後は「いや、起きない」という結論を出した。つまり「安全神話」から抜け出すことができなかった。

半藤一利「今、日本人に知ってもらいたいこと」

<日本人と慎ましさ>
菫程な小さき人に生まれたし
(夏目漱石作)
 日本人の一番大事なのは慎ましさなんです。
 決して、この国は今回のような大きな試練がたびたびある国でもないし、といってまた人間がそんなに勇猛でもない民族なんです。もともと農耕民族ですから。ですから日本人の一番大事なことは、慎ましやかであることです。特にアジア人を見下すような傲慢な態度は駄目だということです。

半藤一利「今、日本人に知ってもらいたいこと

<日本の哲学とは?>
 日本の場合、都市がヨーロッパとは違う発展を遂げてきました。言ってしまえば、日本では西洋で言うような哲学が生まれなかったのです。それは都市が明瞭な構造を持って形成されなかったからです。都市はいつも自然とのパサージュ、中間状態として形成されています。それは都市を拓いたのが海民系の倭人だったということと関係があると私は睨んでいます。海洋性の人々がつくる都市構造は底が海になっていて、つまり自然とのパサージュが開けていて、境界線がないのです。どの時代の日本の都市を見てもそうなのです。・・・
・・・ヨーロッパの思想の構造のなかでは離接構造は最初からあるのです。
 ところが、日本の場合はそれがない。ないにもかかわらずそこで思索するという困難を抱えてきたのです。だから哲学がなかなかできなかった。そのかわり何ができたかというと、芸能や文学です。芸能や文学ははパサージュ上でやるものですから。・・・

中沢新一「惑星の風景」より

<ハイブリッド文化とシャーマン>
 近代社会というのは一方ですごく純粋化を進めて、同時にハイブリッドをいっぱいつくってしまって、抑えが利かなくなっています。僕は今の妖怪ブームとか陰陽師ブームの本質というのはこれなんだろうと思っています。世の中にハイブリッドが溢れ過ぎてしまっていて、新しい安倍晴明でも出てこないと限りこれは抑えられない。そういう思いが、安倍晴明をヒーローにしているんでしょう。ハイブリッド世界に立ち向かう霊的技術の人が、求められている。しかし、そういう局地的な解決法では癒しぐらいで終わっちゃう。ハイブリッド世界と本気に立ち向かうには本物のシャーマンの知恵とか、日本人が蓄積していた生活の知恵というものこそが、必要になってきます。
中沢新一「惑星の風景」より

<幽霊と共に生きる日本人>
 幽霊のようなもの、妖怪のようなものと、江戸時代の人がほとんど差別なく付き合っている感覚を、現代人であんなに表現できるのは奇跡だなと思います。言ってみれば、これはハイブリッドの極致です。日常生活を生きているけれど、いつもその辺に妖怪などがいて、親の霊なんかもいる。日本人はこの列島上でそんなことを数万年もやってきた。それが明治時代になって純粋化した。現実の生活と異界、日常と非日常というのを分けようとしたけれども、そうはうまくいかなかった。
中沢新一「惑星の風景」より

「日本人の旅」
 旅する人間には昔の人の行ったところに行きたいという気持ちがあります。それは非常に日本人的だと思います。西洋人はとにかく近世から、西洋人がだれも行ったことのないところに行きたがります。。だれも登ったことのない山の頂上まで行きたい。日本人はとかく芭蕉もそうですが、人の行っていないところは全然興味がないようです。
ドナルド・キーン

「日本文化の生まれた場所」
・・・この農民の世界を超えたところに、激しい起伏を伴った垂直的な山岳地帯があります。日本の芸術家や哲学者は、自分の創造の根源を求めて旅に出たり山へ入ったりしますが、それは水平面と垂直面の中間状態を移項していくときに、想像力も刺激されるからです。すなわち、われわれの根底には、ふたつの異質性が横たわっている。そして里山は、水平面でできた棚田の世界と垂直な山との中間に存在しているのです。
中沢新一「惑星の風景」より

「日本文化の多様性」
「旧石器のものから新石器のものから中世のものから現代テクノロジーまで、なにもかもが同居しながら残っている。そんな素晴らしい人たちはいない」
レヴィ=ストロース

「里山とは?」
 里山は、森林と都市生活の中間、森でもなく町でもない農村部にあります。人が手を加え、維持に努めることで薪となる木材などを供給してくれる山林で、その意味で純粋な野生でも、完全に切り開かれて文明化された世界でもありません。この中間的な領域に、日本人は数百年かけて文化を形成し、独特の感受性や生活の習慣をつくってきたのです。・・・
中沢新一「惑星の風景」より

「水とアジア」
 ヨーロッパの農村風景がアジアの風景といちばん異なっているのは、アジア的な耕作が常に水を必要とするという点です。したがって水田は、水を溜めておくために必然的水平たらざるをえない。私にとって日本的風景であり、アジア的な穏やかさ、静けさ、類まれな落ち着きは、この水の水平性から生まれているのだと思います。ヨーロッパでは、小麦もトウモロコシも水を必要としないので、風景は起伏に富んでいます。すべては水のせいですね。
中沢新一「惑星の風景」より

「西と東の神」
 ユダヤ=キリスト教の神様には、失敗をしないという特徴があります。アジア人が最初にキリスト教と接触したときに、まっさきに異質だと感じたことは、神様が絶対に失敗しないということだったのではないでしょうか。実際、日本の神話を見ると、国をつくったり文化を発明したりする神々は、多くの場合失敗を犯して、その失敗の成果が、かえって人間が手にする文化になったという、とてもデリケートな表現がなされています。
中沢新一「惑星の風景」より

<俳句>
世の中は地獄の上の花見かな
十ばかり屁を棄に出る夜永哉
屁くらべが又始まるぞ冬籠

小林一茶
<革命>
「革命において、敵は制度、味方はすべての人間」
「革命は意識の変革であって、人間の抹殺ではない」

埴谷雄高

「革命あるいは解放というものの目的は、美の発見にある」
ジャン・ジュネ Jean Genet(彼はパレスチナ人やアメリカの黒人たちを支援したが、彼の願いは彼らが自由と平等を勝ち取ることではなかったらしい)

「革命とは、思想戦争なり」
北一輝

「哲学者たちは世界のありようを解釈してきたにすぎない。しかし重要なのは、世界のありかたを変革することだ」
カール・マルクス
<動物・植物>
「植物は、ひとつの種との関係を確立すると、その種に関してはずっと仲良くいてくれるようになる。たとえ親しく過ごした本体が枯れてしまっても、その子供たちはずっと裏切られない。他の土地に生えているその植物でも、連絡が取れているから、なにも変わらない。だからこそ長く生きている木はものすごい力を持つようになる」
よしもとばなな「アナザー・ワールド」より
 <その他>
<オマケ(御負け)>
 「グリコは生きる希望だった。母親から小遣いをもらうと、一粒300mのスピードで、ぼくは火事場のおばさんのもとへ走った。火事場のおばさんというのは、なぜそう呼んだのか知らないが、近所の駄菓子屋さんである。グリコはおいしかった。が、おまけはもっとおいしかった。・・・グリコのおまけは、みんな豆粒みたいに小さかった。グリコのおまけたちを畳の上に並べると、そこに小さな宇宙が出現した。・・・」
天野祐吉「おまけの宇宙」
<マティーニ>
「上等のマティーニは、あなたの人生において下されたあらゆる決断の頂点である。まばゆい啓示が訪れる時とは、いまここで新しく革命的と思えるものが、実はあなたのなかに前からずっとあり続け、眠るように横たわって完璧なマティーニを待っていたのだと発見する、その瞬間にほかならない」
「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」(編)ポール・オースターより


<人物>
<石原慎太郎>
「ちょっと毛色の違った大橋巨泉なんだね。根っこのところでは同じタイプで、実は欧米の合理主義が嬉しくてしようがない。石原さん、ほんとは好きだと思うよ、アメリカ」
ビートたけし対談集「頂上対談」より

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