- 文学、作家についての名言集 -

<作家を目指す方、文章について学びたい方へ>
 ここには、文学(小説、詩、エッセイ・・・)などについて、勉強になるお言葉を収納しています。今後、それぞれの作家や作品のページができれば、そこで使いたいものばかりです。もちろん、単品で読んでも大いにためになる文章ばかりです。特に、作家になりたいとか、文章を上手く書けるようになりたい思っている方なら必読です。
 もちろん、文学の歴史の資料としても使えると思います。今後、このコーナーは随時増えてゆくと思いますので、時々覗いてみてください。
 さらに最後のリストにあるページには、もっと奥深い文学についての作法や歴史が書かれていますので、そちらも合わせてご覧下さい!

「しかし、われわれにとって最終最後の砦は、数量的なものでなく質的なものなんですね。いまの研究も発達も、コンピューターにデータが何万入っているか、脳細胞は何十億あるかという数や量の問題であって質の問題ではない。質は人間が最後に持ってる最大の領域であって、そしてわれわれには文学がある。ギリシャ時代も、いかに自然哲学者がえばってもホメロスにはかなわない。哲学者が扱うのは水とか火とか還元できる何かであって、原子までいっても数ですね。けれども、ホメロスは質だった。」
「生命・宇宙・人類」埴谷雄高

「あなたが書くとき、結果を考えることなしに書けば、書くということを自己発見という意味に考えればいのです。創作というのは紙とペンの間でなされなかればいけません、頭の中で事前に考えたのではダメ、後の書き直しもダメ。
・・・何かがあるなら突然創作認識がやって来ます。・・・」

ガートルード・スタイン(1874年〜1946年)1935年のインタビューより

「・・・ニューヨーク州立大学で、創作講座を持っていたことがございまして、まあ教えられるものだとは思いませんが、しかし必要な条件がいくつかあることは伝えました。まずは一人で何時間もタイプライターに向かっていられないとダメですね。これができないなら、物書きはおあきらめなさい」
「それ以外の必要条件は?」
「乱読。気取った文体の人間は、読書量が足りないにちがいないと言ったのは、あれはT・S・エリオットでしたか」

ウィリアム・バロウズ(1982年のインタビューより)

「『これを書きたい!』と思って書き始めると、小説ってなかなか書けません。マテリアルが重すぎると、それを背負って進むのがつらくなります。それよりは軽い足腰が大事です。マテリアルのことはあまり考えないで、まず文章を書くことによって、自分の中にあるものを少しずつ引き出していくといいのです。あなたの中に描かれるべき何かが確実に潜んでいます。小説というのは、それを見つけていく作業です。・・・」
「村上さんのところ」村上春樹

<近代小説>
<近代小説の誕生>
「近代人を最初に描いたとされる『ハムレット』の主人公は、父の亡霊を見た。現代文学の黎明を告げた『変身』の主人公は、父の前で虫に変身する。彼らが、先駆的であったのは、どんなリアリズム小説より遥かにリアルなある『感じ』を?んだからなのだ。」
「退屈な読書」高橋源一郎

「小説」には、この世界のルールがある。けれどもその根拠は誰も知らない - ということが書かれている。カフカの「変身」には、朝起きるとただの人が虫に変わるというルールがある世界のことが書かれている。そして、これがもっとも単純かつ純粋な「小説」の形なのである。
 カフカの作品は素晴らしい。けれども、あまりに純粋すぎてなあという作家は、もう少し目に見えるルールのことを書くことにした。たとえば、野球。それは目に見える形になったルールそのものではないだろうか。

「ベイスボイル・ブック」井村恭一(著)より

<小説の特徴>
「誰かが書いとったけど、小説というジャンルは資本主義に似ているそうや。資本主義は発達するためにその周辺に未発達の辺境(『貧困』も辺境や)が必要なんや。小説も同じで、いま目をつけてるのが関西弁という『辺境』ちゅうわけや」
(町田康の関西弁小説について、もちろんこの文章は、そのまま「ロック」や「テレビ番組」などと入れ替えが可能。すべての大衆文化にあてはまること)
「退屈な読書」高橋源一郎

<何のための小説?>
「で、物書きとしてのあなたの機能は?」
「あらゆる芸術の機能と申しますのは、・・・」
「そしてこの場合の芸術には創造的な科学思想も含めてのことですが、知っていることと、知っているとは知らないことを人々に気づかせることです。というのも、なんらかの水準で相手が知っていることでないと、何も伝えることはできませんからな」

ウィリアム・バロウズ(1982年のインタビューより)

「 - 世の中から孤立し、ふたりだけで愛し合っているふたりの人間、それはとても美しいよ。でも彼らは、なんによってそのふたりだけの状態に滋養をあたえるんだろうか?たとえこの世の中がどんなに軽蔑すべきものだとしても、彼らが話し合えるためには、その世の中を必要とするんだよ。
 - 黙っていることもできるわ。
 - 隅のテーブルの、あのおふたりさんみたいに?とジャン=マルクは笑った。ああいや。どんな愛も沈黙に抵抗して生き延びられはしないさ」

「ほんとうの私」ミラン・クンデラ(著)より

 「恋愛」を持続させるためには、「軽蔑すべき」世の中を材料にした「会話」を必要とするものがもう一つあることに気づく。
 それは何?「小説」に決まってるじゃありませんか!

「退屈な読書」高橋源一郎

<文学と比喩>
 何を対象にしても、人間は愚直に向かい合い、徹底的に考えるのが苦手である。だから、わかりやすい比喩を好む。文学とは人生についてのわかしやすい比喩なのだ。
 それは妥協の産物でもあり、純文学から大衆文学までの幅は、その妥協の幅でもある。

「退屈な読書」高橋源一郎

<思い込みが生む感動>
「失楽園」や「不機嫌な果実」は人妻の性に関する社会的「思い込み」に基づいて書かれる。だから「詩的」である。小説は散文的でなければならない。散文は「思い込み」を解除する。「思い込み」から解除された世界を見れば笑う以外にないのである。

「退屈な読書」高橋源一郎

<私小説・純文学>
「たとえば、私小説作家たちは生まれてから死ぬまで「家」や「血縁」というものと戦い続けた。戦いながら同時に深い懐かしさも抱いた。彼らの個性というものは、いつも「家」や「血縁」(そして「国家」)とのきしみ合いの中で育まれた。いうまでもなく、「人生」というものはそういうきしみ合いの中で育まれた。いうまでもなく、「人生」というものはそういうきしみ合いがつくり出す音楽でもあった。そんな音楽を、いま聞くことは難しい。
 ぼくたちは「家」や「血縁」(そして「国家」)との「無駄な」きしみ合いからは逃れた。そして、個人としてはじめて他の個人と向かい合うことができるようになるはずだった。それは「勝利」のはずだった(しかし、誰にとっての?)。その結果「人生」はかつてとは違う意味を持つに至った。いや、かつての意味を失ったのである。
 しかし、どうも変なのだ。
 どうですか。毎日楽しいですか。ぼくはなんだか晴々としませんけど。」

「退屈な読書」高橋源一郎

・・・私小説作家は「私が書いているのは『私』の真実で、この世に真実のものがあるといって、これぐらい真実のものがあるだろうか。ザ・真実・オブ・ザ・真実、それが私小説なのだ。・・・
 しかし、真実としての私小説は廃れた。なぜなら、それは「面白くない」からだった。お前の日常茶飯事なんか読んだって面白くない、と読者が文句をいったからだった。では、どういう小説なら「面白い」のか。その問いに答えるため、たくさんの小説が生まれた。
 「私小説」でないすべての小説は、要するにフィクションだった。フィクションではなく、たまには「真実」も読みたいという読者には、ノンフィクションが与えられた。そして、時が過ぎた。フィクションとしての小説もノンフィクションもなんだか面白くなくなった。・・・

「退屈な読書」高橋源一郎

<本を読むこと>
「本は命なき者ではなく、本を生み出した人間の生き生きした命と同様の力を秘めている。別の言い方をすれば、本という小瓶には、本を生み出した知の結晶が詰まっている」
ミルトン「言論・出版の自由 - アレオパジティカ」より

「本は民族の記憶である」
ホルヘ・ルイス・ボルヘス

大衆小説をよろこんで読むのは、純文学の文章の深い楽しみを知らないからだろう、とぼくはいとも単純に考えている。ほんものの文章の味を知らないので、話題性やストーリーだけに、たのしみを見るのだ。かわいそうに、とぼくは思う。いまはとても、こんなことは言えない。言ったら、ばかにされるだけだろう。
 大衆文学への人々見方は「進化」した。変わったのだ。

「本を読む前に」荒川洋治

 読んだら、本をどんどん捨てていく。そういう光景をとてもよく見かけるようになった。ファンとはいっても読者ではない。ただの消費者だ。消費者の世界を、読者の世界と混同してはならない。純文学でも大衆文学でもかまわないが、読者の名にあたいする人たちがいるところでものを語るとしたら、それは大衆を見失うことだろう。
 こういう本が、いま売れているらしいが、そのことをどう思うかと、意見を求められる。そういうことがこのところとても多い。その世界の知識をもつ記者ほど、そういう質問をしてくるのだから不思議である。こちらはそれに、うまく答えないといけないらしい。みんなして、読まれるもの、売れるものにおびえているのだ、とそんなときぼくは思うのである。ぼくはこころのなかで聞き返す。「その本、読者が、読んでいるのですか」

「本を読む前に」荒川洋治
(BOOK OFFに売られている本の数と売れた数の比較対称により、その著者の本当の「読者」数を推定することは可能かもしれません)

 本に対する人間の態度は、次の二つに分かれる、とぼくは見ている。
(1)本をよく読むが、本一般に対して、情がうすい。
(2)本はあまり読まないが、本一般に対し敬虐である。
 ふつうは(1)が「読書家」と呼ばれる。だがちがうと思う。それほど本を読む習慣がなくても、ふと本を手にしたとき、それを物としてたいせつに扱うことのできる人、そういう姿勢をもつ人を(1)の「読書家」よりも上におきたいのである。

「本を読む前に」荒川洋治

<現代文学の問題点>
 読む前に、わかってしまう。見えてしまう。聞く前に消えてしまう・・・。このところ、そんな本が多いように思う。情報や社会の空気などによって、読者がその本について感じること、考えることがこれまで以上にふえたからである。本を読む前のひとときが、とほうもなく、ひろがっている。ふくらんでいる。それはもう、りっぱな、ひとつの世界である。
「本を読む前に」荒川洋治

 いい本が出ても、読者に浸透するスピードがのろうなったのである。何冊も本を出さないと、その人の存在も思想も内容も伝わりにくい、という一般的な風潮が関係していると思う。・・・
「本を読む前に」荒川洋治

 富岡氏は、小説の言葉からも「コブシ」がなくなったという。書かれたとおりのことはわかっても、それ以上身体に響かない感じのする文章が多いのは、「言葉が身体的な経験」になっていないからだと。だとしたら「音読」はいいことかもしれない。
 コブシやリズムが失われてくるのは「自分の内側からつくったり、感じたりする言葉に比べて、外側から流入する知識の量が多くなり過ぎ」、「その流入に対して抵抗力がない」ためだ、と中村氏。

中村雄二郎、富岡多恵子の対談「言葉の力」より

・・・ぼくが出向く大学の文学部でも、学生どうしが文学談義をする姿はほとんど見かけない。文学を語る学生は「暗い人、変な人」。相手にされなくなるからだ。
 すでに「文学部」のなかでは、文学が消えている。それが現実。このままだと次は「文芸誌は必要か」。そして「芥川賞は必要か」。近い将来には「文学は必要か」となるはずである。

「本を読む前に」荒川洋治

 国際舞台への関心は、今日に国際化時代と結びついている。文学作品のなかには絶対に翻訳不能なもの、他の国にはわかってもらえないものもある。だが「国際化」が強迫観念として働くいまのような時代には、国境を越えられないものは二流のものだとの見方が生まれ、文学者の意識を歪ませることにもなる。
(村上春樹に代表されるグローバル化する小説の世界は、それだけがすべてではない!)
「本を読む前に」荒川洋治

<様々な作家たち>
<池波正太郎>
「私が子供のころの、東京の下町に住む人々にとっては、その居住区域が一つの[国]といってもよかったほどで、たとえば浅草なら浅草、下谷や入谷に住んでいれば、そこで、ささやかながらも生活のすべてが過不足なくととのえられていったのである。
 仕事をもつ男たちは、他人の土地へも出て行ったろうが、女や子供たちは、ほとんど一年中を自分が住む町ですごした。
 そこには、かならず、小さいながらも映画館があり、寄席があり、洋食屋も支那飯屋も、蕎麦屋も鮨屋もあって、目と耳と口をたのしませる手段に『事を欠かなかった・・・』ものなのだ」

「散歩のとき何か食べたくなって」池波正太郎
 池波正太郎の本領はこんなところにもある。世界が小さかった頃をユートピアと感じることのできる人がいる限り、彼はずっと読まれ続けるだろう。
「退屈な読書」高橋源一郎

<ギュスターブ・フロベール>
「フロベールが書いたのは、『志望』は『夢想』と同じであるということだった。ただ『志望』するだけで、『ほんものの』恋とも『ほんものの』芸術ともついに無関係に終わる人々。それが『ふつうの』人たちの運命なのだ。
 そして、フロベールによってはじめてそんな『ふつうの』人たちが小説の主人公になったのである。」

(「ボヴァリー夫人」について)
「退屈な読書」高橋源一郎

<夏目漱石>
 人は、漱石が古びぬのはそこに「不易の心理」を描いたからという。紫式部や芭蕉は「不易の真理」を描いたから、いまでも読むことができる。しかし、「明暗」が面白いのは、「不易」だからではない。漱石が、わたしたちの「隣人」だからではないか。紫式部や芭蕉は「偉人」ではあっても「隣人」たりえぬのである。・・・
 もし、遠い時代の彼らがわたしたちを眺めたら、やはり違いはほとんどなく、ただ輪郭がボヤけているだけだと思うであろう。そして、その理由を、距離の遠さに求めるだろう。だが、それは間違いなのだ。こちらから見える彼ら「隣人」は遠くにあって、なお鮮明な姿を保っているからである。
「退屈な読書」高橋源一郎

 「続き」が読みたくなるのは、ミステリーが典型であるように次々に何が起こるかわからなくてワクワクするから - というのはほんとうのようなウソである。なぜなら、新聞小説の大先輩、漱石の多くの作品ではびっくりするような事件はなにも起こらない。なのに、一度読みはじめると(「明暗」にしろ「それから」にしろ)止まらない。それはどう考えても「続き」が読みたいからなのだ。では、漱石の「続き」とは、ぼくがいままで書いてきたマンガやミステリーの続きは違うのか。実は同じなのである。ぼくは、漱石の最大の発見はそのことなのではないかと思っている。それは微分すれば「日常」の中に見つかる「続き」性なのだが、おっと「続き」はまたいつか。
「退屈な読書」高橋源一郎

<二葉亭四迷>(リアリズムによって、「平凡」な社会を描き出し近代小説を生んだ作家)
 二葉亭四迷こと長谷川辰之助とはどんな人であったのか。簡単にいうなら、彼は現代日本語のスタイルを作った人であった。当時、小説家には戯作や漢文崩しの文章し使える武器がなかった。一部の作家はドイツ語や英語やフランス語の原文から小説を読んでいたが、それを翻訳として移し替えることのできる日本語はなかった。明治維新から二十年、文化と精神は刻々と近代のものとなっていったのに、それを表現する言葉は古い時代のものだった。二葉亭四迷はたった一人で、小説を書くことのできる日本語をつくり出そうとしたのである。彼が創出した日本語をぼくたちは「言文一致」の文章と呼んでいる。それから百年、作家たちは二葉亭四迷の味わった苦しみだけは知らずにすんだのである。
「退屈な読書」高橋源一郎

「人生は見えるところある限りの存在で、その奥にはなにもない」
 これが「平凡」(二葉亭四迷作)に収められた思想である。人は文学に救いを求める。だが、二葉亭は「救いなんかあるもんか」といった。
「人間は平凡に生きて平凡に死ぬ。それはただ退屈なだけだ」といった。それ故、二葉亭は文学の敵となったのである。

「退屈な読書」高橋源一郎

<マルキ・ド・サド>
「『ソドム百二十日』は密閉された城内で百二十日間にわたって、想像力のすべてを駆使して行われる(死をもって終わるしかない)性的乱交のスケッチだ。そこで、人間はただただ性交し、相手を徹底して卑しめ、『善き人』はただそれだけの理由で意味もなく殺害される。けれども、読んでいて醜悪な感じを受けることはなく、最高の詩を読んだ時のように、すべての判断が停止し、頁から目を上げると、目の前の世界が夢の中のそれのように儚く見える。
 『ソドム百二十日』が異様な感動を与えるのは、たぶん、この作品が『死者の視点』から書かれているからだとぼくは思っている。
・・・死んだ人間から見れば、恋愛小説も真面目くさった純文学もSFも、生きている人間が生きる理由を探して右往左往しているにすぎない。つまり「同じ穴のムジナ」というわけである。」

「退屈な読書」高橋源一郎

<吉本隆明>
・・・文学もまた政治とまったく同じく、誰かをあるいはなにかを代表して発言する。どんなに孤独に見える私小説作家もそれを免れない。たとえば、彼は「人間」あるいは「弱者」を代表している。代表しているということは、(あるいは代表している)自分を正当化しようとして政治的発言をしているということである。わたしたちは政治や政治家たちをとことん嫌悪している。ならば、なぜ文学者たちをも徹底して嫌悪しないのか。政治家と文学者はまったく同じことをやっているのである。この三人はそのことを表現の中心に据えた。物書きとしての退路を完全に断ったのである。埴谷雄高はついに唯一の長編小説を完成することなく去り、谷川雁は早々と詩作を放棄し、吉本隆明だけが生き残った。

 著者は作品の言語構造を四つに分けて考える。まず「韻律」、次に(場面の)「選択」、(対象・時間の)「転換」、そして「喩」。この四つが言語表現に美的な価値を与える根本要素であり、それがすべて。「主題」は除外されることになる。
「詩人・評論家・作家のための言語論」について

「本を読む前に」荒川洋治

<文学論に関する評論集>
「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」
Nesperez pas vous debarrasser des livres」
ウンベルト・エーコ Umberto Eco
ジャン=クロード・カリエール Jean - Claude Carriere
書物の歴史とネット社会誕生後の書物の未来
「一億三千万人の小説教室」 高橋源一郎
Genichiro Takahashi
小説家になりたいあなたへの「How To」本
「小説作法」 スティーブン・キング
Stephen King
大ベストセラー作家による小説の書き方
「ニッポンの小説 百年の孤独」 高橋源一郎
Genichiro Takahashi
近代日本文学(小説)の歴史とその危機的未来
「さよなら、ニッポン ニッポンの小説2」 高橋源一郎
Genichiro Takahashi
小説の限界と小説の未来を追及した探求の書
「村上春樹 雑文集」 村上春樹
Haruki Murakami
村上春樹が様々な雑誌などのために書いてきた文章
文章を書くための必要事項についても参考になります
「いまファンタジーにできること」 アーシュラ・K・ル=グウィン
Ursula K.LeGuin
ファンタジー文学とは何か?
ル=グウィンによるファンタジー論
「東京大学で世界文学を学ぶ」 辻原登  近代小説から現代小説への進化を学べる書
「ドン・キホーテ」と「ボヴァリー夫人」・・・

<参考>
「退屈な読書」高橋源一郎(1999年)朝日新聞社
「本を読む前に」荒川洋治(1999年)新書館(荒川洋治は1949年福井生まれの現代詩の作家です)
「インタビューズ スターリンからジョン・レノンまで」クリストファー・シルヴェスター(編)(1993年)文藝春秋

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