赤狩り アメリカ映画界を揺るがした赤狩りの犠牲者たち
映画音楽の誕生 サン=サーンスから始まった映画音楽
戦意高揚映画 第二次世界大戦中に生まれた戦争映画
ニッケル・オデオン 5セントで見られる映画劇場(映画の大衆化)
ヌーヴェルバーグ 1950年代にフランスから始まった映画の革新運動
ネオ・リアリズモ 1945年前後にイタリアから始まったリアリズム映画の流れ
チネチッタ  ファシズムが生んだヨーロッパ最大の映画スタジオ
ハリウッド 映画の聖地、ハリウッドの誕生
リュミエール兄弟、ジョルジュ・メリエス 映画の発明者

<取り上げている項目>
映画とは? 俳優・演技 映画とファシズム 検閲について フィルム・ノワール グループ・シアター アクターズ・スタジオ アメリカン・アカデミー
シネマテーク シネマ・ヴァリテ ウォルト・ディズニー アニメーション 映画評論  技術的な専門用語    


映画とは?

 映画は生産されるものではないのである - 文学や絵画や音楽が生産されるものではないように。ワインの当たり年があるように映画の当たり年があるわけではないだから。
 美しい映画というものはいわば不慮の出来事なのであり、既成の価値体系に足掛けをくらわせるものなのだ。
 こうした映画こそ、規制など無視した異端の映画であり、、呪われた映画なのである。

ジャン・コクトー(1949年「呪われた映画フェスティバル」にて)

「映画は、考えぬくものだ。光について考え、音について考え、自分について考え、他人について考え、世界について考える。あらゆることを考えぬいた映画にしか、「映画」は宿らない。それだけが真実だ。
 そして気をぬいたところには、必ずボロが出る。考えぬく気力を失った時、映画もまた、死ぬ。
 とんでもない世界に、足を踏み込んだものだと、思っている。」

市川準

「記録を記憶にするためにフィクションは生まれた。記録は忘れられるが、記憶は忘れられない」
大林宣彦

「観客は必ず登場人物の誰かに肩入れしてしまう。そんな人間の本能を利用するエンターテイメントが映画である」
岩井俊二

「映画は明日の新聞であり、学校であり、劇場である。」
シャルル・パテ(フランスの映画会社「パテ社」オーナー)(1903年)

「映画は超現実の創造者だ」
ギョーム・アポリネール(1909年)

「現存する映画に対するわたしの態度は、極度に否定的である。いまだに使用されていないが、間違いなくうちに秘められている映画の方法を追求すること - これがわたしのさしあたっての仕事だ。」
メイエルホリド(1915年)

「映画の発明にかかわってきた者たちは、重大な過ちを犯している。映画を演劇の、色彩なき鏡、声なきこだまと化してしまったのだ。私たちはスクリーンと舞台との間に区別を設け、映画芸術を演劇芸術から切り離す必要がある。」
ギョーム・アポリネール(1919年)

「何が間違っていたのかと言えば、映画が美術であるとあまりに早く決めてかかったことだ。」
ルネ・クレール(1923年)

「ただ、私たちは肉体であり、熱でありさえすれば、すぐれた撮影監督は、その肉と熱と元気とから、潑刺とした性格と生命とを作り上げてくださるのでございます。そうして当然撮影監督の所有であるべきはずの世間の賞賛を、そっくり私たちに投げ与えてくださるのでございます」
浦辺粂子(1924年)

「映画芸術は外的運動というよりも、内的運動の表現の芸術である」
ジュルメーヌ・デュラック(1925年)

「映画もまた夢ではないだろうか」
ポール・ヴァレリー(1944年)

「こんなにすばらしい電気仕掛けのおもちゃを与えられた子供が、かつていただろうか」
オーソン・ウェウルズ(1941年)

「映画が自らに加える様々な改良は、すべてみな、逆説的に言えば、映画をその起源へと近づけることしかできないのだ。要するに、映画はまだ発明されていないのである!」
アンドレ・パザン(1946年)

「・・・レンズを通して覗かれた日常が喚び覚ますのは、生き生きとした現実に隠された死の貌である。映画は、かならず終結へ向う。その映画的暗闇に継起する事象のすべてが、死の演習にほかならない。そして、<死>と向かいあう場は闇でなければならないはずだ。」
武満徹(1982年)

「映画の火とは神から来たものなのです。テレビにおける光は神から来たものではなく、人間によって考えつかれたものです。物理的な現象について言うのですが、映画館の座席に座って、スクリーンに向っているとします。しかし、映写室からスクリーンに届く光は、空気を突き抜けているのです。この空気そのものは、神によって作られた謎めいたものなのです!それが、光がスクリーンに到達するまでに与えられているのです。もうひとつ、これは大事なことですが、スクリーンに映写室の穴から光が届きます。その間の客席には観客が座っています。この観客はみんなオーラを発しているのです。このオーラが、高く高く昇っていて、この映画館全体を覆います。観客のオーラを通過しなければ映写室からの光はスクリーンに届くことができないのです!」
アレクサンドル・ソクーロフ(1995年)

「・・・いわゆる映画というものを知る前からわたしはすでにフィルムを知っていた。当時、わたしたち小学生はみんなフィルムの断片を集めてアルバムを作っていたのだ。ちょうど切手帖のように。わたしは俳優の名前も知らずにたくさんの男女の映像を手にしていた。・・・これらの映像 - その大部分が俳優のクローズアップだった - はわたしのアルバムにたどりつくまでに多くの人々の手を渡った。ただひとつ、切手帖とちがったのは、フィルムを見るためにはそれを光にかざさなければならないということだ。」
アッバス・キアロスタミ(1994年)

「映画を見る時、風景に目が行く。風景がいいと、そのなかの人間の姿もはっきりとした形を見せる。いい風景といっても観光絵葉書のようなきれいな風景ではない。むしろ、ふだん忘れているような、あるいは、身近にありながらあまり語られないようななんでもない風景である」
川本三郎「映画を見ればわかること(2)」より

俳優・演技
「私がいつもひっぱりだこだったのは、観客に多くをあたえすぎないようにしていたから。気をもたせるようにしていたの。いまのテレビじゃあっというまにしぼりかすにされてしまう。偉大な人物っていないでしょ。まえは世界中にいたのに。」
 ジャン・ルノワールが言ってました。女優は女よりも女らしいが、男優は男よりも男らしさに欠けると。
「私はうつもたくましい男にひかれてきた。俳優にはそういう男性は少ないようね。好きだったのは、ボクサーやレスラーやボディビルの選手たち。・・・」

メイ・ウェスト(女優:1893年~1980年)1984年のインタビューより

カメラです。もしよろしければ・・・
「女性とはカメラにおさまらないの。写真のなかの自分も好きじゃないし。男に囲まれているときのは別だけど。自分の写真はとびきりいいものだけをとってあるわ。人はいつも頭のなかに自分の最高の写真をしまっておかなくちゃいけないの。あらゆる角度から見た自分の美しい絵姿を持っていなくちゃいけないの。・・・」
メイ・ウェスト(女優:1893年~1980年)1984年のインタビューより

<ケーリー・グラント>
 ロマンティックな男性スターは必ずしも性的に攻撃的である必要はない。ヘンリー・フォンダだそうだった。それにジェームズ・スチュアートも、そして後にはマルチェロ・マストロヤンニも、そうだった。気軽に女に言い寄るあけすけなクラーク・ゲーブルのやり方は例外的であって、それが典型にはならなかったのである。・・・
 ゲーブルの演技に性がからんでくると、はげしく野蛮な魅力がみなぎる。何もかもがむきだしだ。彼が女性を見る目つきはオスがメスを見る目つきそのものだ。ケーリー・グラントは、決してそんな風には女性にチャレンジしない。・・・ケーリー・グラントの興味をひきつけるものは、一人ひとりの女性の持ち味 - 快活な言葉遣い、論理の飛躍、声のはねあがる様子など - である。

ポーリン・ケイル

映画とファシズム
「北朝鮮の国民たちは映画をつねに義務的に観て学習するが、誰も監督や俳優の名前を知らない。俳優たちは顔があるが名前はない。主役であれ、端役であれ、出演して観客たちに感銘を与えると、映画の中の役名が自分の名前になってしまう。・・・
 このように俳優と監督などの出演人と製作陣の名前を明かさないのは、金日成と金正日以外には誰にも国民にアピールしたり有名になったりしてはいけないためだということを後になって知った。」

中相玉(シン・サンオク)

「20世紀が生み出し得た三つの文化的生産物が映画産業、精神分析、ファシズムである」
四方田犬彦「映画史への招待」より

「・・・1934年のニュルンベルグ党大会のさいにナチス党員たちの行進を英雄的なスペクタクルとして演出しようと用いられた魔術的な照明は、ハリウッドのフォン・スタンバーグがマレーネ・ディートリッヒの脚線美を称えるさいに用いたそれと、本質的にはなんら変わるところがないからである。彼らが喚声をあげるスタイルは、ラングのSF映画「メトロポリス」の群集場面を踏襲するかたちで演出された。ヒトラーがドイツ映画にナチズムのイデオロギーを偽造させたという表現は不充分であり、間違ってもいる。正確にいうならば、彼はドイツそのものをイデオロギーの表象物として、映画的な存在へと作り替えてしまったというべきである。そこでは第三帝国は巨大な映画的スタジオとなり、ドイツ国民とナチス兵士は俳優となる。そしてヒトラーはそのすべてのうえに、スーパースターとして君臨するのだ。」
四方田犬彦「映画史への招待」より

検閲について
検閲のことはどう思ってらっしゃいますか。
「検閲はあって当然。私の映画がX指定をうけなかったら、侮辱されたって感じるっでしょうね。忘れないでちょうだい。私が検閲の生みの親なの。・・・
 検閲の扱い方は心得ていたわ。削られることうけあいのセリフをわざといれて、それをおとりにするわけ。検閲官にも少しは仕事をさせてあげなくちゃ。ヘイズ・オフィスは私が作りあげたようなもの。私の映画があったから仕事ができたのよ」

メイ・ウェスト(女優:1893年~1980年)1984年のインタビューより

フィルム・ノワールとは?
 1940年代に一時代を築いた「フィルム・ノワール」は、現在でも多くの映画に影響を与え続けています。「フィルム・ノワール」とは、直訳すると「黒い映画」となるわけですが、その魅力はなんだったのでしょうか?

<フィルム・ノワールとは?>
 内容としては普通の人間が犯罪に巻き込まれ、恐怖に囚われ、運命の女が登場し、不条理で意味不明な出来事が発生する。ハッピーエンドは準備されず、欲に取りつかれた人間の愚かさを描き、人生に対するペシミズムと退廃趣味が横行する。そして回想形式の一人称のナレーションによってストーリーが展開する場合が多い。そして何よりも、主人公は社会に疎外され、何かに追いつめられ、ほとんどが破滅してゆくという設定を伴う。
 映像表現では、斜線・垂直線の構図、ディープ・フォーカスや下からの照明、白黒のコントラストの強調、影、暗い色調、登場人物の心象を表現する風景の多用(例えば水のシーンの多用)など、数多くの特質を有している。そしてそこにはドイツ表現主義やユニヴァーサルのゴシックホラーの影響が認められると分析する者もいる。実際ドイツ表現主義の洗礼を受け、ゴシック・ホラーの制作に関わった多くの人間がフィルムノワールを作っていたからである。
・・・そうした映画が作られた時代は、大恐慌の荒廃とともに始まり、マッカーシズムの終わりとともに終焉を迎える。

福井次郎「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」より

<フィルム・ノワールという呼び名について>
 なおこの言葉自体は、フランスの雑誌「レフラン・フランセ」(1946年8月号)で、映画評論家のニーノ・フランクによって最初に使用された。その後フランスで「黒い映画」に関する活発な議論が展開されるが、日本では、55年にジャック・べッケルの『現金に手を出すな』が公開された時、映画評論家の飯島正が初めてこの言葉を使用した。ところが本家のアメリカでは、ニューシネマが流行する60年代後半までフィルムノワールという言葉は使用されなかったらしい。つまりアメリカでは、フィルムノワールは単なるB級犯罪映画でしかなく、一度は人々の脳裏から忘れられた映画であったのだ。・・・
 そしてこれら一連の映画は、ユダヤ系に限って言えば、ほとんど亡命作家によって作られていることは先ほど確認したばかりである。フィルムノワールが、その根源にナチスを追われてきた人達の不安があったと言われるのはそのためであるが、彼らはこの時期、決してミュージカルやコメディ、さらにヒューマンドラマを作る気にはなれなかったのだ。

福井次郎「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」より

<悪女(ファム・ファタール)について>
 フィルム・ノワールに欠かせない存在に「悪女(ファム・ファタール)」の存在があります。もちろん、「悪女」はフィルム・ノワール以外の作品にも数多く登場していて、「サスペンス映画」、「恋愛映画」にとっても、非常に重要な存在といえます。どれだけ多くの登場人物たちが「悪女」に騙されてきたことか・・・。
 そうした「悪女」の原点の一つはオペラ「カルメン」のカルメンであるという歴史ノンフィクション作家の塩野七生は、映画「白いドレスの女」(1981年)のウィリム・ハートや「嘆きの天使」、「カルメン」の男たちについてこう書いています。(ちなみに、「白いドレスの女」の「悪女」はキャスリン・ターナー)

・・・あの男たちの胸の奥には、悪女にほんろうされてみたいという願望が潜んでいたのではないか。それが、多少とも悪女の素質をもつ女の出現で、火が点けられたのではないだろうか。
 悪女が、もともとから存在したのではない。もともと存在したのは悪女を願望する男たちのほうであって、悪女はこの種の男たちの創造物ではないか。サディズムは、マゾヒストなくしては存在しえないのである。

塩野七生「人びとのかたち」より

<フィルムノワールの代表作>
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年)
(監)ルキノ・ヴィスコンティ(原)ジェームズ・M・ケイン(出)マッシモ・ジロッティ、クララ・カラマーイ
(フィルム代表作であると同時にイタリアにおけるネオ・リアリズモの原点ともなった映画史に残る作品)
「深夜の告白」(1944年)
(監)ビリー・ワイルダー(原)ジェームズ・M・ケイン(出)バーバラ・スタンウィック、フレッド・マクマレイ、エドワード・G・ロビンソン
「飾窓の女」(1944年)
(監)フリッツ・ラングA(原)J・H・ウォリス(出)エドワード・G・ロビンソン、ジョーン・ベネット
「ローラ殺人事件」(1944年)
(監)オットー・プレミンジャー(原)ヴェラ・キャスバリー(出)ジョン・ティアニー、ダナ・アンドリュース
「青い戦慄」(1946年)
(監)ジョージ・マーシャル(原)レイモンド・チャンドラー(出)アラン・rタッド、ヴェロニカ・レイク
「殺人者」(1946年)
(監)ロバート・シオドマーク(原)アーネスト・ヘミングウェイ(出)バート・ランカスター、エヴァ・ガードナー
「湖中の女」(1946年)
(監)(主)ロバート・モンドメリー(原)レイモンド・チャンドラー(出)オードリー・トッター
「潜行者」(1947年)
(監)デルマー・デイヴィス(原)デヴィッド・グッディス(出)ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール

グループ・シアターとは?
 1919年に創立されたアメリカ現代劇の草分け的劇団「シアター・ギルド」から分かれた劇団。そもそも「シアター・ギルド」には、モスクワ芸術座の演技メソッドであるスタニスラフスキー・システムを学んだ亡命俳優や舞台監督が何人かいた。30年代のハリウッドで活躍したリチャード・ボレラフスキー(監督)やマリア・ウスペンスカヤ(女優)などだ。彼らからスタニスラフスキー・システムを学んだ若手が1931年に創設したのが「グループシアター」だった。
 創設者はハロルド・クラーマン、リー・ストラスバーグらであるが、参加者としては、ジョン・ガーフィールド、クリフォード・オデッツ、J・エドワード・ブロムバーグ、モーリス・カノフスキー、ルーサー・アドラー、ステラ・アドラー、リー・J・コッブ(以上はユダヤ系)、ハーバート・ビーバーマン、エリア・カザン、アート・スミスなど。
 当時「グループシアター」の座員は、30年代後半に多くの者が共産党に入党し、35年にニューヨークのタクシー運転手のストライキを描いた「レフティを待ちながら」(クリフォード・オデッツ作)で大成功を収めていた。・・・しかし、1940年に解散。
 50年代に入ってからの「赤狩り」に際しては、メンバーのほとんどが非米活動委員会の召還を受けることになるが、エリア・カザンとクリフォード・オデッツ他数名が転向した。1947年に「グループシアター」から別れたエリア・カザンとリー・ストラスバーグは、新たな俳優学校を創設します。それが「アクターズ・スタジオ」です。
「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」福井次郎(著)より

アクターズ・スタジオとは?
 1947年エリア・カザンの呼びかけで舞台演出家ロバート・ルイスと演出家・女優のシェリル・クロフォードの3人で設立した俳優教育機関のこと。
 1949年に芸術監督として、リー・ストラスバーグが参加し、1950年には運営の責任者となります。エリア・カザンは、かつてグループ・シアターに入団し、リー・ストラスバーグの指導を受けています。
「メソッド(メソード演技)」
 グループ・シアター時代に、リー・ストラスバーグが理論化し、実践し始めた演技法。
・・・人生には、これから演じようとしている場面の感情的動きに通じる体験があったはずだ。一拍おいて、そのときの周辺のディテールを思い出し、それを念頭において各場面の演技を進めるべきだ、と。・・・
リー・ストラスバーグ

 リー・ストラスバーグの指導法について、愛弟子のエリア・カザンはこう語っています。
 彼は予言者、魔術師、呪術医、精神分析医、あるいはユダヤ人家庭の畏怖される父のようなオーラを身につけていた。・・・
 演技の基礎的訓練を施しつつ、グループ・シアターが依拠する芸術上の原則、芸術的訓練の指標を確立しようと励んでいた。彼は三十余名の劇団員を糾弾し、”筋金入り”にする原動力になっていた。それを可能にしたのは、卓抜な知識だけでなく、凄まじい怒りによる恫喝だった。


 しかし、アクターズ・スタジオが広めた「メソッド」は、あまりに広まり一般化してしまったがゆえにその反動も出てきました。リー・ストラズバーグの愛弟子であるエリア・カザンも、「メソッド」についてこう疑問をていしています。
 連想を刺激することによって、埋もれていた情熱を掘り起こすテクニック、”感情の想起”として知られる方法は、もはや奥義でも何でもない。わたしたちはプルーストのマドレーヌやそれが生起するものについて知っている。だが、真の演技がそういう心理的トリック - 初心者には驚異に映るので、教師が得意になって披露する - にのみ存すると信じれば大がかりな感情のショーを見せられるかの競争に。・・・

 ハリウッドを席巻した「メソッド」は、ある意味20世紀後半の映画の基礎になったともいえそうです。そのことは、「アクターズ・スタジオ」の生徒たちの顔ぶれからも明らかです。
 マーロン・ブランド、ジェラルディン・ペイジ、ジェームス・ディーン、デニス・ホッパー、ジュリー・ハリス、ポール・ニューマン、フランチョット・チョーン、バート・ランカスター、シェリー・ウェインタース、ダスティン・ホフマン、イーライ・ウォラック、エヴァ・マリー・セイント、アル・パチーノ、エレン・バースティン、リチャード・ハリス、ジル・クレイバーグ、ジャック・ニコルソン、スティーブ・マックィーン、マーティン・ランドー、シドニー・ポワチエ、チャールズ・ダーニング、ロバート・デュバル、ウォルター・マッソー、サリー・フィールド、チャールズ・グローディン、ジーン・ハックマン、ロバート・デ・ニーロ、ハーヴェイ・カイテル、メリル・ストリープ、ジョン・ヴォイト、クリストファー・ウォーケン、アレック・ボールドウィン、マリリン・モンロー・・・
 80年代以降でも、その分校であるLA校にはジュリア・ロバーツやブラッド・ピットも通っていたようです。

 心理的演技、「内面的」演技の勝利とともに、マーロン・ブランド以降の「現代的」な、しかし暗い不安にみちたアメリカ映画史がはじまる。それは時代の変化に、現実に、即した必然だったのだろうが、ある面ではハリウッドが、アメリカ映画が、ニューヨークの - つまりは演劇の - 力に屈し、アクターズ・スタジオに浸蝕され、支配されていく歴史でもある。
「何が映画を走らせるのか?」山田宏一

 ダスティン・ホフマンとジャック・ニコルソンとロバート・デ・ニーロの3人がアメリカ映画をダメにした、と私は思っている。
・・・・・
 理由は、私の思うには、神技に近しと言ってよいくらいに巧みな、彼らの演技のすばらしさにある。しかも、これが脇役であったならばまだ救われるのだが、主役でもって押してこられるからどうしようもないのだ。
 昔は、彼らのような演技の達者な俳優は、脇をかためるほうにまわっていたのである。演技の上手い、つまりは映画評論家あたりにはやたらと評判の良い俳優は、演技者ではあってもスターにならなかた。それが今や、巧みな演技者イコール、スターの時代になってしまったのである。
 その結果はどうだろう。
 私の場合だと、人間世界を憎しみはじめている。彼らがあれほど見事に示してくれるものだから、もうほとんど突きつけられているという感じさえもってしまうのだが、それによって示される人間世界の現実に、わかりましたよ、でももうけっこう、の心境だ。・・・
 この三人に比べられる女優側の代表者となればメリル・ストリープと思うが、私は彼女が大嫌いである。人生の苦悩を一身に集めたような顔はしないでよ、それこそ傲岸不遜というものです、とでも言いたくなる。

塩野七生「人びとのかたち」より

アメリカン・アカデミーとは?
 ロシアから持ち込まれた演劇システムであるスタニスラフスキー・システムに対抗するかたちで創設された演劇学校。スタニスラフスキーが形よりも感情を重視するのに対し、形を重視する演劇理論に基づいている。卒業生の中には、スペンサー・トレーシー、キャサリン・ヘップバーン、カーク・ダグラス、ローレン・バコール、グレース・ケりーら豪華な顔ぶれがいた。
福井次郎「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」より

シネマテークとは?
 フランスでアンリ・ラングロワが始めた映画フィルムなどの保存とその公開活動。その創設者「シネマテークの父」アンリ・ラングロワとは、どんな人物だったのか?
「シネマテークは、いわば、大洪水の恐怖におびえていた動物たちを一堂に集めて乗せたノアの箱舟だった」
 1934年、ジャン・ヴィゴの幻の名作「アタラント号」を見たラングロワは、サイレント、トーキー両方の映画フィルムを保存のために集めようと決意します。
 1936年、友人のジョルジュ・フランジェと共にシネマテーク・フランセーズを設立します。(この時、ラングロワ22歳!)
 彼らは、ただ単にフィルムを収集するのではなく、それをシネクラブに集まる仲間たちに見せることを重視。そのクラブからは後のフランス映画を支えることになる新たな世代(ヌーヴェル・ヴァーグ)が登場することになります。
 残念ながら、彼の活動は一代限りとなりますが、その活動はフランス政府や海外の保存活動家の目標となりました。
「シネマテークは、アンリ・ラングロワの浴槽から生まれた」
(当時、映画のフィルムは可燃性だったため、火事になっても大丈夫なように風呂場の浴槽にいれていたらしい)

シネマ・ヴァリテ
 フランス語で「真実の映画」という意味で、人類学的な記録映画を製作する際の手法で、できるだけ人為的な作為を用いずに撮影・編集を行う試みのこと。「人為的に環境を作ることによって隠された真実を浮かび上がらせる」ことを言い、その元祖とも言われるのが、フランスの文化人類学者でありドキュメンタリー映画作家のジャン・ルーシュです。
<ジャン・ルーシュ>
 ジャン・ルーシュ Jean Rouchは、1917年5月31日にパリで生まれています。父親はモナコ海洋博物館の館長であり、気象学者でもあった人物で、彼もまた大学で民俗学を学びました。
 1941年、24歳の時、彼は土木技師としてアフリカのニジェールで暮らし、その後も、フランスとアフリカを行き来しながら、アフリカの人々の暮らしを映像で記録し始めます。「割礼」(1949年)、「気違い祭司たち」(1954年)、そして、シネマ・ヴァリての記念碑的作品と呼ばれる「私は黒人」(1958年)を撮ります。
 その後も、「ある夏の記憶」(1960年)、「シギ」(1981年)などの作品を製作し、2004年2月18日ニジェールで自動車事故によりこの世を去りました。享年86歳でした。
 シネマ・ヴァリテとは、ドキュメンタリーのひとつの流派ではない。一口にシネマ・ヴァリテといっても、現実を前にした各人のアプローチはまるで違っているし、記録という意味でも各人のやり方はまったく正反対なのだ。例えばルーシュは、対象となる人々にあらかじめ撮影を予告しておく。したがって、被写体となっている人々は、カメラの前で自分自身を演じることになる。ルーシュは対象となる人々に誠実なのだ。
 一方、レシャンバックは、できるだけ隠し撮りする。彼は観客には誠実だが、カメラの被写体となる人々に対してはそうではない・・・。

 ルーシュの作品は、ジャン=リュック・ゴダールに大きな影響を与え、それがヌーヴェル・バーグのい作品にまで広がることになりました。ゴダールは1958年「私は黒人」を観てこう書いています。

・・・ジャン・ルーシュの映画では、すべてが斬新だ - シナリオも撮影も録音も。
 登場人物は、ニジェールの首都ニアメーからコートジボアールの首都アビジャンの郊外の現地民居住区トレシュビルに流れてきた若者たちで、エドワード・G・ロビンソン、エディ・コンスタンチーヌ、ターザン、エリート、ドロシー・ラムーアといったあだ名を持ち、ジャン・ルーシェが明らかに手持ちでまわしているいる16ミリ・キャメラの前で、そのときに即興的に演じているのだが、そのキャメラの前で、そのときどきに即興的に演じているのだが、そのあと、ルーシェは彼らにラッシュ・フィルムを見せて、何でも思いのままにしゃべらせたのである。このやり方で、熱気にあふれた自由奔放なおどろくべきせりふが生まれた。ロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』(1945年)が第二次世界大戦直後の世界にとって青天の霹靂であったように、『私は黒人』はフランス映画にとって驚天動地の事件である。

ジャン=リュック・ゴダール「アール紙」1958年12月号より

 「シネマ・ヴァリテ」は劇映画をドキュメンタリーのように撮る手法としてその定義が一般化(というよりも、風化)してしまった用語だが、ジャン・ルーシュにとっては、むしろ、ドキュメンタリーのなかに人間のドラマ(というよりも、アクション=行動)を生のままぶつけるという独自の映画的手法だった。
山田宏一

 その後、彼は民俗学研究における映画の重要性を強調して「国際民族学社会学フィルム委員会」を設立した「映像民俗学」の発展に尽くします。さらにアンリ・ラングロワ亡き後の「シネマテーク・フランセーズ」の館長をへて、ユネスコの「映画・テレビ委員会」の委員長を務めています。

「わたしにとって、映画とはキャメラがとらえる人間たちとの共謀関係にほかならない」
ジャン・ルーシュ

ウォルト・ディズニー
 思えば、ディズニーの生涯とは、ユダヤ人との闘いに明け暮れた人生だったのである。彼をそうさせた主な理由は、ユダヤ人が映画配給を握り、彼のアニメを安く買い叩いたからである。(ただし、彼に資金を出資してくれたのもまたユダヤ人だったが・・・)
「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」福井次郎(著)より

 彼はメジャーから独立した独立映画制作者協会(IMPA)に加盟し、映画界における独占禁止法の制定に尽力していた。IMPAにはチャップリンも加盟していた組織だったが、反メジャーという組織の性格上、メンバーには反ユダヤ主義者が何人か含まれていた。ディズニーはやがてそうしたグループに取り込まれてゆく。そしてFBIのフーヴァーとも深い関わりを持つようになる。フーヴァーは、消息不明のディズニーの父親を捜索するという仕事を引き受けるが、その見返りに、ディズニーはFBIの正式なスパイとなって映画関係者の情報を流すようになる。こうしてディズニーは、参戦前にはファシストが裏で糸を引く「アメリカ第一」運動の支援者となり、銀シャツ党の集会に参加するようになるのだ。
 ちなみにナチの広告塔だったレニ・リーフェンシュタールは、この頃、仕事を求めてハリウッド関係者と接触した時、ディズニー以外、彼女に会おうとしなかったと回想している。

「『カサブランカ』はなぜ名画なのか」福井次郎(著)より

アニメーションとは?
 人形アニメーションは、よく錬金術に例えられますよね。死んだもの、生命のないものに命を吹き込む、という。アニメが実写映画と何が違うかというと、やっぱり一コマが静止した写真だからだと思うんです。
 いわゆる実写は、その意味では静止写真ではない。実写には一コマに「時間」が刻まれている。・・・要するに、現実の時間の半分を写しとってるわけですよね。映写するときも同じで、映ってない間の時間があるわけです。だから結局、現実の時間の半分を盗んで、それを律儀にスクリーンに戻すのが、映画なんです。
 それに対してアニメーションは、48分の1秒の持続がないんです。そのコマに「時間」がないんですね。「ぶれ」がない。だからアニメーションは映写で作られた時間なんです。・・・時間のないものが、時間として動いている。
・・・
筒井武文

映画評論について
「誰もがふたつの職業を持っている - 自分の職業と映画批評だ」
ハリウッドのことわざより

<映画評論家・ポーリン・ケイル>(2001年9月3日82歳で死去)
「この五十年間に最も大きな影響を与えた映画評論家である」
「エンサイクロペディア・オブ・フィルム」1991年2月

 (彼女は)ますます明晰、巧妙な表現で語るようになっていて、スポーツ評のように勝者と敗者がはっきりしている。彼女は審判者であり、時には情深く、時に厳しいが、製作者の心も観客の心もよくつかんでいる。彼女は映画についての情報を与えるのではなく、自分の感情について語ると同時に、ポピュラー・ライティングの芸について語るのである。分析せずに意見を述べ、自分の目をとおして観客に映画を見させる。
「フィルム・コメント」リチャード・コーリス

 彼女は勤め帰りの人たちと同じように、夕方から映画館に出かけて、映画を見てくる。そういう映画批評なら信用できる。たぶん、恋人に会うつもりで、いそいそと出かけていくのだろう。がっかりすることもあるにちがいない。歓びにふるえることもあるはずだろう。がっかりすることもあるにちがいない。歓びにふるえることもあるはずだ。暗い映画館のなかで、彼女はたったひとりでひっそりと映画に見入っている。そこに孤独な感じがある。そして、厳しさもある。彼女も私のミス・ニューヨーカーの一人である。
常盤新平

ポーリン・ケイルが熱狂的に支持した監督を挙げると・・・
 アーサー・ペンロバート・アルトマンフランシス・F・コッポラマーチン・スコセッシブライアン・デ・パルマサム・ペキンパーベルナルド・ベルトルッチ・・・

技術的な専門用語解説

<ロケハン(ロケーション・ハンティング)>
「ロケハンこそは、映画製作に入った第一段階のデッサンであり、この場所が好い加減であったりすると、その主観がぼやけて、どうにもならず、ロケハンこそは、まことに大事な場面さがしの旅と言えるかもしれない」
木村威夫
 ロケハンは、実際に撮影をする場所を探すためだけではなく、セットを作る手がかりをつかむためにも行われる。シナリオという活字で書かれた平面の世界を、映像という立体に立ち上げていくための基礎作業といえる。自分の足で、映像のキホンtなる場所を求めて、歩きに歩く。美術監督は何よりもまず散歩者であり、旅人である。
川本三郎

<異化効果>
ドイツの劇作家ブレヒトが提唱した演劇理論。日常的な事物を異様なものとして提示し、見る者の現実認識をめざめさせようとすること。今では、演劇だけでなく美術、映画などあらゆるジャンルで「異化」は用いられている。

<シークェンス Sequence>
 映画の説話行為の一単位。いくつかのシーンが集まったもの。
「ワンシークェンス・ワンショット」
 モンタージュなどを用いずいくつかのシークェンスを長回し(ロング・テイク)によって、画面を断ち切らずに撮影する手法。
溝口やジャン・ルノワールはこの手法にこだわった監督で、相米はその手法を武器にした監督。アレクサンドル・ソクーロフの「エルミタージュ幻想」はその手法を前編に用いた異色の作品。
 現実に観客が見る時間とフィルムの中の時間が同じであるため、より現実感が増し、観客は映画の中の世界に引き込まれることになります。

<モンタージュ Montage>
 広い意味では、ショットとショットをつなげ、編集してゆくこと。狭い意味では、旧ソ連の監督セルゲイ・エイゼンシュタインが唱えたモンタージュ理論のこと。異なる意味をもつショットを結合・衝突させることによって、どのショットにもないような意味を弁証法的に作り上げ、その意味どうしがさらに衝突して、より高次な意味となり、ピラミッド状に形成されてフィルム全体のメッセージを作る。
「平行モンタージュ(クロス・カッティング)」
 同じ時間に異なった空間で起きている出来事をショットずつ交替につないでいくこと。たとえば、家の中で危機に陥っている少女のショットと、その知らせを聞きつけて、郊外から救援に駆けつける兄のショットとを交替に出すことで、サスペンス効果を増すこと。

<リバース・ショット Reverse Shot>
 向いあう二人の人物を交替に描くときに、主に用いられる手法。古典的なハリウッド映画は、それまでの舞台劇の影響により、この方法は用いられず、30~45度の角度で傾いた側からそれぞれのショットを撮り、それを交互にモンタージュしていた。
 この手法は現在でも映画、TVにおける主な手法となっている。小津安二郎はあえてその手法をとらなかったことで、独自の世界を生み出した。森田監督の「家族ゲーム」は、逆に出演者全員がカメラ(正面)を向くという異色の食事シーンによって大きな話題となりました。

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