<音楽とはなんぞや?>

 ぼくは、こう考える。音楽とは、音に「かたち」を与えるものだ、と。
浦久俊彦「138億年の音楽史」

・・・僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。
村上春樹「意味がなかればスイングはない」より

 本当にすばらし演奏に接すると、その体験の記憶は一生残る。そればかりではない。鮮烈な記憶は、育ち続けるのだ。
 一度経験したことは、過ぎ去ってしまった以上は変えられない、あるいは時間とともに薄れていってしまうと思われるかもしれない。しかし実際は、脳の中で、その記憶を核として、周囲にいろんなものがどんどん生え育っていくのである。

茂木健一郎「すべては音楽から生まれる」より

 この世はままならぬことばかりである。自分の理想とはほど遠い現状に憤慨や焦燥、諦念を覚えることも少なくはない。だが、座標軸があれば、周りがどう思おうと関係ない、という潔い強さを持てる。「周りがどうあろうと、自分の中から光を発し続けていればいいのだ」という域に達することができるのだ。その光源たり得るものとして、音楽はある。

 「美しい」「嬉しい」「悲しい」「楽しい」・・・。一瞬一瞬に生身の体で感動することによって、人は、自己の価値基準を生み出し、現実を現実として自分のものにできるのである。それが「生きる」ということである。だからこそ、本当の感動を知っている人は、強い。生きていく上で、迷わない。揺るがない。折れない。くじけない。
 音楽は、そんな座標軸になる得る。

茂木健一郎「すべては音楽から生まれる」より

「音楽は人間のもっとも深遠な言語活動である。もし私たちが本当に人間であろうと望むなら、私たちは絶対に相互に結ばれていなければならない」
レナード・バーンスタイン Leonard Bernstein

「僕は音楽とは”祈り”だと思うんです。”希望”といってもいい」
武満徹 Toru Takemitsu

「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ」
アーノルド・シェーンベルク

「音楽は自らが意図することを語ることはできない。音楽が語りえないことを代わって語れるのは、哲学しかない。音楽の代弁をし、音楽の本質を明らかにし」ようとしたのがアドルノなのだ。つまり、あるピアノソナタの、ある小節から別の小節までの間の音の連なりを、言葉で表現するとどうなるのか。いや、言葉でいい換えられるのか。無理だ。ふつうはそう思う。純粋器楽には意味がなく、ただ音だけ、あるいは音の美しさだけがある - と考えてしまう。アドルノはそういう常識を木っ端みじんに粉砕する。
「ベートーベン 音楽の哲学」テオドール・W・アドルノより

「音楽は信頼への障壁を取り去り、観客を見世物に向けて団結させ調和した空間内で観察と見世物を包み込む。催眠術のように、それは観客の中の検閲官を沈黙させてしまう。それは思わせぶりだ - うまく機能すれば、われわれの批判力のほんの少し弱め、ほんの少し夢見がちにさせる」
テオドール・W・アドルノ

「ぼくらが音楽から得る快感は(ついでに言えば不快感も)、仮想的な地図づくり(マッピング)のプロセスを通じて得られることが多い。たとえば、ぼくらはある曲を、フランスらしく、ブラジルらしく、あるいは中国らしく聞こえるなどと評し、その曲を楽しんでいると言いながら、その実、フランス、ブラジル、あるいは中国での暮らしについて、自分たちが抱いているイメージを楽しんでいるのだ。」
マイケル・ボーダッシュ著「さよならアメリカ、さよならニッポン」より

「動くものも動かぬものもいっせいに鳴り物に化した夜が更ける。
 このような騒音都市の将来の宰相は、最高度に鍛錬された音感の持ち主でなかればならず、この騒音の生態を、ひとつひとつの小楽章にまとめて管制し、超前衛的オーケストラの指揮のごとき能力をもって、この都市を荘厳な一大交響楽都市として営むことをもって、民衆へのアピールとすることだろう。
 それには、鳥の羽毛よりも繊細な、なまっちょろい民衆の音楽的感性や日本的叙情性などというものを徹底的にする潰し、変質させる必要がある。」

石牟礼道子「苦海浄土」


<ポップ・ミュージックについて>
「1960年代のコンサートの観客が共同体を肯定するかのように、リズムに合わせて身体を横揺れさせていたのに対し、1970年代の観客は、自己を肯定するように、上下に跳ねる傾向があった。」
佐藤良明(評論家)

「ラジオからテレビへの流れは、流行歌からアイドル歌謡への変遷を助長した。これに続くステレオからウォークマンへの流れは、音楽の視聴環境に、ある決定的な変化をもたらすことになる。i podの開発にまでつながる、視聴環境の内向化、自閉的オタク化だそれだ。
ヘッドフォンで聴く音楽は、点滴である。」

高澤秀次「ヒットメーカーの寿命」

「・・・新谷のり子さんが唄った「フランシーヌの場合」、ベトナム戦争に抗議して自殺した人のことをテーマにした歌ですけど、時代を回顧するときにきまってデモの映像と一緒に流れる。「フランシーヌの場合」といえば全共闘運動や安保闘争のデモの映像なんですよ。それを繰り返し流すものだから、歌のイメージが映像に結びつけられてしまう。・・・」
「なるほどねえ。そうすると、新曲を出すときにテレビCMとタイアップして流すなんてのは、もっと問題だね。タレ流される映像だけじゃなく、商品まで刷り込まれちゃう。」
「だいたい、CMから、歌のヒットが生まれるというのがおかしい。」
テレビなんか使わずに、もっと勝手に歌を”ひとり歩き”させろってことだね。」
永六輔「上を向いて歌おう」より

三波春夫が老人ホームのボランティアに行った時のこと。ボケ気味の彼のファンのおばあちゃんが、彼が来ると歌い始めましたが、どれも彼の曲ではありませんでした。
「・・・おばあちゃんが唄っていたのはわらべ歌とか数え歌とか、三波春夫さんとは関係ない歌ばかりなんですが、三波さんは、その歌をひとつひとつ一緒に唄うわけ。すると、ホームのご老人たちもみんな一緒に唄う。まさに歌声喫茶のような雰囲気ですよ。三波さんは『私の歌はいいですから、このままみんなで唄いつづけましょう』って。・・・そのホームからの帰り道、三波さんがしみじみと言うんです。」

「永さん、私は、自分が行って唄ってあげれば喜ぶだろうと思っていた傲慢さがとても恥ずかしい。みんな、自分の歌をもっているじゃないですか。その歌のなかに入ってみて、本当に勉強になりました」
永六輔「上を向いて歌おう」より


<ジャズについて>
「私がモダンジャズに興味をもつのは、それを聴くことが鑑賞でなく、行為だからである。ウィントン・ケリーの作品というとき、人は決して彼の演奏した曲のコードや、彼のアレンジした楽譜を指しtがりはしない。彼の芸術は腐った果実の芯や、吸殻や、ウィスキーの空瓶のころがった夜明けちかいクラブにおける彼の行為そのものでしかない。・・・」
寺山修司


<脳における音楽>
「個別の記憶や、エピソード記憶は失われてしまっても、音楽は残っているのですね。一般的に音楽の力というのは、多かれ少なかれ病気によって侵食されずに長いこと残っています。」
オリバー・サックス(心理学者)

「言語処理の機能は左の前頭葉と側頭葉に偏在しているわかですが、音楽は、リズム、ピッチ、感情、音程など、さまざまな要素が絡んでいるので、その処理には実にたくさんの脳の部位が関与しています。
 音楽や数学に関する脳の領域は他の分野とは別にあるため、一般的知能とは別に発展可能なのかもしれない。」

オリバー・サックス(心理学者)

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