古き良き紳士のオリンピックだった時代
オリンピックの歴史(2)


1900年パリ大会~1924年パリ大会
<紳士のオリンピック>
 近代オリンピックは、貴族階級の人々が男らしさを競うための大会として始まったと言えます。そのため、メダルの授与式では、受賞者もタキシードの着用を求められ、選手の多くはクーベルタンや嘉納治五郎らと同じような髭をたくわえていました。クドカン脚本の大河ドラマにも登場していた「天狗倶楽部」はまさにそんな貴族階級男子の社交クラブでした。したがって、当時のオリンピックに労働者階級のスポーツであるサッカーは必要なく、スポーツで食べているプロ選手もまた必要なかったのです。それは19世紀ヨーロッパ文化の延長としてのスポーツ大会だったと言えます。
 パリ万国博覧会のオマケに過ぎなかったオリンピックは、その後、世界平和のシンボルとしての価値を認められ、世界各地で開催されるようになります。しかし、オリンピックは戦争の前にはまったく無力でした。第一次世界大戦が勃発するとオリンピックは開催中止となります。戦後、復活したオリンピックは、再びクーベルタンの母国フランスのパリで開催されます。しかし、それは紳士のスポーツ大会としてのオリンピックにとって、最後の大会となりました。
 これ以後、オリンピックは政治利用される新たな時代に突入することになって行きます。


<1900年パリ大会> 
<万博のオマケだった大会>
 パリ万国博の目玉のひとつとして、第一回開催の時点で決まっていた大会。アテネ大会はある意味その試験的な大会でした。
 スペクテーター紙は、ロンドン万博を「産業界のオリンピック競技、通商世界のトーナメント」と表現しました。アメリカ人も、1876年のフィラデルフィア万博で同じたとえを用いています。
「古代ギリシアの各部族とオリンピック競技との関係は、近代の文明社会にあっては、近代の部族たる民族国家群と世界博覧会との関係が相当する」
 このように、スポーツは比喩表現のひとつとして重宝はされたものの、世紀末近くまではしょせん万国博覧会のおまけ程度に思われていました。このことは都市文化の先端を行く欧米においてさえスポーツの社会的役割が限定的だった現実を反映しているといえます。
 そんな中で注目に値するのが、1900年のパリ万博に合わせて開催されたパリ大会です。この時、クーベルタンとUSFSAの協力による「身体運動に関する会議」が発足。そのおかげで、学校対抗試合、陸上競技、ボートや水泳のトーナメント、スウェーデン体操などが催されました。
 とはいえ、スポーツの扱いはまだごくごく小さなものでした。IOCは第二回オリンピックの主導権を万博に譲ったとよく言われますが、実は万博のプログラムの一部をオリンピックと名乗ることを許されたにすぎないのです。

<身体訓練とスポーツの国際競技会>
 1900年パリ万博の中心となったアルフレッド・ピカールは、クーベルタンの掲げる新ギリシャ主義とオリンピア精神を時代錯誤と見なしていました。そのため、万博と同時開催のオリンピック大会の扱いもそれなりでした。大会は、万博の期間に合わせたため、5月半ばから10月末まで、開会式も閉会式もなくだらだらと続き、メダルも月桂冠の授与もありませんでした。出場選手も、その時その会場にたまたまいた人が出ているといういい加減な部分も多かった大会でした。
 この大会の名前は、「オリッピック」ではなく「身体訓練とスポーツの国際競技会」という堅苦しい名前で、報道機関も好き勝手に「オリンピアン・フェスティバル」、「フェスティバル・ゲーム」などと呼んでいたようです。競技種目もいい加減で、未だに正確な種目数は定かではありません。サッカー、ラグビー、クリケット、ペロタ、ジュ・ド・ポーム、気球、モーターボード競争、モーター・スポーツ、釣り、鳩のレース、ゴルフ、ポロ・・・などが行われ、一部にはプロの参加も認められていました。軍隊が運営にも関わったことから、軍事演習や救命技術競技なんてのもあったようです。実質的には、競技大会というよりもエキジビション・マッチの寄せ集めのような大会だったようです。
 この大会には、その後、競技種目から消えることになるテニスとゴルフが入っていました。
しかし、ともにそれぞれの協会に力があること、単独開催でも集客できる人気スポーツだったこと、プロ化が進んでいったこともあり、オリンピック競技からはずれました。
 特筆すべきは、この大会からすでに女子選手が参加していることです。すでに、女性の力はヨーロッパで強まりつつあったといえます。
ただし、まだ参加種目は限られ、テニスの出場選手はロングスカートをはいていました。
<1904年セントルイス大会> 
<オマケの大会PART2>
 この大会も、パリ大会同様、セントルイスで開催されることになっていた万国博覧会に合わせて行われたオマケ的な大会でした。
そのうえ、アメリカ中部の田舎町での開催ということもあり、ヨーロッパからの参加が激減、ほとんどの参加がアメリカ人という大会になりました。
 この大会も万国博覧会と同時開催の大会だったため、開催期間は5月から11月までの6ヶ月。大会の企画担当は、博覧会の体育部長で全米体育協会会長のジェームズ・サリバンでした。
 競技種目としては、ゴルフ、アーチェリー、クロッケー、競泳、ラクロス、フェンシング以外に、カレッジ対抗バスケット、野球、YMCA国内選手権などアメリカ国内の競技会も含まれていました。
 参加選手は687名でうち526名はアメリカ人で、56人がカナダ人。それ以外ヨーロッパのフランス、イタリア、北欧などは不参加だったので、国際大会と呼べるほどの大会ではなかったかもしれません。アメリカがメダルのほとんどをとり、国内でも国外でもほとんど報道されることのない大会となりました。 
<1906年アテネ大会> 
 第一回大会で味を占めたギリシャが開催したもののIOCは当初からかかわらず、クーベルタンもこの大会を認める気がありませんでした。IOCの多くの委員が大会に出席しましたが、クーベルタンはギリシャを訪れることがありませんでした。
 クーベルタンの継承者となった後のIOC会長のエイベリー・ブランデージにより、この大会は正式なオリンピックの歴史から消されることになります。 
<1908年ロンドン大会> 
<理想の大会に向けて>
 この年の大会は、当初ローマで開催される予定でした。しかし、スポーツ文化が育っていなかったことと予算不足からIOCに開催の辞退を申し入れようとしていました。その頃、ベスビオ火山が噴火し、イタリアでは大きな被害が出ました。おかげで、イタリアは災害復興を優先するということから大会開催の返上を申し入れ、急きょロンドンでの開催となりました。この大会の運営は、イギリス上流階級のアスリートたちが運営を行ったこともあり、クーベルタンが目指すアマチュア・スポーツの祭典としての理想に近いものになりました。
 事前に国別でエントリーを行い、国旗を先頭とする入場行進を開会式で行うようになったのは、この大会からでした。しかし、皮肉なことに、掲げられた国旗はナショナリズムの発揚を象徴することになります。
 出場選手の総数は2008名で、うち女性はわずか37名で、フィギュアスケートとアーチェリーのみでした。非白人選手は2人だけでアフリカ系アメリカ人のジョン・テイラーはリレーのメンバーとして出場し金メダルを獲得しました。ネイティブ・アメリカンのトム・ロングボードはカナダ代表としてマラソンに出場しています。
 大会の知名度はまだまだで開会式が行われたホワイト・シティ・スタジアムは8万人収容の巨大施設でしたが、3万人しか入場者がいなかったといいます。2週間目にチケット代を値下げするなどして、やっと入場者数が増え始めました。

<アメリカVSイギリス>
 この大会あたりから、国際間の代理戦争としての戦いにスポットが当たるようになり、応援もしだいに熱狂的になって行きます。特に地元イギリスとアメリカは様々な競技で激しい戦いを繰り広げ、それが場外バトルや事件になることも多かった大会でもありました。
 大会が始まる前、すでにアメリカ選手団が宿泊施設に不満を訴え、全員がブライトンのホテルに移動するという騒ぎがありました。
  棒高跳びでは、ルールの問題や対戦組み分けの抽選の不正疑惑などで米英が対立。そもそも当時はまだ世界基準のルールが設定されていなかったことから、様々な競技でもめ事が起こりました。400m走ではアメリカのジョン・カーペンターと英国のウィンダム・ハルスウェルが接戦を展開。ところが審判の一人がカーペンターによる進路妨害を指摘し、彼は失格となりました。当然、米国チームは猛抗議を行い、再レースが行われることになりました。しかし、激怒したカーペンターは再レースを拒否してしまいます。
 綱引き競技で英国の出場チームが勝利のために靴にスパイクをつけて出場。アメリカチームからの抗議を受けることになります。
 そんな調子でその他にも、勝敗について米国と英国が度々もめることになります。
 繰り返される醜い争いに対し、セントポール寺院で行われた選手が参加した礼拝の説教でエセルバード・タルボット主教がこう語りました。
「オリンピック大会で重要なことは、勝つことではなく参加することである。同様に人生において重要なことは、勝利ではなくて健闘することである」
 この言葉をクーベルタン男爵が気に入り、「参加することに意義がある」という名文句が生まれることになります。

<アメリカに学べ!>
 様々な妨害行為を受けながらもアメリカは13個の金メダルを獲得し、イギリスの2個を大きく上回りました。イギリス国内ではアメリカとの差に大きな衝撃を受け、その違いに対する反省が行われました。
「自分一人では小さな欠点には気づかないものだ。また、たとえ意識はしても、コーチも気づいていなかれば改善などできない。我が国が次回のオリンピック大会で勝ちたいのなら、コーチが全面的に指導しなければならない」
 こうして、各国はより真剣に、より本格的にメダル獲得に向けた対策を考えるようになるわけです。
 この大会のマラソンも、まさにそうしたメダル獲得戦いの場となりました。
 当日、マラソンの出走者は55名でしたが、トップがゴール前に来た時点で、すでに29名となっている厳しいレースになっていました。トップ集団の3名は南アフリカのチャールズ・ヘフェロン。イタリアのドランド・ピエトリ、アメリカ(アイルランド系)のジョニー・ヘイズ。
 ヘフェロンはゴール近くで観客から渡されたシャンパンを飲みほしたものの、逆に痙攣を起こして倒れてしまいます。トップでスタジアムに入ったのはピエトリでしたが、彼はフラフラの状態になっていてコースを逆走。あわてて係員に向きを変えられるぐらい意識が朦朧としていました。その後もゴール前で3度転倒し、最終コーナーで係員に助け起こされ、残り10mを二人の係員に支えられてのゴールとなりました。当然このゴールはルール上不正なのは明らかだったので、2位のアメリカ・チームからの抗議で違反と認められ、ピエトリは失格となりました。 
<1912年ストックホルム大会> 
<理想形に近かった大会>
 この大会は、第一回大会以来、ついに万国博覧会から独立し、クーベルタンがIOCの主導権を握ったことから、オリンピック本来の理念に基づく大会に近づく大会となりました。大会の運営が、スウェーデン王室、軍部、アマチュア組織などが中心となって行われていたことも幸いしたようです。
「オリンピック大会は純粋に競技をおこなう場であり続けるべきだ。より厳かに、より礼節を重んじ、伝統に従った芸術性を備え、より友好的に進められなくてはならない」クーベルタン
 なお、この大会からしばらくの間オリンピックにも関わらず、新たに芸術部門が追加されています。種目は文学、音楽、美術。でもどうやって判定したのでしょうか?
「おお、スポーツよ。神々の喜び、生命の本質よ!近代という苦悶に満ちた灰色の地に、お前は突然現れた。
 人類がまだ微笑みを浮かべていた古代から、燦然たる光をもたらす使者のように。
 山々の頂を染める曙光のように。鬱蒼たる森に差す木漏れ日のように。・・・」

ジョルジュ・オーロとM・エッシャンバッハ(芸術競技の金メダリスト)
 クーベルタン男爵にとってスポーツとは、芸術と対照をなすものではなく、社会の文化活動に欠かすことのできない要素にほかならなかった。
 そのため、彼はオリンピック競技の中に「芸術」のバトルを持ち込みたがったわけです。当初は彼の願いはかなえられていましたが、その意図を理解する者は少なく、すぐに「芸術」は競技種目の中から消えることになりました。

<日本の初参加>
 クーベルタンは国際主義に基づき、世界にオリンピックが広まるように働きかけを行います。そんな中、アジアから日本が初参加し、日本の教育者で柔道の育ての親である嘉納治五郎がアジア人初のオリンピック委員となりました。クーベルタンの理念を受け継ぐ存在の登場により、オリンピックはアジアへと広がり始めます。
 初参加の日本からは、マラソンに1人、短距離に1人が出場しましたが、マラソンに出場した金栗四三は期待されながらも途中棄権、短距離走も予選落ちとなりヨーロッパとの力の差を思い知らされることになりました。ただし、この時のマラソンでは日射病で死者が出たほどの過酷な環境下でのレースでした。
 大河ドラマ「いだてん」で描かれたストックホルム大会の雰囲気は、やっと形作られたオリンピックの理想形だったのかもしれません。日本選手団が、もしそれ以前の大会に参加していたら、その魅力に感動することもなく、その後の日本のスポーツに影響を与えることなく終わった可能性もありそうです。
 この大会に参加したのは29カ国2400人で、初参加としてエジプト、セルビア、オスマントルコ、日本、チリが加わったことから、すべての大陸から代表が来た初の大会となりました。個人参加が許される最後の大会でもあり、これ以後すべての選手は国を代表する選手となります。(1500m走金メダリストの英国の軍人アーノルド・ジャクソンが最後となりました)

<熱すぎる大会>
 大会の開催は、7月中旬の8日間でしたが、この年は例年にない暑い夏で、それが競技にも大きな影響を与えることになりました。
 正式種目としては、それまで選ばれてきた種目のモータースポーツ、気球、ジュ・ド・ポエーム、ペロタ、ボクシング、クリケットなどが排除されます。プロ選手が多かったり、競技人口が少なすぎると考えられたようです。
 技術的には、この大会からスタートの合図に合わせて作動する電子計時装置や写真判定が早くも採用されています。国際的な共通ルールの設定や審判の中立性についても、準備がなされました。
 それまでほとんど無視されていた観客へのサービスについても改善がなされます。競技の結果や途中経過を示す掲示板の設置。長距離走などで途中経過を知らせるラッパ主やメガホンを持つ伝令の登場。水泳では参加選手の国の識別がしやすいように色分けしたキャップを着用させました。
 開催前は大会に批判的な国民も多かったようですが、自国の活躍を応援するうちにナショナリズムが盛り上がり、女性の応援も急速に増えた関係者を驚かせました。
「スウェーデンの淑女が何千人も競技会にうつつを抜かすなどと誰が想像しただろう。それも文字でしか知らなかった異国の催しに」
地元の雑誌「イドゥン」より

<地元が盛り上がった大会>
 この大会では、ほぼすべての大会に少なくとも一つの楽団が配置され、会場に音楽があふれる大会だったことも盛り上がる原因となりました。金銀銅のメダリストたちの国歌を続けて演奏することもあったといいます。さらに競技会と並行して、各国の国歌の演奏会が催され、4000人の歌手がストックホルムに集まり、オリンピック・スタジアムで6000人が歌うという音楽イベントも開催されています。
 この大会から採用された近代五種競技に出場したのは、各国の軍の将校たちでしたが、地元スウェーデンの陸軍士官がメダルを独占しました。
 この大会最大のスターとなったのは、ネイティブ・アメリカンの血を引くジム・ソープで、陸上の五種、十種で金メダルを獲得しました。彼は大会直前に十種競技を経験した初心者で、槍投げの際、ルールを知らずに助走をつけづに投げてしまいました。それでも2位となり、観客を驚かせました。どの競技でも圧倒的な記録を出し、オリンピック史上最高の陸上選手と呼ばれました。ただし、一年後に、野球の試合でわずかな報酬をもらっていたことが発覚し、メダルを剥奪されてしまいます。(彼はインディアンの血を引く選手でした。黒人選手がまだ登場する前から彼らは選手として認められていたわけです)
 大河ドラマ「いだてん」でも描かれていたようにのどかで穏やかな大会と言われますが、ナショナリズム発揚の場としてのオリンピックが明らかになって来た大会でもありました。大会後、ドイツのオリンピック委員はこう語ったと言います。
「オリンピックは戦争である。本物の戦争だ。多くの参加者がためらいもなく祖国の勝利のために人生の何年かを差し出す。・・・現代のオリンピックは世界戦争の象徴である。軍事的な面を隠しているが、スポーツの統計値を読み取れる者にとっては、世界各国の等級が如実にわかる場なのだ」 
<1920年アントワープ大会> 
<日本の初メダル>
 日本は二度目の参加で早くも銀メダル二個を獲得します。熊谷一弥がテニスのシングルスと柏尾誠一郎と組んだペアでともに銀メダル。
なぜ?いきなり世界の2位になれたのか?実は二人はともに商社マンとして海外で働いていて、海外でテニスと出会い各地の大会に参加しながら実力をつけた。
イチローや中田の原点ともいえる海外組みの選手でした。

<平和のための大会>
「1914年より前、スポーツは戦争の備えとして利用されました。・・・今日では平和の備えとなり・・・まだ地平のかなたに消え失せていない恐ろしい事態への備えとなったのです」
ベルギーの聖職者のトップ、メルシエ枢機卿

 1914年に始まった第一次世界大戦は多くのアスリートたちの命を奪いました。オリンピックによる世界平和の実現が夢物語と言わざるを得ない状況の中、それでもオリンピックは再開され、予想以上に参加国、出場者が増えることになります。クーベルタン自身のデザインによる五輪マークの旗が初登場し、それは世界平和の象徴となるはずでした。
 その理由には、スポーツが労働者階級にまで普及し愛好者数を大幅に増えたこと。女性の地位向上により女性アスリートもまた大幅に増えたこと。オリンピックに参加することが、世界的に先進国として認知されるために必要と考えられるようになったこと。そのため、民族の解放を求める動きの中から、植民地からの出場選手も現れるようになります。
 もちろん愛国主義者にとって、自国民の優位性を示す機会としてオリンピックは最高の舞台でした。主催国でもあるベルギーが参加国を選んだこともあり、大戦の敗戦国だったドイツ、ハンガリー、トルコ、オーストリアが大会への参加を拒まれました。出場選手は2561名(女性65名)
 ダイヤモンド取引の中心だった港湾都市のアントワープは、スポーツを愛好するブルジョア階級も多く、資金は十分に確保できたものの、物資の不足に悩まされました。
 1920年8月14日、アルベール国王とクーベルタンが出席し開会式が行われましたが、観客席はガラガラでした。開会から一週間後、傷病兵と学童は無料となり、ついには誰でも無料入場できるようにしたものの空席は埋まらなかったといいます。おまけに大会は天候にも恵まれず、雨の日が多かったといいます。

<スポーツの大衆化>
 この大会は実質的に二つに分かれていたようです。一つは、フランス語を話すブルジョア階級のオリンピックで、クーベルタンが目指した紳士の競技。そしてもう一つが、ボクシングやサッカーなどを中心とした大衆スポーツを中心とした競技です。
 この大会でもアメリカの強さは際立ち、陸上、競泳で圧倒。陸上では、フィンランドが長距離で活躍し話題となりました。マラソンでは、ハンス・コレマイネンが金メダルを獲得。パーヴォ・ヌルミは1万m、8000mクロスカントリー、クロスカントリー団体で金メダル、5000mでも銀メダルを獲得しています。
 しかし、大会最大のヒーローは、5個の金メダルを獲得したイタリアのネド・ナジだったようです。フルーレ、サーブル、フルーレ団体、サーブル団体、エペ団体すべてで優勝というのは、二度とない記録です。
 競技ではサッカーの人気が圧倒的でした。決勝のベルギーVSチェコスロバキアはオリンピック・スタジアムが満員になり、入れなかった地元の若者たちがスタジアムに入るためにトンネルを掘る事件まで起きました。(これは「オリンピック塹壕」として有名になりました)試合は、前半にベルギーが2点をとり、後半にチェコスロバキアのDFカレル・スタイナーがラフ・プレーで退場になると判定に納得できないチェコスロバキアは試合を放棄してしまいました。
 数少ない女子競技の一つテニスでは、フランスのスザンヌ・ランランが活躍しただけでなく大きな話題となりました。シングル、ミックス・ダブルスで金メダルを獲得したでけでなく、試合中にブランデーを飲み、試合後には煙草を一服する姿は賛否両論となり、女性たちの間でファッション・アイコン的存在になりました。実際ファッション的にも短いスカートをはきボディラインが見えるシルエットも人気となり、後に彼女はテニスの専門店も経営することになります。(レディ・ガガ的な・・・)

 結局、入場者が少なかったこともあり、大会を大きな赤字となり、政府と納税者がその負の遺産を負担することになります。
「アントワープ・オリンピックは、参加者の階層が広がったという点では成功したようだ。だが公共の利益という点では失敗に終わった」
オンス・フォルク紙 
<1924年パリ大会> 
<多彩な内容の大会>
 パリ大会は初めて9か所の候補地の中から選ばれる大会となりました。ただし、クーベルタンは自らの花道になるよう早々とパリに決めていたようです。万博のおまけとして開催された屈辱的な前回パリ大会とは違うオリンピックを開催しなければ、彼としては納得できなかったのでしょう。
 彼は自分の理想でもあった芸術部門の大会も開催しています。各部門の優勝者は以下のようになっています。
<文学>詩人ジオ=シャルル
<音楽>該当者なし
<絵画>ジャック・バトラー・イエーツ(W・B・イエーツの弟)
 審査員として参加した中には、イーゴリ・ストラヴィンスキー、モーリス・ラヴェル、ベーラ・バルトーク、ガブリエーレ・ダンヌンツォ、モーリス・メーテルリンクなど豪華な顔ぶれがいました。
 この大会から各競技の判定基準などは、それぞれの競技別国際連盟にまかされ統一されることになりました。そのため、世界的に統一された連盟をもたない競技は正式種目として選ばれなくなります。

<多彩な参加国、参加選手>
 この大会にはさらに多くの国が参加するようになります。(エストニア、リトアニア、アイルランド、ポーランド、フィリピン、エクアドル、ハイチ、ウルグアイ)
 世界最大の都市でもあった当時のパリには、人口も多く、民族も多様、スポーツが大衆化していたこともあり、オリンピックに関心を持つ人が多く、観客数は大幅に増加することになりました。ただし、その分ナショナリズムの盛り上がりによりアメリカやフランスのマスコミがメダル獲得競争を熱狂的に報道。その影響もあり、各競技で判定やルールに関わる事件が頻発することになりました。ボクシングでは特に判定についてのクレームが多く、レフリーがリングを降りられなくなり警察が出動することもありました。
 フェンシングでは、イタリアのオレステ・プリ―ティと審判のコバチ(ハンガリー)が判定についてもめ、試合後に酒場で大げんかとなり、ついにはユーゴスラビアとイタリアの国境で1時間にわたる決闘を行い、両者大怪我による痛み分けになっています。
 走り高跳びと十種競技の金メダリスト、ハロルド・オズボーンはイリノイ州の貧しい農家出身の選手。走り幅跳びの金メダリストのウィリアム・デハート・ハバードは、いずれもアフリカ系アメリカ人だったため、本国ではほとんどマスコミに取り上げられることはありませんでした。

<炎のランナー>
 この大会で有名なのは、男子100mの金メダリスト、イギリス人のハロルド・エイブラハムと400mの金メダリスト同じイギリス人のエリック・リデルでしょう。
あの有名な映画「炎のランナー」の主人公たちです。
<史上最高のランナー>
 この大会における最大の人気者は、中長距離走者のパーヴォ・ヌルミ(フィンランド)でした。彼は6日間で7競技に出場。5000mと1500mでは決勝は90分しか間隔がなかったのにも関わらずどちらでも金メダルを獲得。クロスカントリー個人、団体、3000m団体でも金メダルを獲得。1万mにもエントリーしていましたが、フィンランド側が出場を認めず、怒ったヌルミは帰国後、自国で世界記録を出してみせたといいます。
「ヌルミによって1924年のパリ・オリンピック大会の陸上競技は、まったく意味のない模範演技会になってしまった。彼は苦もなく立て続けにレースをこなし、いささかもペースを落とさず断然トップを独走し、信じがたい大差で勝つ。・・・だがヌルミは観客にも国歌にも興味はない。彼はゴールテープを切っても足を止めず、芝生に置かれた服を取り上げただけで更衣室へと消えた。再び姿を現すのは、次なる圧倒的勝利の場だ。・・・」
ガーディアン紙

<異次元サッカーの登場>
 ヌルミに匹敵するこの大会の人気者は、サッカーのウルグアイ代表チームです。英国生まれのサッカーが遠く離れた南米で独自の発展を遂げていたことが、彼らのおかげで明らかになり、ヨーロッパのサッカー界は衝撃を受けることになりました。
 彼らは、ユーゴスラビアを7-0、地元フランスを5-1、決勝でもスイスを3-0で圧倒し、南米サッカーの実力と魅力を広めました。
「ウルグアイのチームは、フォーメーションの動きよりはむしろ各選手が臨機応変に対応する練習を積んできている。主にフェイントやスワーブキックやドッジングの技術を磨いているが、速攻も得意だ。彼らは美しいサッカーを創り出した。・・・」
ガブリエル・アノ 

<日本のメダリスト>
 この大会、日本の唯一のメダルはレスリング・フリー・スタイルのフェザー級に出場した内藤克俊の銅メダルでした。
彼は明治大学卒業後、アメリカのペンシルバニア州立大学に留学。元々柔道家だった彼はアメリカでレスリングと出会うと全米大学チャンピオンになりました。
そのため、彼は別行動でオリンピックに出場し見事にメダルを獲得したのでした。ほとんどの日本人が知らないスポーツでメダルをとってしまったわけです。

<オリンピック参加資格問題>
 この大会に大日本体育協会は、プロ疑惑があった田代菊之助(労働者)を選出。それに対して学生側が反発。別団体(全日本陸上競技連盟)を作って参加しようとします。
翌年の明治神宮大会では、それまでも大日本体育協会のやり方に不満をもっていた13の大学が大会ボイコットという強硬手段に出ました。(早大、慶大、明大、法大など)
元々オリンピックに日本を出場させる窓口として作られた大日本体育協会には、拡大する競技団体を統率する力も資金も人材も不足していたようです。
この問題にはそうした組織の問題だけでなく、官庁の派閥問題、労働者アスリートへのインテリ階層からの差別などの問題も含まれていました。
(当初オリンピック代表には、人力車の車夫や郵便配達夫など、走ることを仕事をする労働者は選ばれませんでした。
1920年開催の陸上競技会のマラソンでは、車夫たちが1位から5位までを独占しています)
 結局、1926年に政府は「運動競技の主管庁は文部省にする」という方針を発表し、その後は文部省がスポーツ行政を担当することになります。
<第一回「国際ろう者オリンピック」>
 パリ大会終了の数週間後、耳の不自由な人のための国際大会「デフ・オリンピック」が開催されています。(ヨーロッパの9カ国から140名が参加)
 いち早くろう者ためのスポーツ・クラブが設立されていたフランスは、ろう者の社会参加における先進国でした。陸上、水球、サッカー、テニス、射撃、自転車などの競技が行われ、結果はフランスの一人勝ちだったようです。
「かつての真のオリンピック精神をよみがえらせたのはフランスだった。30年後の今、競技会は世界をめぐってまたパリに戻ってきた。初めてろう者の学校を開いたこのフランスに・・・初めてデフ・オリンピックを開催する栄養が与えられるべきである」 


「オリンピック全史 The Games」 2016年
A Global History of the Olimpics
(著)デヴィッド・ボールドブラット David Goldblatt
(訳)志村昌子、二木夢子
原書房

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